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メッセージ

羊飼い 『再出発への道』
コリント人への第二の手紙 2章5−11節
2009/9/20 説教者 濱和弘

さて、先週の聖日、私たちは聖別礼拝と聖会を持ちました。聖別礼拝、あるいは聖会は、私たちが神の前に、聖いものとなっているかということをチェックするための集会であるということができるだろうと思います。神の前に正しく歩んでいるだろうか、神の前に誠実な態度で向き合っているだろうかを、聖会の場においてかたられる聖書からのメッセージを通して確認し、もし、神の前に不誠実な姿に気が付いたならば、それを悔い改めていくというところに、聖会に出席する意味と意義があるのです。悔い改めるということ、それは自分の罪を後悔し反省するということだけではありません。自分の犯した罪を後悔し反省するだけならば、それは悔いているということだけで、改まっていません。悔い改めとは、後悔し、反省し、改めてこそ悔い改めなのです。ですから、教会が悔い改めというとき、それは罪を深く反省し、それまでの自分の生き方を後悔し、心を入れかえて新しく神を信じ、神に目を向けて生きていくということなのです。

ですから、悔い改めるということは、私たちのそれまでの生き方を棄てて、神を信じるものとして新しく生まれ変わって生きていくことなのです。しかし、生まれ変わると言っても、そうそう人は新しく生まれ変わって再出発できるのだろうかという疑問がおこります。「三つ子の魂、百まで」ということわざがありますように、人間はそうそう変れるものではないという思いが、漠然と私たちの心の中にはあるものです。けれども、このコリント人への第二の手紙でパウロは、人間は変わることができるのだという確信を私たちに示しているように思われます。ともうしますのも、このコリント人への第2の手紙の2章1節から3節までで、パウロはこう言っているからです。パウロという人は、2000年前にキリスト教会ができはじめた頃の中心的な指導者の一人で、主に現在のトルコやマケドニア、あるいはギリシャといった地中海のヨーロッパ側にキリスト教の伝道をし教会を建てた人であり、このコリント人への第2の手紙を書いた人ですが、そのパウロがこう言うのです。

「そこでわたしは、あなたがたの所に再び悲しみをもって行くことはすまいと、決心したのである。もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませているその人以外に、だれがわたしを喜ばせてくれるのか。このような事を書いたのは、わたしが行く時、わたしを喜ばせてくれるはずの人々から、悲しい思いをさせられたくないためである。わたし自身の喜びはあなたがた全体の喜びであることを、あなたがたすべてについて確信しているからである」。パウロがこのコリント人への第2の手紙を書き送ったコリントの教会に対して、「そこでわたしは、あなたがたの所に再び悲しみをもって行くことはすまいと、決心したのである」というときに、パウロが持っていく悲しみは、コリントの教会の人たちが悲しむ悲しみです。いいかえれば、パウロがコリントの教会の人たちを悲しませるということなのですが、具体的には先に書かれたコリント人への第一の手紙の中で述べられているような不品行を行なった人のことなのか、あるいは、コリントの教会の中に広がっていた誤った考え方に人々が陥り、その間違った教えを信じているコリントに人たちに対して、パウロがその過ちを厳しく糾弾し、咎め戒めるということです。

この誤った考えや間違った教えを信じている人々とは、パウロに反対する人たちです。そのパウロに反対する人たちの背後には、その当時にあったグノーシス主義的キリスト教と呼ばれる霊と肉とを二つに分け、肉は卑しいもので霊のみが崇高であって人間は肉体を離れて霊的知恵と合一することが救いであるといった考え方であるとか、あるいはユダヤ教的キリスト教と呼ばれる「人はイエス・キリスト様を信じるだけでは救われない、イエス・キリスト様もユダヤ人であり、ユダヤ人として生きられたのであるから、神を信じキリストを信じようとする者は、まずユダヤ人と同じように成らなければならないという考え方にもとづいて、ユダヤ人と同じようになるために、割礼という宗教的しるしを身に刻み込み、ユダヤ人が守る律法とよばれる様々な決りを守らなければならない」と教えがあったのではないかと思われます。もちろん、そのような考え方や教えはキリスト教の考え方や教えではありません。それは誤った考え方であり、間違った教えなのです。当然、不品行ということも教会では認められるものではありません。ですから、パウロはコリントの教会に手紙を書いて彼等の過ちを厳しく糾弾し咎めたのです。

その手紙は現存していませんが、どうやら非常に厳しい手紙だったようです。ですから、その手紙を読んだコリントの人の中にいた誤った考え方をしていた人たちは、あまりにも厳しい内容に、心を悲しませたようです。そのように、厳しい咎めと叱責の言葉を語らなくて良いように、パウロはコリントの教会を訪問しないでいるのですが、それは、コリントの教会の人たちが自分の過ちや間違いを悔い改めて正しい道へ立ち帰ることをパウロが期待しているからです。つまり、パウロは、コリントの教会の中にいる誤った考え方をする人が変わると信じているのです。

もちろん、コリントの教会にいる誤った考え方をし、間違った教えを信じ、問題のある言動をしている人たちのことを考えるとパウロ自身も悲しい思いになったであろうことは間違いありません。そのような悲しい思いをしているからこそ、そのような過ちを犯した人が悔い改め、心を入れかえてやり直すならば、それはパウロにとって大きな悦びになるのです。だからこそ、パウロは「もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませているその人以外に、だれがわたしを喜ばせてくれるのか。このような事を書いたのは、わたしが行く時、わたしを喜ばせてくれるはずの人々から、悲しい思いをさせられたくないためである」というのです。そこには、過ちを犯しているひとが悔い改めてやり直してくれるならば、それほど嬉しいことはない。しかし、逆に彼等が相変わらず過ちの中にいるならば、パウロはやはり悲しい思いに成らざるを得ないのです。だからこそ、彼等が心から悔い改めて神に立ち帰ってほしいと願うのです。いえ、神に立ち帰るならば、必ず変わることができるとパウロは信じているのです。

このコリントの教会にいた誤った考え方をしていた人たちの一番の問題点は、自分自身の主張を曲げず、パウロの言葉に耳を傾けなかったことにあります。いえ、パウロの言葉というよりも、パウロが伝えた福音、すなわちキリスト教の教えに耳を傾けずに、頑として自分の主張を押し通そうとしたところにあると言っても良いだろうと思います。「自分は正しい、自分はこうしたい、自分は、自分は」という思いが強く、神がどう考え、神が何をなさろうとしておられるのかということに関心を向けなかったところにあるのです。言葉を換えて言うならば、彼等は神を畏れるということをしなかったのです。

みなさん、本当に畏れ敬うものがあるならば人は、その畏れ敬うものの言葉に耳を傾けそれに従います。たとえば最近のテレビは、S・Nさんという女優さんが薬物に手を染めたというニュースで一色に成っていますが、彼女が本当に畏れ敬うものを持っており、その畏れる存在が、そんなことをしてはダメだと言ったならば、その言葉に耳を傾けることができたのではないかと思うのです。けれども、私たちが畏れ敬うものを持たず、ただ自分の考えや主張や、願望、欲望といったものによって突き動かされて行くならば、私たちは、どこかで道を間違ってしまうということがあるのです。もちろん、畏れ敬うものを持っていたとしても、私たちは間違った考え方をしてしまうこともあります。だからこそ、2000年の教会の歩みには多くの過ちや失敗がある。けれども、神を畏れ、神を敬う心を持ち、神の言葉に聞き従うならば、たとえ間違った考え方をし、失敗したとしても、神の言葉によって正され、正し道に帰ってくることができるのです。自分の過ちや失敗を指摘され、悔い改めることは痛みが伴い、悲しいものです。しかし、神を畏れ、神を敬い、神の御言葉に聞きしたがって生きていこうとするならば、必ず新しい再出発をすることができるのです。

もっとも、先ほど申し上げましたS・Nさんのような薬物依存の問題は、私たちが考えるよりもはるかに根深く、人の心を縛り抜け出すことが非常に難しいのだそうです。ですから一旦手を染めると、いかに畏れ敬うものを持っていてもなかなか抜け出せないといった病理的側面はあるのかもしれません。ですから、どんなことがあっても、絶対に薬物に手を出してはならないのですが、しかし、畏れ敬うものをもっていて、その畏れ敬うものが正しい道を示し、それに従おうという気持ちがあるならば、そこには間違いなく新しく生まれ変わって再出発する希望があると私は信じています。本気で神を信じ、神を畏れ、神を敬い、神の言葉に聞きしたがって生きていこうとするならば、神はその人の罪や過ちを赦し、受け入れ、新しく生まれ変わらせて下さるお方だからです。そして、神の言葉に聞き従うという強い決意のもとにあるならば、もはや自分の考えや欲望や主張を押し通すのではなく、神のお心を行うものになるからです。

パウロは、先ほどお読みいただいた聖書の箇所、2章5節で「しかし、もしだれかが人を悲しませたとすれば、それはわたしを悲しませたのではなく、控え目に言うが、ある程度、あなたがた一同を悲しませたのである。その人にとっては、多数の者から受けたあの処罰でもう十分なのだから、あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます深い悲しみに沈むかも知れない」。という言葉の中にも伺われます。パウロが厳しく糾弾した罪、それは不品行の罪であったのか、あるいは誤った教えを信じ込み、その教えを主張したものなのかは定かではありませんが、いずれにしても、その過ちを犯した人の言動によって教会は心痛め、悲しみを経験したのです。だからこそ、教会は、その人を処罰したのです。

今日の教会でも、戒規という規則があります。戒規は、過ちや罪を犯した教会員を罰するもので、教会から除籍する除籍処分や聖餐にあずかることをある一定期間停止する陪餐停止処分や、牧師であるならば一定期間の職務を行なうことを禁じる職務停止から牧師の資格を失効させるといったものなどがあります。もちろん、それらは安易に執行されるべきではありません。私もまだ戒規を執行したことがありませんし、仮に執行するにしても、教会の役員会で充分に話し合って決められるものなのです。そして何よりも大切なことは、その戒規の執行は、罰せられる人をただ罪を罰し戒めるというのではなく、その人が、真摯な思いで自分の罪や過ちを神の前に悔い改め、心を入れかえて再出発することを願ってなされなければならないということです。ですから、戒規が執行されるときには、その人を赦し慰めるということが見据えられていなければならないのです。

実際、パウロも、2章5節ので「もしだれかが人を悲しませたとすれば、それはわたしを悲しませたのではなく、控え目に言うが、ある程度、あなたがた一同を悲しませたのである。」と言っているからです。この「あなたがた一同を悲しませたのである。」という言葉に対して、ある注解書は、この言葉は、罰せられた人たちだけではなく、「教会員全体の責任であり、教会員全体で解決にあたらなければならない」という意味だと説明してありました。たしかに、だれかが代表して裁きを受け処罰を受けるというのは、私たち罪人のために、十字架の上で死なれたイエス・キリスト様の出来事に通じるような考え方です。そして、このコリント人への第2の手紙の2章6節7節で、「その人にとっては、多数の者から受けたあの処罰でもう十分なのだから、 あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます深い悲しみに沈むかも知れない」という言葉が示す、処罰された人は、終始単数形でかかれており、罰せられたのは複数の人ではなく一人の人なのです。

しかし、だからといって、この独りの人がコリントの教会の人の全部の罪を負い、代表して処罰されたとは考えにくいものがあります。というのもその処罰を行なったのは、確かにパウロからの支持もありましたが、最終的にはコリントの教会の人たち自身だからです。ですから「コリントの教会の教会員全体が、責任を負う」というとき、それはその一人の人が犯した罪に対して連帯責任を負うと言うことではなさそうです。むしろ、教会員全体が責任を負うべきであるとするならば、それは犯した罪や過ちに対して責任を負うということではなく、罪を犯した人が、神の前に悔い改め、新しく生まれ変わって、神の前に正しい道を歩んでいけるように教え導行くということだといえるでしょう。決して、裁きっぱなしではない、罰しっぱなしで終わらない。その人が神の赦しの愛に触れ、慰められ、再び立ち上がって神の前に歩んでいくことができるように導かなければならないというのです。

けれども、これは本当に難しいことです。なぜならば、戒規を執行しなければならないほどの罪や過ちを犯したその行為は、教会の中に亀裂や痛みを与えているからです。それはまさに教会員の一人一人の心を傷つけ、痛みを与えたことでもあります。ですから、教会員の一人一人も具体的に痛みを負わさるという被害をうけているのです。そういった意味からも、この教会から処罰を受けた人は、コリントの教会の人たちを「悲しませた」のです。そのように、私たちを傷つけ、被害を与えた人を、人間はそうそうたやすく赦すことができません。その傷が深ければ深いほど、私たちはなかなか赦すということができないのです。ましてや慰めたり愛したりすることなどできないのです。なのに、パウロは、「その人にとっては、多数の者から受けたあの処罰でもう十分なのだから、あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます深い悲しみに沈むかも知れない。そこでわたしは、彼に対して愛を示すように、あなたがたに勧める」と、私たちにとっても実に難しい課題を投げかけるのです。このように、パウロが、あえて難しい課題である「彼をゆるし、また慰め、愛しなさい」ということを私たちになげかけるのは、一つに、その人が立ち直るためには赦しと慰めが絶対に必要なものであるからだと思われます。

通常、自分に痛みや被害、また損害を与えた人との関係は、なかなかうまくいかないものです。その関係が修復されるためには、痛みを与えられたもの、被害や損害を受けた人が赦し受け入れなければ、和解や関係の回復などできません。傷つけ、被害を与えた側の人間が、自らの罪を悔いて謝罪しても、相手がその謝罪を受け入れ、赦し、その人を受け入れなければ、関係は回復しないのです。パウロは、このコリントの教会によって処罰を受けた人が、処罰を受けて終わりなのではなく、コリントの教会に復帰するためには、コリントの教会員が彼を赦し、受け入れなければそれができないからこそ、「彼をゆるし、また慰め、愛しなさい」と勧めるのです。

また、人が立ち直るためには、「赦しと慰めと愛」が必要なもう一つの理由は、人は、怒りや刑罰の中で立ち直っていくのではなく、赦しと慰めと愛の中で立ち直っていけるからです。たしかに、怒りや罰は、自分のした過ちや罪の大きさを知り、自分の犯したことを心から後悔し、反省するためには必要なものです。ですから、怒りや裁きや罰が必要ないとは言いません。しかし、それは、罪を悔い、反省する力にはなっても、そこから再び立ち上がって、やり直す原動力にはならないのです。しかし神は、ただ悔いることだけを求めておられません。悔い改めることを望んでおられるのです。罪を犯し、過ちを犯したものが、二度と過ちを犯すことがなく、神に立ち帰らせ、神の前に正しく生きていくことを望んでおられるのです。だからこそ、過ちを犯したものを処罰するだけに終わらず、悔い改めて、神を信じキリストを信じて正しく生きていくことができるように教え聡し導きなさいと言うのです。そのためには、まず赦し、慰め、愛することから始めなければならないのです。

しかし、それにしてもそれは実に難しい課題です。いえ、できない課題だと言っていいだろうと思います。いかに相手が悔い改めたといっても、自分を傷つけ、損害を与えた、被害者にしたものを赦し、慰め、愛するということなどは、普通はできないことなのです。その決してできないと思われる課題をパウロは、いえ聖書は私たちに突きつけてくるのです。そのさい、パウロは「わたしが書き送ったのも、あなたがたがすべての事について従順であるかどうかを、ためすためにほかならなかった。」と書き添えています。この書き送ったという手紙が、このコリント人への第2の手紙を指すのか、あるいは第1の手紙を指すのか、あるいは失われた「涙の手紙」を指すのかは良くわかりません。しかし、パウロは、いずれにしても、自分が書き送った手紙を通して、コリントの教会が、キリストに対して従順であることを求めているのです。それは、私たち一人一人が、本当に悔い改めて神を信じているものとして、新しく生まれ変わって生きているかどうかを問いかけている言葉であるといえます。

私たちは、今日の礼拝でも、主の祈りをお祈りしました。主の祈りはキリストご自身が、私たちにどう祈ればよいかを教えて下さった祈りであり、2000年間の教会の歴史の中で守り抜かれてきた大切な教会の祈りです。その主の祈りの最後の言葉は、「我らに罪を犯したものを、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。国と力と栄えとは、とこしえに汝のものなればなり。アーメン」となっています。そこには、私たちが赦すことは、私たちが赦されるとことと密接に関係しているのです。むしろ、赦さなければ赦されないといった響きすら感じられる言葉です。もちろん、主の祈りは、神を信じクリスチャンになった者の祈りですから、そこには、すでに神の前に罪を悔い改めて、新しく生まれ変わって神の前に生きる者となった者が祈る祈りです。そして、我らが赦すごとくという言葉も、ただ単純に相手を赦すということではなく、そこには真摯な悔い改めをしている者を赦すということであろうと思います。「我らの罪をも赦したまえ」という言葉は、神を信じる者に対する神の赦しであるならば、そこには当然、悔い改めということが前提にされているからです。その主の祈りの言葉に重ね合わせるように、パウロは、10節で「もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるそう。そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである」と。

そのように、パウロは、このコリントの教会の人たちに、過ちを犯し、コリントの教会の人々から罰せられた人が、真摯に悔い改めているのならば、彼を赦し、神を信じるものとして、新しく生まれ変わった者として生きていけるように導いて生きなさいというとき、そのような赦しの業を通して、私たちもまた神の赦しに与っていくのだというのです。そして、それは、私たちがサタンに欺かれないためであるというのです。サタンというのは悪魔のことですが、もともとの語源は「敵対する者」という意味から起っています。つまり、神に敵対する者、私たちを欺き神に敵対するような生き方に誘うものがサタンなのです。この神に敵対する生き方は、一つは人を憎みながら生きる生き方です。まさに、「人を赦し、慰め、愛する」ことが、神に従う生き方がキリストに従う生き方であるならば、人を憎みながら生きる生き方は神に敵対する者の生き方だからです。

同時に、神の前に徹底して悔い改めていない者を安易に「赦し、慰め、愛する」という生き方もまた、 それはキリストに従う生き方ではありません。罪や過ちを犯した人が、「ほら、聖書に『罪を犯した者を赦し、慰め、愛しなさい』と書いてあるではないか。だからわたしの罪を赦し、わたしを慰め、わたしを愛せ」といってきたとしても、その人が、神の前に、自分の罪や過ちを徹底して真摯な心で悔い改めているのではなかったならば、その罪を安易に赦したり、慰めたりしてはならないのです。本当に、心から罪を悔い改め、神を信じ新しい生き方に歩み出そうとする者を、神はどこまでも受け入れ、その罪を赦し、その人が新しい神を信じる者としての生き方へと導き、罪から離れて新しく生まれ変わって生きていくための支えを与えて下さいます。

しかし、真摯な悔い改めなしには、その神の赦しと愛を受けることができないのです。そのことにおいては、神は実に厳しい一面を持っておられるお方でもあります。ですから、私たちの赦しも、決して安易な「赦しや慰め」であってはなりません。それは人を本当に愛することでもないのです。本当の赦しの愛は、人を神の前に正しく歩ませ、神を畏れ敬いながら、決して二度と同じ過ちや失敗、罪に至らせないように導く者なのです。だからこそ、神の前での真摯な悔い改めなしには、罪を安易に赦し慰めるといったことなどあっては成らないのです。それは本当の神の愛をかすませてしまう神に敵対する者であるサタンの策略なのです。

みなさん、神は私たちが心から悔い改めの心を持って神の前に出るならば、必ずその罪を赦し、私たちを受け入れて下さいます。そして、私たちを新しい生き方、新しい人生へ再出発させて下さいます。そして、心から自分の罪や過ち、失敗を悔い、神を畏れ敬いながら生きていくならば、私たちは罪から離れて生きることができるのです。みなさん、私たちは神を敬い、神を畏れているでしょうか。神の眼差しが私たちに注がれているということを意識しているでしょうか。悔い改めの生涯をおくるということは、この神の眼差しを意識して生きるということなのです。ですから、みなさん。私たちは心から自分の罪や過ち、失敗を神の前に悔い改めて、わたしに注がれている神の眼差しを意識する生き方を生きようではありませんか。その時に私たちもまた、真摯に悔い改めるものを「赦し、慰め、愛する」者となっていくことができるのです。

お祈りしましょう。