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メッセージ

羊飼い アドベント第3主日礼拝
『世に勝つキリスト』
エレミア書 1章1−19節
2009/12/13 説教者 濱和弘

今日はアドベントの第3主日ですが、そのキリストのお生まれになったことを記念するクリスマスを待ち望むアドベントの礼拝に、皆さんと共にこのエレミヤ書のお言葉によって養われ、クリスマスに備えたいと思います。このエレミヤは、2節に「アモンの子、ユダの王ヨシアの時、すなわちその13年に主の言葉が臨んだ」とありますから、大体紀元前627年頃から、南ユダ王国で、予言者としての活動をはじめたようです。そして、3節に「その言葉はまたヨシアの子、ユダの王エホヤキムの時にも臨んで、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの11年の終わり、すなわちその年の5月にエルサレムの民が捉え移された時に及んだ。」とありますので、エレミヤの預言者としての活動は、南ユダ王国が強大な国バビロニア帝国によって滅亡する紀元前587年までのおおよそ40年間に渡って、神の言葉を取り次ぐ預言者として活動していたといえます。このエレミヤが預言者として活動していた40年間は、まさに国が滅亡の道を歩んでいく40年間ですから、激動の時代であり、苦難の時代であったと言えます。そのような時代に、エレミヤはユダヤの民と共に生き、共に歩み、そして神の言葉を語り続けたのです。

そのエレミヤが預言者としての使命を受けその第一歩を踏み出す、その時の出来事が記されているのが、このエレミヤ書1章1節から8節までであります。また9節以降は、具体的な預言の内容に入っていく部分であった、そこには、南ユダ王国が神から離れ、悪事を行ない、偶像礼拝に陥ってしまったため、神からの裁きを受ける者となってしまったということが述べられています。実際、先ほどもうしあげましたように、南ユダ王国はその預言の言葉通りにバビロニア帝国によって滅んでいくのですが、そのような時代に生きる預言者として、エレミヤは選ばれ神の言葉を伝えていくのです。エレミヤが神から預言者としての召命を受けたとき、エレミヤはその神の召しを拒みます。その理由をエレミヤ自身は、「ああ、主なる神よ、わたしはただの若者にすぎず、どのように語ってよいかしりません。」といっています。つまり、自分は預言者として神の言葉を語るには若すぎるということ、そして、どのように語ってよいかよくわからない、いうなれば口べただということです。

たしかに、このときのエレミヤはまだ10代の少年か、あるいは20代半ばの青年だったようですから、若すぎると言えば確かに若いといえるでしょう。また、神の言葉を取り次ぐ事が預言者の仕事ですから、口下手だということは、預言者としての能力的資質としては不向きだといえるだろうと思います。けれども、この神の召命に対するエレミヤの躊躇は、単に自分がまだ若いということや口べただということが理由であったのかどうかについては、疑問が残ります。というのも、神の召しに躊躇し、尻込みをするエレミヤに対して、神は17節で次のように述べているからです。「しかし、あなたは腰に帯をしめて立ち、わたしが命じるすべてのことを彼らに告げよ。彼らを恐れてはならない。さもないと、わたしは彼らの前であなたをあわてさせる」。

ここで神は、エレミヤに対して彼らを恐れてはならないといっています。それは神が、エレミヤが神の召命を拒むその理由の根底に、人々を恐れる怖れがあるということを見抜いておられるということにほかなりません。エレミヤは自分が年若いからという理由で預言者として召し出そうとする神の言葉に応答するのを躊躇しているのでもなければ、自分が口べただからと言う理由で躊躇しているのではなく、彼が預言者として神の言葉を告げ知らせなければならない人たちを恐れているのです。エレミヤが人々の何を恐れていたのかについては、明確なことはわかりません。しかし、何となく推測はできます。というのは、預言者というのは、何か神が憑依したような状態の中で神の言葉を告げ知らせるというのではなく、むしろ目の前にある社会や人々の姿をみて、そこに罪や不正があることを見抜く鋭い洞察力を通して、神が預言者のその人格に語りかけ、その語りかけを通して人々に厳しい神の裁きの言葉を告げ知らせる存在だからです。

つまり、預言者というのは極めて冷静かつ批評的な目で物事を見ることができるそういった資質を持っている人なのです。ですから、神がエレミヤを預言者としてお選びになったのであるならば、そのような資質がエレミヤにあったであろうということは想像に難くありません。そして、そのような極めて冷静かつ批評的に物事を見ることができる目で、人々を見る時、厳しい神の裁きを語る時、激しい反発が起こるであろう事は火を見るより明らかな事であったであろうと思うのです。たとえば、卑近な例で申し訳ないのですが、先日、ある方がご自分の教会の牧師が、献金についての説教をすることをためらっておられるという話をなさっておられました。そして、そのように献金の説教をためらうようなことがあってはならないというのです。たしかに、その方のいわれるように、献金についての説教をためらうようなことがあってはならないということは、その方のいわれるとおりだろうと思います。なぜなら、献金は、私たちの信仰の現われであり、また、私たちの神への献身、奉仕としてなされるべきものだからです。ですから、献金について説教をし、それを勧めることは、決して間違ってはいません。けれども同時に、献金についての説教をためらっておられる牧師の気持ちも痛いほどわかるのです。なぜならば、私もまたためらうからです。

なぜためらうのか。それは献金に関する説教をすると、躓く人がいるのではないかと恐れるからです。もちろん、この三鷹キリスト教会のみなさんは、神様に惜しみなく捧げましょうとお勧めしても、躓くことなど決してないだろうと思います。それほど、みなさんの信仰はしっかりと錬られている。しかし、それでもなお、お金のことでもありますし、またキリスト教の名をかたるある団体が高額なものを売りつけているといった話や、献金、献金と迫られて教会から離れてしなった方などの話を耳にしたりしますと、求道者の方の中につまずきを与えてはならないという思いなどがおこり、躊躇し、ためらってしまうのです。また、献金や奉仕といったものは、本来、またその性質からして、私たちの神への自由な意志と自由な信仰の発露、応答としてなされるもので、誰からも強制されるものではありません。しかしそれが、説教や牧師の指導として語られるとき、一歩間違えると律法主義に陥ってしまうのではないかという恐れを感じるからです。

実際、ある牧師は、10分の1献金がなされるようにと、信徒の方の収入や資産がいくらあるか出しなさいという指導をなさり、信徒の方が心を痛めたというような話などを聞きますと、その牧師は、きちんとした信仰生活を送るように指導するという意図でなさったのだろうと思いますし、そう思いたいのですが、それでもやはりそれはやはりどこか違う、いやとんでもない話だとさえ思うのです。ですから、その献金についての説教をためらってしまうという牧師もまた、教会が神の御業、キリストの御業をするために惜しみなく捧げましょうと勧めることが、信仰にとって正しいことであり、またそう勧めるべきだということが分かっていても、それによって躓く人が起こってくるのではないかという恐れを感じるのだろうと思います。このような恐れは、神の言葉を取り扱う説教者におこる、神が愛し教会に招き、神の救いに招いておられる人を躓かせてはならないという配慮から来る恐れですから、エレミヤが罪や不正、あるいは過ちを犯したり、不道徳な道を歩んでいる人々に神の厳しい裁きの言葉を告げ知らせるときに起る、反発や迫害に対して感じている恐れとは性質が違うものです。

しかし、神の言葉を語り告げ知らせるときに、人々がどのような反応をし、どのような応対をするかということに心を向けているということでは共通するところがあります。実際、神の言葉と向き合い、それを語るということは恐れを伴うことなのです。それにしても、人々が神から離れ罪を犯し、不道徳な道を歩んでいることに対し、「それは間違ったことであり、そのような間違った歩みをしていると神の裁きが訪れるぞ」と告げ知らせることは、正しいことです。少なくとも信仰的行為としては正しい行為なのです。しかも、語っている相手は、神を信じ、神の名の下に集められ国家を形成している南ユダ王国の人たちなのですから、エレミヤのしていることは誤った行為ではない、正しいことなのです。

正しいことをやろうとして恐れを感じなければならないということは、ある意味、不条理なことです。そして、実際、エレミヤ書を読んで参りますと、エレミヤが神の裁きを告げ知らせる神の言葉を取り次いでいったとき、彼は、彼が恐れていたとおりに人々から阻害され、激しい迫害に遭います。正しいことをして迫害され阻害されるということは、きわめて理不尽で、不条理なことです。けれども、それでも神はエレミヤに神の言葉を語ることを求めておられる。神の言葉を告げ知らせても、その言葉に反発し、その言葉を取り継いだエレミヤを迫害し、阻害するような人々なのです。だとすれば、神は彼らに何も告げずに神の裁きをお与えになっても良いのではないかと思うのですが、それども神は、エレミヤに、神の言葉を語れといわれる。

私は、その背後に神の愛を見るのです。たしかに、神は罪や不正、あるいは不道徳な歩みといったことをお裁きになります。そしてそれは、具体的に行ないとなって現れたものだけではなく、心の中にある私たちの汚れた思いや醜い思いといった心の中の罪にまで及ぶものです。けれども、神は人々がそのような神の裁きにあうことを願っておられないのです。神は真実で正しい方であり、正義のお方ですから、人の罪は行ないに現れたものであれ心の思いであれ裁かないではいられません。もしお裁きにならなければ、神の正義は全うされないからです。けれども、その正義の神は、私たちを愛して止まない神なのです。だからこそ神は私たちを救いたいと願っておられるのです。

旧約聖書を読んで参りますと、ユダヤの民はこれほどかというほど、神に背を向け罪の中に陥っています。そして、そのたび事に神は、ユダヤの民に対し、神の怒りと裁きをくだしておられます。けれども、神は一度たりともユダヤの民を滅び尽くしてはいないのです。それは、神の怒りがユダヤの民自身に向けられているのではなく、ユダヤの民の心を支配している罪に向けられているからです。そして、ユダヤの民自身には神の愛が向けられている。だからこそ、裁きを下しても滅ぼし尽くすことはしないのです。それは裁きを通して、ユダヤの民が神に立ち帰ることを望んでおられるからです。それは、ここにおいてもいえることです。確かに南ユダ王国の人々は神の裁きのゆえにバビロニア帝国に滅ぼされバビロン捕囚という苦渋を味わいます。けれども、エレミヤを通してあらかじめ神の裁きのメッセージが伝えられていたからこそ、その神の裁きの苦渋を通して、南ユダ王国の人々が自分の罪を悔い改めて神に立ち帰ることを願っておられるのです。

そして、それは歴史が証明している。ここでもユダヤの民は、国は滅び、自分たちは外国に奴隷として連れていかれたけれども、決して滅ぼされることはなく、そして再び自分たちの祖国であるカナンの地に戻ってくるのです。それはユダヤの民が、国の滅亡とバビロン捕囚という苦渋の経験を通して、彼らの心が再び神を呼び求めるものとなったからです。ここでも、神が怒りを下されたのは、ユダヤの民自身ではなく、ユダヤの民の心を支配している罪に対してであり、その裁きを通してユダヤの民からその罪を取除き救おうとしておられる。だからこそ国は滅びても、民は滅び尽くされず、やがて回復されていくのです。そのように、神は私たちを支配している罪から私たちを救おうとしておられるのです。

みなさん、罪が支配している世界には不条理があります。罪が支配している世界は、エレミヤが正しいことを正しいこととして語ろうとするならば恐れを感じなければならないような世界です。私たちが普通に考えれば納得いかない、間違っていると思われるようなことが実際におこる世界なのです。私たち夫婦は、先日娘が「お父さんたち見にいってきたら」と前売り券をプレゼントしてくれた映画を見てきました。それは山崎豊子さんの小説を映画化した「沈まない太陽」という映画でした。それは、ある航空会社を舞台にして、正しいこと、良いことを貫こうとする人間が、社内では不遇の道を歩み、悪や不正をし誤った事をする人間が栄達していくという物語であり、見ていて憤りを感じるほどの不条理に溢れた物語でした。しかし、私はその映画を見ていて、決して私たちの住んでいる社会と遠い世界のことではない、実際に生きている社会の中にありうることのように思われました。それはきっと、私たちの住んでいるこの社会、この世界もまた、あの映画の中にあるような不条理なことが一杯溢れた世界だからです。

今、私は聖書学院で2年に一回、「教理史」という授業を持っていますが、今年はその授業がある年で、ちょうどその授業を行なっている最中です。その授業で私は、質問があったら紙に書いて出してもらい、その質問に対して、回答を書いてお返しするようにしています。その質問なかに、次のような質問がありました。それはこのような質問です。「人間は神にかたどられて作られていますが、しかし一人一人で考えが異なることがあるように、生い立ちや生きている環境はそれぞれ違います。そのような中で不条理なことが多くあります。貧困のために、教育を十分に受けられないとか、今の社会構造の中で望みを持てず自殺する人が3万人もいるという事、一生懸命に生きて社会に貢献してもがんで死ぬ人、厳しい生活、状況の中で学び頑張った人がトラックにはねられて亡くなった人がいる…etc。このような状況をどう考えられますか」

これもまた、私たちの中にある不条理です。そして、この質問を下さった方がいわれるように、私たちの住む世界には、不条理な事が多くあるのです。そのように不条理なことが私たちの世界の中に多くあるということは、私たちの世界もまた、罪や悪に支配されているということなのです。そして、そのような罪や悪が私たちの世界に支配されているとするならば、この私たちが住んでいる世界もまた神の裁きに会い滅んでいくのです。それは、南ユダ王国という一つの国が滅びるといった出来事ではありません。この世界が滅びるのですから、もはや絶望的な裁きの出来事です。ちょっと難しい言葉でいうならば終末論的な出来事、最期の最後の滅びということです。

けれども、そのような恐ろしい神の裁きであっても、神は私たちを救おうとして下さっているのです。そして、私たちが神に立ち帰り、神を信じ、神を呼び求めるようになることを願っておられます。そこには、私たちを救おうとしておられる神の愛があるのです。ですから、神を信じ生きるならば、私たちはこの神の裁きを恐れる必要はないのです。いや、それだけではない。私たちは神の裁きを恐れなくてもよいというだけではではない、不条理な世界が私たちに与える恐れさえ、もはや恐れる必要などなくなるのです。と申しますのも、先ほどのエレミヤ書にもどって1章18節19節を見てまいりますと、そこにはこう書かれています。「『見よ、わたしはきょう、この全国と、ユダの王と、そのつかさと、その祭司と、その地の民の前に、あなたを堅き城、鉄の柱、青銅の城壁とする。彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである』と主は言われる。」

エレミヤは、正しいことを正しいこととして語るときに、阻害され迫害される不条理さの中で、恐れを感じていますが、そのエレミヤに対して神は、「恐れることはない」というのです。それは、この不条理な出来事をもたらす、罪と悪の支配に神が打ち勝たれるからだというのです。そして、その悪と罪の支配に勝利をすることができるのは、神がエレミヤと共におられ、エレミヤを救われるからだというのです。むかし、宗教改革者のマルティン・ルターという人は、次のようなことをいいました。以前もみなさんに御紹介したことのある言葉ですが、ルターはこういうのです。「私は、キリストと一緒でなるならば地獄にでもいく。なぜならば、キリストがおられるところが天国なのだからである。」みなさん、地獄というのは、みなさんが思い描かれるとおり苦しみと悲しみに満ちた世界です。けれども、たとえ地獄のような苦しみと悲しみに満ちあふれた世界であったとしても、そこにキリストが共にいて下さるならば、その苦しみや悲しみの中にあっても、天国の喜びが心に与えられるのだというのです。

もちろん、この世界のすべてが地獄だとは申しません。私たちが生きていく中には楽しいことだって少なからずある。けれども、悲しいことや苦渋を経験することも同じように少なくはないのです。それこそ、不条理な出来事に中で苦しみ、悩み、悲しむこともあるのです。けれども、みなさん、もし神が私たちの味方であり、キリストが私たちと共にいて下さるならば、私たちは、そのような苦しみ、悩み、悲しみを恐れる必要はありません。神は私たちを、そのような苦しみ、悩み、悲しみから救ってくれるからです。もし、キリストが私たち共にいてくれるならば、地獄と思えるような苦しみ、悩み、悲しみの場であっても、共にいて下さるキリストゆえに、そこが天国に変えられていくのです。なぜなら、キリストは、十字架の上で、苦汁をなめ尽くし、身を傷つけられる痛みの限りを経験し、ご自分が愛した弟子に裏切られる心の痛みと傷を負い、死の苦しみと恐怖を味わい尽くされたからです。そして、おおよそ、この世界の中にある苦しみと悩みと悲しみの源にあるものを味わい尽くした上で、死から復活され天に昇られたのです。

そうやって、キリストは十字架の上ではり付けられ死なれ、そして復活されることで、この世を支配する、罪と悪とそして最も大きな悲しみである死に勝利をなされたのです。そのキリストの勝利が、私たちを、苦しみや悩みや悲しみに勝利を与え、救いを与えるのです。この神の与える救いは、この世の終り、この世界の滅亡といった将来の事だけではなく、今、ここで生きている私たちの生活に、人生で、恐れに対して勝利を与え、救いをもたらしてくれます。そしてその勝利と救いは、神を信じ、あなたの心にイエス・キリスト様が共に住んで下さることによってもたらされるのです。みなさん、クリスマスは、その勝利と救いを与えるイエス・キリスト様がこの地上にお生まれになった事を記念する日です。このクリスマスを、私たちは単に年中行事の一つとして過ごすのではなく、本当に私たちの心の中に、キリストがお生まれ下さり、私たちと共に生きてくださっているのだということを覚え感謝する時として過ごしたいと思います。

お祈りしましょう。