伝道礼拝
『神は私たちを愛しておられる』
ヨハネによる第一の手紙 4章7−11節
2009/10/11 説教者 濱和弘
今、わたしはここに一冊の小さな本を持っています。これは式文とよばれるもので、結婚式を初めとする冠婚葬祭やキリスト教の様々な行事、あるいは聖餐式や礼拝の順序や進め方がでています。そこには、ここでどういう言葉を語り、どういう賛美をし、どういう祈りをすればよいかという祈りの言葉までも書いてあります。ですから、これがあれば、取りあえず、キリスト教の様々な儀式が行えるのです。
何年か前に、ホテルで行なっている結婚式の牧師は、本当の牧師ではなく、外国から来た人たちがアルバイトで牧師の格好をして結婚式を行なっているという話が話題になったことがあります。牧師としての知識や素養がなくても、あるいはキリスト教の信仰がなくても、取りあえず結婚式に司式をすることができるのは、この式文があるからです。つまり、クリスチャンであろうとなかろうと、とりあえずこの式文を手にいれて、これに沿ってこの通りに読めば、それなり結婚式の格好はつくのです。だとすれば、キリスト教の儀式はいい加減なのかというとそういうわけではありません。ただ格好だけまねて、それでキリスト教の儀式を行なったというのならば、それは確かにいい加減なものかもしれません。しかし、この式文にかかれている意味を深く味わい、その意味に則って、心から式を行なうならば、そこには単なる形式ではない、形式に込められた本当の意味での儀式が行なわれるのです。
そのような、この式分の中にある結婚式の項目に、今、司式の兄弟に読んでいただきましたヨハネ第一の手紙4章7節から11節までの言葉も出ているのです。それは、互いに愛し合うということを教える聖書の箇所だからです。もちろん、そこで愛し合うといっている言葉は、世間一般で愛し合うという言葉とは違う、一歩深められた意味があります。そのことを知らず、ただ世間一般でいうような男女が愛し合う愛という感覚でこの聖書の箇所を読み、聞いているとするならば、それこそ、クリスチャンでも何でもない人がこの式文にある聖書の箇所を読み上げて、はいこれでキリスト教の結婚式になりましたといっているのと同じことになってしまいます。けれども、あまりにも悲しい感じがします。キリスト教にとっては愛という概念はとても大切なものだからです。ですから、今日はせっかくの伝道礼拝でもありますので、このキリスト教の最も大切な概念である愛ということについてお話したいと思います。そして、聖書の言う愛ということを知っていただきたいと思うのです。そして、より深く互いに愛し合えるものになりたいと思うのです。
そこで、愛とは何かということですが、聖書が言う愛の第一のことは、それは神からでているものであるということです。私たちは、愛というものは私たちの内にある自然な感情であると思いがちです。学ぶこともなく、訓練することもなく、私たちは誰かを好きになったり、大切に思ったりし始めるものです。ですから、愛というものは私たちの内に在る自然な感情のように思うのです。そしてそれは間違ってはいないだろうとおもいます。けれども、聖書の言う愛は、そのような自然な感情ではなく、神からでているものだというのです。ですから、聖書が互いに愛し合うというときに、それは私たちの自然の心の情動によって愛し合うのではなく、むしろ、神から教えられ、神によって与えられた愛で愛し合いましょうということなのです。
その神が私たちに教え、私たちに与えて下さった愛とはどのようなものかといいますと、先ほどお読みいただいた聖書の箇所のヨハネによる第一の手紙の4章9節10節です。そこには、こう書いてあります。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」この聖書の言葉がいっている最初のことは「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである」ということです。つまり、愛するということは愛を生かすものだというのです。この生かすということは、まさしく命を与えるということにほかなりません。
この命というのは、単なる命ではありません。それは、聖書の言うところの永遠の命というものであって、この肉体の命ではなく、私たちを現在から死後にまで渡り、私たちを神の前に生かす命なのです。最近では、仏教のお葬式の席でも、天国という言葉が使われるようになりましたが、天国というのは、もともとはキリスト教の言葉で、神の恵みが支配している世界のことです。私たちの住む、この世界には人間の欲望や病の苦しみ、など多くの苦しみが渦巻いています。もちろん、そのような苦しみの中でも、神の恵みが心に満ちあふれているならば、私たちは苦しみの中にあっても喜びが心にあり、心に平安があるならば、それは天国の心地を味わっているということができるでしょう。それも確かに救いです。でも、そのような苦しみ以上に、私たち人間にとって、最も大きな最大の苦しみは死という現実です。そしてだれもその死という現実から逃れることはできません。そういった意味では、私たちは死に支配されているといえますし、この私たちを支配する死に誰も打ち勝つことができないのです。
ところが、「神はそのひとり子をつかわして、かれによって私たちが生きるようにして下さった」というのです。この神が遣わしたひとり子というのは、イエス・キリストというお方です。このお方は神であられたのに、人となって私たちのところに下ってきてくださり、人として生きられ、そして死なれたのです。その人として生まれ、死なれた神のひとり子は、死んだだけでなく、よみがえる、神の御許に昇ったと聖書は書いてあるのです。それは、私たち人間が決して打ち勝つことのできなかった死というものに、キリストは打ち勝ち、打ち勝ったからこそ、死からよみがえられたのです。それは、イエス・キリスト様を信じクリスチャンとなったものもまた、イエス・キリスト様のように死に打ち勝ち、イエス・キリスト様のように、神の御許に行き、神の恵みが支配する天国に招き入れられるというのです。死は、苦しみであり、死には沢山の悲しみがあります。けれども、神は、イエス・キリスト様にその死の苦しさや悲しさを経験させ、そして、乗り越えさせることによって、私たちに死に打ち勝つ命を神は与えてくれるのだというのです。それは、神が私たちを愛するからです。私たちに命を与え私たちを生かす愛、それが神が私たちを愛する愛なのです
そして、さらに聖書は「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」というのです。さきほど私は、イエス・キリスト様は一度死に、その死に打ち勝って死からよみがえられたともうしました。けれどもその死に方が尋常ではなかったのです。聖書には、イエス・キリスト様は十字架に貼り付けられて死なれたとかいてあります。この十字架にはり付けるということは、当時の世界では支配者であったローマ帝国に反逆する政治犯に対してなされた処刑の方法でした。ですから、イエス・キリスト様は罪人として処刑されて死なれたのです。しかも、その処刑方法は、生身の人間の手足を太い釘で木に打ち付けて公衆にさらし、時間をかけて苦しませながら死なせるという実に残酷な処刑方法です。いったい、イエス・キリストというお方が、ただ死んでよみがえるだけではなく、なぜそのような悲惨な苦しい死に方をしなければならなかったのかということは、当時の弟子たちにとっても不思議なことでした。それほど、悲惨な死に方をイエス・キリスト様というお方はしたのです。
しかし、じっくりとイエス・キリスト様の生涯を振り返って考えると、弟子たちにもその十字架の死の意味がだんだんと分かってきたのです。このヨハネによる福音書を書いた人は、そのようなキリストの弟子の一人のヨハネという人です。このヨハネという人は、ヨハネによる福音書という、イエス・キリスト様の御生涯を書きつづった伝記を書いた人です。この伝記の中に、バプテスマのヨハネというもう一人のヨハネが出てきます。このバプテスマのヨハネは、当時神の言葉を告げ知らせる預言者の一人だと考えられていましたが、その彼が、イエス・キリストのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という言葉を語ったということを書きとどめています。この世の罪を取り除く神の小羊というのは、当時のユダヤの人たちが、自分が犯した罪を神様に赦していただくその贖いのために、神殿で傷のない小羊を犠牲として殺し、その小羊の血を神殿にある祭壇に注ぐことで、自分たちの罪が神様に赦されると信じていました。傷のない子羊を犠牲としたのは、それが善いものだからです。そのバプテスマのヨハネは、イエス・キリスト様は、その神殿で罪の赦しのために犠牲として殺される神の小羊のような存在だというのです。きっとこのヨハネによる福音書を書いた方のヨハネは、その言葉が強く頭に残っていたのでしょうね。なぜ、イエス・キリスト様が十字架の上で死なれたのだろうと考えていたとき、そうか、あれは私たちの罪の贖いのために犠牲となられるためだったのだということが分かったのだろうと思うのです。
だから、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」といったのです。みなさん、イスラエルの人たちが、自分の持っている家畜の中から、傷のない子羊を犠牲として捧げたのは、自分たちの罪が赦されるためです。犠牲といっても、自分の犯した罪が赦され救われるために自分の財産のほんのわずかの一部を犠牲として神に捧げたのです。罪を犯したのも自分、犠牲を払うのも自分、そして罪赦されて救われるのも自分です。ところが、イエス・キリスト様の十字架は、罪を犯したのは私たち、しかし犠牲を払い苦しまれるのは神でありイエス・キリスト様、そしてそれによって罪赦され救われるのは私たちなのです。自分がおかした罪のために、自分自身が責任を負い、そのために犠牲を払い、それによって初めて赦されるというのは当たり前にことです。けれども、神は、私たちに責任を負わせ、そのために犠牲を払わせるのではなく、自分自身が苦しみと痛みを負い犠牲を払って、私たちの罪を赦してくださったここに愛があるのだとヨハネはというのです。いいかえれば、聖書の愛とは赦しを与えるものなのだということです。
みなさん、整理をしてみましょう。聖書が言う愛とは何か。そう、聖書が言う愛とは、私たちに命を与えてくれるものであり、そして私たちに赦しを与えてくれるものだというのです。そして、神はそのような愛で私たちを、いえあなたを愛していてくださっているのだというのです。そしてこの神の愛の内に私たちがいるならば、私たちは本当に愛し合うものとなることができる、だから互いに愛し合おうと聖書は私たちに呼びかけるのです。この神の愛は、私たちには絶対に必要です。なぜならば、私たちは必ず死ぬべき運命にあるからです。どんなに健康な人であっても、どんなに優秀な人であっても、またどんなに若い人であっても、死という過酷な運命は必ず私たちに訪れてきます。ですから、この神の愛を受け入れることを、私たちは先延ばしにしてはならないのです。
私が、以前、会社勤めをしていたときのことです。先の方が、本社に栄転することになり、支店での仕事を引き継ぐために、土曜日に休日出勤して、やらなければならない仕事を終え、これから帰ると奥様に電話を入れました。けれども、いつまで待ってもご主人は帰ってこなければ連絡もない。代わりに連絡してきたのは警察で、ご主人が事故に会い、病院に運ばれたということでした。奥様はすぐに病院に駆けつけましたが、ご主人はすでに亡くなられた後でした。また、他のこれも取引先の方ですが、会社の接待でゴルフに出かけて、それこそ、コースに出てすぐの1番ホールか2番ホールが終わった頃に、具合が悪くなったといってゴルフ場のクラブハウスに戻ってきた。すぐに救急車で運ばれたのですが、やはり亡くなられてしまうと言うことがありました。どちらのケースも、その日、その方が亡くなられるだろうなどとは考えてもいなかったのです。いつものように、帰ってきて、いつものように明日を迎える。誰もがそう考えていたのです。けれども突然悲しい知らせが訪れたのです。だからこそ、そのいつ訪れるかもしれない、死という私たちにとっての最大の悲劇に打ち勝つために、私たちは、今、この死に勝利し、死を悲しみにだけ終わらせない天国の希望をもたらす神の愛を受け入れ、神を信じることが大切です。みなさん、その死に打ち勝ち、命を与える愛で、神は皆さんを愛しておられるのです。
そして、みなさん、私たちに罪の赦しを与える神の愛が、私たちには絶対に必要です。なぜなら、私たちは罪を犯したことがないと言うことなどは、絶対にあり得ないからです。もちろん、人と比べてみれば、相対的に私はいい人だと思えることはあるでしょう。しかし、それは人と比べてのことです。私たちは、聖い神の前に立つならば、決して私は罪などありませんということはできません。なぜならば、私たちの中には、嫉妬とか妬みとか怒りといった何かしらの醜い心があり、欲望があり、自己中心的な思いがあるからです。そのような、思いに突き動かされて、実際に誤った行動や、道徳的な罪、あるいは犯罪といったものを犯してしまうことだってあるのです。もちろん、そのような道徳的な罪、犯罪というものはいろいろな形で私たちに罰をもたらします。法によって裁かれるということもありますし、社会的な制裁を受けることもあるでしょう。けれども、ことはそれでは終わらないのです。どんな国や社会がその人を裁いても、本当に心から赦されなければ、問題は解決しません。
私は、以前ある教会の牧師をしているとき、何度か少年院で、そこに修養されている子どもたちの前でお話ししたとことがあります。私の知り合いの牧師が、長年、少年院の教戒師をしておられ、その関係で、話をしてくれないかと頼まれたからです。話自体は。1時間ぐらいのものですが、その後、質問の時間を持ちました。その時一人の少年が、自分は将来大工になりたいのだけれども、なれるでしょうかと聞いてきました。大工になりたい、それは彼の将来の夢でした。誰もが描く夢と同じです。そして、誰もが夢を抱いたとき、自分はその夢を実現できるだろうかと不安になります。けれども、彼が自分は大工になれるでしょうかという不安は、そのような不安とは性質が違います。彼の抱いていた不安は、悪いことをして捕まり少年院に入ってしまった自分を、ここから校正してでていっても、受け入れてくれるだろうかという不安なのです。私は、「僕は大工になりたいのですが、なれるでしょうか」問われて、少し胸が痛くなる思いでした。世間というのは決して甘くはないからです。ですから、「確かに厳しいことも沢山あるだろうけど、君が誠実に、まじめに取り組み続ければ受け入れてくれる人が必ずいると思う。だから誠実にまじめに頑張っていればなれる」というような答えをしたように記憶しています。
受け入れてくれる。それは赦されるということです。私たちが道徳的な過ちや犯罪を犯したとき、社会は私たちを受け入れてくれないことも少なくありません。それこそ、小さな罪や過ちは許容されるかもしれません。けれども、小さな罪や過ちであっても、友人関係や家族といったより小さな社会では、謝罪しても、受け入れられず赦されないことだってあります。表面的には受け入れられ、関係が回復したように見えても、心の奥底では決して相手を赦していないということだってあるのです。そして、それは、たとえ表面に表れない心の中の醜い思いや汚れであったとしても、それが知られると受け入れられないといったことがあるのです。逆に、そのように謝罪するものを赦せない私たちの社会や、その社会を構成する私たち、そして私たちの心も、なんとかたくなで不寛容な心だろうかと思わされます。結局、裁く者も裁かれる者も不寛容なのです。けれども、神は、そのような私たちを、赦し受け入れてくださるお方です。もちろん、神は聖く正しいお方ですから、罪は裁かなければなりません。ですから、そのような私たちを赦すために、イエス・キリスト様が私たち人間を代表して、十字架の上で裁きを受けてくださったのです。そして、イエス・キリスト様の十字架の死、神が私たちを赦すことができるようにしてくださったのです。
そうやって、神が神のひとり子を人としてこの世に御使わしになり、神ご自身が犠牲を払って、私たちに罪の赦しを与えてくださったのです。それほどまでに神は、あなたを愛しておられるのです。そして、神のひとり子なるイエス・キリスト様も、十字架の上で苦しんで下さったのです。だからこそ、みなさん、私たちは、この神の愛を知り、この神の愛を受け入れなければならないのです。そして、この神の愛を心に受け入れたものは、その心に神の愛が宿ります。そしてその心に宿った神の愛が、私たちの心に赦しの愛をもたらすのです。だからこそ、私たちは互いに愛し合うものになれるのです。
みなさん、わたしは最初の今日の、この愛をテーマにし、愛し合うことを進める聖書の箇所が、結婚式に用いられるという事をお話ししました。それは、結婚するということが互いに好きだとかそういったことで愛し合うということではなく、どこまでも相手を赦す赦しの愛、相手に自分の命を与えてまで、相手を生かす、命を与える愛で愛し合うことが大切だからこそ、結婚式でこの箇所が読まれるのです。そして、そのような愛で愛されるとき、私たちは本当に幸せになれるのです。もちろん、それは結婚という関係だけのことではありません。結婚という関係は、それをみごとに象徴しているものなのです。ですから、私たちは、何よりも愛されるということを深く経験しなければなりません。この愛されるという経験が私たちの心を豊かに、私たちに生きる力を与えていくのです。そしてみなさん、皆さんは神からその愛で愛されているのです。ですから、みなさん、私たちは躊躇することなく、この神の愛を心に受け入れようではありませんか。神はあなたを愛しておられます。私たちに命を与える愛であなたを愛しておられます。私たちに赦しを与える愛で私たちをあいしておられます。神は、あなたを愛しておられるのです。
お祈りしましょう。