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メッセージ

羊飼い 『慈愛と峻厳』
コリント人への第二の手紙 2章1−4節
2009/9/6 説教者 濱和弘

私たちクリスチャンは、キリスト教を根底で支えているのは「愛」であると考えています。もちろん、この教会が語る「愛」という言葉は、世間一般で言われる「愛」と必ずしも同じではありません。というのも、世間一般で言う「愛」という言葉には、様々な意味合いが含まれているからです。たとえば、男女間の恋愛感情も「愛」といわれますし、ときには何かに執着する思いや感情も「愛」と表現されます。今の政治で言うならば、新しい政権で日本のリーダーになろうとする人は、政治は「愛である」ないうような事を言う。この場合、「愛」という言葉は、おそらく思いやりといったニュアンスで使われていると思われます。

そのように、実際、愛という言葉は非常に多くの意味を含んだものです。ですから、キリスト教を根底で支えているものが「愛」であるといっても、その愛が何であるかを十分に伝えられているかというと、必ずしもそうではないのかもしれません。そのようなわけで、私たち教会が単純に「神は愛である」と言っても、その神の愛がなかなかリアリティをもって伝わっていかないということも少なくないのです。実際、教会が「愛」というとき、それはいわゆる「愛」ではなく贖罪愛です。この贖罪愛とは、相手の罪を赦し受け入れることだと言えます。しかし、贖罪愛がただ単に相手を赦し受け入れることだとすれば、贖罪愛は「寛容」、あるいは「寛大な心」という言葉でも言い換えることができます。なぜならば、キリスト教における神の贖罪愛は、その愛が具体的なイエス・キリスト様の十字架の死という行動にあらわされているからです。神が、私たちの罪を赦し受け入れると言うとき、そこには神の一人子であるイエス・キリスト様が十字架に架かって死なれるという実に大きな痛みと苦しみが伴っているからです。

私たちは、通常、イエス・キリスト様の十字架の死について、イエス・キリスト様の十字架の死は。私たちの罪の身代わりとなって神の裁きを受けて下さるためのものであったと言います。ところが、パウロが地中海沿岸のギリシャ・ローマ世界にイエス・キリスト様の十字架の意味を伝えていったときにパウロは、決してイエス・キリスト様が私たちの罪の身代わりのために十字架に架かって死んでくださったというような言い方や表現を用いていません。もちろん、神との「和解」とか神を「なだめるためのもの」という言葉等を用いて神が私たちを愛し、私たちを私たちの罪とその罪に対する裁きから救って下さったということを伝えてはいるのですが、その際に、パウロは身代わりという概念で伝えてはいないのです。むしろ、神が私たちを支配する罪の力と悪の力、あるいは神に敵対する諸々の霊の力、これを聖書では「この世」と呼んでいますが、その「この世」から解放するために代価を支払ったとか、あるいはその「この世」に打ち勝ったというような表現を用いてキリストの十字架の死の意味を伝えているのです。代価は本来、その商品を買ったものが支払うものです。つまり自分の財布を痛めて買い取るものです。その代価を神が支払って下さったと言うのです。このように、代価を払って買い取るということが、中世初期のヨーロッパ、今日のフランスやドイツといった地域のゲルマン民族にキリスト教が伝えられる中で、私たちの身代わりになって罪の代価である裁きをイエス・キリスト様が、私たちの代わりに受けて下さったのだという理解が産まれてきたのです。

このような、私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死なれたというキリストの十字架の理解の歴史的な展開の是非は別としましても、イエス・キリスト様が十字架で死なれるという出来事、そこには神の痛みがあり、神の犠牲があります。ですから、キリスト教で言うところの愛は、単に相手を赦し受け入れるといったものではなく、そのように神が私たちを赦し受け入れるために、神の一人子イエス・キリスト様を十字架につけて死なせるという大きな痛みをともなう愛なのです。そのようなわけで、キリスト教における「愛」は、愛するもののために、犠牲を払い、痛みを負い、苦しみまでも負うところのものなのです。そのように、「愛」は相手のために痛みや苦しみを負う覚悟が伴う、そのような感情なのです。

明治の初期に、二葉亭四迷という作家が、「片恋」という小説の中にある、ロシア語の異性に愛を告白する言葉、英語で言うならばI Love youにあたる言葉をどの様に訳していいか窮してしまったそうです。現在ならば単純に「私はあなたを愛しています」と訳すのでしょうが、しかし、愛という言葉は先ほど言ったように、様々なニュアンスで受け取ることのできる言葉です。またあまり使う言葉ではありません。現代の日本人であっても、あまり使う言葉ではありません。たとえば親が子どもに対しても、「○○ちゃんが大好きだよ」とはいっても、「愛しているよ」とは言わないものです。ましてや、二葉亭四迷は明治時代の日本人です。ですから、I love you にあたる言葉をどのように訳すのかに困ってしまったのもうなずけます。結局、二葉亭四迷は「私は死んでもいい」と訳したそうです。私は、この「片恋」という小説をよんでいませんので、この「死んでもいい」という言葉がどのようなニュアンスで用いられたかは良くわからないのですが、この「死んでもいい」という言葉は、「あなたとなら死んでもいい」というニュアンスなのか、あるいは「あなたのためなら死んでもいい」というニュアンスなのかで、若干違った感じがします。「あなたとなら死んでもいい」といわれると、ちょっと恐い感じがしないでもありませんが、しかし、まぁそれはそれで嬉しい感じがします。「あなたのためなら死んでもいい」といわれると、もっと嬉しい気持ちがします。もちろん、人の感じ方はいろいろありますから、一概には言えませんが、いずれにしても、「あなたとなら死んでもいい」と「あなたのためなら死んでもいい」はどちらも相手を思う思いが込められた言葉ですが、両者の間には若干の違いがあるのです。

私が以前牧会をしていた教会でのことです。その教会で私は、幾つかの結婚式の司式をさせていただきました。その中の幾つかは、新郎新婦ともにクリスチャンではなく、教会とは直接的な関係がまったくないカップルの結婚式もありました。しかし、ぜひ教会で結婚式を挙げたいということで、私が司式をし教会で結婚式を執り行なっていたのです。その中の一組のカップルの話です。この教会でもそうですが、私は結婚式をする前には必ず、キリスト教で結婚するということの意味と意義について結婚カウンセリングを4,5回にわたって持たせていただくようにしています。キリスト教において結婚とはキリストと教会の関係を表わすほどの神聖なものだからです。ですから、その時もやはり、結婚カウンセリングをさせていただきました。そのカウンセリング中で、キリスト教における結婚式の中心は誓いの言葉にありますということを説明致します。誓いの言葉の内容を一つ一つ説明して、あなたは結婚において何を約束するのか、相手の方は何をあなたと神に誓うのかを説明するのです。

その説明の中で、男性に対しては『あなたは、この女性を、妻として「その健やかなときも、これ愛し、これを敬い、これを慰め。これを助け、その命の限り堅く節操を守ることを約束しますか」という誓約の言葉がありますが、これを愛しというのは、イエス・キリスト様が命を投げ出して人を救おうとした愛と同じ愛で愛するということです。ですから、男性に、あなたは、この女性を愛しますかというこの約束の言葉を私が問いかけたときには、あなたはこの女性のために命を投げ出す覚悟がありますかと問いかけているのですから、答えるときはその覚悟で答えて下さい。』と、そのようにお話しします。また、女性に対しては、「この人が、私に、この約束の言葉を神の前で誓うかと問いかけられて、『はい』と答えるならば、この人は、あなたのために命を投げ出す覚悟もって答えるのですから、あなたも心してその言葉をしっかり聞いてほしい」とそうお話するのです。そして、女性にも、男性がそれほどのお思いであなたを「愛します」と約束するのですから、あなたも、自らを犠牲にしてでも、心からこの男性のために役立ち、支え、この人のために生きる者となるという思いで、「その健やかなときも、これ愛し、これを敬い、これを慰め。これを助け、その命の限り堅く節操を守ることを約束しますか」という問いかけに答えて欲しいのですとお話しします。もちろん、今からお話しするそのカップルにも、そのようにお話ししました。

その言葉が、新婦の心の中に強く残っていたのでしょうね。結婚式の当日、私が式の中で、例の約束の言葉を新郎に問いかけに対して、新郎ははっきりとした言葉で「はい」と答えたときに、新婦は泣き出してしまったのです。きっと彼女は、「あなたのために命を投げ出します。」と約束する彼の心が本当に嬉しかったのだろうと思うのです。もちろん、新婦も、涙を泣かしながら心から「わたしはあなたを支え、あなたのために生きます」という思いで、私が問いかける誓いの言葉に「はい」と答えて下さいました。それは、心からの愛の思いからでた誓いの言葉であっただろうと思います。そのように、相手に対する深い思いやりと犠牲をも覚悟し、相手のために身を投げ出す強い思いが込められているものが、聖書の言うところの「愛」、αγαπη(アガペー)なのです。そういった意味では、キリスト教における愛するということは、実に深い慈愛とともに、実に厳しい峻厳さを伴うものなのです。

パウロが、コリントの教会の人たちに、「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした」(2コリント2:4)というとき、まさにこのような深い自覚と、命を投げ出すほどの峻厳さを伴う覚悟のもとで、そのようにいっているものと思われます。なぜならば、パウロ自身が、そのような愛でキリストから愛されたということを深く自覚しているからです。そしてだからこそ、パウロはコリントの教会の人たちに、イエス・キリスト様がもたらした福音を正しく理解して欲しいのです。神に、罪赦され、神が罪人である私たちと和解してくださり、私たちに死を乗り越えるまでの恵を与えられるためには、ただ単に「寛容」であるとか「寛大な心」といった言葉では語り尽くせないほどの辛く厳しい犠牲が払われているのです。そして、そのような、十字架の上で私たちのために命を投げ出すほどの愛で愛された私たちであるからこそ、私たちもまた、イエス・キリスト様のために生きるものとなることが求められているのです。

このイエス・キリスト様のために生きるということは、福音に生きるということと同じ意味だと考えてよろしいだろうと思います。そして福音に生きるということは、イエス・キリスト様の十字架の死のみが、私の罪を赦し、私をその罪の裁きである死から救うものであると信じて喜びながら、神に従い生きることです。さきほど、私はキリスト教における結婚というものは、キリストと教会の関係にたとえられるものであるということをお話し致しました。そのような結婚にたとえられるキリストと教会の関係は、それこそ新約聖書のエペソ人への手紙5章22節以降に出ていることなのですが、そこで言われていることは、キリストは私たちのために命を投げ出すほどの愛で私たちを愛しておられるのだから、その愛を受けたものは、キリストに従うものにならなければならないということです。

従うということ、それは何よりもまず相手の言葉に耳を傾けなければなりません。相手の言っている言葉を良く聞かなければ、従うことなどできようはずはありません。ただひたすら相手に自分を主張をぶつけるときには相手の言葉に耳を傾けるということなどできません。聞くということ、それも耳を傾けて相手の言うことに傾聴するというときには、自分の主張を引っ込めて、ときかくまず相手の言うことをしっかりと聞くことが大切なのです。

コリントの教会で問題になっていたことの一つは、神に対して自己主張をするということでした。具体的には、人が救われるためには、まず割礼を受け、ユダヤ教徒になってそれから律法を守ることが重要であるという偽教師の教えが入り込んでしまっていたことでした。そのような偽教師は、コリント人への第一の手紙が書かれた後に入り込んだのか、それ以前に入り込んでいたのかは定かではありませんが、いずれにしても、私たちが救われるためには、信じるだけではだめで何か律法を行なうという良き業が必要なのだという考えが入り込んでいたのです。しかし、このような主張は、言い換えるならば、神に信頼し寄りすがるだけではなく、神の前に自らの正しさを主張できるものを持っていなければならないと言っているようなものです。それは、せっかく神自らが、その一人子であるイエス・キリスト様を十字架につけて死なせるという、苦しく痛みをともなう犠牲を払ってまで私たちをお救いになろうとなさったのに、その神の行為を、必要ないと言うかのように拒否しているようなものです。

少なくともパウロにはそのように映っていた。だから、コリントの教会の中の一部の人たちがそのような教えに惑わされている姿がパウロにとっては悲しかったのだろうと思うのです。だからこそ、パウロは厳しい裁きの言葉を持ってでも、コリントの教会の中で誤った考えをしていた人々を叱責し、正しい福音に立ち帰らせようとしているのです。神みずからが痛みを負い、苦しみを負う愛を退けている人々に、慈愛と峻厳さを持つ愛を語るのですから、当然そこには、叱責に伴う悲しみがあります。それは叱責するパウロが負う悲しみであり、叱責されるものの負う悲しみでもあります。そして、それを見つめている神の悲しみでもあるのです。しかし、そのような悲しみを経験したとしても、私たちがそこから悔い改め、神の福音に立ち帰るならば、喜びにかえられます。だからこそ、パウロは厳しい言葉をもってでも、コリントの教会の人々に語りかけるのです。そこには、慈しみと峻厳さを伴うパウロの愛があるのです。

みなさん、神を信じるということは、何でもかんでも赦される、何でもかんでも受け入れられるということではありません。そこには神の言葉に聞き従うということが求められる厳しい一面もあるのです。だからこそ、聖書は時には私たちに妥協を許さない聖い生き方を求めてくることもあるのです。その中には聖日を大切にするということもあるでしょう。神が私たちに託して下さったものの中から、神の働きを支え推し進めていく事のために、献金をするということも求められると事もあるでしょうし、奉仕をするといったこともあるでしょう。もちろん、私たちは、完全にそういったことができないこともあります。また律法的にそれを守らなければならないということでありません。しかし、命を投げ出すほどの犠牲を払ってでも私たちを愛して下さった神の愛に応答するということの中で、聖日を守って礼拝を捧げ、献金をもって感謝を捧げ、献身し神の業に参加し、また奉仕をするといったことは大切なことなのです。そしてその大切なことを完全にできない私たちだからこそ、悔い改めの心を持って自らが犠牲を払ってでも私たちを愛して下さる神の愛にすがり、その愛が具体的な行動としてあらわされたイエス・キリスト様の十字架の死にすがり、神の救いを信じなければならないのです。

この神の救いを信じるとき、罪を悲しみ、弱さを悲しむ悔い改めの心は喜びの心に換えられます。私たちに罪の悔い改めが求められるのは、たんなる「寛容さ」や「寛大な心」といった言葉では言い表せない、ましてや、世間一般で言うところの「愛」という言葉では言い尽くせないところこの峻厳さを伴う愛を知るためなのです。みなさん、私たちは神のような完全なものとなることはできません。過ちを犯すこともあります。失敗をすることもあるでしょう。道をはずすこともあるかもしれない。けれども、その過ちを悲しみ悔い改めて神の愛とキリストの十字架を信頼する信仰に立ち帰るならば、その不完全な私たちであっても信仰おけるキリスト者としての完全な者となることはできます。そして、その十字架に現された神の愛を信じるとき、私たちの内に救いの喜びが湧き上がってくるのです。

今日は聖餐式です。聖餐式のパンと杯はそのキリストの十字架を指し示します。パンは十字架の上で釘打たれたキリストの裂かれた体であり、ぶどうジュースが注がれた杯は十字架の上で流されたキリストの血です。そしてその聖餐のパンと杯と共にキリストはいて下さり、私たちを救う神の愛を宣言してくださっているのです。この聖餐のパンと杯は洗礼を受けてからそれに与ることが教会の伝統の中で守り受けつがれてきました。ですから、私たちもその伝統に従い、洗礼を受けてから聖餐のパンを食べ杯にあずかっています。しかし、こうして今日、この教会に集っているすべての人は、神に招かれこの聖餐に招かれています。ですから、洗礼を受けておられない方は、大人も子どもも聖餐のパンを食べ、ぶどうジュースを飲むことはしませんが、神の祝福を祈ります。それは、共に私たちに救いを与える神の慈愛と峻厳さに満ちあふれた神の愛がここに集うすべての人に注がれているからであり、私たちが私たちの罪や過ちを悲しむのではなく、救いの喜びを共に分かち合い、互いに許し合い、互いのために自らを捧げ愛し合う慈愛と峻厳に満ちた愛で愛し合う喜びに満たされるためなのです。

お祈りしましょう。