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メッセージ

羊飼い 幼児祝福礼拝
『迷子にならないように』
ヨハネによる福音書 14章1−6節
2009/11/8 説教者 濱和弘

今日は幼児祝福礼拝です。神様は大人の人たちだけでなく、教会学校にこうやって集まってくるみんなを祝福して下さいます。祝福というのは、神様がみんなを嬉しいなって心から喜ぶことができるようにして下さる事です。みんなが嬉しいなと思うときはどんなときかな。プレゼントをもらったときや遊園地に連れていってもらったとき、大好きなご飯のおかずを作ってもらったときなんかも嬉しいなって思うんじゃないかなって思うんですがどうでしょう。あるいは、お父さんやお母さん、学校の先生なんかから誉められたときも嬉しいだろうなって思います。 神様がみんなを心から嬉しいなって思える気持ちにしてくださる祝福は、今言ったような嬉しいこととはちょっと違っています。神様がみんなを嬉しい気持ちにしてくれる祝福とはね、神様がどんなときにもみんなと共にいて下さり、慰めたり励ましたりしてくださりながらみんなが正しくよい子になることができるようにしてくださることであり、そして、みんなが大人になって、最期にはちゃんと天国に行って天のお父さんである神様のところに行くことができるようにとして下さるということなのです。

いつも、子ども祝福礼拝の時にはまことくんのお話しをしていますが、まことくんが幼稚園のとき、まことくんはお父さんとお母さんと動物園にいきました。まことくんは動物が大好きで、動物図鑑っていう本でいろんな動物の写真を見ていました。だから、今日は動物園で、いつもは写真で見ていた動物の本物が見ることができるので、嬉しくて嬉しくて、心がわくわくして仕方がありませんでした。みんなは、どんな動物が好きですか。まことくんはゴリラが大好きで、動物園の入り口を入ったときから、ゴリラが何処にいるか気になって仕方ありません。だから早くゴリラのいる檻のところに行きたいんだけれど、お父さんとお母さんは最初から順番に、レッサーパンダやエゾシカやアジアゾウなどゆっくり見ていきます。もちろんまことくんも、レッサーパンダやゾウも大好きな動物なので、本物が見られて嬉しいんだけど、でも早くゴリラが見たくてたまりません。そして、ようやくゴリラのいるところにやって来ました。ゴリラはタイヤのブランコに乗ったり、あちらこちらの中を歩き回ったり、ひなたぼっこをしたり、木の葉っぱを食べたりお尻を掻いたりしています。それを見ているとまことくんはおかしくてたまりません。だから長い間、ずーっとゴリラのようすを見ていました。

でもあまり長いことゴリラを見ていたので、お父さんお母さんは、「まことくん、他にもいっぱい動物がいるからもう行きましょうね」といって、アシカやバク、シマウマやカバがいる方に向って歩き出しました。お父さんお母さんが歩き出したのでまことくんも仕方なくお父さんお母さんの後をついて行きました。でも、まことくんは、もう少しゴリラを見ていたかったんです。それで、何度も何度もゴリラの方を振り返りながらお父さんお母さんの後をついて行きました。それでに、ふと気が付くとお父さんお母さんの姿が見あたりません。ゴリラが気になってゴリラの方を振り返って見ていたときに、お父さんお母さんが何処にいるかが分からなくなってしまったんです。まことくんはすぐにお父さんお母さんがどこにいるのか一生懸命探しました。そしたらね、ずっと向こうの方に、お父さんのかぶっていた青い帽子が見えたんです。「よかった、お父さんを見つけた」そう思って、まことくんはお父さんの青い帽子の方に向って走っていきました。そして、ようやくサルが一杯いるサル山のところで追いつきました。ところがその青い帽子をかぶっている人はお父さんじゃなくて、知らないおじさんでした。青い帽子もお父さんの帽子と似ていましたが、でもちょっと違っていたんだね。その青い帽子をお父さんの帽子だと勘違いして、その後を追いかけて来てしまったんです。

さあ大変です。まことくんは迷子になっちゃったんだね。まことくんは「早くお父さんとお母さんを見つけなきゃ」とあっちこっちを探しました。でもお父さんもお母さんも見つからない。最後は自分が何処をどう歩いてきたのか、歩いている途中にどんな動物がいたかも分からなくなって、今いるところがどこかもさえも分からなくなってしまったんだね。それで、だんだんと不安になってきて、オオアリクイのいる檻の前まできたときに、とうとうまことくんは泣き出しちゃいました。でもね、まことくんはいつもお父さんとお母さんと教会に行って、教会学校でお話しを聞いていました。その教会学校で、神様にお祈りすることは大切なことなんだよって聞いていました。だからまことくんは、泣きながら神様に「神様助けて下さい」ってお祈りしました。まことくんが泣きながらお祈りしていると、黄色い動物園シャツを着たお兄さんが泣いているまことくんのところにやってきたて「どうしたの」と聞いてくれました。動物園の動物を世話をしているお兄さんです。それで、まことくんは自分が迷子になってしまったことをそのお兄さんにお話ししました。するとそのお兄さんは、「大丈夫、僕がちゃんとお父さんとお母さんを見つけてあげるからね。」といって、まことくんの手を引いてゆっくりと一緒に歩き始めてくれました。

そして、赤い屋根の動物園の事務所に連れていってくれたのです。動物園の事務所には迷子になった子どもを捜してくれる迷子センターがありました。あの黄色い動物園のシャツをきたお兄さんは、まことくんを、その迷子センターに連れてきてくれたんです。そしたらね、まことくんのお父さんとお母さんがそこにいました。 お父さんとお母さんはまことくんがいなくなったので、心配して迷子センターにまことくんを捜しに来ていたのです。お父さんもお母さんもまことくんが見つかって嬉しそうです。もちろん、まことくんも、お父さんとお母さんが見つかって、ホッとしましたし、嬉しくてまた泣き出しちゃいました。本当に嬉しかったんです。人間は悲しいときや恐いとき、不安なときにも泣き出しますが、本当に嬉しい時にも泣き出すことがあるんです。このときは、まことくんは嬉しくて泣き出しちゃったんです。それぐらい嬉しかったんです。それからは、まことくんは、ちゃんとお父さんお母さんと一緒に動物園の動物をみて、一日楽しく過ごして家に帰っていきました。

まことくんは、ゴリラのことが気になってゴリラの方を見ていて、お父さんとお母さんが何処にいるか分からなくなってしまいました。そして、知らないおじさんをお父さんと間違えてしまってその後を追いかけて行ってしまって迷子になってしまいました。それで、まことくんはとても不安な気持ちになり、恐くなって泣き出してしまったんだよね。同じように、私たちも神様のことを考えないで、自分の大好きなこと、自分のやりたいことばかり考えていたら、神様のことが分からなくなります。そしてね、神様ではないものが、まるで神様と同じぐらい大切なもののように思えて、どんどん神様から遠ざかってしまいます。けれども、イエス様は、私たちがどんなに神様から遠ざかって迷子のようになってしまっても、ちゃんと天のお父さん、お母さんである神様のところに連れていってくれます。天のお父さん、お母さんである神様も、みんなが迷子になったら、みんなのことが心配でみんなを捜しています。イエス様は、その天のお父さん、お母さんである神様とみんなをちゃんと会わせて下さるお方なんです。

みんなの回りには、一杯楽しいことがあり、神様のことなんか忘れて楽しいことに夢中になってしまうことがあるかもしれません。でもね、その時は楽しいかもしれないけれども、天のお父さん、お母さんである神様と心が離れていると、不安になったり悲しい思いで心が一杯になってしまうことがあります。神様が、一緒にいないと、本当に嬉しい気持ち、安心な気持ち(これを平安な気持ちといいますが、)そのような平安な気持ちにはなれません。どんなにまことくんが大好きで、楽しい動物園でも、迷子になってお父さんお母さんと一緒にいられなかったときには、不安で悲しくて、そこにどんな動物がいたかさえ覚えていません。楽しいはずの動物園も迷子になってしまったら楽しくないのです。けれども、お父さんお母さんが見つかって、まことくんと一緒にいてくれたときに、動物園は一日を楽しく過ごすことができたんですね。それとおなじように、みんなのまわりにどんなに楽しいと思えること、どんなにおもしろいことがあっても、みんなと神様が一緒にいてくれなければ、本当にたのしく毎日毎日を過ごしていくことはできません。そして、神様のことを考えないで、お友達や、楽しいことばかりを追いかけていたら、みんな神様とはぐれてしまいます。

だから、ちゃんと神様が何処にいるのか分からなくならないように、教会学校で神様のお話をききましょうね。そして、これからみんなが大きくなっていって、神様のことを忘れてしまうようなことがあっても、イエス様はいつでもちゃんとみんなを神様のところに連れていって下さり、みんながもう一度神様と一緒にいられるようにして下さいます。イエス様が、私たちを助けて下さるお方だということを絶対に忘れないで下さい。

さて、ここからは大人の方々のためのお話しです。ひょっとしたら皆さんの中にも、幼いときに迷子になったという経験をお持ちの方もいるかもしれません。いえ、大人になっても迷子になるということが全くないというわけでなく、大人でも迷子になる人はいるものです。私が大学に入学して上京したとき、私は駒沢公園を訪ねたことがあります。行きは渋谷から地下鉄にのって駒沢大学前でおりて、公園の中に入ったのですが、帰りは違った門から公園を出て、確かあっちの方に駅があるはずだということで回りの景色を見ながら、散歩気分で歩きはじめました。行きは駅から数分で公園についたのですが、何十分歩いても駅にたどり着かないのです。どうやら道に迷ってしまったようなのです。そして一時間以上歩き続けました。そうすると、何十分か前に見たはずの柿の木坂という看板がまた見えてきた。つまり、同じところを堂々巡りしていたようなのです。それでも、意地になって絶対自分で道を見つけてやると思い、しばらくは、人に道を聞かずに自分であっちだろうか、こっちだろうかと道を探し求めて歩いました。けれども、いくら歩き回っても駅は見つかりそうもなく、さすがに観念して、近くにいた人に道をたずねて、正しい道を教えてもらって駅にたどり着き、そして無事に帰ったのです。

道を聞いてから駅にたどり着くまでは10分弱の時間でしたが、それまでに歩き回った時間はおおよそ2時間程度でした。初めから知っている人に道を聞けば何でもないことだったのですが、意地を張って、自分で見つける。見つけられると頑張った結果、無駄な2時間という時間と、労力を費やしてしまいました。しかも、結局は人に聞かなければどうしようもなかったのです。今日の聖書の箇所はヨハネによる福音書14章1節から6節までですが、この聖書の箇所は6節の「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。』」という言葉がこの分脈の結論であり、もっとも主張したい内容だと言っても良いだろうと思います。このヨハネによる福音書14章1節から6節は、イエス・キリスト様の告別説教といわれる箇所の一部分ですが、告別説教というのは、イエス・キリスト様がまさにこれから十字架に架かってしなれるというその前に、弟子たちに語り、教えられた教えです。その告別説教の中で、イエス・キリスト様は、十字架に磔になって死なれるという出来事があることを見通しながら、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言うのです。

自分たちが師と仰ぎ、導き手であると信じ付いてきた指導者が十字架で磔になって死ぬという事態が起こって、心を騒がせない人間などいません。けれども、イエス・キリスト様は「心を騒がせないで神を信じ、またわたしを信じなさい。」というのです。なぜならば、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」だというのです。すなわちイエス・キリスト様が十字架について死なれる、それは、私たちがイエス・キリスト様の父、すなわち父なる神様のみもとに、私たちもまた身をおくことができるようにするためなのだと、イエス・キリスト様を自分の師として仰ぎ、自分の導き手として信じ従ってきた弟子たちが、イエス・キリスト様の死に直面して心を騒がすのは、自分たちがこれからどうしていったらいいか分からなくなるからです。それこそ、これからの人生をどう生きていけばいいのか分からなくなってしまうという不安や恐れがあるからこそ、心を騒がせるのです。けれども、イエス・キリスト様は、神を信じ、イエス・キリスト様を信じれば、心を騒がせる必要はないというのです。それは、神を信じ、キリストを信じて生きているならば、自分の人生で迷子になることはないからです。

さきほど私は、自分が迷子になったお話しを致しました。迷子になったというのは、駅という目的地に向って道を見失ってしまったからです。この場合、駅という目的地がはっきりしているからこそ、それは道を見失っただけの話です。しかし、これがもし自分が何処に行くのかもわからなければ、道を見失うどころか、全くの迷子になってしまった状況だといえます。自分の人生は確かにどこかに向っている。でもどこに、どう向って進んで行けばいいのかが分からない。そんな状況になってしまっているというのが、実は、今の私たち人間の実際の姿なのかもしれません。ところが、私たちは自分がめざすべきゴールが何であるかを分かっているという錯覚に陥ることがあります。つまり、目的や目標がはっきり分かっていると錯覚してしまうことがあるのです。たとえば、今、私の息子は受験生ですが、当然、受験勉強のゴールはめざす志望校の合格です。そのために何をしなければならないことはちゃんと分かっています。勉強するしかないのです。けれども、合格は今の目標であっても人生の目的でもなければゴールでもありません。

あるいは、幸せになりたいという目標を持つ人もいるかもしれません。いや、そう考える人は決して少なくないないだろうと思います。私は、幸せになりたいという目標をもつことは、悪いことだと思いません。むしろ、それはよいことであり、誰でもが望むものだろうと思います。しかし、幸せが何かといわれると、これは実に難しい問題です。「幸福論」という主題が哲学の一分野の中に置かれているのは、「幸せとは何か」という問題が、私たちに説くことができない大問題だからです。ですから、幸せになりたいという目標や、目的を持っていたとしても、どうしたら幸せになれるかを示すことはとても難しいことなのです。ところが、イエス・キリスト様は、そのような大問題に対して、非常に短い言葉で答えを出しておられるのです。そのイエス・キリスト様の答えとは、「父なる神のみもとに私たちが身を寄せていることが、私たちにとって本当に幸せなことだ」ということです。

イエス・キリスト様を師と仰ぎ、イエス・キリスト様に従って来た弟子たちは、ある意味、人生にどこか生き詰まりを感じ、閉塞感を感じていた人たちであったということができるのではないかと思います。言葉を換えるならば、何かどこかに満たされないものを感じていると言うことです。ある人は、経済的なことで行き詰まりや閉塞感を感じていたかもしれませんし、ある人は社会に認められないことで、どこか満たされない気持ちになっていたかもしれません。あるいは、財産や地位においては申し分のない人と出会っても、何か足りない、満たされないという思いがあった人もいるでしょう。それこそ、99%幸せと思えるような状況があっても、1%のかけがあるならば、人は本当に満たされた幸福を感じられないものなのです。さきほど、子どもたちにはまことくんのお話しをしました。あのまことくんにとって、本当に幸せなこと、心の底から喜べることは、お父さんとお母さんと一緒にいられるということでした。どんなに大好きな動物園に来ていたとしても、お父さんとお母さんとはぐれてしまったならば、動物園はもはや楽しいところでも何でもないのです。

同じように、私たちの人生にどんなに楽しいことがあっても、どんなに豊かにものに満たされていても、私たちは、私たちの創造者である父なる神から離れてしまっていたならば、私たちの心は決して満たされないのです。皆さんはパスカルという人を知っておられるだろうと思います。最近では天気予報で気圧の単位をパスカルといいますが、そのパスカルという単位の元となったパスカルの原理を発見した17世紀の数学者であり、物理学者であり哲学者であり、何よりも敬虔なクリスチャンであった人です。このパスカルの言葉に、「人間の心には、神にしか埋めることができない空洞(真空)がある」というものがあります。それは、人間の人生にどんなに幸せと思われるようなときがあり、お金や財産によってどれほどのものに満たされていても、人間は自分の存在が失われてしまう現実に向き合うときに、その無限の何もない真空の闇の中にたった一人で呑み込まれていく畏れや空しさを感じるからです。そして、その現実から私たちは決して逃れられません。そして聖書もまた「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」というのです。

ですから、20世紀の哲学者の中でもっとも影響を与えた哲学者の一人であるハイデッカーという人は、人は死ぬという現実に向って生きている存在であり、死という自分が存在しないことを意識することで存在するものなのだというようなことをいうのです。そのような、自分が存在しなくなるという現実のまえには、どんなに幸せな瞬間も、虚しい刹那的であり、私たちの存在も虚しいものに感じられます。そのような私たちに対して、イエス・キリストは「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」というのです。父なる神は永遠の存在です。その永遠のお方のみもとに身を寄せるとき、私たちは死という無限の闇に呑み込まれるような刹那的存在ではなくなるのです。だからこそ、どんなに小さな今の幸せでも、それが虚しいものにはならないのです。神のない人生では、私たちは、多くのものを得ても、一瞬でそれを失い、全く何もない真空に呑み込まれてしまいます。父なる神がおられる、父なる神に家に身をおき、神と共にある者は、仮に今何もなくても、すべてを得るものとなるのです。

イエス・キリスト様は、十字架の死によって、その父の家に私たちの身を置く場所を用意しに行って下さっているのだといわれます。そして「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」というのです。みなさん、このイエス・キリスト様が用意して下さった場所に行くためには、自分勝手に道を探し求めて歩き回っても行着くことはできません。その場所を知り、そこへの道順を知っているお方に聞かなければ決して行着く事はできないのです。そして、その父の家に場所を用意して下さったイエス・キリスト様ご自身が、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」とそういわれるのです。それは、神を信じ、イエス・キリスト様を信じ生きる者を、このイエス・キリスト様の父なる神の家、それは私たちにとっても父なる神の家にある私たちに場所に、招き導き入れて下さるという神の約束なのです。ですから、私たちはこの神の約束を信じ、決して死という無限の真空に呑み込まれて迷子となることがないように、神の約束にある希望の光を見続けて、この人生を生きていく者でありたいと思います。

お祈りしましょう。