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メッセージ

羊飼い 伝道礼拝
『見えざる神に』
使徒行伝 17章22節−
2009/11/1 説教者 濱和弘

先日インターネットのとあるサイトに、次のような文面が出ていました。「だいたい、40も過ぎて、世の中の酸いも甘いも噛み分けて、つらい日々をどうぞこうぞごまかしつつ生きる知恵もついてきたオッサンに『死んで3日目に復活した』なんておとぎ話を聞かせたところで、『なにを寝ぼけた話をしているの』と笑ってお仕舞いなのだが、『なんで、そんなおとぎ話が2000年間もまことしやかに信じられてきたのか?』という問いに対しての答えにはならない。さらに『なぜ弟子たちは刑死したイエスの教えを断固として守り広めていったのか? 』『なぜ、その教えがローマ世界にあっという間に広がり、ローマの国教となり、ヨーロッパ世界の精神的支柱となりえたのか?』 という謎はどうしても私の頭から離れなくなった」

どうやら、この文章を書いた人の疑問は、死んだ人間が復活するということが信じられないというところから始まっているようです。しかし、それも当然の事だと思います。普通ならば、十字架につけられ死んだイエス・キリストという人間がよみがえったなんて信じられない荒唐無稽な話なのです。なのに、キリスト教会は、この荒唐無稽な話を2000年もの間にわたって信じてきたのです。ですから、先ほどの文章を書かれた方が、『なんで、そんなおとぎ話が2000年間もまことしやかに信じられてきたのか?』と問うのも、ある意味、自然なことなのかもしれません。実際、そのような疑問に答えるような様々な説がキリスト教会の中にも起こってきました。その中の代表的なものは、イエス・キリスト様の復活は実際に歴史の中に起こったと事ではなく、弟子たちの信仰として、弟子たちの心の中に起こったことであるという説があります。そのような説は、確かに理性をある程度は満足させてくれるものかもしれません。しかし、「2000年間もの間、まことしやかに信じられてきた」イエス・キリストの復活という出来事は、そのような理性に納得できるようなものとして信じられてきたのではありません。まさに、本来なら信じられない、本当に死んだイエス・キリストが肉体を持って復活したということが信じられてきたのです。

それは、なにも古代の人たちが科学的な思考ができなかったからというわけではありません。実際、先ほど司式の方がお読み下さいました聖書の箇所にも、イエス・キリスト様の復活、死からのよみがえりということが信じられなかった人々の話が記されています。使徒行伝17章31節32節の箇所ですが、その部分をもう一度お読みします。「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」と言っているのは、紀元1世紀、ですから2000前にキリスト教の伝道をしていたパウロという人です。そして、人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った人々は、パウロが伝道しようとしていたギリシャの人々達です。

パウロは、ギリシャの人々にイエス・キリスト様のことをつたえようと、アレオバゴスの評議所と呼ばれる場所で、キリスト教の伝道を始めました。そのとき、パウロが話した内容が、22節から31節の内容なのですが、この話は二つに別れています。一つ目の話は、神は天地創造の神であるから、人間の造った神殿等に住むお方ではなく、また人間が造った像が神ではないということ。そして二つ目は、神は人間の罪をお裁きになる方であるということです。その一つ目の話である「神は天地創造の神であるから、人間の造った神殿等に住むお方ではなく、また人間が造った像が神ではないということ」をパウロは、アテネの町に飾ってあった「知られざる神々に」という祭壇をもとの話し始めます。祭壇というのは、神に犠牲を捧げるためのものですが、ギリシャは多神教の国でしたから。ギリシャには多くの神々が祭られていたのです。もちろん、ゼウスとかアルテミスとはっきりと名前がつけられた神々もありましたが、その中にまだ彼等が知らない神がいるかも知れないと言うことで、その知られざる神々にも犠牲をささげるための祭壇が用意されていたのです。

このように、知られざる神に犠牲が捧げられるということは実際にあったようです。パウロより600年も前のことですが、アテネの町に疫病が流行ったことがありました。そのときにエピメデニスという人が白と黒の羊の群れを放ち、それぞれ好き勝手に、行きたいところへ行かせたようです。そのように放たれた羊が、疲れて横になって休んだ時、その場所に関係する神々の祭壇で、その羊を犠牲としたという事がありました。もちろん、放たれた中の羊が「知られざる神」に関係する場所で休んだならば、「知られざる神」にも犠牲が捧げられたのです。エピメデニスを初めギリシャの人々がそのようにしたのは、疫病という人間にはどうしようもない、人間を越えた大きな力の存在を感じていたからです。少なくとも彼等は、人間を越えた大きな力や存在というものを感じ取っていたのです。そして、その人間を越えた大きな力が私たちの運命までも握っていると思っていたのでしょう、だからこそ、疫病といった自分たちではどうしようもない出来事が起こったときに、自分たちが知っている神々に犠牲を捧げ、それだけではなく、自分たちの知らない神々にまで犠牲を捧げていたのだろうと思います。

そこでパウロが話し始めた内容は、「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。」ということです。みなさん。みなさんは神という存在がいると信じていらっしゃるでしょうか。神なんかいないという人もいるかもしれませんし、漠然と何かそういった人間を越えた存在がいると感じる人もおられるかもしれませんが、パウロという人は、当然のようにして「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主である」というのです。世界中には、創造神話というものがあります。神がこの世界を創ったという話です。たとえば、日本ではイザナギ・イザナミのミコトが箸で海をかき回した時の滴が島になり、その島に降り立ったイザナミ・イザナミが結婚して子供を産んだのが日本列島になったという国造り神話があります。そのようなこの世界の始まりに関する神話は世界中のあちらこちらにあるのです。そのように、この世界の始まりに関する話が世界中にあるのは、だれもが、この世界にも始まりがあるはずだと感じているからです。だからこそ、どうして始まったのかを考えざるをえなかったということなのだろうと思うのです。

実際、アリストテレスという哲学者は、すべてのものには何かしらの原因がある。だから、そのすべてのことの最初の原因となるものがある。それが神であるというようなことを言いました。あるいは、大自然の中に包まれたとき、人間は何か人間の言葉では言い表せないような神秘的な力を感じ、神秘的な存在を感じたりします。ヘッシェルという人は、そのような神秘を感じ取る力を、魂の能力と呼んで、人間には神的存在を感じ取ることが出来る能力があるのだと言ったりします。アリストテレスは古代ギリシャ時代の哲学者であり、ヘッシェルは現代の哲学者ですが、そのどちらもが自然を観察する中で神の存在を感じ取っているのです。その感じ取った神を、人間の理性で、このような存在だろう、あのような存在だろうと考えると、さまざまな神々が産まれてきます。そして、その神々は人間の造った建物の中に祭られ、様々な偶像に姿を変えます。しかし、この世界を造られた存在が神であるとするならば、神はこの世界を越えた大きな存在です。ですから、私たち人間が造った像や神殿や社などに住まわれるようなお方ではないとパウロは言うのです。むしろ、人間が造ったものだからこそ人間が造ったものの中に収まってしまうといってもいいのかもしれません。

そして、私たちが神を感じ取るもう一つのことが、パウロが「神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである」といっていることです。この言葉をとおして、パウロは神が歴史を導いておられるという事を言っています。いろいろな国の栄えたり滅んだり、あるいはいろいろな民族が栄えたり滅んだりする歴史がくり返されている。そこには人間の力ではどうしようもない運命的なものを感じずにはいられない。その運命的としかいえないような歴史があるのは歴史を導き、また支配している存在がいるからだと言うのです。そのように、私たちは神を信じる魂の能力を持っている、だから人間は本能的に神を求める。人間はそのような存在として造られているのだというのです。そして、人間は熱心に神を追い求めるならば、神を見いだせる事が出来るはずなのです。けれども、その神は、いまだ「知られざる神」となっていて、人々は人間が金や銀で造った神を拝んでいるのはなぜなのか。

それは、私たち人間の中に罪があるからです。罪が私たちと神との間をさえぎって、私たちに神を分からないようにし、神を「知られざる神」にしてしまっているのです。罪というのは、何も犯罪とか、法律を破るといったことではありません。もちろん、それらも罪は罪なのですが、ここで言う罪はもっと根本的な罪の原理といいますが、人間の罪の性質といったものです。カトリック教会では、人間が罪を犯す人間の罪への傾向性を7つ挙げています。その七つは、傲慢・嫉妬・大食・淫欲 ・怠惰・貪欲 ・憤怒の七つですが、こういったものが具体的に人間に罪を犯させるというのです。たとえば、傲慢というのは、人間がまるでこの世界の支配者であり、人間がこの世界の中で神のような存在であると思っているようなことも指しています。

この三鷹市には宮崎駿美術館がありますが、この宮崎駿さんの代表作のひとつに、「千と千尋の神隠し」というアニメの作品があります。聞くところによりますと、この作品のテーマは「自分捜しの旅」だということです。この「自分捜しの旅」というテーマで造られた作品が、子どもだけでなく多くの青年や大人を巻込んであれほどの大ヒットをしたということは、「自分捜し」というテーマが多くの人に共感を得たからだろうと思います。つまり、実に多くの人が「自分捜しの旅」をしているのです。自分で自分自身を捜しているというのは、自分で自分のことが良くわかっていないということです。この世界のこと以前に、自分のことすら分からないでいるものにこの世界のすべてのことなど分かろうはずがないではないですか。なのに、神がいるとかいないとか、議論している。あるいは自分の考えが正しい、いや私の方に正義があるなどとして相争っている。そのような姿こそが神の前には罪だというのです。

それは、なにも民族的争いだとか、国と国との間の戦争だとか、そういった大きな事だけを指しているわけではありません。家庭の中や友人・知人との間のこと、そして心の中で起こっている思いといった小さな事と思われる事、ささいな出来事の中にも、人間の罪は存在しているのです。その罪が、本来、私たちが熱心に神を追い求めるならば、神を見いだせるはずなのに、その神を私たちにわからなくさせ、神を「知られざる神」にしているのだとパウロはそういっているのです。それだけではなく、その罪があるならば、人間は神の裁きを必ず受けなければならない。その裁きの日が必ず来るのだとパウロはそういっているのです。31節で「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている」といっている言葉です。みなさん、先ほどは世界のあちらこちらにこの世界の始まりに関する創造神話があると申し上げました。そして、みんなが漠然とこの世界には始まりがあったと感じ取っているとも申しました。同じように、私たちは、この世界がいつか破滅する壊滅的な終わりが来ると感じている部分があります。

私が昔、アメリカンフットボールをしていたときに、クラブの夏合宿やある合宿が始まりますと、気分が暗くなる思いがしました。朝から晩まで厳しい練習が続くからです。けれども、そんな時に、先輩が後輩を励ましていう言葉は、「合宿が始まったら終わったと同じや、始まったものは必ず終わる」という言葉でした。そして、確かにこの世界では、すべからく始まったものは終わるのです。そこには永遠と呼ばれるものはありません。その終わりの時に、人間は生きているものも死んでいるものも、必ず神の裁きを受けるというのです。そのような、感覚は我々日本人なら、クリスチャンでなくても何となく分かります。悪いことをした人は地獄で閻魔大王から裁きを受けるということは良く聞かされた内容だからです。私も小さいときに母から、嘘を付いたら閻魔様から舌を抜かれるといわれ、恐かったものです。それでも嘘を付いてしまうというのが人間の悲しい姿なのですが、もっと恐いのは、地獄で裁かれるのは、他の人であって、自分ではないと考えていることです。

嘘を付いたら閻魔様から舌を抜かれるよと私に言った母が、じゃあ嘘を付かなかったかというと、そんなことはありません。さきほど、ギリシャのエピメデニスという人の話をしましたが、このエピメデニスという人の言葉が、実は聖書の中にも引用されている箇所があるのです。それは新約聖書テトスの手紙1章12節から13節にかけて書かれている「クレテ人のうちのある預言者が『クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう』と言っているが、この非難はあたっている。」という箇所の『クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう』という言葉です。つまり、この「クレテ人のうちのある預言者」というのがエピメデニスなのです。このエピメデニスの『クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう』という言葉は、エピメデニスの矛盾といわれるものです。クレテ人はみんな嘘つきで嘘ばっかり言っているというエピメデニス自身がその嘘つきのクレタ人なのだから、「クレタ人は嘘つき」という言葉は嘘だということになってしまうというのが、エピメデニスの矛盾です。もちろんエピメデニスは、そんな矛盾に気が付いてはいなかっただろうと思います。彼は、本当に『クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう』と思っていただろうと思うのです。ただ、自分もそのクレテ人のひとりであるという事に気が付いていなかったのです。

同じように、私たちは自分が罪人であるということに気づいていないことがあまりにも多いのではないでしょうか。あの人が悪い、あの人はひどい人だ、あんな人はきっと地獄に行く−そこまでは思わないかもしれませんが−ともかく人の悪いところや過ちは気付き、人を罪に定めることはできるのですが、自分自身がその罪人の一人であるということには気づかないでいる。それこそ、人を嘘つきと責めながら、実は自分もその嘘つきの一人であるということに気づいていない、それが現実の私たち人間の姿なのではないでしょうか。だからこそ、パウロは、そんな私たちは、神を知ることができず、神の裁きの日に、神によって裁かれなければならない存在なのだというのです。

しかし、そのパウロは神がそんな私たちを神の裁きから救おうとしているということも伝えているのです。先ほどのパウロの言葉、「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。」という言葉を言った後、すぐに「すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」といっています。それは「神の前に私たちは罪人であり、神の裁きを受けなければならない存在なのであるが、その私たちのためにイエス・キリスト様というお方が私たちの罪のために十字架に架かって死なれ、私たちの神の前に私たちの罪が赦されたのだ。イエス・キリストを信じるものは、神の裁きから救われるのだ。それを確証させるために神は、イエス・キリスト様を死人の中からよみがえらせたのだ」ということを言おうとしているパウロの言葉です。ところが、アテネのアレオパゴスの評議所に集まった人々は、パウロにそこまで言わせることもなく、「死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、『この事については、いずれまた聞くことにする』」と言って、パウロの言葉に耳を傾けなかったのです。それは、先ほども申しましたように、死人がよみがえるなどと言うことは人間の考えからすれば、いかにもばからしく、愚かで考えられない、それこそ寝ぼけた話だからです。

けれども、みなさん、神に関することは人間の頭で考えるならば、人間の造った金や銀の像や、人間の造った建物の中に住む神々にしか行き着かないのです。神に行き着くためには、納得することではなく、信じることから始まるのです。確かに、パウロが言うイエス・キリストが死人の中からよみがえったという言葉は、人間の理性には寝ぼけた話です。そしてそれは信じることしかない信仰の言葉なのです。同じように、パウロがギリシャの人々に伝えたいと思った「神の前に私たちは罪人であり、神の裁きを受けなければならない存在なのであるが、その私たちのためにイエス・キリスト様というお方が私たちの罪のために十字架に架かって死なれ、私たちの神の前に私たちの罪が赦されたのだ。イエス・キリストを信じるものは、神の裁きから救われるのだ。それを確証させるために神は、イエス・キリスト様を死人の中からよみがえらせたのだ」という言葉も、納得出来るような言葉ではなく、信じるべき言葉なのです。

しかし、みなさん、私たちは、この言葉を信じることができるものを私たちの内側に持っているではありませんか。漠然とでも、自然の中に神秘的な力や存在を感じる能力があり、何となくこの世の終りを信じる事が出来たり、そして何よりも、人の罪が分かるではないですか。問題はその中に自分がいるかどうかに気づくかどうかです。そして、もし自分が罪人であると気づいたならば、安心して下さい。私たちはその罪を赦し、神の裁きから私たちを救う信ずべき言葉と、頼るべきお方が神のよって与えられているのです。その信ずべき言葉とは、「もし、わたしたち自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(ヨハネの第一の手紙1章9節)であり、頼るべきお方というのが、私たちを神の裁きから救うために十字架に架かって死なれ、そして、その死からよみがえられたイエス・キリストというお方なのです。

お祈りしましょう。