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メッセージ

羊飼い 『心に光を』
創世記 1章1−5節
コリント人への第二の手紙 4章1−6節
2010/1/17 説教者 濱和弘

さて、今日の聖書の箇所は、パウロの「このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。(口語訳)」という言葉で始まっています。パウロは3章の1節、2節で、「自分には誰かから書いてもらった推薦状は必要ない、むしろあなた方自身が私の推薦状である」とそういっています。それは、コリントの人たちにパウロが伝えた福音が正しいものであると判断させ、その福音に従って生きるようになったのは、聖霊なる神の業であるので、あなた方自身がパウロの言葉を聞きいれ信仰をもったということ自体が、パウロにとっての推薦状なのだということです。そのパウロが、「このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。」というのです。

「このように」という言葉は、原語であるギリシャ語のニュアンス的には、「この事のゆえに」といった意味合いです。それは、何かの根拠を指し示すことばです。つまり、「わたしたち」、それはコリントの教会に福音を伝えたパウロやテトス、テモテといった人たちでありますが、その「わたしたち」が、正しい福音の宣教師である根拠があるということです。そして、その根拠があるからこそ、「私たちは、神からのあわれみを受けてこの務め、福音を伝え、教会を建て上げていく務めについている」といえるのだとパウロはいっているのです。だとすれば、その根拠は何なのでしょう。それは、この言葉の直前に語られたコリント人への第3章でパウロが述べていることです。特に、4節以降に語られていることであると考えて良いでしょう。そして、そこで語られていることは、「イエス・キリストという御方を通して神を見上げようとするならば、神の真実のお姿を知ることができる。そして神の真実なお姿を知るときに、私たちは神に喜ばれる者へと変えられていく」ということのです。そのような信仰の出来事が私たちの中に起こってくる。だからこそ、パウロは、「落胆せずに、恥ずべき隠れたこと(隠れた恥)を捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。」といえるのです。

ここには、「落胆せず(やる気を失う、諦める)」という言葉があります。「落胆せず」という以上、パウロが福音を伝えていく中に落胆するような状況があるということが見越されていなければなりません。福音を伝え、教会を建て上げていくという務めにあたって落胆するような状況があるとするならば、それは第一に福音を伝えても、それが伝わらないという伝道の失敗です。実際、一生懸命頑張って伝道しても、実りがえられないということは、伝道する者にとって最も落胆するような出来事です。いや、本当にがっかりしてしまう。そして、伝道は必ず成功するというわけではないのです。むしろうまくいかないことの方が圧倒的に多いのです。

私たちの教会では5月に教会総会を持ちますが、私たちが所属する日本ホーリネス教団では、毎年3月に教団総会があります。教団総会では、私たちが総会で総会資料をお配りしますように、総会資料が配られます。この総会資料は、毎年教会役員の方には回覧してみていただいていますし、もちろんみなさんにも自由にみていただけるものですが、何年か前からその総会資料に少しの変化がありました。その変化とは、それまでの総会資料には、各教会ごとの礼拝人数や祈祷会の出席人数といったいわゆる教勢と呼ばれるものと、受洗者数が載っていたのです。もちろん、このような情報は各教会の状況を知るためには大切な情報の一つなのですが、その中に受洗者数が入っているというのが、牧師にとっては大変なプレッシャーになっていたのです。特に「○○教会、受洗者の数0名」などと出ていますと、一体その教会の牧師は一年間何をやっていたのかと責められるようで、大変な精神的抑圧を与えるということで、教会ごとの受洗者数を記載することを止めたのです。

もちろん、それに対する賛否両論はありますが、しかし、牧師というのは伝道することを使命と感じてその職に就くのですから、その結果が出ないということは、正直相当なダメージです。けれども、実際に受洗者0といった数字が目の前に突きつけられますと、誰が責めないでも、自分で自分を「私は一体何をやって来たのだろう」と責めてしまうのです。考えてみますと、この受洗者の数が記載されなくなった時期は、「牧師の燃え尽き症候群」ということが、教会で言われるようになった時期です。それまでの教会は、伝道すればそこそこの成果がえられていました。それこそ、経済成長と共に、教会も右肩上がりだったのです。ところが、ある時期から、日本の教会の成長に翳りが見え始めた。それは伝道が行き詰まり始めたということです。頑張って頑張って伝道しても、結果が数字として出でこないという状況が起こり始めたのです。先ほども申しましたように、牧師は伝道に使命を感じてその仕事に就きます。ですから、結果に結びつかないと、向っていく方向は二つです。

一つは、もっと伝道しなければならないと行って、信徒の方々を伝道に駆り立てるとか、結果が残せるような方法を考えて、行き詰まった状況を何とか打破しようとするか、自分がダメだから伝道がうまくいかないといって燃え尽きる方向に向うかのどちらかです。その背景には、やれば必ずできるという、人間の力への過信があります。「もちろん、やればできる」ということは必ずしも嘘ではありません。私も、息子に「頑張って勉強すれば、必ず結果が付いてくる」とか「稽古はけっして裏切らない」といって発破をかけますが、それは、「やればできる」とそう信じているからです。けれども、頑張っても結果が出ないことがあるのもまた確かなことなのです。たとえば、初代教会でもっとも成功したあのパウロですら、伝道に失敗するということがあったのです。パウロは、ギリシャのアテネで伝道します。しかしその結果は惨憺たるものでした。つまり、パウロ自身が、伝道は必ずしも成功するものではないということを、身を以て知っているのです。

あるいは、私たちホーリネス教団の神学的土台であるジョン・ウェスレーという人は、若い頃にアメリカのジョージアに宣教師として出かけていきました。けれども、そこでの伝道は失敗に終わり、失意の中で母国イギリスへ帰るのです。ウェスレーは、後にメゾジストとよばれる大教派を産み出していきますが、しかし、そのウェスレーも失敗からスタートしているのです。伝道は、必ずしもうまくいくとは限らない、ましてや、人間の力や能力でどうかなるようなものではないのです。だからこそパウロは、「あわれみを受けてこの務めについている」とそう言っているのだろうと思います。

みなさん、私は昨年末から、今年から私たちの教会は伝道ということに大きく舵を取りたいと申し上げております。もちろん、今までも伝道をしてこなかったわけではない、いままでも伝道してきた。けれども、より一層、伝道ということを念頭に置きながら教会の歩みを勧めていきたいと考えているのです。けれども、「伝道ということに舵を取りたい」と申し上げるごとに、正直、非常に大きなプレッシャーを感じているのです。「伝道する」といっているのに、「うまくいかなかったらどうしよう」「新しい人が増えていかなかったらどうしよう。洗礼者が起されなかったらどうしよう」と内心では失敗を恐れてびくびくしているところがある。実は私は小心者なのです。いえ、それは私だけの問題ではありません。教会も「伝道しよう」といって歩み、頑張っても結果が出なかったら、やはりがっかりしてしまう事もあるだろうと思うのです。特別伝道集会をしても新しい人が来ない。伝道礼拝にも求道者の方がいない。そのような現実があったならば、がっかりしてしまうだろうと思うのです。真剣に伝道しようと思えば思うほど、そうだろうと思うのです。

けれども、パウロは落胆しないというのです。うまくいかないことがあっても、落胆しないというのです。いえ、落胆してはならないのです。なぜならば、落胆するならば、燃え尽きて消えてしまうか、なんとかして、その落胆すべき状況を打破しようと無理をするからです。燃え尽きて消えてしまうのも問題ですが、「何とかしよう」と無理をするのも問題です。パウロは「落胆しない」といった後、こう続けています。「落胆せずに、恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである」「恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず」ということが何を指すかよくわかりません。「恥ずべきこと」「悪巧み」というのですから、倫理的な問題を念頭に置いているのかもしれません。

先日、インターネットで藤掛明というカウンセラーの方が書いておられるものを読んでおりました。このかたは、国の心理職として、少年鑑別所でのカウンセリングなどもおこなってこられたのですが、牧師という仕事は、日本で2番目にストレスがかかる仕事だというのです。一番目は皇室だそうです。いずれにしても、牧師は大変なストレスがかかる仕事であると言うのです。そして、そのような大きなストレスがかかると人間が生き抜くためには二つの道があるというのです。ひとつは病気になること、もう一つは、逸脱した恋愛関係に陥るということなのだそうです。実際、牧師の中で「うつ」になる人も少なくありませんし、牧師によるセクハラ等の問題が起こるということもあるのです。特に、このパウロの言葉は、コリントの教会に対して書かれた手紙の中にあり、コリントの教会の中にあった問題は、不品行や信徒同士の争いといったことでしたから、「恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず」といったことは、そういったことかもしれません。

あるいは、分脈から見てコリントの教会に推薦状を持ってやってくるパウロに敵対する人たちの事を言っているのかもしれません。そのような人は、実際にこの時代にいたのです。たとえば、グノーシス主義的キリスト教といわれる、哲学的なキリスト教や割礼を受け、律法を守って、そのうえでキリストを信じなければならないといったユダヤ的キリスト教徒いわれるものを伝え歩く人たちが、推薦状を持って、パウロが建てあげた教会を荒らしていたということがあるのです。彼は、自分たちが正しい教えを伝えている、神を伝えているといいつつ、実質は福音をねじ曲げて自分自身を誇り、またキリストの教会を建てあげるのではなく、むしろキリストの教会を混乱させていました。そのようなことは、パウロをがっかりさせる出来事だったろうと思います。いずれにしても、伝道がうまくいかない、せっかく建てあげた教会が混乱してしますという出来事は、伝道者として、あるいは牧師として、あるいはクリスチャンとしてうまくいかない、願ったように事が運ばないというがっかりしてしまうような出来事なのです。しかし、そのようながっかりし、落胆してしまうようなことがあったとしても、自分はダメだと責めないで自暴自棄に陥って、道を誤ってはならないのです。

そして、「神の言を曲げず、真理を明らかにしなさい」というのです。さきほども申し上げましたが、努力すればするほど結果が欲しいものです。そして、何とか結果を得たいとそう願うのです。昔、私はある友人の牧師と話をしていました。それは、キリスト教の世界の中にあるブームについてです。ブームというのはいわゆる流行です。そして、私たちはキリスト教会にはブームがあるのではないかといって話し合ったのです。具体的には、この伝道方法が成功したというと、いろんな教会の牧師がそれに飛びついてその方法を教会に取り入れようとする。こうやれば教会学校の子どもたちが集まるようになったというとすぐにそれに飛びついて取り入れようとする。それは本当に良いことなのだろうか。そもそもどうしてそのようなブームが起こるのだろうかという話でした。その結果、それは何とか伝道したい、教勢を伸ばしたいという思いから、あれがいいといわれるとそれに飛びつき、これがいいといわれるとそれに飛びつく、けれども、それはブームだから成功するところもあるけれども、結局うまくいかないことも少なくないと。だから、あの伝道方法がうまくいっているとか、この伝道方法によって成功するといわれても、安易に飛びつかないでじっくり伝道すべきであるという結論に行き着きました。

そして、今のキリスト教の世界に何かブームがあるかというと、それは「人間の尊厳性」です。それを平たく言えば「あなたは、価値ある大切な存在です。」というメッセージです。たとえば、私たちの教会の教会学校でも歌われている賛美ですが「君は愛されるために生まれた」という賛美などは、この「人間の尊厳性」背景にした賛美です。実は、私は「人間の尊厳性」ということはキリスト教の大切なメッセージの一つであり、伝道的にも重要なメッセージであると考えています。そして、それには十分な神学的根拠をもっています。ですから、教会はこの「人間の尊厳性」というメッセージを大切にし、強調しなければならないと考えているのです。しかし、同時にこの「人間の尊厳性」の強調が、キリスト教のメッセージ、福音を曲げてしまう危険な要素も持っているとも思っている。ともうしますのも、この「人間の尊厳性」の強調が、明確な神学的考察をなされず、いわゆる心理学的な受容からのみ、またヒューマニスティックな側面からのみ強調されるならば、神が人間を神の像(かたち)に創造されたという神学的視点にたつ「人間の尊厳性」に至らないからです。

そして、「人間の尊厳性」のみを強調することで、「人間の罪性」ということが見落とされてしまうのです。私たちは「神によって神の像に似せて造られた、限りなく尊厳性のある存在」であり、神から愛されるかけがえのないひとりびとりです。だからこそ、その私たちが神に背を向け、神の心を痛める罪や汚れを持っているという現実に目を向けなければなりません。そして、それを乗り越えて神の民として生きる者とされていくのだと言うところに、福音の本質があり、神の言は、そのことを私たちに押してつたえるのです。ですから、ただ「神が私たちを愛して下さっている」「あなたは神の目に、かけがえのない存在なのだ」というメッセージだけでは、本当の意味での悔い改めに私たちを導きません。そして、本当の悔い改めなしに、私たちは神を見ることはできないのです。また、キリストの十字架は、罪と悪との戦いに対する勝利でした。ですから、キリスト者は、罪人のままで愛され生かされるのですが、罪と悪の戦いに無頓着ではなりません。クリスチャンとして、たとえ敗北し、連戦連敗であって、罪と悪と戦い続けなければならないのです。

もちろん、神は私たちが罪と悪と戦って敗北しても、私たちを愛し、赦し、神の子とし続けて下さいます。けれども、神が、戦って敗北した者をやさしく包み、受けいれてくださることと、「神様が愛してくださっているから」といって戦わないで甘えることとは、根本的に違うのです。もし、私たちがキリスト教の大切なメッセージである「人間の尊厳性」を「人間の罪性」と切り離して語っているならば、それは神の言葉を曲げ、真理を明らかにしていないことになります。私の知っている神学者のお一人が、アメリカに留学し博士論文を書かれました。その論文は「原罪論」だったのですが、周りの反応は、今時「罪の問題か」という冷ややかなものであったそうです。というのは、人間は罪人であるということを強調すると教会に人が来なくなるといった風潮があるからだというのです。

今の日本の「人間の尊厳性」の強調は、「あなたは神に愛されている」「あなたは神にかけがえのない価値ある者として受け入れられている」という受容のメッセージが語られると、人が教会に来るといった風潮があるとしたら、それは、「人間は罪人であるということを強調すると教会に人が来なくなるといった風潮」と同根、同じ根です。そしてそれは福音を正しく伝えていないことになるのです。もちろん、同じ理由で人間の罪のみを語る教会もまた、福音を曲げてしまっているということができます。いすれにしても、私たちは神の像に造られた素晴らしい存在である事と同時に、その素晴らしい私たちのうちに罪と悪と死という悲しむべきものが入り込んでいる現実を語り、それを乗り越えていくキリストの十字架の恵みと勝利とを語り、私たちもまた罪と悪に毅然と向っていく生き方が語られていかなければならないのです。

ひょっとしたら、そのようなメッセージは、伝道の結果としての数字を産み出さないかもしれません。けれども、私たちは落胆せず、そのメッセージを語り続けなければなりません。それがパウロの言う「神の言を曲げず、真理を明らかにする」事だからであると信じるからです。そして、「伝道に舵を取り歩んでいこう」とする教会が、そのメッセージを語り続けるならば、結果としての数字に繋がらなくても、がっかりすることはありません。また私たちは自分を責めることをする必要もないのです。私たちが十字架の上で死なれたキリストを指し示し、罪と悪と死に勝利をしたキリストを指し示しながらも、伝道がうまくいかないとするならば、この世の様々な事柄が、人々の心に覆いをかけてキリストの栄光の福音の輝きを覆い隠しているからです。そうやって覆い隠して見えなくしているのです。もちろん、だからといってあきらめる必要もありません。

先ほど私は、今日の聖書の箇所として旧約聖書の創世記の1章1節から5節の言葉を合わせてお読みいただきました。そこには、天地の創造の第一日目の出来事が記されていますのですが、「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」とありますように、神はまず初めに光を創造なさったのです。そして闇の中に光が創造されることで、光と闇とが分けられました。ところが、不思議なことに、14節から19節に「 神はまた言われた、『天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、 天のおおぞらにあって地を照らす光となれ』。そのようになった。 神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。 神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、 昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。夕となり、また朝となった。第四日である。」とあります。

私たちが感じる自然の光は、太陽から発せられる光です。その太陽よりも光の方が先に存在していたというのです。これは常識的に考えるならば実に奇妙な表現です。この奇妙な表現に対して、ある方がこのような説明をしていました。「地球が出来たとき、地球は熱いガスに覆われていたので闇の世界であった。そのガスがだんだんと薄くなると、太陽の光がガスを通して注ぎ込まれるので、光があるという認識はできる。そして昼とよるという光の世界と闇の世界の区別が出来るようになる。そしてやがてガスがなくなっていくと、初めて太陽や月、星といったものが確認できる。それは地上に存在するものにとっては自然な理解と認識であって、聖書はこの地上に存在するものの五感と言葉を通して書かれている。」実に興味深い説明だなとおもって、その説明をきいたのですが、確かに、聖書が人間の五感を通して感じられたもの、また人間の言葉を通して、私たちを越えた神の出来事を告げ知らせているということは、確かに同意できることです。もちろん、この説明が正しいかどうかについては、よく考えなければなりませんが、光が存在しても、それを覆い隠すものがあるならば、その光は私たちのところに届かないということは、科学的現象として確かなことです。

しかし、光が存在するならば、その覆いが弱いものであるならば、その覆いを通して光りの源が何であるかは分からないにしても、光があることがあることを認識できることも、また同じように科学的に確かなことなのです。現代の日本にはスピリチャルという言葉が横行しています。それは、私たちが生きている現実の世界とは違う何か霊的な世界や、霊的な存在があって、その霊的な世界や存在と交流できるといった意味でのスピリチャルな世界ということです。その中には、占いや霊媒や、あるいはニューエイジや新興宗教といった広がりを持っています。それは、私たちの心に漠然とではありますが、光が差しているからでしょう。でも覆いがかかっているならば、その光の源が何であるかは分かりません。覆いが取除かれて初めて光の源の存在が分かるのです。けれども光の源は確かに存在し、光は差し込んでいるのです。

みなさん。イエス・キリストという御方は歴史的に確かに存在した御方であり、私たちの救い主であり、救い主です。けれども、その御方をどんなに伝えても、なかなか伝わらないのです。しかし、光が存在しているならば、あきらめることはありません。光が、すでにそこにあるのならば、私たちの心を覆っているその覆いが取除かれたときに、必ずその光の源であるイエス・キリスト様とお出会いすることができるからです。そして聖書には「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」(ヨハネ1・10)と言われています。その光が、私たちの心を絶えず照らしてくださっているのです。ですから、私たちは、決して落胆せず、恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにして、神のみまえに、すべての人の良心に。私たちが信じ、私たちがよって立つところの福音を伝えていこうではありませんか。そうやって、福音に生き。神がすべての教会に使命として与え、期待している福音の宣教を行うものとなっていきたいと思います。

お祈りしましょう。