クリスマス礼拝
『クリスマスを本当の喜びとする』
詩篇14編 コリント人への第二の手紙4章6−7節
2009/12/20 説教者 濱和弘
私たちは、この2009年のクリスマス礼拝をみなさんと共にこうして迎えることができたことを本当に嬉しく思います。みなさんもご存知のように、クリスマスはキリスト様がこの地上にお生まれ下さったことを覚え、感謝を捧げ、また心から祝う日であります。キリストがこの地上にお生まれ下さったことを祝うと申しますが、私たちが祝い事を祝うというとき、そこには何か喜ぶべき出来事があるから祝うのです。今年は、R・S兄弟、Y姉妹のご家庭に待望の第一子Mちゃんが与えられました。この出来事は、ご両親にとっても、またそのご家族にとっても喜びの出来事であったろうと思います。その喜びに対して私たちはお祝いの言葉を述べるのでありますし、また同時に、私たちもその喜びに共に与って幸せな気持ちを感じ、共に喜んでいるのです。
ところが、クリスマスはイエス・キリスト様がこの地上にお生まれになったことを喜ぶと申しましても、それはイエス・キリスト様ご自身にとっても、またその父なる神にとっても必ずしも嬉しいことではありませんでした。なぜならば、イエス・キリスト様にとっては、イエス・キリスト様がこの地上にお生まれになるということは、神であられたお方が、人となるということであり、それこそ、輝かしい聖なる世界から、罪に汚れたこの世界に下ってくるということだからです。しかも、この地上の世界でのイエス・キリスト様の御生涯は、決して華々しい生涯ではなく、最期の最後には十字架に磔られて死ぬという、実に悲惨な人生の終わりを遂げなければならないそんな生涯だったからです。もちろん、そのような悲惨な生涯は、結果としてそうなったというのではありません。イエス・キリスト様がお生まれになったときから、そうなるようにと神によって定められたものでありました。ですから、イエス・キリスト様にとっても、父なる神にとっても、到底喜ばしい日であるとは思えない日がクリスマスという日なのです。
ところが、私たちは、そのクリスマスを喜ばしい日として喜び、そして祝います。それは、イエス・キリスト様ご自身にとって喜ばしい日ではなく、また父なる神にとっても決して喜ばしい日ではないにしても、私たちにとっては、本当に喜ばしい日だからです。ともうしますのも、イエス・キリスト様がこの地上に私たちの救い主としてお生まれ下さったからです。もっとも、救いを求めていなければ、たとえ救い主が来たといわれても、そのことが喜びにはなりません。そういった意味では、私たちが本当に救いを必要としている、救いを求めなければならない状況にあるという意識がなければ、クリスマスは本当に意味での喜びの日にはならないのです。私たちは、神に救っていただかなければならないような悲惨な状態にあるのだという自覚があってこそ、クリスマスの出来事が私たちにとっての喜びの日となり、心から感謝し祝うことができる日となるのです。それでは、神が、自らのひとり子を十字架の上で死なせるという悲劇をも顧みず、私たちを救おうとして、イエス・キリスト様をこの地上に送らなければならないほどの状況とはどのようなものであったかというと、それが、さきほど司式の兄弟にお読みいただいた詩編14編で唱われている状況なのです。
そこでは、次のようにいわれています。「主は天から人の子らを見おろして、賢い者、神をたずね求める者があるかないかを見られた。彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない。すべて悪を行う者は悟りがないのか。彼らは物食うようにわが民をくらい、また主を呼ぶことをしない。」この言葉は、新約聖書のローマ人への手紙3章1節から12節でも引用されているもので、伝統的には人間は罪犯さざるを得ない悲惨な状況にあるのだということを言い表しているものだと理解されてきました。もちろん、私たち人間が罪を犯さざるを得ない悲惨な状況にあるということには、なんとなく同意できるような気がします。ともうしますのも、冷静になって私たちの世の中を見るならば、確かに不正や悪といったことが多く見られるからです。また、自分自身を顧みても、自分の心の中に決して好ましくない感情や思いが闇のようにして存在していたのです。
先週は、家庭集会や祈祷会等が立て続けにありました。それこそ、水曜から木曜日にかけて立て続けに3回の集会がありましたので、その3回の集会で私は一つのテーマでお話しをさせていただきました。それは、コリント人への第2の手紙4章7節に書かれている「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている」という言葉から黙想した内容でした。その黙想した内容というのが、イエス・キリスト様は私の心の闇に光を灯すために、私の心の闇のただ中に産まれてくださり、私の心の最も醜いところに産まれてくださったのだということです。
ご存知のように、イエス・キリスト様は、イスラエルのベツレヘムという田舎の町でお生まれになりました。お生まれになったのは、夜であり、お生まれになった場所は、おそらく馬小屋であったと考えられます。おそらくというのは、聖書にはどこにも馬小屋で産まれたとは書いてないからです。ただ、産まれたばかりのイエス・キリスト様は飼い葉桶に寝かせてあったと書かれていますので、おそらく馬小屋であったろうと推測できるのです。そして、その推測はおそらく間違いはないだろうと思われます。と申しますのも、当時のイスラエルの飼い葉桶は石を括り抜いて作られたものでしたから、そうそう簡単に移動して持ってきたとは考えがたいからです。いずれにしても、飼い葉桶というのは、家畜が餌を食べるためのものですから、決してきれいなものではなく、むしろ汚い不衛生なものです。その汚い飼い葉桶に、真っ暗な夜の帳(とばり)がおりた中、産まれて間もないキリストが寝かされていた。その御姿を思い起こすとき、私の心の暗闇に産まれ、私の心の最も醜い部分にイエス・キリスト様は産まれてくださったのだと、そう思わざるを得なかったのです。
私の心の中にあった闇や醜さといったものは、嫉妬心や妬みでした。私は、数学や物理や英語といったおおよそ学校で習うような勉強は決して好きではありません。大嫌いだと言ってもいい。唯一好きなものと言えば、歴史ぐらいなのですが、こと聖書に関すること、神学と呼ばれる領域について学ぶことは、本当に好きです。そのような中、一緒に神学校で学んだ仲間や後輩が、留学などして上級の学校で学びを進めていくのを見て、自分もさらに専門的な勉強をもっとしたいという思いがありましたので、うらやましい思いで見ていました。うらやましいと思うだけでしたらそれだけのことですが、それがだんだんと妬みや嫉妬、そしてひがみになっていく。そこに、心の闇が広がっていたのです。先日、プロ野球の楽天というチームの監督をしていた野村克也という人が、「自分は、幼少のころ貧しい苦しい生活をしていた。その貧しさが自分の心をひがませた」といっていました。つまり、野村克也氏は、貧しさが自分をひがませた、貧しさが自分の心の原因だといいますが、実際はもっと深いところに根があるように思います。というのも、貧しい人が必ずひがむかといえばそうではないからです。
だとすれば、いったい人を妬ませたり、ひがませたりさせながら、人の心の中に闇を広げていくものは何なのでしょうか。聖書は、それを罪だというのです。罪といっても、単純に私たちがイメージする犯罪や道徳的な罪ではありません。先ほどの、詩篇14編には、「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない」とあります。ここでは「心に内に『神はいない』」という思いが、心を腐れさせ、憎むべきことを行なわせ、善を行なわせないようになるのだというのです。この「心に内に『神はいない』」という思は、別の言葉でいうならば、絶対的に恐れるものがいないということです。そして恐れる者がいないときに、人の心の奥底にある罪が顔をだすのです。その罪が、貧しさやうらやましいと思う心を捕えて、人の心の中に闇を広げていく。そういった意味で、人間の心の闇の深淵、大本にあるものは、神を恐れない罪なのです。その罪に光をあて、そこから救ってくださる救い主として、神はイエス・キリスト様をこの世に送り、イエス・キリスト様もまた、神のお心に従ってこの地上にお生まれ下さったのです。
ですから、私たちが救われなければならない現実とは、私たちの心を罪が支配しているということなのです。もちろん、罪が私たちの心を支配しているということは、社会もまた罪の支配に置かれているということです。だからこそ、私たちの住む世界には不正や悪ということが多くあるといえます。そして、この罪の支配する世界の中に私たちは生きているのだということを、私たちが自覚しない限り、私たちは本当に意味でクリスマスを喜び、祝うということができないのです。けれども、以外と私たちは自分の心が罪に支配されているということに気が付かないものです。もっとも、私たちは人の罪や過ち、あるいは社会的な不正や悪といったものには敏感です。しかし、以外と自分自身の問題には気づいていないものです。つまり、評論家のように客観的に人間の罪の問題を見て、自分自身の問題として考えてないのです。
私が今学んでいる学びで取り上げている中に、16世紀を代表する二人の人物がいます。一人はロッテルダムのデジデリウス・エラスムスという人であり、もう一人は、ウィッテンベルグのマルティン・ルターという人です。この二人は、人間とはどのような存在であるかということについて激しく論争をしたのですが、しかしよく見てみると、二人の言っていることは論争の激しさに比べると、そうは違っていないのです。むしろ内容的には、私の目には双方同じことを言っているように思えるのです。けれども、決定的に違うのは、もののとらえ方の違いです。つまり、エラスムスという人は、人間をより分析的、評論的に捕えており、ルターという人の方がより自分自身の生き方を通して人間とは何かを考えているのです。たとえば、エラスムスは人間が罪を犯す現実を見つめます。同時に人間が人を愛し、人の為に尽くす姿も凝視します。そして、人の心が人間の欲望や情欲といったものと結びつくとき、人間は悪しき存在となり、人間の心が神を思う心と結びつくときに、人間は神の子として生きるのだというのです。だから、私たちの心が絶えず神に向っているように敬虔な心と行ないを養うことが大切なのだといいます。そして、そのような敬虔な心をもって、敬虔に生きようとするとき神の助けがあって、私たちは神の前に神を信じるものとして変えられ、生きられるのだというのです
それに対してルターは、どんなに神の前に正しく歩もうとしても、自分の中にある罪の思いや、人から見れば、本当にとるに足らないと思われるようなものであったとしても、自分の心にある罪の呵責から、人間は神の前に善いことなど行えないと考えます。そして、神によって救われることで、罪の支配から解放され、神の前に真に自由な存在とされて神と人とに仕えることができるのだというのです。もちろん、エラスムスが人間の罪の問題を楽観的に見ているわけではありません。罪の現実が根深いものであるということにちゃんと気づいています。そして、如何にクリスチャンであろうと、正しい人だと思われるような高潔な人物でも、神から離れるといとも簡単に罪に誘惑され、汚れた心になり、汚れた生活や誤った行ないに陥ってしまうことを見抜いているのです。だからこそ、エラスムスは、人間は罪から離れた敬虔な生き方が、人間にとって大切なのだというのです。罪から離れ、神を思い、神に従って生きていく生き方をしなければならないというのです。ところが、ルターにとっては敬虔な生き方をして、自分が変られていく云々では問題が解決しないのです。ルターにとっての問題は、今、今この罪に染まった自分が救われるためにはどうしたらよいのかなのです。
考えてみれば、人間の命は明日どうなるか分からない儚いです。だとすればまさに、今のこの私の罪から私が救われていなければ、いったい私はどうなるのか。神は人の罪を裁くお方であるとするならば、それは実に大きな問題です。ルターには、そのような今、私は救って頂きたいという強い願いを見ることができます。だからこそ、ルターはただ救い主なるキリストのみにすがるのです。このルターという人が、残した有名な言葉があります。それは「恵みのみ」「信仰のみ」「聖書のみ」という言葉です。私たちを救ってくれるものは、「神の恵みのみ」であり、「キリストを信じる信仰のみ」がその神の恵みを私たちにもたらすのであり、「聖書のみ」がその神の約束を私たちに保証する唯一の権威であるということです。他には何もないのです。そして、この「恵みのみ」「信仰のみ」「聖書のみ」を一言で言い表すならば、それは「キリストのみ」という言葉になります。私たちを罪から救うものはキリストを救い主として信じ、キリストを信頼してキリストに寄りすがることのみ、ただそれ「のみ」だというのです。そして、その救いを実感して喜び、神に感謝する思いがあってこそ、人は罪の支配から自由になって、神の前に生きることができるのだというのです。
このような、強い思いは、自分が罪のただ中にあるということを実感している人だから出てくる思いであり、救い主を待ち望む思いなのです。そして、そのような思いから、キリストのご生誕を記念するクリスマスの見るとき、クリスマスは、まさに喜びの祝祭りとなるのです。みなさん、私たちは、本当に自分が救われなければならない状況にあると考えているでしょうか。あるいは、罪に支配されているという現実をしっかりと心に留めているでしょうか。確かに、私たちはクリスマスを喜び祝っています。本当に、自分を罪から救い、罪の結果訪れる罪の裁きからキリストが救ってくださったのだということを心に刻みながら、クリスマスを迎えているかどうか、自分自身の心の内側を顧みなければなりません。
少し余談になりますが、昨日息子が、英語の問題を持ってきて教えて欲しいといってきました。それは英語の作文なのですが、出題された問題は「私はあなたの親切な言葉を心に刻むでしょう」という日本語でした。これを英語に直すのですが、答えの欄にはすでに"I will ( ) your kind word"と書かれており、( )の中にtから始まる単語を書き入れば良いようになっているのです。問題はこのtから始まる単語が何なのかです。答えは、terasure 宝とすると言う言葉です。つまり、心に刻むということは、心に宝として大切に持つことであるということなのです。ですから、本当に、自分を罪から救い、罪の結果訪れる罪の裁きからキリストが救ってくださったのだということを心に刻むことは、キリストが私を罪とその裁きから救ってくださり、罪に支配されている世界から救ってくださったのだという救いの出来事を、大切な宝として心の中に持っているということなのです。
そのように、キリストが私を罪とその裁きから、また罪の支配から救ってくださったということが、本当に私たちにとって大切な宝として、心の中に持ってクリスマスを迎えるならば、クリスマスは私たちにとって、本当の喜びの日、祝いの時となるのです。同時に、私たちはクリスマスを私たちが救われたという過去の記念日にだけにしてしまってはいけません。というのも、確かに私たちは罪から救われましたが、罪は機会を捕えて私たちをキリストから引き離し、また神から引き離そうとしているからです。先ほど私は、私の中に広がった妬みや嫉妬といった心の闇についてお話ししました。それは私がクリスチャンになった後の話であり、牧師になった話の後のことです。それでも罪は、私の心の間隙を縫うようにして、闇を広げていくのです。
しかも、もっと聖書を学びたい、神学を学びたいという思いを捕えてそのような闇を心の中に広げていったのです。「聖書を学びたい」という思い。「もっと神学を学びたい」という思いは決して悪い思い出はありません。むしろクリスチャンとしては健全な思いであるといえるでしょう。けれども、そのような健全と思える心さえも捕えて、罪は私たちを闇の中に引きづり込もうとするのです。だからこそ、私たちは、単に2000年前のユダヤのベツレヘムに起こったクリスマスの出来事を喜び祝うだけでなく、私の心にイエス・キリスト様がお生まれになって下さったということを心に刻まなくてはなりません。まさに、イエス・キリスト様を私たちの宝として、心の中に大切に持っていなければならないのです。それは、イエス・キリスト様が罪と悪とに勝利された方だからです。
みなさん、私たちの心は決して強いものではありません。罪が誘惑し、私たちの欲望や情欲に働きかけるならば、どんなに健全な願いや崇高な目的であっても、私たちの心に暗闇で覆い始めます。そして汚れた思いや醜い思い、不正や悪を起させるのです。ですから、私たちは、イエス・キリスト様を私たちの救い主として信じ、いつもこの方のことを思い生きていかなければなりません。私たちがイエス・キリスト様のことを思い生きるならば、イエス・キリスト様は私たちの心の中に産まれてくださり、私たちの心の中にいて下さいます。そして、この罪と悪とに勝利なさったお方が、私たちの心とおもいとを守ってください、二度と私たちが闇に包まれることがないようにしてくださるのです。
その時に、クリスマスの出来事は本当に私達のものとなり、クリスマスの喜びは本当に心からの喜びとして私達のものとなるのです。ですからみなさん、今年のクリスマスは、私たちにとってクリスマスが本当の喜びになるように、また本当の喜びであることを確認するために、自分自身の心をもう一度顧みながら、まだクリスチャンでない方はイエス・キリスト様を信じときとし、すでにクリスチャンの人は、イエス・キリスト様を信じる信仰をより確かなものとする時としていこうではありませんか。
お祈りしましょう。