『倫理と道徳』
コリント人への第二の手紙 3章12−18節
2010/1/10 説教者 濱和弘
私は、今朝の礼拝における説教の説教題を「倫理と道徳」としました。これは説教題を決めたときにも思ったことなのですが、しかし、あらためて週報にある説教題を見ますと、おおよそキリスト教の礼拝で語られる説教らしからぬ説教題だなと思わされます。まるで、大学の倫理学の講座のタイトルのような感じがします。けれども、私がここであえて「倫理と道徳」という説教題をつけましたのは、今日の聖書の箇所が、旧約聖書の律法のことを取り上げているからです。もちろん、先週の聖書の箇所、先々週の聖書の箇所においても、旧約聖書の律法が取り上げられていました。そこでは、石の板という表現をつかって、パウロの伝えた福音と対比させ、古い旧約の約束が新しい約束、すなわちイエス・キリストを信じる信仰によって私たちは神と和解し救われるという福音に基づく約束に取って代わったのだということが主張されていたのです。
この古い約束は、旧約聖書に記されている律法のことです。つまりパウロは律法と福音を対比させ、律法による生き方から福音によって生かされる生き方に変わったのだというのです。このように、パウロは福音と律法をしばしば対比させながら話をします。ですから、私たちは気をつけないと、律法は悪いものであり、福音がよいものだと勘違いしてしまいます。しかし、パウロは決して律法は悪いものだと言っているわけではないのです。ただ、律法をどう理解するかということが大切なのです。律法とは神の民であるイスラエルの人々がいかに生きるべきであるかということを示した指針です。いうなれば、神の民の「倫理、道徳」なのです。そういった意味から、「倫理と道徳」という説教題にしたのですが「倫理」と「道徳」では、若干、意味合いが異なるように思われます。
私は今、教団の教理研究委員会という部門の委員をしています。ここでは教団の教理に関することについて研究提言をするセクションなのですが、そこでいま教理読本を出そうということ担っています。私もその中で「啓示論」と「神論」の部分を執筆する事になっており、「啓示論」については、大まかなところを書き、委員の中で内容の検討などを行なっています。その中でこの「倫理と道徳」との間にはニュアンスの違いがあるのではないかというところから、話を展開していったところ、その倫理と道徳の違いの理解はオーソライズされたものかというところから、議論が紛糾したことがありました。というのも、国語辞典では倫理も道徳も同じものであるかのように扱っていたからです。
私は、和辻哲郎という哲学や倫理学の部門で日本を代表する学者が「倫理学」という本の中で、倫理というのは人と人とが生きていく上でうまく関係を保てるようにするものであると述べておられるところから、倫理は、人とひととの間の取り決めであり、社会によって決められるものであるが、道徳は、ある絶対的な価値観を基準、たとえば「善」だとか「愛」だとか「徳」といったものによって規定される行動決定の基準であると定義して話を展開したのですが、そのような定義づけがいわゆる倫理学の世界でなされていないのではないのかということで、結局その部分は削除して書き直すことになりました。しかし、私としてはちょっと悔しい気もしますので、倫理と道徳の定義づけについて、少し調べてみましたが、ドゥールズやスピノザといった哲学者が、同じような定義に立っていましたので、私なりには、やっぱり良かったんだと思ったわけですが、いずれにしても、今日の聖書箇所から、旧約聖書の律法という問題について考えたいと思っているのです。
そこで、今日の聖書ですが、今日の聖書の箇所でパウロは「こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない」といっています。こうした望みを抱いているというその望みは、救いの望みです。キリストの十字架の死が私たちに罪の赦しを与え、私たちを支配する罪と悪の力、そして死の支配から解放する業であると信じ、それに寄りすがるものは、神の救いが与えられ、神の子として永遠の命を与えられるというその望みです。そして、それは永遠の命というものが関わる望みですから、決して消え去ることのない永存する望みです。そのような望みを抱いているから、思い切って大胆に福音を語り、伝えることができるのだというのです。
それに対して、「モーセが消え去っていくものの最期をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない」とこういうわけですが、これは、先ほど司式の兄弟にお読み頂いた旧約聖書出エジプト記34章29節から35節までの事であろうと思います。しかし、その聖書の箇所の何処を読んでも、パウロが言う「モーセが消え去っていくものの最期をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない」といった内容が読みとれる箇所はありません。ですから、「モーセが消え去っていくものの最期をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけた」というのはパウロの独特な理解がそこにあるのだろうと思います。つまり、モーセが神と会い、神と語り合うと神の栄光の光をうけて、モーセの顔がその光を照り返すようにして輝いていたので覆いをかけたのだが、その光はやがて消えていくのだということを語ることによって、モーセが神の律法をイスラエルの民にもたらしたその栄光はやがて消えゆく栄光であるが、イエス・キリスト様が福音をもたらしたその栄光は永続するのだということを言わんとしていると考えられるのです。そしてそれは、今日の聖書の箇所の直前にある3章10節と11節の「 そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである」という言葉と、調和し呼応しています。
しかし、それ以上にここで注意してみなければならないのは「顔のおおい」ということでしょう。というのも、14節から16節にかけて、「実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」と話が展開して行くからです。この話の展開は、旧約に律法に生きている人は、心に覆いがかかって取り去られていないから、その旧約の律法を正しく理解できない、あるいは神を正しく理解できないといった意味にたって、そこからイエス・キリスト様を通して初めて心のおおいが取除かれ、旧約聖書の律法が理解でき、旧約聖書に表された神が理解できるというふうに発展していく展開なのです。平たく言うならば、旧約聖書は新約聖書によって理解しなければ正しく理解できないということ、あるいはイエス・キリストという御方によって理解しなければ旧約聖書の神という御方が理解できないということです。
聖書を理解する、解釈すると言っても良いだろうと思いますが、実は中世には一つの解釈方法しかありませんでした。それは聖書の言葉には4重の意味があるので、その4つの意味を汲み取っていくという4方式による解釈といわれるもので。その4つの意味とは、一つは字義的・歴史的意味で、それは聖書の言葉そのものの意味、その次に寓話的意味、比喩的意味といっても良いと思いますが、聖書の言葉は何か教会的な意味が比喩的に表現されているというものです。たとえば、ルカ10章25節から37節までに良きサマリア人の物語があります。この物語で、強盗に襲われた旅人は堕落した人間を意味し、良きサマリヤ人はイエス・キリスト様のことであり、宿屋は教会、傷をいやすために注がれた油と葡萄酒は、心を尽くして、思いをつくし、精神を尽くして神を愛せという愛の教えとあなたの隣人をあなたの自身のように愛せという、二つの愛の教えであるといったように、何か教会的な意味に置き換えて理解するというのが寓話的解釈です。そしてそのような教会的から意味を転じて、そこから道徳的な意味を引き出し、最後に霊的な意味を汲み取っていくというような理解の仕方です。
ところが、宗教改革の時代に入って参りますと、そのような四つの意味から聖書の解釈する解釈方法は正しくないのではないかという聖書解釈に対する新しい考え方が産まれてきました。つまり宗教改革は、同時に聖書の解釈方法の改革でもあったのです。その宗教改革で出てきた聖書解釈の方法は、聖書のわかりにくい部分は、より分かり易い部分によって解釈すべきであるという「聖書を聖書で解釈する」という解釈方法でした。これはルターという人が主張した解釈の方法です。同時に、ルターは十字架にかけられたキリストのみが神を表していると言っています。ですから、結果としてそれは、旧約聖書はキリストの出来事を通してのみ理解することができるということであり、つまりは、新約を通して旧約を知るということなのです。ほかにも、カルヴァンという人が同じような主張をしています。カルヴァンは、旧約聖書は新約聖書の真理から解釈しなければならないし、旧約聖書の記述はイエス・キリスト様という御方と如何に結びつくかを考えながら理解しなければならないというようなことを言ったのです。そういった意味では、カルヴァンはまさに、今日のテキストが言っているように。キリストによって心の覆いを取除いていただき、旧約聖書を理解しなければならないと言ったのです。そのように、新約の光に照らしながら旧約を理解するということは、神を知るということのためには、極めて大切なのです。
ともうしますのも、一般に旧約聖書を読んでイメージする神の姿と、新約聖書を読んでイメージする神の姿には、ちょっとしたギャップと申しますか、違いがあるからです。良くいわれることですが、旧約の神は、人を裁く恐ろしい神のイメージがあり、新約聖書の神は人を赦す愛の神イメージがあって、両者がうまく結びつかないというのです。こんな事がありました。私は以前、家族がエホバの証人になってしまった方の相談にのっていました。そして、家族の方がエホバの証人から抜け出すためのお手伝いをしたりしていました。それこそ、エホバの証人になってしまった家族の方と、膝をつき合わせて話をするわけですが、ある時、小学3、4年生のお子さんがいらっしゃる方と、エホバの証人の間違いについてお話ししなければならないことがありました。それは、膝をつき合わせての話ですから、その小さなお子さんを側においておく訳にはいかないので、夏期のミッションできていた女子の修養生に、そのお子さんの相手をしてもらいました。要は子守です。
夕方になって、その修養生に、「どうだった」と話を聞きますと、「不思議なんです。あの女の子に神様ってどんな御方ってきいたら、神様は恐い人だっていうんです。どうして、神様ってやさしい御方ではないのと聞いたら、神様は、人を滅ぼすから恐いといったんです。」と私に報告してくれました。どうしてそのようなことになるのでしょうか。それは、エホバの証人の聖書解釈の原理が旧約聖書から新約聖書を解釈するからです。旧約聖書においては、神のお心に背き、神が喜ばれないような生き方を生きているイスラエルの民はことごとく神の裁きにあいます。ソドムとゴモラの町のように、天から火が降ってきて、町ごと滅んでしまったようなことさせえある。その神が、たとえ新約聖書において、イエス・キリストが私たちを救うために十字架について死んでくださったとしても、その怒りの神、裁きの神が喜ばれるような生き方をしなければ、最期の最後で滅ぼされてしまうのです。だからエホバの証人の人たちは、神に喜ばれるために、寄付という名の下で彼らの機関紙や書籍を買い、それを街頭に立ち彼らの配り、また訪問伝道の仕方をまなび家々をたずねて配りながら伝道するのです。彼らの伝道の情熱はそこから産まれてくるのです。
しかし、新約聖書の光で旧約聖書を見ると全く違った世界が見えてきます。神は、ご自分のひとり子さえも惜しまないで十字架にかけて死なせるほどに私たちを愛し、私たちを救おうとしてくださっている御方です。そして、神のひとり子のイエス・キリスト様も、神であられたのに人となられ、私たちを救うために、十字架について死なれたのです。そのような愛で私たちは愛されている。その新約の光をもって、旧約聖書を見ると、人間は、神の前に神に喜ばれる生き方を律法として示されても、それを生きることができないそのような罪に染まり、罪と悪の力の支配に置かれている存在であり、神に裁かれても仕方がない者なのです。そして、何度も神は立ち直る機会を与えても、結局、人間は自分の努力や頑張りでは神に喜ばれることが出来ない存在なのです。だからこそ、神は救い主としてイエスキリストをこの世に送ってくださったのです。旧約聖書は、そのように、私たちの罪深さを教え、その私たちを忍耐し、救いおうする神の愛へ私たちを導くのです。
そして、もし今日(こんにち)に至ってもなお、私たちが、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが私たちの心にかかっているとするならば、私たちは決して神の愛に至ることはありません。しかし、私たちの心が、主イエス・キリスト様に向けられるならば、その心のおおいは取り除かれて、私たちは、私たちの罪深さを知り、私たちの努力や頑張りでは決して神を喜ばせることができないことを知るのです。そして、そのような私たちを救うために、ご自分のひとり子までも犠牲にされた神に愛を知ることができるのです。みなさん「 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」といいますが、この自由は、自分の力では決して神が喜ばれることをすることができないということを知ることから始まります。できないことをしなければならないと頑張っているうちはとても自由はありません。できないことはできないのだと認めて、はじめて「しなければならない」ということから解放されて自由になるのです。しかし、心を主イエス・キリスト様に向けることをせず、未だに心に覆いをかけられている人は大変です。そのような心に覆いがかけられているかぎり、今でも「しなければならない」に縛られてしまっているのです。
先ほど、旧約聖書で新約聖書を解釈するエホバの証人の人たちの話をしました。彼らにとって問題なのは旧約聖書の神なのです。ですから、律法をまもる、神に喜ばれる生き方をすることが第一です。そうしなければ、恵みの神に会えないからです。だから恵み深い神に会うために一生懸命伝道をして歩きます。エホバの証人の方の世界は一種の階級社会です。エホバの証人の世界は、洗礼を受けるとみな伝道者と呼ばれます。そしてその伝道者の世界も、伝道者、正規開拓伝道者、特別開拓伝道者というふうにランクがあります。このランクは、週に何時間伝道の奉仕をするかによって決まっているのです。今は少し短くなったようですが、私がエホバの証人問題に関わっていた頃は、伝道者で週40時間、開拓伝道者で週60時間、特別開拓伝道者になると週に90時間も伝道奉仕に出かけ、家々を訪問し、街頭に立って彼らの機関紙を配らなければならないのです。それ以外にも、週に一度、聖書研究のいう名で、「ものみの塔」とか「目覚めよ」といった彼らの機関紙に書かれている内容を学ぶための集会にでかけ、日曜日に集会があり、午後には王国神権学校と呼ばれる、訪問伝道の仕方を学ぶ集会などに出なければならないのです。その上に、40時間、60時間、90時間という伝道奉仕がある。このような「しなければならない」生活の縛られていては、それこそ肉体的にも、精神的にも自由などないのではないかと思うのです。
しかし、私たちはできないのです。そしてそのできない私たちを神は愛してくださり、できない私たちが救われるようにと、イエス・キリスト様を十字架で死なせるという、神の痛みを伴う救いの業を成し遂げて下ったのです。ですから私たちは、恵みの神に出会おうと頑張る必要はありません。私たちはすでに恵みの神に出会っているからです。もちろん、そのように恵みの神に出会っているということは、何もしないということではありません。さきほど、最初の方で申し上げましたが、パウロは律法と福音というものを対比させてかたることが多くありました。ですからパウロは律法を否定しているように見えますが、決してそうではありません。律法は神のお心に従いや神と向き合いながら民が生きていく上で求められている倫理であり道徳ですから、それは本来は良いものなのです。ですから、聖書の他の箇所でパウロは律法は良いものだと言っているのです。
この律法に対して、15世紀の宗教改革者たちは、律法の良い働きの側面を律法の用法という言い方で言い表しました。たとえば、ルターは律法には二つの用法があるといいました。すなわち、第一の用法としての私たちが如何に生きていかなければならないかというこの世の生き方を示すものとしての用法、そして、そのような方法が示されてもそれをすることができない自分に気づかせ、神の恵みに導く養育係としての第二の用法です。これに対して、カルヴァンはもう一つ律法の第三の用法というものを付け加えました。それは、律法は、生まれつきの人間には守ることができないものであり、それゆえに私たちを福音に導く養育係としての働きを成すが、しかし、神を信じて新しく生まれ変わったものは、そのできなかったことができる者へと生まれ変わったことなのだから、律法はクリスチャンがいきていく上での規範、すなわち倫理であり道徳なのだというのです。
カルヴァンという人は、もともとフマニストと呼ばれる、道徳的生き方、敬虔な生き方をすることによって人格形成をめざそうという考え方の人でしたから、私たちは神の前に何も良いことができない者であるということを認めたとしても、それで終わってしまってはいけないという思いがあったのかもしれません。恵みの神に出会い、新しく生まれ変わったのだから、そこからクリスチャンとしての人格形成をめざそうと言うことがいいたかったのだろうと思うのです。しかし、いずれにしても、私たちが、神の喜ばれるような生き方ができないにしても、倫理、道徳的にいい加減であってはならないという思いが伝わってきます。そのような思いは、実はルターも同じだったです。ルターは「キリスト者の自由」という本で、キリスト者という者はイエス・キリストの救いの恵みによって自由にされた者である。だからその自由を持って神と人とを愛し仕える生き方をしようというのです。そこには、「愛」というクリスチャンの道徳規準がちゃんと見据えられています。
そして、パウロです。パウロもまた私たちクリスチャンが神の前に神に喜ばれる者として生きていくことができるようになるというのです。コリント人への第二の手紙3章16節です。ここで、パウロはこのように言っています。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」私たちはみな、主イエス・キリスト様の十字架の出来事を通して、私たちを愛してくださる恵みの神に直接出会うことができます。聖書を通して、礼拝を通して、教会を通して私たちは神の愛に触れることができるのです。それは、大いに隠されることなく、鏡に映すようにあでやかに神の姿を心に映し出すことができるということです。そして、そのように神の愛に触れ、神に救われたものは、自分の力によってではなく、聖霊なる神の働きによってで、ルターが見出したところの「愛」というクリスチャンの道徳規準を生きる者に変えられていくのです。私たちはそのことを覚え、私たちを神の愛に生きる者へと変えてくださる聖霊なる神の働きに自分自身の思いと願いを委ねながら生きていこうではありませんか。
お祈りしましょう。