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メッセージ

羊飼い 『生死を分ける分岐点』
コリント人への第二の手紙 2章12−17節
創世記2章15−17節
2009/10/4 説教者 濱和弘

私たちは、コリント人への第1の手紙に引き続いて、コリント人への第2の手紙から神の手紙から神の言葉をきいています。私の個人的な感想ですが、このコリント人に宛てた2通の手紙には、手紙を書いたパウロという人のコリントの教会の人々に対する愛が至るところで感じられるように思われます。それは、コリントの教会がパウロの伝道の実であり、パウロがコリントの教会の創設者であるということも深く関係しているでしょう。たとえば、私たちの教会の創設者の一人は、加藤亨牧師です。加藤亨牧師は、晩年、お体のこともありご子息のおられる広島にお住まいになっておられましたが、この三鷹教会のことをいつも心にかけて下さっておられました。生前、広島から年に一、二回、三鷹に帰ってこられ、教会の皆さんと交わりを持ち、楽しいひとときを過ごされておりました。その際、いつも私に言っておられたのは、自分に何かあったならばご遺体を必ず三鷹に連れ帰って葬儀は必ず三鷹で行なって欲しいということでした。それは、ただ単に三鷹の地を愛しておられたというのではなく、この三鷹キリスト教会を愛し、三鷹キリスト教会に集っておられるお一人お一人を愛しておられたということであったろうと思うのです。

それと同じような深い愛を、パウロという人はコリントの教会に集う一人一人の信徒に抱いていたと思われます。それが、今日の聖書箇所にも表れているからです。たとえば、2章12節13節です。そこにはこう書いてあります。「さて、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、わたしのために主の門が開かれたにもかかわらず、兄弟テトスに会えなかったので、わたしは気が気でなく、人々に別れて、マケドニヤに出かけて行った」パウロは、コリントの教会に間違ったキリスト教の教えが入り込み、コリントの教会が混乱している状況を聞き、事態を正しい方向に導いていかなければならないと考え、コリントの教会に手紙を書きました。それがこのコリント人への第1の手紙です。そして、手紙を書くだけではなく、テモテという自分の弟子を自分のかわりにコリントの教会へ送ったのです。けれども、状況はよくならず、このコリント人への第2の手紙を書く前に、別のもう一つの手紙を書き、自らもコリントの教会に行く計画を立てたのです。

そのコリントの教会を訪問する計画は、エペソという町から直接コリントの教会に行く予定だったのですが、その予定を変更して、ますテトスという人を自分の名代としてコリントに行かせ、コリントの状況を視察させ、その報告を聞こうとしたようです。そして、コリントを訪問したテトスと落ち合うためにトロアスという町で待ち合わせをしていた。そこでパウロは、テトスより先にトロアスの町に行き、そこでキリスト教の伝道をしながら、テトスがコリントから帰ってくるのを待っていました。パウロは、キリスト教の宣教師ですから、テトスを待っている間、どうやらトロアスの町での伝道をしていたようです。そして、その伝道が実を結び始めていた。少なくとも、これからトロアスでの伝道の道が順調に進んでいく兆しが見え始めていたのです。12節にある「キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、わたしのために主の門が開かれた」というのはそのことを指した言葉です。

ところが、パウロはそのような状況にも拘らず、トロアスの人々と別れてマケドニアに出かけていったというのです。これは、なかなか考えにくいことです。私もパウロと同じ伝道者の端くれです。パウロほど偉大な働きをした立派な伝道者とはいえない、それこそ末席を汚しているようなものですが、それでも伝道者です。ですから、そこに伝道の実が結びつつある、あるいは伝道の可能性が開かれたというような状況ならば、それをおいて他の所へ行くなどということは考えられないことなのです。ところが、パウロはトロアスの人々と別れてマケドニアに行ったというのです。ですから、そこにはよほど深い事情があったに違いありません。そして、その深い事情というのが、テトスがなかなか帰ってこないということにあったようなのです。テトスが、なかなかコリントから帰ってこない。それで心配になって、自分の方からマケドニアに出向いていったようなのです。けれどもパウロが心配したのは、テトスのことではありませんでした。もちろんテトスのことも心配はしたでしょうが、それ以上に気にかかって気が気ではなかったのはコリントの教会が、今どのような状況にあるのだろうかということなのです。

テトスは、パウロの名代としてコリントの教会に赴きましたが、その際一通の手紙を持っていきました。それが、先ほど申し上げたコリント人への第1の手紙とこのコリント人への第2の手紙の間に書かれたパウロのもう一通の手紙である「涙の手紙」というものです。その「涙の手紙」を読んだコリントの教会はいったいどうなっているのか。パウロがそれほどまでにコリントの教会のことを心配していたのは、パウロが深くコリントの教会の人々を愛していたからです。「涙の手紙」は内容的には、コリントの教会の人々を叱責する厳しいもののようではありましたが、しかし、パウロがコリントの教会の人たちへの溢れる愛で書きつづった手紙です。その深い愛が、パウロの手紙を読んだコリントの人たちにどういう反応となったのか、そしてコリントの教会はどうなったのか、その思いが、パウロを、「気が気でない」というような思いさせたでしょう。それほどまでにパウロが心配したのは、コリントの教会の人たちがおかれている状況が生死に関わる状況だったからです。

15節に、「わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである」とあります。ともすれば、私たちはキリストのかおりとして、人々に善い証を立てなければならないと思ってしまいます。しかし、それは「人々に対するキリストのかおり」であって、ここで言われていることは「神に対するキリストのかおりである」というのです。私たちが「神に対するかおり」であるということは、いったいどういうことなのか、それを知る鍵は、その次の16節にあります。そこではこう言われています。「後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。」後者というのは、15節にある「わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても」という言葉の後者、つまり滅びるものということです。また前者というのは救われるものということになります。ですから、「後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。」ということは、神に対するキリストのかおりは、滅びるものにとっては死から死に至らせるものであり、救われる者にとっては、いのちからいのちに至らせるものであるということです。

この場合の死から死に至らせる死という言葉にある最初の死は、肉体的な死ということではなく、むしろ霊的な死、神との関係における死だと考えるべきであろうと思われます。ですから、いのちからいのちへ至らせるということばの最初のいのちもまた霊的ないのちということです。というのも、聖書はしばしば、いのちと死を「関係」の状態を示す言葉として用い語るからです。つまり、死とは関係、あるいは交わりが断絶してしまっている状態を指すのです。たとえば、創世記2章15節16節には「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、『あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』」と書かれています。これは、最初の人アダムとエバになされた神の命令でした。アダムとエバはエデンの園にあるどの木から実を取って食べても良かったのですが、ただ「善悪を知る木の実からはとって食べてはならない。それをとって食べると、きっと死ぬであろう」と言われていたのです。しかし、その神の命令に聞き従わずに、アダムとエバは善悪を知る木の実をとって食べてしまいます。

けれども、アダムとエバはすぐに死ぬことはなく、創世記5章にある系図によれば、930歳まで生きたと言われています。先ほどの、「それをとって食べると、きっと死ぬであろう」という言葉は、ヘブル語ではそれを食べる日は、きっと死ぬ」となっています。ですから、このきっと死ぬということばが、肉体の死であるならば、アダムとエバは善悪を知る木の実を食べたその日に死んでいるはずです。しかしアダムがその後も930歳という長寿を全うしたことを考えますと、善悪をたべ善悪を知る木をとって食べるということによって起こる死というのは、肉体的な死というよりも、むしろ神との関係における死であるということだろうと考えられるのです。そして、更に興味深いことですが、この創世記17節の「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」という言葉の「きっと死ぬであろう」という表現は、ヘブル語を直訳すると「死にて死ぬ」という表現となり、このコリント人への第2の手紙、2章16節にある「死から死に至る」という表現に通じる表現です。

この創世記の「死にて死ぬ」という表現は、死を強調する表現であり、死刑を意味するような表現であるといわれますが、先ほど申しましたように、アダムは930歳まで生き、しかも死刑となって死んだわけではありません。むしろ善悪を知る木を食べたことに対する神の罰は、創世記3章16節以降に記されているように、女性に対しては産みの苦しみであり、男性にとっては労働における苦しみとなっています。そして、何よりも、エデンの園から追放されるということなのです。ですから、「死にて死ぬ」ということは、エデンの園から追放され、神との親しい交わりが断たれてしまった結果、人間は死ぬべき運命に定められたということであろうと思われます。それは、私たちの命の源が神にあるからです。そのいのちの源である神と断絶してしまっているならば、私たちは死ぬしかない運命にあるのです。

しかし、私たちと神との関係が生きた命のある関係になっているならば、それは永遠の命という神の恵みの世界に私たちを生かしてくれるものとなるのです。そのいのちと死の分かれ目にイエス・キリスト様の十字架がある。断絶し壊れてしまった神と人との関係を修復し、和解させ、断絶し死んだ関係にあるものを生き生きとした生きた命のある関係にしてくれるものがイエス・キリスト様の十字架の死という出来事なのです。イエス・キリスト様は、このお方を生ける神の子であり、私たちを救う救い主であると信じるものに十字架の上で死なれることで、私たちの罪に赦しを与え、私たちと神との関係を執り成して下さったのです。この一点が、キリスト教の中心です。私たちが神を信じ、キリストを信じることで、神によって神の前で罪が赦され神の民として受け入れられたということ、このことを信じるならば、私たちはいのちからいのちに至るものとされるのです。

コリントの教会では、この一番大切なところ、キリスト教の核、生命線となる部分に間違った教えが入り込み、そして問題が生じていたのです。つまり、キリストを信じることで神との関係が回復されるというのではなく、律法を守ることも必要だという考え方が入り込んでいたのです。だから、パウロはどんなに厳しい言葉を用いても、彼等に本当のキリスト教、正しいキリスト教の信仰に立ち帰って欲しかったのです。そうでなければ、かれらはそれこそ、「死にて死ぬ」という死すべき運命を歩むものとなってしまうのです。そうならないために、パウロはコリント人への第一の手紙を書き、さらにテモテを送り、それでもダメならテトスに「涙の手紙」といわれる更なる手紙を持たせてコリントに送り出したのです。ですから、その結果が気になって仕方がない、気が気ではないのです。それは、家族の安否を気遣うものの心情だといえます。それは、皆さんが災害地にいる家族の安否を心配する気持ちと同じものです。

もう、10数年以上前の話ですが、ペルーの日本大使館にテロ組織のメンバーが押し入り人質をとって籠城した事件がありました。当時、私は静岡教会の牧師をしておりましたが、その教会の教会員の方のご家族が、その人質の一人として拘束されたのです。私も、その方とちょうど一年前に帰国されたときにお会いしていました。その方が人質になったのです。そしてそれこそ、殺されてしまうかもしれない状況にある。その時のご家族の方の心配は、当然のことながら大変なものでした。私もそのことを聞き、教団にも連絡し、教団全体の祈りの課題として祈っていただきました。本当に心配だったからです。ですから、解放されたというは報告を聞いたときは、本当にホッといたしました。また、これも10年ほど前のことですが、私たちの教団からボリビアに宣教師として派遣されていたT・M宣教師が、ご主人と幼いお子さんと一緒にゼスナ機で巡回地を回っている途中に消息を絶ったという知らせを受けたとき、私たちは、家族で毎日、ご一家の無事を祈っていました。というのも、家内とT・M宣教師、旧姓はA・M宣教師は、幼なじみであり、旧知の間柄だったからです。ですから、心配で毎日祈っていたのです。結局、行方不明になった飛行機は発見されず今日に至っているのですが、捜索が打ち切られると聞いたときときは、本当に悲しい気持ちになりました。これは、私たちの肉体の生死に関わる問題です。そのような肉体の生死に関わる問題に私たちの身近なものが巻込まれたならば、不安で、心配で仕方がなくなるのです。

同様に、私たちに決定的な死をもたらすことになるような霊的な生死の境目におかれたコリントの教会の人のことを思うとパウロは気が気ではなかったのです。彼等がここで選択を誤ったならば、たとえ教会に繋がり、教会と関係を保っていたとしても、それこそ、神との関係が断絶する霊的な死に陥り、結果として永遠の死という運命が待っているからです。このとき、彼等の前にある選択枝は二つです。パウロが伝えた福音、神を信じ、イエス・キリストの十字架の死が、私の罪を赦し、私を罪と死から解放するという福音を信じうけいれるか、それともパウロに反対する人たちの教える教えを信じるかという二つなのです。ですから、そういったことを考えますと、ここでいう「神に対するキリストのかおり」というのは、イエス、キリスト様の十字架の死による救いの業のことだと言うことがいえます。イエス・キリスト様の十字架の死が、私たちに罪の赦しをもたらし、神と私たちとの間に和解をもたらす救いの業であると信じるものには「いのちからいのち至らせる」ものとなりますが、それを拒むものは、「死から死と至らせる」ものとなってしまうのです。

当然、パウロは、彼等が正しい選択をするように手紙を書きました。けれども、その手紙の受け止めかた如何で今後の彼等の運命が決まるかもしれないと思うとき、手紙を書くものとしての責任の重さをパウロは痛感していたのだろうと思います。だからこそ、「いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか」というのです。実際、人の生死を決めてしまうような任務を負うことは、本当に辛いものです。パウロが「いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか」と嘆きにも近い言葉をいっても、「本当にそうだ、だれも、そのような任務に堪えることができないよね」と言いたくなります。でも、伝えなければならない、語らなければならない。それが愛するものであるならば、なおさらそうなのです。だからパウロは厳しい言葉ではあったけれども、溢れるばかりの思いと、真心を持って手紙を書き、キリストにあって、イエス・キリスト様の十字架の死のみが、私たちの罪を赦し、私たちを救うのだ、それ以外にキリスト教の救いはないのだと、キリストにあって語るのです。

その結果がどうであったか。それは14節にあります。そこにはこう書いてあるのです。「しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。」パウロが気が気ではなかったテトスがもたらす報告。それを早く聞きたくてパウロは待ち合わせの場所であったトルコから海の反対側のギリシャ側のマケドニアに向います。そこで待ちに待っていたテトスと出会うのです。テトスのもたらしたコリントの教会の状況は、パウロを喜びに満たしました。なぜならば、コリントの教会の人たちはパウロの手紙を読んで、自分たちの非を認め、悔い改めてパウロが伝えた福音、キリストを信じる信仰に立ち帰ったからです。このときパウロは、自分の書いた手紙が彼等を正しい信仰へ呼び戻したのだなどといって自分のことを誇ってはいません。ただ、「神は感謝すべきかな」と神に感謝をささげているのです。彼らが正しい教えに立ち帰ったのは、自分に力があったわけではない、自分の手紙に説得力があったわけでもない。パウロがキリストにあって語ったとき、神がパウロを通して、キリストを知る知識のかおりを放って下さったのだとそういうのです。

おそらく、パウロは自分の書いた手紙にあまり自信が持てなかったのだろうと思います。というのも、最初に書いたコリント人への第一の手紙は、コリントの教会の人たちからは受け入れられなかったからです。そのような状況の中で、いくら溢れるばかりの愛を持ってであったとしても、厳しい言葉を書く綴った手紙を彼等が受け入れてくれるかどうかについてはかなり不安を持っていたものと思われます。そういった意味では、パウロは自分の能力や力の限界を感じつつ、コリントの教会に「涙の手紙」を書いていたのだろうと思います。いや、こんどもまたダメかもしれないと敗北さえも覚悟していたのかもしれません。だからこそ、パウロは気が気ではなかったのです。しかし、神は、またキリストはコリントの教会の人々を見捨ててはいなかったのです。パウロが、コリントの教会の人たちを思い、愛する以上に神はコリントの教会の人たちを思い愛しておられたのです。そのように、神がコリントの人たちを愛しておられたからこそ、コリントの人たちは、パウロの手紙を通して、自分たちの罪と過ちを悔い改めて神に立ち帰ることができたのです。これは、自分の働きの結果ではない、神の勝利、キリストの救いの業の勝利であり凱旋だといっているのだと思います。そして、自分は、その凱旋に伴って行かせていただいたのだとそういっているのだと思います。

敗北をも覚悟するような状態に、神は勝利を与えて下さる。それは、まさにキリストの十字架の出来事の真骨頂です。たとえば、16世紀の宗教改革者マルティン・ルターという人は、自分の神学は十字架の神学だという言い方をしていました。ルターの十字架の神学とは、十字架の上で磔になっておらえるイエスという人物を見るならば、そこには敗北し、みじめな姿をさらしているナザレの一大工の姿しか見ることができないけれども、信仰をもってその姿を見るならば、そこには、私たちを救いってくださる神のお姿を見ることができるのだということです。それは敗北と思われることであっても、そこに神が共にいて下さるならば、それは必ずキリストにある勝利をもたらしてくれるということでもあります。

実際、私たちは敗北と思われる出来事に何度も出会います。先ほどのT・M宣教師の飛行機が行方不明になったとき、多くの人が一生懸命祈りました。けれども、結局、飛行機は発見されないまま今日まで至っています。私の友人は、二十歳の時に交通事故にあり、半身不随になりました。わたしは当時神学生でしたが、彼のために一生懸命祈りました、彼が回復するように祈ったのです。彼の所属していた教会の牧師は、断食をしてまで祈ったのです。けれども、今も彼は車いすのままです。これらの信仰の祈りは、敗北に終わったように見えます。けれども、車いすのままの友人は、神を信じ本当に逞しく生きています。その後、私は牧師となって、その彼と久しぶりに会う機会がありました、その時も彼は車いすのままでしたが、彼の姿に、本当の癒しというものはこういうものなのだとおしえられた気がしたことを今でも覚えています。T・M宣教師の出来事も、今でも悲しいことではありますが、しかし神はそのことを決して敗北に終わらせることなく、勝利に換えて下さると信じています。

それは、キリストの凱旋である勝利が、私たちをいのちからいのちへ至らせるものだからです。その勝利の凱旋に神を信じる者に神を信じる者はみんな加えていただくことができます。そしてキリストにある勝利は、神を信じるものを決して死から死へ至らせることなく、永遠の命を与え、神の恵みが支配する神の国、天国へ私たちを導いて下さるのです。この生と死との分岐点にキリストの十字架は立っています。そして、その十字架の前に私たちはキリストを信じる道を生きるのか、それともキリストを信じる道を拒否して別の道を歩むのかが問われているのです。そして、いのちからいのちへ至る道はキリストを信じて生きる道しかないのです。ですから、私たちは、決して誤ることなくして、このキリストを信じる選び取るものでありたいと願います。

お祈りしましょう。