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メッセージ

羊飼い 『霊と文字』
コリント人への第二の手紙 3章4−11節
2010/1/3 説教者 濱和弘

さて、今日は新しい年を迎えての最初の主日であります。昔、私が子供の頃は「一年の計は元旦にあり」といわれたものでした。すなわち、今年一年をどのようにすごすのかという一年の計画を立ててから、その年の歩みを始めなさいということです。しかしながら、教会の一年の歩みは教会総会によって決められますので、そういった意味では、「教会の一年の計は教会総会にあり」ということになりますから、まだ教会の具体的な計画をどうこう言う段階ではありません。ですが、毎年の慣例でありますので、先日の元旦礼拝において、教会総会に先駆けて、今年の私たちが向うべき信仰の指針、方向性といったものどのようなものであるかを、元旦礼拝の聖書箇所と説教を通して確認させていただきました。その今年の教会の指針と方向性とは、「イエス・キリスト様の弟子としてふさわしい歩みをしよう」ということです。そして、そのために「聖書を読み学び、礼拝を大切にし、愛し合い赦し合っていこう」ということです。

このように、「聖書を読み学び、礼拝を大切にし、愛し合い赦し合っていこう」と申し上げましても、それは、なかなか言うに易く、行なうに難しい事柄だといえます。昨年、初めてクリスマス・イブ礼拝を行ないましたが、新しい方が3人、そのイブ礼拝にご出席下さいました。礼拝が終わったあと、その中のお一人の方が、説教に応答して下さって「愛することが大切だというのは良くわかるのですが、愛するというのは本当に難しいことなんですよね。」と仰って下さったのです。それに対して、私も「そうですよね。本当に難しいことですよね」とそうお答えしたのですが、しかし、それで終わってしまっては、せっかく教会で聖書の話を聞いていただいたのに、空手で返してしまうことになります。ですから「人を愛することができるようになるには、愛されるという経験がないと愛せないですものね。だから神様に愛されるという経験が大切なのです」とそう付け加えました。

同じように、人を赦すということも難しいことです。そして、赦すこともまた、赦されるという経験が大切なのだと思うのです。今日の聖書の箇所の冒頭の言葉は、「こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。」という言葉で始まっています。このコリント第2の手紙は、パウロによって書かれたものですが、パウロが「こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。」というその確信は、同じコリント人への第二の手紙3章1節から3節の言葉を受けてのことだと思います。そして、そこで言われていることは、パウロがコリントの人たちに伝えた福音、すなわち、人が救われるのはキリストを信じる信仰によってのみである、神に対して善き業を行なうことによってではないということです。このキリストを信じる信仰とは、イエス・キリスト様を信頼するということです。イエス・キリスト様の十字架の死は私たちを罪から解放してくださるのに十分な業であると信頼しそれに自分自身のすべてを任せるということが信仰ということなのです。

よく「保険をかける」といったことを言います。たとえば、ちょうど今は大学受験期ですが、受験生が志望校を一つに絞って試験を受けるのではなく、万が一志望校の試験がうまくいかなかったときのために、滑り止めとなる学校を受ける際に「保険をかける」といった言い方をします。それは第一志望の学校に絶対受かるということが信頼できないからこそ、万が一の時ための備えをするということだと考えればよろしいかと思います。けれども、私たちの罪が赦されるということにおいては、イエス・キリスト様の十字架の死によって、私たちの罪が赦されるというけれども、万が一それが間違っていたら大変だから、保険として聖書の律法も守っておこうというような態度ではダメなのです。イエス・キリスト様を信じていれば絶対に大丈夫だと心から信頼し、自分自身の身を委ねてこそ信仰といえるのです。

パウロの「こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。」という言葉の背後には、このようなイエス・キリスト様の十字架の死が私たちの罪に赦しを与え、私たちを罪と死から解放するものであるという信仰の確信があります。そして、その確信に立って、コリントの人たちが、パウロが伝えた福音、それはイエス・キリスト様の十字架の死は私たちを罪から解放してくださるのに十分な業であると信頼するならば救われるという、一般的に信仰義認といわれるものでありますが、その福音に立って歩むならば、コリントの人たちは確かに罪が赦されたものであるという確信があるのです。だから、パウロは、コリントの人たちがパウロの伝えた福音を信じ、イエス・キリスト様の十字架の死によって私たちの罪が赦されるということを信じ、私の生涯をイエス・キリスト様におゆだねしますという人たちに対して、「あなたの罪は赦されていますよ」と断言し、罪の赦しの宣告をするのです。

もちろん、パウロは罪の赦しの宣告といったものが、人間の能力や力によってできるなどとは考えていません。ましてや人間が、あなたは救われているとか、あなたは滅びるなどということは決して言うことなどできません。たとえそれがパウロやペテロであったとしてもです。なのに、教会では「あなたの罪は赦された」とそういって罪の赦しを宣告します。罪の赦しの宣告といったものが、人間の能力や力によってできるなどとは考えていないパウロですら「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」といって伝道して歩いているのです。

どうしてそのようなことができるのか。6節においてパウロは「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす」といっています。つまり、パウロや教会が罪の赦しを宣言し、罪の赦しを与える福音を宣べ伝えているのは、神から力が与えられることによってその務めをしているのだというのです。ですから私たちは、正統的な信仰に繋がる教会の洗礼であるならば、それは紛れもなく神の力によってなされた救いの宣言であるとして信頼して良いのです。

今日は一年の最初の主日礼拝であり、1月最初の主日礼拝です。ですから本来ですと聖餐式が行なわれます。ただ、今年は1月3日といういわゆる三が日の中で最初の主日が来ましたので、礼拝に出席しにくい方も少なからずおられるときいておりましたので、聖餐式を第2週の主日礼拝に変更しました。その聖餐式において、私はいつも、正統的な教会で洗礼を受けられた方は、どちらの教会で洗礼を受けられた方でも、聖餐に与ることができますと申し上げておりますのは、そのような理由からです。では、正統的な教会とは何かということが問題になりますが、それは、これまたいつも申しますように、ニケヤ信条、カルケドン信条に立つ教会です。三位一体の神を信じ、イエス・キリスト様は全き神であり、全き人であるということを信じる信仰がキリスト教の信仰なのです。それは、まことの神をまことの神として心で受けとめ、それを信じ、その御方を崇める信仰です。

同時に、イエス・キリスト様が全き神でありかつ全き人であるということ、これは神学の言葉で言うならば神人イエスという言い方をしますが、その神人イエスを信じるということは、この御方を救い主として信じることでもあるのです。というのも、神が人となられたのは、神に背を向けているがゆえに罪と死とに支配されている私たちを救い出し、神と和解させ、神の命である永遠の命を私たちに与えるためだからです。ですから、神人イエスを信じ告白するときに、私たちはイエス・キリスト様が私たちの救い主であるということを信じる事でもあるのです。いずれにしても、このような正統的な教会の信仰に立つならば、それは何処の教会で洗礼を受けた人であろうと、私たちにとって兄弟姉妹であると言うことができます。そして、私たちと同じように神によって罪を赦された人たちなのです。同じように、正統的な教会に仕える教職者であるならば、その業は神の力によってなされるものであり、私たちはその業を認め受け入れることができます。教会から任職され、牧師となったものは、その任職によりなされる奉仕の業は、神の力によってなされるからです。

たとえば、説教も任職に伴ってなされる神の業です。ところが、この説教は個人の能力によって大きく作用されてしまうものです。先日、あるキリスト教の雑誌を見ていますと、3回にわたって、3人に説教者のことが紹介されていました。その三人とは、加藤常昭牧師、徳善義和牧師、そして小林和夫牧師でした。加藤常昭牧師は、改革派教会を代表する説教者であり、徳善義和牧師はルーテル教会を代表する説教者であり、みなさんも良く知っておられる小林和夫牧師は福音派を代表する説教者です。私は、幸いにもこのお三方のお話しを聞く機会があり、特に小林和夫牧師と徳善義和牧師は、個人的にもお交わりがあり、そのお人柄も良く存じ上げているのですが、確かにいずれも素晴らしい説教をなさる方です。また、小林和夫牧師については、前任者の加藤亨牧師とは親友とも呼べる間柄でもあり、私たちの教会とも深い交わりがあり、何度も私たちの教会の礼拝でご奉仕下さったので、みなさんも小林和夫牧師の説教の素晴らしさはよくご存知の事だと思います。

このようなお方の説教と自分の説教を比べますと、確かに自分の説教は見劣りがします。おそらくは、多くの牧師たちも同じように感じているのではないだろうかと思うのです。それは、牧師が自覚するだけのことではありません。信徒の方もそのように感じているのではないかと思うのです。実際、そのようなことを聞くこともありますし、聖会などといった特別な集会では、そのことが顕著な形で顕れてきます。今年も、来週の月曜の祝日に新年聖会があります。今は新年聖会を各教区ごとに行なうようになりましたが、私が修養生であった頃は、教団が主催して元旦から3日まで、聖書学院に泊まりがけで新年聖会を持っていました。そんなわけで、修養生は聖会の準備から、聖会の三日間の間のご奉仕をするのですが、聖会で誰が説教をするかによって明らかに集会に集う人の人数が違うのです。それこそ小林和夫牧師や村上宣道牧師が説教をなさる集会は、他の牧師が説教をする集会の倍近い人が集まるのです。それは、説教の善し悪しで集会の人数が異なるということを意味しています。他にもイギリスの説教者でスポルジョンと言う人がいました。この人は名説教家であり、幾つかの本も書かれておりますので、みなさんの中にもご存知の方がおられるのではないだろうかと思うのですが、このスポルジョンが牧師をしていた教会は、それこそ何百人と集まる教会でした。ところが、スポルジョンが引退して説教者が変わったとたんに、ガクンと礼拝出席者が減ってしまったというのです。これも、先ほどの聖会の状況に繋がるものです。

確かに説教のうまいへたはあります。しかし、説教者が説教者として講壇に立ち説教するのは、個人の能力や力によってするのではなく、神の力によってそれをするのです。ですから、どの説教でも、誰の説教でも、それがどんなへたくそだと思われる拙稚な説教であったとしても、その説教が神の力によってなされるので在れば、そこに聞くべきものがあるのです。むしろ、どの説教に対しても、私たちは、そこに神の語られることを聞き取ろうとする耳を持たなければなりません。なのに、初めから説教者の能力や力によって違いが出てくる説教の上手さの善し悪しによって、集会に出たりでなかったりするとするならば、それは初めから神の言葉に耳を傾けるという姿勢にかけていると言われても仕方がないのです。もちろん、だからといって説教者の側に問題がないともいいません。確かに何を言っているのか良くわからない説教もあるのであり、説教者は、より分かりやすい説教をするための研鑽を積まなければなりません。説教者が、説教は神の力によってなされる神の業であるからといって、研鑽を積むことを怠るとしたら、それは問題だといえます。

私は、以前、先ほど名前が挙げられた三人の名説教家のお一人の加藤常昭牧師が説教についてお話しをしておられるのを聞いたことがあります。その時に加藤常昭牧師は、ご自分の牧会をしておられる教会で、月に一度礼拝のあとの午後の時に、信徒の方が自由に説教について語る場を持っておられると仰っておられました。当然自由に語って良い場所ですから、説教の感想も在れば、説教に対する批判も出てくる。ですから、あまりそのような場には牧師は出たくないものです。けれども加藤常昭牧師はそのような集会を持ち、信徒の方が語られる言葉に黙って耳を傾けておられたというのです。それは自分の説教を磨き上げていくために研鑽としてなさっておられたのだろうと思います。だから牧師は、よりよい説教をするために努力しなければなりません。同時に、説教を聞く信徒のみなさんも、どんな説教であっても、そこに神の言葉を聞き取ろうと努力しなければならないのです。

その意味では、私はみなさんを誇りに思っています。というのも、私の前任者の加藤亨牧師から私に牧師が変わっても、みなさんは変わらずにこうして礼拝を守っておられるからです。加藤亨牧師は、先ほどの小林和夫牧師が良い説教をすると認めていた説教家でもありました。ですから、その加藤亨牧師の説教と比べると明らかに見劣りのする私の説教に変わっても、変わらずに礼拝を守り続け、そのような拙い説教の中にも神の言葉を聞き取ろうとして下さっているからです。ですから、その姿勢をこれからも持ち続けていただきたいと思うのです。しかし現実には、説教の善し悪しで礼拝に出なくなったり、集会を間引きしたりするような場面を見ることもあるのです。それは、説教の表面に出てくる人間の言葉に目を向けて、説教の言葉の背後にある神の言葉の本質に迫ろうとしないからです。

そこで、パウロの言葉に立ち帰って見ますと、パウロは「文字は人を殺し、霊は人を生かす」と、そういっています。ここでパウロがいっている「文字は人を殺し、霊は人を生かす」と言っている言葉は、説教に関して言っている言葉ではありません。むしろ、律法と福音の関係について述べられている言葉だといえます。しかし、この律法と福音の関係は、今お話しました説教の話と無関係ではありません。そこには上面に現れ出ているものと本質の関係があるからです。そこで、この律法と福音の関係ですが、パウロは、「文字は人を殺し、霊は人を生かす」と言った後に、「もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、 まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか」と続けています。

この「石に彫りつけた文字」というのは、神によってモーセの十戒が記された石版のことをイメージしながら語られた言葉ですが、要は旧約聖書にある律法のことです。ですから、その律法に対峙させられる形で語られている「霊」は福音と考えてもまず間違いはありません。そして、その「石に彫りつけた文字」である律法は死の務め果し、「霊」にたとえられている福音はその死の務めよりも遙かにまさる栄光があるのだというのです。律法が死の勤めを果す。それは律法が私たちの罪を宣告するからです。そして、罪の宣告は私たちが神の前に裁きを受けるものであるという宣告でもあります。その神の裁きは永遠の滅びです。私たちの肉体だけでなく、魂までも滅ぼす霊の死をもたらすものです。ところが、パウロは、その恐ろしい死の宣告という律法の務めも栄光在る勤めだというのです。なぜでしょう。それは死の宣告という死の勤めが私たちを悔い改めさせるからです。悔い改めというのは、神に目を向けるということです。私たちは死を宣告されることで初めて真摯な態度で神に目を向け神の言葉に耳を傾けるというのです。

私は、しばしば、宗教改革者のマルティン・ルターのことを引き合いに出します。元旦礼拝においてもルターの話をしましたので、またかと思われるかもしれませんが、ここ数年ルターについて学んでいることもありおゆるし頂きたいと思うのです。私は、もともとルターという人は、人間的側面から見ればあまり好きではありません。むしろルターと激しく議論をやりあったエラスムスという人に心引かれる者なのですが、その私から見てもルターという人が語ったことの中には聞くべき内容のものが数多くあります。実際信仰者としてのルターの姿勢や神学的深みは尊敬に価するものなのです。そのルターが、人間は自分自身に絶望しきらなければならないというのです。自分自身に絶望しきらなければ、心から神により頼み、イエス・キリスト様により頼むということが起きてこないからです。信仰とは、自分自身に絶望しきるところから産まれてくるものだというのです。

死の宣告が栄光の働きであるのは、死は私たちにとって絶望だからです。けれども、このどうしようもない深い絶望を通って人は初めて神によりすがり、神により頼むのです。だから、人に罪を宣告し死と滅びを宣告する務めも、大切な神の勤めであり栄光在る務めだというのです。もちろん、ただ単に罪の宣告と死の宣告に留まっているならば、それが如何に栄光在る勤めであったとしても、人を絶望に陥れ、死にいたらしめるだけでしかありません。死という絶望を通して人を神に立ち帰らせ、神に目を向けさせてこそ、死の勤めは本当に栄光在る勤めとなるのです。だからこそ、人に命と希望を与える福音は、死の務めにまさる栄光の勤めなのです。つまり、表面的には私たちに絶望を与える律法の働きも、その本質は私たちを悔い改めさせ、神に対する信仰に導く栄光の働きなのです

ですから、私たちが「律法に刻まれた文字だけを見て、「律法を守らなければ神の裁きにあって滅んでしまう」というだけであるならば、それは人を絶望させ死に至らせるだけの死の務めきにしかすぎません。しかし、そのように、滅んでしまわなければならない存在だからこそ、私たちを救うイエス・キリスト様の十字架の死に寄りすがらなければならないと言うならば、それは私たちに命と希望をもたらす栄光の務めに変わるのです。そして、その希望の光に照らされたときに絶望はもはや絶望でなくなり、死は命に変えられていきます。不可能が可能に変えられていくのです。なぜならば、私たち人間の力では絶望は克服することができず、死を克服することもできないからです。キルケゴールというクリスチャンの哲学者は「死に至る病は絶望である」といいましたが、まさに絶望は死をもたらすのです。

私は、この説教の最初に、「愛すること」「赦すこと」は本当に難しいことだと申し上げました。しかし、私たちが自分の力でそれを成し遂げようとしたならば、確かにそれを行なうことは難しいことです。自分の力でそれを成し遂げようとするならば私たちは絶望し、あきらめなければなりません。そして、あきらめは死なのです。けれども、自分の力に絶望したとしても、そこで神によリすがるならば、そこに希望が生まれてきます。できないことができる事へと神の力によって変えられていくからです。私たちは人間の力や能力の限界という事だけを見ていたならば、私たちは絶望するしかありません。しかし、神を信じ、イエス・キリスト様を信じる者には絶望は絶望で終わることはないのです。そこに希望が生まれてくる。ですから、この死に命を与え、絶望に希望を与える神を信じる私たちは、たとえどんなに愛することが難しいことであっても、赦すことが難しいこことであっても、神の力によって愛する者となり、許すものとなることができるのだと信じ、希望を持って歩んでいこうではありませんか。それこそが、文字に仕える者ではなく霊に仕える者としての生き方なのです。

お祈りしましょう。