『慰めの言葉』
コリント人への第二の手紙 1章8−11節
2009/8/23 説教者 濱和弘
さて、三週間ほど開きましたが、今日からまたコリント人への第二の手紙の連続説教に戻ります。このコリント人への第二の手紙の冒頭の挨拶の部分で、パウロは繰返し慰めという言葉を語っています。なんとパウロは1章の3節から7節までの間に、9回も慰めと訳される言葉を使っているのです。このようにパウロが慰めという言葉を多く用いた背景には、おそらくこのコリントの第二の手紙が書かれた時のコリントの教会の背景には、慰められなければならない深い悲しみがあったからだろうと思われます。たとえばパウロは同じコリント人への第二の手紙2章4節で次のように言っています。「わたしは大きな患難と心の憂いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書きおくった。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、あなたがたに対してあふれるばかりにいだいているわたしの愛を、知ってもらうためであった。」この「多くの涙をもってあなたがたに書きおくった」というのは、前にも申し上げましたコリント人への第一の手紙とこの第二の手紙の間にあったであろうと考えられる「涙の手紙」と呼ばれる、パウロがコリントの教会の人々に書き送った厳しい内容の手紙です。
この「涙の手紙」の厳しい内容は、コリントの教会の人々に対して語られたものであると言うよりも、むしろコリントの教会で誤った考え方を主張し、混乱させている人々に対する叱責であり、そのような人々に対して語れたものであったと考えられます。その結果、パウロに反対し自らのあやまった主張をしていた人々は、他の教会の人々からも非難を受け、何らかの処罰を受けるような自体があったようです。2章の6節に「その人にとっては、多数の者から受けたあの処罰でもう十分なのだから、あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます深い悲しみに沈むかも知れない。」とあるのは、そのあたりの事情を指し示してのことでしょう。いずれにしても、コリントの教会の混乱は、パウロだけではなく、コリントの教会の人々の心を痛め、悲しませただけでなく、その混乱を招いた人たちも、パウロから叱責され、コリントの教会の人たちから処罰をされるといった中で悲しみの中に置かれていたのです。そのような中で、パウロはこのコリント人への第二の手紙を書き、その冒頭で何度も神による慰めがあると語るのです。
私たちは、たとえクリスチャンであったとしても、過ちを犯すことがあります。そして、その過ちは、当事者だけでなく、当事者を含む周りの多くのものを深い悲しみの内に置きます。だからこそ、そこには悔い改めと回復が必要なのです。その悔い改めと回復が私たちに慰めをもたらすからです。悔い改めとは、ただ罪を悔い反省しお詫びするということだけに留まるものではありません、それ以上に自分自身の生き方見直し、向き直って神を見上げるということです。そうやって罪を痛み悲しむ聖なる神に目を向けるからこそ、心から自分の罪深さを悔いることになるのですし、そこから、慰めに満ちた神との交わりが回復されていくのです。同時に、そのような悔い改めに立ったならば、自分が悲しみを与えた相手にも、心から謝罪していくことができるのです。そして、そのような悔い改めと回復がない限り、問題は本当のところでは解決していないのです。
数年前、東京ミッション研究所というところと東京聖書学院が共催して、アメリカから東部メノナイト大学の教授であるハワード・ゼアという神学者を招き研修会を行ないました。このハワード・ゼア教授は、修復的司法という考え方を提唱し実践するためのプログラムを行なっているかたなのですが、この修復的司法というのは、従来の犯罪を犯したらならば、それを裁き刑罰を科すという司法の考え方ではなく、被害者と加害者の間に真の問題解決を与える方法として考えられ実践されているものです。というのも、従来の犯罪を犯したならば、罪を犯したものを裁き刑罰を加えるといった方法では、被害者が直接加害者と話し、自分の悲しみや怒りあるいは恐怖といった気持ちを訴える事ができず、また加害者もそれを聞くことがないからです。だから、刑を科してそれを罰しても加害者が本当に自分の犯したことの重大さに気づかず、真に悔い改めるということがなく、被害者の心が癒され慰められることもないからだというのです。
だから、ゼア教授が提唱する修復的司法では、単に罪を犯したものを法で罰するということで終わるのではなく、加害者には、被害者の悲しみや、怒りや被害にあったときの恐怖や嘆きの気持ちなどを聴かせ、また被害者には、なぜ加害者がそのような罪に至ったかを聴かせることによって、一つの犯罪をとりまく悲しみや心の痛みに癒しをもたらそうとするのです。そして、被害者も加害者もその悲しみと痛みから立ち上がることができるようにと考えているのです。ゼア教授の修復的司法が、可能かどうか、すべての問題に対し妥当であるかどうかについては議論があるところかもしれません。しかし、私たちの身に降りかかってきた犯罪や問題は、裁判によって裁くことで決着をつけることができたとしても、その問題の周辺にある心の悲しみや痛みといった問題から人間の心は救われないのだということを明らかにしている点では大切なことを言っていると言えます。
このコリント人への第二の手紙の冒頭において、パウロが何度も神による慰めを語るとき、そこには教会の中でも主義主張の対立が背景にあることは既に述べてきたとおりです。その対立に決着をつけるためにパウロは、手紙を書いたり、テモテを派遣したり、自分自身がコリントの教会を訪問して話をするといったさまざまな方法を考え、それを実行したのです。それでも、問題は解決せず、結局「涙の手紙」と呼ばれる厳しい叱責とおそらくは断罪の手紙を書いたのでしょう。その結果、パウロが伝えた福音に反する人たちが、叱責され処罰されることで、取りあえず問題は決着の方向に向ったのです。しかし、この問題でコリントの教会は悲しみを負ったのです。それは、混乱を犯し処罰された人間だけではない、コリントの教会の全員が、悲しみを負ったのです。このコリントの教会の人たちがおった悲しみは、問題に決着がついたからと言って癒される事ではありません。それは叱責と処罰によって、一方の主張が是とされ、一方の主張が否とされただけのことなのです。そして、そこの出来事によって引き起こされた教会の悲しみは、慰められ癒されなければ、決して救われないものなのです。
慰めは悲しみの中にいる人たちの中からは起ってきません。慰めは悲しみの中にいる人たちの外側からやって来て、悲しんでいる人たちを慰めるのです。だからこそパウロは、自分たちの力で立ち上がるのではなく、神が私たちを慰めて下さり、その慰めの力によって再び立ち上がるのだと言うのです。このコリントの教会問題では、パウロ自身も悲しんでいます。ですから、パウロがコリントの教会の人々に慰めを語ることはできません。パウロも慰めが必要なのです。ですから、パウロは、神による慰めを語るのです。それは、パウロが既に経験したものでした。その、神による慰めを得るには、まず第一に慰めて下さる神を見上げなければなりません。そこには、まさに悔い改めという出来事があるのです。悲しみの中でうつむいていた顔を神に向ってあげ、神を見上げるところから神の慰めを見出していけるのです。そして、この顔を神に向ってあげ、神を見上げるということこそ悔い改めるということの本質なのです。私たちがそうやって神を見上げるときに、私たちの慰めは神の中にあり、神が私たちを慰めて下さいます。
パウロは、この苦難や患難、試練の中で悲しみを負った教会に、神がその悲しみから救ってくれる慰めを確信をもって語ります。その確信は、今日お読みいただいたコリント人への第二の手紙の第1章8節から10節に裏打ちされた確信です。パウロは、この箇所で「兄弟たちよ。わたしたちがアジアで会った患難を、知らずにいてもらいたくない」と言っています。そして、「わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまった」とまで言っています。そのような中で、「心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った」というのです。そして、その結果「神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった」というような経験をパウロはするのです。パウロがここで直面している問題は死の問題です。パウロは小アジア半島で福音を宣べ伝えたときに、死の危険を感じるような様々な迫害を受けました。その死の危険から神はパウロを救い出してくださったというのです。
このコリントの第二の手紙11章25節以降には、パウロがあった苦難や試練が列挙されています。そこにはこのように記されています。「苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。 幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった」まさに、パウロの伝道は苦難と試練の連続だったのです。その中で死の危険を感じるような出来事もあった、その死に危険から神は救い出して下さったというのです。ですから、この救い出してくださったというのは、単純に考えれば、死の危険にさらされ、死を覚悟しなければならない状況から助け出してくださった、逃げ出すことができるようにしてくださったという意味であろうと思われます。
しかし、その死の危険、死を覚悟しなければならない状況は、終わりではない繰返しパウロを襲ってくる、必ずまた同じ苦難や試練がやってくるということをパウロは予測しているのです。だからこそ「神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる」というのです。そういった意味では、パウロは死に危険から完全に解放されたわけではありません。繰返し繰返しその危険は襲ってくる。そういった意味では、死を覚悟しなければならないパウロの状況は何ら変わっていないのです。けれども、そのような中でパウロは神の救いを確信し慰めを得ている。この確信と慰めが一体どこからきているのかというと、それは「自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った」というパウロの信仰から来ているのです。もちろん、このパウロがうけた慰めは、一回一回、繰返し繰返し訪れて起ってくる危険を神の助けで乗り越えていけるという確信にもとずく慰めであったと言うことができるかもしれません。いえ、むしろそのように読む方が自然な受け取り方のように思います。だとすれば、「死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った」というパウロの信仰は、死人をもよみがえらせる事ができるお方であるならば、ましてや死の危険から助け出すこと事ができないはずがないという信仰であったと考えられます。つまり、神が「イエス・キリスト様をよみがえらせた」ということの背後に、神の全能の力を見出しているのです。
この神の全能は「死人をよみがえらせて下さる神」に対する信頼です。そのような「死人をよみがえらせて下さる神」へのパウロの信頼は、パウロが死の危険の中で「生きる望みさえも失う」ほどの絶望を経験したことによります。「人間は死ぬ」この極めて当然と思える出来事は、頭で考え理解しているときには、当然のことのように私たちはその事実を受け入れます。しかし、現実に自分の死というもの覚悟しなければならないその状況が目の前に立ちはだかると、そうそうたやすくそれを受け入れることが難しいのではないかと思うのですがどうでしょうか。それこそ、死という現実の前に、自分は本当に弱く、何もできないものであることを思い知らされるのです。まさに、死は絶対に人間の乗り越えることのできない限界なのです。しかし、神は、死人をもよみがえらせてくださるお方である」というこの事実を、パウロはイエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事を通して、知り、確信していました。それは、決して人間では超えることのできない限界を乗り越えさせてくださる神の力なのです。
確かに死は、私たち人間がどんなに抗っても私たちを押しつぶしてしまいます。それは私たち人間の限界を超えたところから私たちを抑圧し支配する圧倒的な力です。けれども、神は私たちを死からよみがえらせてくださるお方なのです。その神が私たちと共にいるとするならば、私たちは、たとえ絶望と思われるような出来事の前で押しつぶされたとしても、神はそこから私たちを立ち上がらせてくださるお方なのです。たとえ、「もうだめだ」と思われるような中に置かれても、神は私たちをそこから救い出してくださるのです。「もうだめだ」と思うとき、それは私たちができる限りの事をして頑張り、努力して、それでもどうしようのない時に感じる感情です。一生懸命頑張って、努力していない人は心の底から「もうダメだ」と言う思いにはなりません。頑張って、度直してそれでもどうにもならないで現実に押しつぶされそうになったとき、本当に心の底から「もうだめだ」と感じるのではないでしょうか。
パウロが生きる望みを失い死を覚悟するほどの絶望の経験は、そのような自分の努力と頑張りにたいする絶望です。いうなれば、自分自身の力に対する絶望なのです。それは、自分の弱さを知り、無力さを知る経験だと言えるでしょう。そのように、自分の弱さを知って、パウロは初めて神により頼むことを知ったのです。そして、その弱さの中から再び立ち上がらせてくださる神の恵みの力を経験します。どんなの弱さの中にあっても、そこから立ち上がらせる神の恵みの力を知るのです。もちろん、その立ち上がる力は私たちの内にありません。私たちは絶望の中に打ちひしがれているしかできないのです。その私たちを立ち上がらせてくださるお方は神なのです。だからこそ、そこに慰めがある。立ち上がることの出来ない人間を立ち上がらせ、支える神の憐れみと励ましとがあるのです。そして、そのような神の慰めと励ましの中で、神に支えられることで立ち上がった人の姿は、それを見たものにも慰めと支えが分け与えられていくのです。なぜでしょう。
もし、その人が自分の力や努力、頑張りでその問題を乗り越えていったとするならば、それは私たちに驚きを与えても、慰めは与えられません。それは、強い人、力のある人だからできることなのです。ですから、立ち上がることができないような弱さの中にいる人間には何の慰めにもなりません。それは、自分とは全く関係のない、縁遠い世界にいる人の姿なのです。ただ、決して人の力では立ち上がることも、また立ち続けることもできない状況から、神の力と支えによって立ち、たち続けているからこそ、同じように、もう自分では立ち上がれないと思うほど疲れ倒れた者もまた、慰められるのです。自分もまた、「死人をよみがえらせることもできる神」を信じるなら、そこから立ち上がる事ができる希望があるからです。そして、それが神の力によって立ち上がる希望であるからこそ、祈ることができるのです。自分の力の限界に打ちひしがれた人に立ち上がれと言う言葉は酷な言葉です。弱り疲れた人に頑張れと言う言葉は、倒れた者に鞭を打つような言葉です。けれども、その人を力づけ。支え、守り、立たせて下ることを神に祈る祈りの言葉は慰めの言葉です。その慰めの言葉となる祈りの言葉こそが、教会にふさわしい言葉なのです。また、そのように祈るならば、弱り倒れた人が神の力で立ち上がったときに、共に祈った者として、共に喜び、共に恵と慰めを分け合い、感謝する者となることができるのです。
もちろんその言葉は、神に対する信仰が必要です。そして、信仰とは、自分の力ではなく神の力を信じより頼むことだからです。自分自身の力により頼むのではなく、人間では絶対に超えることのできない死という限界を超えて、「死人をもよみがえらせることのできるお方」を頼ることこそ信仰ということなのです。みなさん、この講壇の後ろにかかげ、今こうして私たちが仰いでいる十字架がそのことを証しています。この十字架にはイエス・キリスト様の聖像ははり付けられていません。それは、十字架の上で、私たちの弱さや、悲しみや苦悩、そして全ての罪をはり付けて死なれたイエス・キリスト様は、よみがえり天に凱旋なされたからです。ですから、もう十字架の上にはおられないのです。
私は、今日の聖書の箇所を通して、パウロは教会が分裂するのではないかというような問題で揺さぶられ悲しみの中にあるコリントの人達に、神の力によってそこから再び立ち上がっていけるのだとそう語っているようにさえ思えるのです。そして確かに神は、私たちが悲しみや苦しみのどん底の中にあっても必ず立ち上がらせて下るお方なのです。だから自分の力に頼って立ち上がろうとせず、神の力を頼り、神に信頼して立ち上がらせていただこうよと、パウロがコリントの教会の人たちにそう呼びかけているようなそんな気がするのです。いえ、コリントの教会だけではなく、私たちにもそう語っているように思うのです。私たちが生きていく中には様々な問題があり、苦難があり、試みがあり、時には悲しみに打ちひしがれ、立ち上がれないほど疲れ、弱ることもあるでしょう。そのときには、私たちは、この十字架を見上げようではありませんか。そして、共に同じこの教会に集うひとりひとりとして、その中の誰かが、その苦しみと悲しみの中にあるならば、その人のために「死人をもよみがえらせた神」その神を頼り、信頼し、祈ろうではありませんか。それこそが、神を信じる民の口にふさわしい慰めの言葉なのであり、教会が一つであると言うことの力であり証なのです。
お祈りしましょう。