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メッセージ

羊飼い 『キリストの手紙である私たち』
コリント人への第二の手紙 3章1−3節
2009/12/27 説教者 濱和弘

今日は12月27日。12月の第四聖日ですが、教会にとっては11月に立て続けに行なわれる記念礼拝に続き、クリスマスのシーズンを終えて新しい年を迎えるその狭間にあってほっと一息を付くような聖日だといえます。同時に、聖書の一巻一巻を連続して説教していた連続説教が一旦二ヶ月間ほど途切れたあとに、仕切直しをして再び再開される聖日です。今年はその連続説教はコリント人ヘの手紙からであり、特に今はその第二の手紙から神のみ言葉に耳を傾けていたところでした。コリント人への第二の手紙は、誤った信仰が入り込んでしまい、教会が混乱してしまっていたコリントの教会に対し、そのコリントの教会の創設者であるパウロが、何とか教会が正しい方向に導こうとして手紙を送ったり自分の名代を送ったりと、あれこれ手立てをつくした後、最後に書かれた手紙でした。

ご存知のように、パウロはコリントの教会が危機的状態に陥っているということを、クロエと言う人の家の者から聞かされます。このクロエという人は、女性であったようですが、そのクロエの家の者というのが、彼女の家族かあるいはクロエの家に仕えていた奴隷であったかはよくわかりません。しかし、いずれにしても、そのクロエの家の者がパウロにコリントの教会が大変な状況にあるということを知らせたのです。そこでパウロはコリントの教会に手紙を書きます。それがコリント人への第1の手紙です。このコリント人への第1の手紙でパウロは、コリントの教会の中に起こっている様々な問題に対して、解決に向っての具体的なアドバイスをあげます。そして、さらにテモテを指導者として送り事態の収拾にあたらせるのです。

しかし、事はパウロの願っていたように進まず、コリントの教会の多くの人はパウロのアドバイスを受け入れず、またテモテも受け入れませんでした。そこでパウロは、今度は直接自分自身でコリントに行こうと計画を立てるのですが、何らかの考えがあったのでしょう、その計画を中止し、再びコリントの教会に厳しい言葉でコリントの教会を教え諭す手紙を書き、テトスにそれを持たせてコリントの教会に送り出すのです。この時の厳しい言葉で書かれた手紙は、一般的に「涙の手紙」と呼ばれていますが、しかし失われてしまい今日残っていません。この失われた「涙の手紙」を呼んだコリントの教会は、ついに悔い改めてパウロの言葉に耳を傾け、正しい信仰に立ち帰るのです。パウロはそのことをコリントから戻ってきたテトスから聞きます。そして、そのテトスの報告を受けて書いたのが、このコリント人への第2の手紙なのです。コリントの教会が正しい信仰にたち帰ってくれた喜びが言い表されています。

しかし、その喜びの中にも、パウロの一抹の不安がかいま見えます。それが、先ほど司式の兄弟にお読み頂いた3章1節から3節の言葉なのです。特に、その不安は1節の中にみられます。そこにはこう書いてあります。「わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのだろうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた、あるいは、あなたがたからの推薦状が必要なのだろうか。」ここでは、推薦状について書かれていますが、この当時、推薦状を書くということがよくある習慣であったようです。推薦状というのは、この人は間違いない人物ですよということを証明するものです。あるいは何かをするにはふさわしい人物ですよということを保証するものでもあります。もちろん、そのような推薦状は、受け取った側にとっては安心材料になります。そういったわけで、コリントの教会に間違った教えを持ちこんだパウロの反対者たちもこの推薦状をもってコリントの教会に入り込んだようなのです。

当然、彼らが用いた推薦状は、自分たちこそ正しい福音の伝達者であるという事を推薦する推薦状であったことは間違いがないだろうと思います。そして、パウロが「涙の手紙」をもってコリントの教会の人たちを正しい信仰、正しい福音理解に立ち帰らせたとしても、再び、その推薦状を持って、いやパウロは正統な福音の伝達者ではない、パウロは自己推薦しているだけにすぎないのだと反論してくるのではないかという不安をいだいていたと思われるのです。実際パウロは、この3章1節の直前の2章14節以降に、自分が福音の宣教の使命を負っている者であると、そういっています。すなわちパウロはこう言うのです。「しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。 しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。」

この14節にある「しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、」とある言葉は、ローマ皇帝が戦いに勝利をし、その勝利の凱旋の行進をする様子になぞらえながら、天に向うキリストの勝利の凱旋を思い起こさせています。そして、パウロもまた、そのキリストの勝利の凱旋に伴にあずかっており、神がキリストの勝利の凱旋に伴っているパウロを通して、人々を永遠の命に導く福音を一切混ざりものを入れず、純粋なまま語り伝え、パウロ同様にキリストの勝利の凱旋行進に伴にあすからせる任務に就かせているのだと言うのです。このように、パウロが自分をキリストの福音の伝道者だと言うときに、その背後には、パウロの反対者たちが「パウロは何の推薦状も持たず、単に自己推薦しているだけに過ぎない」と言って「パウロの言うことはあてにならない」と批判していたと思われ状況があったと思われます。特に3章の1節をみますと、「わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのだろうか」とあります。「またもや」と言っているのですから、実際にこれまでもそのように言われることがあったのでしょう。だから「またもや」というのです。

ですから、そのようなパウロに対する批判や非難が再びくり返され、せっかくパウロの言葉に耳を傾け、正しい信仰、正しい福音理解に立ち帰ったコリントの教会の人たちが、再び動揺し、誤った教えに引き戻されるのではないかという不安をこの3章1節の言葉に読みとることができるのです。しかし、そのような不安は次の2節の言葉で見事に吹き消されます。そこにはこう記されています。「わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている」。パウロにとって、誰かの推薦状が必要ではない、あなたがたが「パウロが混じりけのない純粋な福音を宣べ伝えている伝道者である」ということを証ししているというのです。もちろん、そのことを裏返せば、コリントの教会の人たちが、今は誰かの推薦状に頼ることなく、その心でパウロの言っていることが正しく、パウロの言葉に耳を傾けて聞き、そして従わなければならないと受け止めているということがそこにあります。

そして、それを受け止めさせたのは生ける神の霊である聖霊なる神の働きなのです。パウロは、ローマ人への手紙8章14節から16節でこのように言っています。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。」ここで言われていることは、私たちが神の子、すなわちクリスチャンであると言うことは、聖霊が私たちの心に確証させてくださるということです。私たちが、神を信じ、神によって生かされ、神を礼拝する中で慰められたり癒されたり、聖書を読む中で教えられ支えられていくといった宗教的な経験は、神を信じる者に与えられた聖霊によってなされる聖霊の業であり、その聖霊なる神が、私たちが救われ神の子となったということを、私たちの心に確証させるのだというのです。

それこそ、誰かれが、「あなたはクリスチャンであることはまちがいない」「あなたを神にクリスチャンとして推薦する」といった人の言葉に保証されるのではなく、私たちの心に聖霊が働きかけて確証を与えるのだということなのです。その宗教的経験が、私たちの信仰の確かな根拠となるのであるということだと言っても良いだろうと思います。ですから、コリントの教会の人々が、推薦状があるから、あるいはそれがないからといった人間の業によって事の真理を確かめるのではなく、彼らが、「パウロの語る福音を聞き、それによってそうだ私たちは確かに神に救われ神の子となったのだ」と確信できるならば、それこそが、まさに「パウロは混じりけのない純粋な福音を宣べ伝えている伝道者である」ということを証する者なのです。ですから、パウロにはもはやコリントの教会の人々に対する推薦状は必要はないのです。コリントの人たちの心自体がパウロを「混じりけのない純粋な福音を宣べ伝えている伝道者」として自分自身に推薦しているからです。そしてそれは聖霊なる神が、人々の心にパウロを福音の伝道者として推薦しているとうことでもあるのです。

しかも、それだけではありません。コリントの教会の人たちが、他の人たちに対するパウロの推薦状として、すべての人に知られ、かつ読まれる存在となるのだとパウロは言うのです。もちろん、パウロは、ただ何もしなくても推薦状になるといっているわけではないだろうと思います。そうではなくて、私たちを神の子であると確証させる聖霊の導き、語るところに従って生きるならば、あなたがたはパウロの推薦状となるのであり、それだけではなく、キリストの手紙として福音を証しし、キリストを伝えるものとなるのだとさえいうのです。すでに、述べましたように、コリントの教会にはいろいろな問題がありました。その中には、教会員どおしが争い裁判を行なっているとか、自分の父親の妻、おそらくそれは義理の母親のことだろうとおもいますが、その義理の母親と同棲しているといった、教会の中だけでなく教会の外の世界の人であっても眉を潜めるような事が起こっていたのです。ですから、パウロはコリント人への第1の手紙の5章11節で、「兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をる者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない」といっている。それはまさに、コリントの教会が置かれている状況が、そのような状況にあったからです。そして、このような、「不品行や貪欲、偶像礼拝、人をそしる、酒に酔う、略奪をする」といったことは、聖霊が望まれる行動ではないのです。

パウロは、ガラテヤ書の5章で人間の罪深い性質から引き出される行動を肉の働きと言い、具体的にガラテヤ書5章19節20節で、次のような働きが肉の働きだと言います。すなわち「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない」ここに上げられていることは、コリントの教会の中にあった「不品行や貪欲、偶像礼拝、人をそしる、酒に酔う、略奪をする」といったことは、この肉の働きに重なり合うものであり、けっして神の国を受け継ぐことができないもの、つまりクリスチャンの生き方ではないというのです。それに対して、同じガラテヤ書5章で、御霊に教え導かれた生き方を御霊の実といい、5章22節以降にその聖霊に教え導かれる生き方がどのようなものであるかを示し、そして継ぎのように勧めるのです。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。」

パウロの言葉に耳を傾けず、福音に背を向けて生きていくときにコリントの教会の人たちの歩みは、「不品行や貪欲、偶像礼拝、人をそしる、酒に酔う、略奪」といった肉の働きによるものでした。けれども、パウロの言葉に耳を傾け、神を信じ、キリストを自分の罪の救い主と信じ、この御方に寄りすがり生きる者の心には、父とイエス・キリスト様から送られた聖霊なる神が私たちの心の内側にすんでくださるのです。そして、この聖霊なる神の語る言葉に耳を傾け生きるならば、御霊の実と呼ばれる「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」といったものが私たちの生き方の中に顕れ実を結んでいくのです。そして、そのような生き方の変化が、「パウロが混じりけのない純粋な福音を宣べ伝えている伝道者である」ということを証しし、パウロを推薦する推薦状になるのです。それだけではない、キリストの手紙として、キリストの福音の素晴らしさや真実さも伝えていくというのです。

考えてみますと、パウロがコリント人への第1の手紙で、すべての問題を解決する鍵として強調したことは二つのことに集約されます。一つは、十字架につけられたキリストを見上げるということ、そしてもう一つは愛によって生きるということです。ですから愛を追い求めなさいとすすめるのです。ただし、この場合愛を追い求めなさいと言っても愛されることを追いもめなさいと言うのではありません。愛することを追い求めなさいというのです。なぜなら、私たちは神とキリストによって、すでに十分に愛されているからです。だから、神に愛されている者として愛することを追い求めるのです。そういった意味では、この二つのことは一つのこと愛するということにまとめてもよいかもしれません。それは、キリストの十字架の死は、神とキリストの私たちに対する愛だったからです。十字架の上で、神のひとり子でありイエス・キリスト様の命を犠牲にするほどに神は私たちを愛してくださったのです。そのように愛されたからこそ、私たちは神と人とを愛する者になっていくことができます。この愛こそが、神の霊によって私たちの心の板に書かれたキリストの手紙なのです。神の愛で愛された、その愛に突き動かされて私たちは神と人とを愛する者になっていく、その時に、その愛が御霊の実として「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」といったものが私たちの生き方の中に具体的に顕れてくるのです。

みなさん、このキリストの文字は、私たちの心の板に書かれていると聖書は言っています。3節です。「そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。ここでは、キリストの手紙は墨によらず、生ける神の霊によって」、「石の板ではなく、人の心の板に」書かれているとあります。この「石の板ではなく、人の心の板に」と対比されているなかで、石の板はモーセの十戒が記された律法を思わせる言葉です。そしておそらくパウロもモーセの十戒が記された石版を念頭においていただろうと思います。しかし、パウロがあえてそのモーセの十戒の書かれた石の板と人の心の板とを対比させたのは、律法を否定するためではなかっただろうと思います。むしろ、単なる書かれた文字に従うということではなく、心から神を愛する思いに立つならば、モーセの十戒に書かれているようなことは自然と私たちの生活の中に顕れてくるということがいいたかったのだろうと思います。

そのモーセの十戒とは一体どのようなものだったでしょうか。モーセの十戒は旧約聖書の出エジプト記20章にありますが、実は、この10戒は教派によって若干区分が違います。その違いは、偶像を作ってはならないというものを第1戒に含ませるか含ませないで第2戒かどうかという違い、また隣人の妻を欲してはならないという戒めを隣人の財産をむさぼってはならないという第10戒に含ませるか、独立させた一つの戒めとするかによる違いですが、ここでは、ホーリネス教団が採用している区分に従いますと次のようになります。週報の裏表紙に、書いてありますのでそちらの方を御覧になりながら聞いて下さい。
わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
第1戒 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
第2戒 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
第3戒 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
第4戒 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
第5戒 あなたの父と母を敬え。
第6戒 あなたは殺してはならない。
第7戒 あなたは姦淫してはならない。
第8戒 あなたは盗んではならない。
第9戒 あなたは隣人について、偽証してはならない。
第10戒 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。

これらの戒めは、旧約聖書ですからヘブル語で書かれていますが、決して禁止の命令としてかかれているわけではありません。むしろ、私たちが神を神とするならば、当然このようなことはしないであろう、あるいはするであろうという言い回しで書かれているのです。つまり、私たちが神を愛するならば、このような十戒に書かれていることからは自然と守り行なわれていくというのです。そのような言い回しは、宗教改革者のマルティン・ルターという人にもしっかりと受け継がれています。宗教改革というのは、人間が神の救いに与るためには、ただイエス・キリストの十字架が私たちを救う神が私たちに与えて下さった唯一の手段であるとして信じ信頼するだけでよいという「信仰義認」という考え方を中心に繰り広げられていきました。その際、この「信仰義認」という考え方をもとに、福音を伝え、執り成しの祈りを捧げる働きは司祭だけに限定されたものではなく、すべてのクリスチャンに与えられた勤めでありという「万民祭司」という考え方と、キリスト教の教えのすべての根源と権威は聖書のみにあるという「聖書主義」という考え方を中心にして、教会の改革運動を行なっていきました。

この「信仰義認」と「万民祭司性」・「聖書主義」の三つを宗教改革の三大原則と呼びます。この内の「聖書主義」というものに関係して、聖書はだれでも、真摯な信仰をもって読むならば正しく解釈できると主張しました。それまでのカトリック教会は、教皇だけが聖書を正しく解釈することができるのであって、教皇以外には誰も聖書を解釈することが出来ないという『教学権』というものを主張していたからです。それに対してルターは、聖書は誰でも真摯な姿勢と正しい方法を持って読むならば、理解し解釈することができるとそう主張したのです。しかし、そのように一人一人が聖書を理解できるという主張のもとに、実際はどういうことが起こってきたかというと、ことは様々な解釈が出てきて百花繚乱の状況になってしまったのです。それは、宗教改革の代表的な指導者であったルターとツビングリという人の間すら起こっていたことでした。たとえば、聖餐に関して主イエス・キリスト様は、「これはあなたがたのために裂かれた私の体である。これを食するたびに我を覚えよ」といわれましたが、この言葉の解釈と理解をめぐってルターとツビングリの間で意見が分れ、結局一致を見ない状況だったのです。ですから、単に指導者だけの意見の違いというだけでなく、教会においても意見が分れてしまうというということが起きてもおかしくはありません。

そのような状況の中、ルターは信徒たちが自分勝手な信仰に陥ることなく、正しい信仰を受け継ぎそれを育成するための道具としてカテキズムという教理問答書を作りました。特に父親が子どもたちに信仰教育をするための道具として用いるということを念頭に置いて小教理問答というものを作ったのです。この小教理問答は、最初に「十戒について」書かれており、次いで「 使徒信条について 」「主の祈りについて」「 洗礼について 」「罪の告白について」 「聖餐式について」 「朝と夕べの祈り ・食事の祈り」について、子供が父親に質問をして、父親がそれに答えるという形式になっています。ルターは、この小教理問答の一番最初に「十戒」を持ってきたのは、十戒に私たちの信仰に大切な内容があると考えたからだと思います。大抵のことがそうですが、一番言いたいことを最初に持ってくるからです。特に西洋の発想はそうです。ですから西洋の言葉の語順は、大体は一番言いたいことが最初にきます。

そのルターが、私たちの信仰にとってもっとも大切だと考えた「十戒について」、ルターは小教理問答でこのように言っています。
「第一の戒め:他の神々を神としてはいけません。
問い お父さん、これはどういう意味ですか。
答え 私たちは他の何よりも唯一の神を畏れ、愛し、信頼しなければならないということです。
第二の戒め:神の名前を誤った目的に使ってはいけません。
問い お父さん、これはどういう意味ですか。
答え 私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。だから、神の御名を用いて呪ったり、誓ったり、呪文を唱えたり、嘘をついたり欺いたりしてはなりません。そうではなく、神を求め、神に祈り、神を賛美し、いかなる困難なときにおいても神に感謝するために、神の御名を用いなさい、という意味です。」

以下第3戒、第4戒と進んでいくのですが、お父さん、これはどういう意味ですかと、質問がなされるたびに「私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。だからこうこうしなければならないのだと」といって子どもたちに神を信じて生きていくということを教えていくのです。ルターの小教理問答は、私たちホーリネス教団の十戒の区分と違っています。これは先ほど申し上げた教派によって十戒をどう区分するかが違うからで、ホーリネス教団はカルヴァン派の伝統に基づく十戒の区分を採用しているからなのですが、しかしいずれにしても、この小教理問答の根底には、ヘブル語の十戒の表現が、私たちが神を神とするすなわち、神を愛するならば、当然このようなことはしないであろう、あるいはするであろうという言い回しに表された精神が生かされているのです。そして、逆に言うならば、この十戒に書かれているようなことが何かしら負担となって感じられ、義務として守らなければならない重荷と感じられるようになってきているならば、私たちの信仰は、健全な状態ではなくなっているということです。

ですから、十戒は私たちは自分自身の心をチェックし、私たちの信仰をチェックする有効な手段のひとつであるといえます。もし、礼拝がおっくうになっていたり、礼拝が重荷になっていたならば、自分自身の信仰が健全な状況にはないと自覚しなければなりません。心が神以外のものに奪われ、神を信じ生きることよりも何か他のものが大切になっているならば、要注意だといえます。それは、十戒に刻まれた文字が石の板に刻まれ文字となり、私たちの心の板に生ける神の霊によって刻まれた文字となっていないからです。ですから、私たちはもう一度、私たちの罪や汚れ、そして私たちが負う悲しみや苦しみ、苦難を負うために十字架について死なれたイエス・キリスト様を見上げなければなりません。そしてそこに示されたキリストの愛に触れ、その愛を私たちの心に注いでいただかなければなりません。そうしないと、私たちは、自分が愛されることだけを求めて人を愛し、人に仕えるものになれないからです。キリストとの手紙としての役割を果たせなくなるのです。

みなさん、私たちは神から送られたキリストの手紙であるという自覚を持たなければなりません。それは、人を愛し人のために生きる私たちに与えられた使命です。生きる意味です。私たちは決して意味のない人生を生きているわけではないのです。私たちは、十字架に示されたキリストの愛を伝え、キリストの愛に生きる使命が与えられているのです。そしてその使命に生きる共同体としてこの三鷹キリスト教会に呼び集められているのです。そのことを覚え、キリストの手紙として神と人とを愛する生涯を歩むものとなっていきましょう。

お祈りしましょう。