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メッセージ

羊飼い 伝道礼拝
『休息を与える神』
出エジプト記 20章6−11節
マタイによる福音書 11章28−30節
2009/8/9 説教者 濱和弘

今日は、8月第2週の礼拝です。私たちの教会では、毎月第2週の礼拝を伝道礼拝として、普段行なっている聖書を連続的に説教するのではなく、新しい人にも分かるようなキリスト教の根本にある教えを伝える聖書の箇所からお話しをしています。もちろん、それは新しい人たちのためだけではなく、教会に長く集い親しんでいる方々にとっても、自分の信仰の原点に立ち返る良い機会であろうかと思います。そういった意味からも、私たちのよって立つ信仰をしっかりととらえたいと思います。その今日の伝道礼拝の説教に、私は出エジプト記20章6節から11節とマタイによる福音書11章28節から30節から、御言葉を取り次ぎたいと思います。

出エジプト記20章6節から11節は、いわゆるモーセの十戒と呼ばれるものの中にある安息日の規定です。モーセの十戒というのは、今から3000年以上も前、ユダヤ民族がエジプトで奴隷として苦役に苦しんでいるときに、神がモーセという人物をお立てになり、ユダヤの人々をエジプトから救い出して下さった際に、神を信じるためにこのように生きていくのだよとお示しになった10の戒めのことです。ですから、この十戒は聖書の神を信じる民の生き方を示す手引きのようなものだと言えます。もちろん、私たちキリスト教会も、この聖書の神を信じているわけですから、十戒は今日のキリスト教会にとっても大切な生活の指針であり、手引き書なのです。そのようなわけで、今日の教会でも、主の祈り、使徒信条と並んで教会の3要文として大切にしているのですが、主の祈りは先ほど皆さんと一緒にお祈りしましたね。また使徒信条も皆さんで一緒にご唱和しました。その使徒信条は、教会が信じている信仰の内容を要約して述べている信仰告白です。キリスト教会にはローマ・カトリック教会、正教会、そして私たちプロテスタント教会と大きく分けて三つの流れがあります。この三つの流れにあるすべての教会は、ニケヤ信条とカルケドン信条という信仰告白を持っています。ですから、ニケヤ信条とカルケドン信条を信じている者をクリスチャンと呼び、ニケヤ信条とカルケドン信条に立つ教会をキリスト教会だといっても良いかもしれません

もちろん、この三鷹キリスト教会も、このニケヤ信条、カルケドン信条にたっています。けれども、普段から教会に来ておられるみなさんは、お気づきになっていらっしゃると思いますが、普段、私たちは教会で、ニケヤ信条やカルケドン信条を唱和することはありません。それは、ニケヤ信条やカルケドン信条に含まれている内容が、使徒信条に含まれているからです。ニケヤ信条というのは、神が三位一体の神であるということを信じていますと言うことの信仰表明です。神は父なる神、子なる神、聖霊なる神の三つの在り方でそれぞれが独立して存在し働かれておられますが、その三つが決して切り離すことのできない交わりの中で一つに結ばれ存在しておられるという人間の理性を超えた神秘的な存在であるということを信じ告白するものです。つまり、キリスト教は、そのような三位一体という実に神秘的な存在である神を信じているのです。そして、カルケドン信条は、その三位一体神における子なる神イエス・キリスト様は、人間が神となったというのではなく、また半分神で半分人間といった存在ではなく、真の神が真の神のままで、真の人間となられた存在であり、それゆえにイエス・キリスト様は真の神であり、真の人であるということを告白するものです。なにやら、ややこしい感じがしますが、要は、神であられたイエス・キリスト様が、私たち人間と同じ姿となられ、私たちの苦難や苦悩を共に味わい知ってくださったのだということです。だからこそ、イエス・キリスト様は私たちをお救いになることができるのです。使徒信条に述べられている言葉は、そのようなニケヤ信条とカルケドン信条を含む内容ですので、私たちの教会では使徒信条をみんなで唱和するのです。

また、主の祈りは、イエス・キリスト様に「どの様に祈ればいいのですか」と訪ねたときに、イエス・キリスト様がこのように祈りなさいと教えて下さったお祈りです。そこには、祈りといったものがどの様なものであるかが教えられています。「天にまします我らの父よ」と祈るとき、祈りは、私たちの神に対して祈るのだということが教えられています。しかも、その神を父なる神と呼ぶことができる密接な関係になって初めて祈りは神に届けられるのだということがそこに示されているのです。その上で、祈りは「御名をあがめさせたまえ」と神をほめたたえる事であり、また「御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく、地にも成させたまえ」とこの世界と私たちの生涯に神に恵が支配し、神の恵みがこの世界と私たちの生涯を導くことを求めるものであることを教えています。そのうえで、「私たちの日用の糧を、今日も与えたまえ」と個人的な必要のために祈り、「我らに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、我らの罪を赦したまえ。我らを試みに会わせず悪より救い出したまえ」と神の救いの御業を祈るのです。そして、最後にまたすべての栄光を神に帰すものが祈りなのです。

もちろん、個人個人の必要や神への賛美や感謝といったふうに、個人が自由に自分の言葉で祈ることができます。しかし、祈りの大切な内容(エッセンス)はこの主の祈りの中に込められていますので、この主の祈りを、教会の公同祈りとして教会は大切にしてきたのです。そして、そのような信仰告白と祈りにたって、神を信じる者はどう生きるのかが語られているのが、十戒というものです。ですから、いうなればこの十戒は私たち人間が神を信じて生きていく上での倫理、道徳と言った感じのものです。倫理・道徳といったものは法律ではありません。むしろ私たちが生きていく上でよりよく生きていけるための原則にあたるものが倫理。道徳です。法律は破れば罰せられますが、倫理道徳はそれを破ったからと言って法律で罰せられるものではありません。たとえば、お年寄りには席を譲ろうとか、挨拶をしようといったものは、社会をより良くし、私たち人間関係をよりよいものにして私たちが心地よく生きていく事ができるための倫理や道徳に属するものですが、それをしなかったからといって罰せられるものではありません。

そのように、私たちが神の前でよりよく生きていくためになくてはならない原則的なルールがこの十戒なのです。その十戒の一番最初に来るものが、20章2節の「あなたはわたしのほかに、なにものも神としてはならない。」という言葉です。神の前によりよく生きるルールですから、まず神を神として畏れ敬うところから始まるのです。この畏れ敬う絶対的なものがなければ、倫理・道徳というものは成り立ちません。本当に心から畏れ敬うものを持っていてこそ、その畏れ敬うものの前で、その畏れ敬うものの心に添いそれにしたがって生きようとするからです。そういった意味では、私たち人間は何を畏れ敬い、何に従うかが大切になってきます。それを考えますと、今の私たちを取り巻く世界は、価値観が多様化し絶対と呼べるものを失っています。ですから、現代の社会は倫理・道徳といったことに対する意識が希薄になりつつあります。

かつての欧米社会では、神という絶対的存在の前で共同体を形成し、その共同体の中で人間の罪という問題を見つめていましたので、それが倫理・道徳の規準になっていました。また、日本では、共同体それ自体が絶対的存在であり、その共同体の中で恥の概念が強く働くことで高い倫理・道徳が形成されていったのです。しかし、共同体自体は人間によって作られるものですから、姿を変えていきますし、崩壊もする。だからこそ、絶対的な存在である善なる神を意識して生きるということが、人間の倫理・道徳心を養うためには大切なことなのです。ですから、たとえば、子どもたちを教会学校に送り、神を恐れる心を養うと言うことは大切なことなのです。

その神の前に正しく生きると言うことを示す十戒の中に、「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」という安息日の規定があるのです。安息日というのは、要は休息をとる日であります。聖書を見ますと次のように書いてあります。先ほどの「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という出エジプト記20章8節の言葉に引き続いて書かれている言葉です。「六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。」 6日間、しっかり労働したら1日は休みをとりなさい。というのです。神様も6日で天地を想像された後、7日目は休まれたのだから、あなたがたも休みなさいというのです。

私が、まだ一般の企業でサラリーマンをしていた頃、終業時間になって仕事が終わっても、上司が帰らないとなかなか先に帰り難い雰囲気がありました。そんな雰囲気を察してでしょうか、部長自らが、定時を少し過ぎた頃に、率先して「お先に」といって帰ってくれました。そうすると、みんな自分の仕事が終わると、帰宅しやすくなる、まことにありがたいことでした。神様が、そんな理由で7日目に休まれたかどうかは分かりませんが、とにかく、神ですら6日間、天地創造の業をしたのだから休めというのです。ですから、安息日とは、まず第一義的には、休む事が目的なのであり、休まなければならないのです。休む理由は簡単です。疲れをとるために休むのです。6日間働き労働したその疲れを癒し、新たに立ち上がるためには休息が必要なのです。そして、その疲れには、一つには肉体の疲れがあります。一週間働いて疲れた肉体の疲れを癒すために安息日はある。それだけではありません。私たちは、私たちの心と魂の疲れも癒す必要があります。

私が牧師になってしばらくして友人の牧師からこんな質問を受けたことがあります。それは「牧師をする前の会社勤めと、牧師の仕事とどちらがきついか」という質問でした。質問をしてきた友人も牧師で、牧師になる前の会社勤めをしていましたので、自分の感想と比べたかったのだろうと思います。その時、私は「体的には牧師の方が楽だけれど、精神的には牧師の方がきつい」というような答をしたような気がします。実際、会社務めをしているときは、営業でこのような夏の季節には、冷房の効いたオフイスと灼熱の道路を行ったり来たりするという体に負担になるようなことを当たり前のようにしていました。もっとも、本当に体がきつくなると、営業に出て半日どこかで時間を潰すとか、来るまで木陰のある駐車場で昼寝をして少し休むといった調整をしていました。取りあえず営業目標を達成していれば、それもまあ赦される範囲でしたが、しかし、やはりそれでもけっこうきつく感じることもありました。けれども、どんなにキツイ仕事であっても、帰宅すれば仕事のスイッチはオフにすることができました。

しかし、牧師になって分かったことは、牧師の仕事は決して仕事のスイッチをオフにはできないということです。確かに体力を使う部分は会社勤めをしているときよりは楽かもしれませんが、いつも心のスイッチはオンにしておかなければならない状況は結構きついものです。それこそ、お風呂に入っている途中にお風呂の中で相談の電話を受けていたり、夜中の12時を回って相談の電話を受けるということも少なくはありませんでした。もっとも、そのような電話は、教会の方でないことがほとんどです。教会の方は、牧師に対していろいろと気を使ってくださるものですから、深夜といった時間に電話が来ることがないのですが、教会の方でない方がせっぱ詰まって電話をかけてくるときは、普通の時間帯でないことが少なからずあるのです。もちろん、それは、せっぱ詰まっているのですから、それは仕方のないことです。もちろん、教会の方でも何かかれば、どんな時間帯でもお電話下さってかまわないのです。そのために、牧師は、その職務に対する気持ちをいつもオンにしておかなければなりません。最近はそのことに慣れてきましたし、自分自身で心のペース配分がだんだんできるようになってきましたが、ともかく、牧師になってしばらくの間は本当にきつかったのです。

きっと、私に質問してきた友人も同じ気持ちだったのではないかと思います。それを確認したくて、私に質問したのだろうと思うのです。結局、体だけでなく心にも休息が必要なのです。私たちは、体だけでなく、心と魂の休息も必要なのです。安息日は、体だけでなく、その心と魂の休養のためにも必要なのです。聖書は、「安息日を覚えて聖としなさい」といっています。聖書、特に旧約聖書で「聖」きよいという言葉は神のものという意味を持ちます。ですから、安息日を聖としなさいということは、あなたの休養のときは、あなた自身を神の懐の中に身を投げ出すことによって得られるのだということであろうかと思います。なぜならば、神は私たちを包み、私たちを慰め、憩わしてくださるお方だからです。今日、司式の兄弟に読んでいただいた聖書の箇所は、旧約聖書出エジプト記20章と新約聖書マタイによる福音書11章28節から30節です。そのマタイのよる福音書11章28節から30節には次のように書かれています。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

ここでも、聖書を通して神は私たちを休ませてあげようと言っておられるのです。私の尊敬するユダヤ教のラビであり宗教哲学者であるアブラハムヘッシェルという人が、「聖書は神について書かれた書物ではなく、神から見た人間の書である」といいましたが、だとすれば、神の目には人間は、随分と忙しく映って休息が必要に見えているのだろうと思います。忙しいだけではない、様々なことで心が押しつぶされそうになっているそんな姿映っているのだろうとも思うのです。このマタイによる福音書の11章でイエス・キリスト様は「重荷」という言葉を使っておられますが、この「重荷」という言葉は、当時宗教的戒律を指す言葉であったとも言われます。宗教的戒律は、信仰者にとって守らなければならない義務であり責任です。ですからそれが果たせなければ、神に対して責任が果たせないのですからそれは大変な心の重荷になります。また、その重荷は私たちの心を責めます。そのような心の重荷に押しつぶされ、責任を問う声に押しつぶされそうな人たちに向って、「その苦しみや悩みの中にあるあなたを休ませてあげよう」と子なる神イエス・キリスト様は言うのです。

最初に申しましたように、イエス・キリスト様は神のひとり子であり三位一体の子なる神です。ですから、この「その苦しみや悩みの中にあるあなたを休ませてあげよう」というとき、それは父なる神からの私たちに対する呼びかけでもあるのです。そして、そのように神が私たちに「あなたがたを休ませてあげよう」といい「安息日を聖として、休みなさい」といわれるのは、私たちが神から休息をいただき、心を憩わせ、和ませなければ、私たちの心がすさんでいくからです。ただ何かを求めてあくせく働き、頑張るだけなら人間は疲れ切って倒れてしまうか、心が枯れてしまうからです。心が枯れてすさんでしまうならば、人間の心には罪が入り込んできます。人を妬んだり憎んだり、目的のためには誤った手段を用いてしまうことさえあります。それはけっして人間らしい生き方ではないのです。神は、もともと人間を素晴らしいものとして作られました。人間の心に愛する心や、人を尊ぶ心、優しい心を神は人間にお与えになり、理性を与えて下っています。聖書はそれを「人間を神の像(かたち)ににせて造った」という表現で言い表しています。そのような神の像(かたち)が与えられているからこそ、人間は何の理由も持たずに良いことするのです。

けれども、同時にそのような人間の心には罪というものが入り込んでしまっているともいうのです。その罪の心が、私たちの心に妬みや憎しみ、そして時には理性的に考えるならば、決して赦されないような目的のためには誤った手段さえもさせてしまうのです。この季節は、ちょうど私たちの国の終戦記念日の時期です。それは同時に原爆記念日でもあります。記念日といいますが、それは決して喜ばしい事を記念する日ではありません。私たち人間のおろかさや罪深さ、醜さを記念する日です。そして、それは決して神が造って下さった私たち人間が、その神の作品としての人間らしく生きていないことを示す記念なのです。国益であるとか、民族の誇りであるとか、そういったものは確かに大切なものであるに違いありません。しかし、それを求めてあくせくしいてばかりでは、人間の心は疲れ大切なものを見落としてしまうのです。そのような過ちを世界中の国々が犯してしまった。そのことを、この終戦記念日や原爆記念日は私たちにそのことを教えてくれているような気がします。そして、それは人ごとではないのです。私たちが、自分の冨や名誉、名声といったようなもの、さらには自分の心の欲望や願望を満足させ喜ばせようとする自己実現といったものただひたすら求めようとするならば、あの終戦記念日や原爆記念日が指し示している出来事が私たちの心にも起ってくるのです。

そうならないためには、体と心と魂の休息が必要です。神の懐で、安らぎ、心が癒され、魂が安息を得、ホッと安らぐ経験が必要です。それは、神の愛されることにより、神に優しくされることでもあります。みなさん、私たちは、神から、愛することができるものとして造られているのです。人に優しくできるものとして造られているのです。人を尊ぶことができるものとして造られているのです。しかし、愛することも、優しくすることも、人を尊ぶことも、自分自身が愛されることなくしては、優しくされることをなくしては、尊ばれることなくしてはできないものです。その愛される経験を、優しくされる経験を、また尊ばれる経験を、神は安息の中で休み、憩う事の中で私たちに与えて下さるのです。みなさん、私はクリスチャだという人もまだクリスチャンでないという人も、じっと考えてみて下さい。あなたには、休息が必要ではありませんか。体の休息が必要ではありませんか。心の休養が必要でありませんか。魂の休みが必要ではありませんか。神は、神を信じ、イエス・キリスト様を信じるものに、休ませてあげようといっておられます。ですから、今、神を信じ、イエス・キリストのもとにきて、責任や、様々な重圧や、自分自身の欲望に押しつぶされそうになっている心を休ませていただき、人を愛し、人を尊び、優しい礼節のある心で人と接し交わることのできる神がお造りになった人間らしい生き方をするものになろうではありませんか。

お祈りしましょう。