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メッセージ

羊飼い 『力を与える神』
詩篇 116篇1−19節
コリント人への第二の手紙 4章7−15節
2010/1/21 説教者 濱和弘

今朝も、みなさんと共に聖書の御言葉に耳を傾け、その聖書の言葉から、神が私たちに語りかけて下さる言葉に耳を傾けていきたいと思うのですが、今日の聖書の箇所は、新約聖書コリント人への第2の手紙4章7節から15節と旧約聖書詩篇116篇1節から19節からであります。その箇所を、いま司式の兄弟にお読みいただいたわけですが、その新約聖書コリント人への第2の手紙は「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」という言葉から始まっています。「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。」という言葉は、感動的な言葉です。それは、私たちは見た目は、脆く、あまりパッとしない、価値のないもののようにみえるが、しかし、その内側には、実は素晴らしいものをもっているのだといった、そのようなニュアンスをこの言葉に感じるからです。日本流にいうならば「ボロは着てても、心は錦」といったところでしょうか。

けれども、この「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。」という言葉を、新約聖書の元々の言葉であるギリシャ語で読みますと、もっと感動的で、そしてこの言葉は、「ボロは着てても、心は錦」ということではないのだということがわかってきます。と申しますのも、ギリシャ語では、この言葉は、「持っている」という言葉から始まるからです。何度かお話ししましたように、古代ヨーロッパの言語、ラテン語とかギリシャ語というのは、言葉の順番は明確に決まっていません。まず、伝えたい内容や強調したい内容を一番最初に持ってくる。ですから、「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。」といったパウロは、何を一番にいたいかというと、「持っているんだ」ということなのです。「持っている。しかし、この宝を。これを土の器の、その器の中に」そうパウロは言っているのです。「ボロは着てても、心は錦」という言葉は、私が中心です。私は見た目はさえないかもしれないけれども、心は気高く持っている。ですから、結局言いたいことは自分です。自分を主張し、自分に注目してもらいたい。

けれども「持っているんだよ、私たちは。しかし、宝を。これを土の器、その器の中に」というとき、「持っている」という事実が大切なのです。持っているかどうかが問題である。そして私たちは持っている。そうすると、持っているものが何かが次に問題になってくる。いったい何を持っているのか。おのずと視線は、何を持っているかに向けられていきます。みなさん。「これ持っているんです。私」といって何か差だされたなら、みなさんの視線は何処に注がれますか。これ持っているんですといって差し出されたものに向けられていくのではないでしょうか。そして、わざわざ「持っているんだ、これを」っていって人に伝えるときには、本来自分には持つことができないようなもの、まさに宝物のようなものを持っている。それが嬉しくてたまらないから、感動を持って「持っているんだよ」ってそれを見せる。そんな気持ちがこの「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。」という言葉にはあるのです。もちろんそこには、「私たちが持っているんだよ」という感動あります。その感動を持っている私たちというのは、おそらくはパウロと一緒にコリントに正しい福音を伝え知らせたパウロやテモテやテトスといった人々のことでしょう。

では、そのパウロやテモテやテトスといった人々が持っている宝とは何かというと、それは、キリストの顔に輝く神の栄光の知識であると考えられます。と申しますのもパウロが「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。」といったその言葉のすぐ前で「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。」といっているからです。そして、その「キリストの顔に輝く神の栄光の知識」とは、神がイエス・キリスト様という御方を通して、私たちをお救いになって下さったということです。私たちは、罪や過ちを犯し、汚れた思いや嫉妬や妬みや虚栄心といった醜い思いを持ったものです。その私たちの罪を赦し、この罪と死が支配するこの世界から私たちを救い出して神の子とし、神の国(天国)で生きる事ができる者として下さるために、神は神のひとり子であるイエス・キリスト様を人としてこの地上にお生まれにならせ、この方を、私たちの罪の贖いとして、また罪と死に勝利をするために十字架につけて死なせ、そして三日後によみがえらせた、それが、私たちを救う神の知恵だったのです。

そのことを知る知識が、パウロやテモテやテトスといった人々が持っていた宝なのです。それは単に知識として持っていたということではありません。知識は知ってはじめてもつことができます。ですから、知るということがなければなりません。私たちを救う神の知恵、それはイエス・キリストという御方です。つまり、このイエス・キリストという御方を知るということが大切なのです。この「知る」という言葉は非常に不思議な言葉です。それは情報として理解し記憶するという意味で知るということもありますし、人格的深い交わりを持つということを意味する場合もあります。そして、特に聖書で「知る」という場合には、だいたいの場合において、後者の人格的深い交わりを通して相手を知るということを意味しています。ですから、「神がイエス・キリスト様という御方を通して、私たちをお救いになって下さった」ということを知識として知るということは、そういった情報もあるんだと言って知るということではなく、その救いをもたらすイエス・キリスト様との深い人格的関係を持つことなのだということなのです。

そういった意味では、「キリストの顔に輝く神の栄光の知識」というのは、イエス・キリスト様との深い交わりの中に置かれているということです。平たく言うならば、イエス・キリスト様という御方といつも一緒にいるということなのです。イエス・キリスト様という御方が私たちの人生にいつも一緒にいて下さる。私の人生の善い時も悪い時も、いつも私と共にいて下さるということ、それはまさに、宝を得たようなものなのです。なぜならば、この御方は私たちを支え、慰め、励まし、導いて下さるからです。神の一人子、父-御子-聖霊の三位一体なる神の子なる神であられるお方が、私たちの人生に寄り添い、共歩き、慰め、励まし、支え、導いてくださる。だから、パウロは、この宝は、計り知れない力を持っているというのです。それこそ、とても人間、それこそ土の器のような、壊れやすい、儚い、そして力に限界があるそんな人間では考えられないような力なのです。神が私の人生に目を向け、心配し、導いて下さるのです。そのことをパウロは、自分の経験したことをもとに具体的に次のように語ります。

「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。」みなさん、パウロという人ほど波瀾万丈の人生を歩んだ人はそう多くはないだろうと思います。パウロはこのコリント人への第2の手紙11章22節以降で自分の過去を振り返りながらこう述べているところがあります。「彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル人なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。」

このひとつひとつを取り上げて、どうこうということではないのですが、こうして並べてみますと、本当に波瀾万丈の人生だったのだなということが分かります。しかし、パウロは、もともとはガマリエルという当時のユダヤ教の最高の律法学者で人々の尊敬を集めた人のもとで学んだ弟子のひとりだったのです。ですから、パウロはユダヤ教の中ではエリートだったのかもしれません。しかし、そのパウロが投獄され、むち打ちの刑にあったり、乗っていた船が難破して漂流したり、死ぬような目に何度もあうといった事を経験するようになったのは、彼がキリスト教の伝道者になり、現在のトルコやマケドニア、ギリシャといった地中海世界に伝道して歩いたからです。まさしく、キリスト教を信じ、伝道者となったから、四方から患難を受け、四面楚歌のようになって窮地に陥ることもあった。途方にくれることもあった、かつては自分がエリートとして身を置いていたユダヤ人社会から迫害にあうこともあったのです。でも彼は、それでも「自分は窮しない、行き詰まらない、滅ぼされない、見捨てられない」、とそういうのです。

誰が見捨てないのですか。それはイエス・キリスト様という御方が見捨てないのです。なぜ滅ぼされないのですか。イエス・キリスト様という御方が支えて下さるからです。なぜ行き詰まらないのですか。イエス・キリスト様という御方が支えて下さるからです。なぜ窮さないのでしょうか。それはイエス・キリスト様という御方が慰めて下さるからなのです。パウロという人は、イエス・キリスト様が私たちの救い主である。この方を信じるならば、犯した死の罪が赦され、私たちは死にも勝利して神の子として天国に迎え入れられるということを伝え歩きました。そのために、迫害を受け、様々な苦難に遭い、それこそ死をも覚悟するような場面に何度もたたされたのです。そして、最期はローマで処刑されることになる。そういった意味では、まさにパウロの生涯は、迫害され苦しめられ、最期には十字架の上で死なれたイエス・キリスト様の生涯に重なり合うような気がします。そういった意味では、彼の生涯はまさに「いつもイエスの死をこの身に負うている」と言われるようなものだったのです。

しかし、それは「イエスのいのちが、この身に現れるためである」というのです。この「それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」という表現は、実に奇妙な表現だといえます。イエス・キリスト様は十字架について死なれたのです。だとすれば、この「イエスのいのち」は復活のイエス・キリスト様の命だと言えます。どうして、四方から患難を受け、途方にくれるような出来事にあい、迫害され、倒さ、死ぬようなめにあっても、そのことを通して、十字架につけられ復活されてイエス・キリスト様のいのちが、この身に現れてくるのか。いやそもそも、どのようにしてイエス・キリスト様の命がこの身に顕れているということはどういうことなのか。みなさんどうでしょう。どう思われるでしょうか。私はこう思うのです。患難を受け、途方にくれるような出来事にあい、迫害され、倒され、死ぬよう目にあう、それは大変な経験であり試練である。でもその試練の中で、イエス・キリストという御方が私たちを守り、支え、慰め、導いて下さるという経験をするとき、その時に、イエス・キリスト様という御方が、単なる知識として理解し受け止めていたそういう聖書の文字の中のキリスト、伝え聞いたキリスト遠い御方ではなく、まさに生ける神として私たちの人生と共に歩いてくださる御方であると、私たちが実感できるということではないかと、そう思うのです。

私は先日、エラスムスという人が書いた本を読み終えました。エラスムスという人は15世紀から16世紀に生きた人なのですが、そのエラスムスの本の中に「試練の価値」について書かれた部分があったのです。そこでエラスムスという人はこういっています。「試練の攻撃を何も受けていないならば、それは人が神のあわれみから拒絶されていることの最大の証明であります」と。この言葉は、逆に言うならば試練を通して神のあわれみを知ることができるということです。考えてみますと、私たちは何か試練がないと神を求めるというようなことはあまりしないものかもしれません。それこそ、何か困った、行き詰まったというときに、はじめて神を真剣に求めるものです。そして、試練を通して神が私たちと共にいて下さり、守り、支え、導いてくださるのだということを感じるものなのです。もちろん、神は私たちといつでも、どこでも共にいて下さるおかたであり、どんな時でも私たちを支え見守ってくださっています。けれども、物事が順調にいっているときには、以外とそれに気づかずに当たり前に過ごしてしまっているものです。

以前、ある方の本のなかで、「神癒」(神の癒し)ということについて、「神癒」というと、神によって病気が治るという特別なことのように思うが、死すべき体である私たちが、日々健康が守られ、支えられながら生きているということそれ自体が「神癒」なのだと書かれてあるのをみて、ハッとさせられたことがあります。神は私たちの日々の生活の中に共にいて下さり、私たちを守ってくださっているのです。けれども、私たちはあまりそれを意識しないで生きている。それこそ、試練といったものがなければ、神に頼るとか、神を求めるといったことをしないのです。いや、それがごく普通の、一般的な私たちの姿なのです。だからこそ、エラスムスは「試練の攻撃を何も受けていないならば、それは人が神のあわれみから拒絶されていることの最大の証明であります」といったのだろうと思います。もし、一生、試練がなければ、私たちは真剣に神を求める、イエス・キリスト様に寄りすがるといったことなどしないのではないか。

しかし、神こそが、私たちにとって最も大切な御方であり、イエス・キリスト様こそが私たちの宝なのです。そして、それが本当に実感されるならば、それこそまさに、「これ持っているんです。私、この宝を」という感動を実感することができるのです。だからこそ、パウロは、患難を受け、途方にくれるような出来事にあい、迫害され、倒され、死ぬよう目にあう、それはまさにイエス・キリスト様が十字架の上で苦しみ死なれたような苦しみであり、試練であるけれども、そのことを通して、イエス・キリスト様が私たちともに生きてくださるのだということを知ることができるのだとそういっているのだろうと思うのです。

そして、それは何も伝道者であるパウロだけの経験ではありません。私たちもまた同じなのです。パウロは次のように言っています。「わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。 こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。『わたしは信じた。それゆえに語った』としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。」ここでパウロは「私たち生きているものは、イエスのために絶えず死に渡されている」とそう言っています。確かに、私たち人間は必ず死ぬ存在です。ですから、生きている者は必ず死に渡されているということができます。しかし、ここでは、「イエスのために絶えず死に渡されている」というのですから、そのように単純に「私たち人間は必ず死ぬ」というような事を意味するものではないと思います。だとすれば「イエスのために絶えず死に渡されている」とはいったいどういう事なのか。パウロがキリスト教の伝道者として絶えず死の危険にさらされながら伝道しているというのであれば、当時の社会事情などを考えれば納得できないわけでもありません。しかし「私たち生きているもの」がすべて、イエス・キリスト様のために死に渡されているというのです。いったいパウロは何が言いたいのでしょうか。

パウロは、自分が苦難に遭い試練に会うことによって、その中で神を求め、イエス・キリスト様を求めました。そしてそのことを通して、パウロと共におられ、苦しみの中、苦難の中、試練の中にあるパウロを支え、慰め、励まし、導いてくれる生ける神の子であるイエス・キリスト様という御方を自分は持っているのだということを知ったのです。このイエス・キリスト様という御方を持っている。パウロはその喜びと感動を伝え歩いているのです。その御方は、パウロだけではない、私たちとも共にいて下さり、私たちの宝ともなってくださるのです。だとすれば、パウロが試練の中で知ったように、生きるものすべてがこの御方を知ることができる場は、すべての生きるものうち、だれも試練として経験する問題を通してであります。そういった場は何か。それは誰にも公平に訪れる死という試練です。

そして、誰もがこの公平におとずれる死という試練を通して、神を求めイエス・キリスト様の恵みに与る機会が与えられているのです。どんな人の人生であっても、死という最大の試練の場に、死に勝利し復活なさったイエス・キリスト様が希望となり、力となり、この御方が共にいるということで、死という最大の試練を乗り越えていくことができるのです。そういった意味では、極めて逆説的な言い方かもしれませんが、死というものは、私たちがイエス・キリスト様という御方を知る最大のチャンスなのです。そして死というものを通して、私たちもまたイエス・キリスト様にある永遠の命を得ることができるのだということを実感することができるのです。実際、古代の教会、そしてその古代教会の在り方を強く引き継いでいる東方教会の伝統などは、死こそが人間の最大の苦難であり問題であって、イエス・キリスト様の誕生、死、そして復活は、この死に解決を与える神の命、永遠の命を私たちにもたらすためであったと考えます。

そのような、死という深い悲しみを伴う試練を通して、私たちはイエス・キリスト様にある慰めや励まし、そして希望を見出していくのです。そのときに、はじめて苦しみであり、悲しみであり、試練である死が、意味を持つようになる。でなければ、死は私たちの命に対して何も意味も価値もありません。そのような訳からでしょう、パウロは「わたしは信じた。それゆえに語った」とある詩篇116篇10節の言葉を引用しながら「それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである」とそういうのです。みなさんのお手元にある旧約聖書の詩篇116篇の10節とパウロに引用が若干違っているかと思いますが、これはパウロが70人訳聖書という、ヘブル語の聖書をギリシャ語翻訳したパウロの時代に用いられた聖書を使っているからです。しかし内容的には、「大いに悩み、そして信じた。それゆえに語った」ということですから、大きな違いはありません。

そこで詩篇116篇ですが、詩篇116篇は1節から9節まではこの詩を書いた詩人の深い悲しみとそこから救い出された喜びがしるされています。3節には「死の綱がわたしを取り巻き、陰府の苦しみがわたしを捕えた。わたしは悩みと悲しみにあった」とありますから、この詩人は死を覚悟しなければならないような経験、おそらく大きな病気か何かを経験したのだろうと思います。そのような経験の中で、神を呼び求めたときに、この詩人は「主は恵みふかく、正しくいらせられ、われらの神はあわれみに富まれる。 主は無学な者を守られる。わたしが低くされたとき、主はわたしを救われた。わが魂よ、おまえの平安に帰るがよい。主は豊かにおまえをあしらわれたからである。あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足をつまずきから助け出されました」。という神の恵みと憐れみとそして救いという、5節から8節にある恵みの神を知ったのです。

そして、そのような恵みの神、その恵みの神に憐れみと守り、支えや慰めを知ったたからこそ、この詩人は、この地上での生を、自分自身の人生を自分の好きなように生きるのではなく、「わたしは生ける者の地で、主のみ前に歩みます。」とそう誓うのです。そして、悩みの中で恵みの神を知り、その慰めや励まし支えや守りといったことを知り、神が恵みたもう御方であるということを信じたからこそ、それを語り伝えるのだというのです。この詩篇116篇の詩人の時代はまだイエス・キリスト様という御方はまだお生まれになっていません。それよりもずっと前にこの詩は書かれているのです。ですから、この詩の中にはイエス・キリスト様というお方の名前は出てきません。ですが、この詩人は、死に至るような大病から救われた経験をもとに私たちを憐れみ、顧み、私たちを生かす恵みの神を語るのです。

そしてその経験は、パウロが経験したものと響きあるものを持っている。だからパウロは、この詩篇116篇の言葉を引用したのだろうと思います。しかもパウロの経験は、この詩人の経験よりもっと深い経験なのです。なぜならば、パウロの経験に根底にはイエス・キリスト様の十字架の死と復活があるからです。それは、死に至るような大病がいやされたとか、大きな試練とかを乗り越えたということだけではなく、それをも含んで、更に大きな悲しみと試練の根幹にある死という問題までも解決する神の恵みなのです。この恵みをもたらすイエス・キリスト様を私たちは持っているとパウロは言うのです。神を信じ、イエス・キリスト様を自分の救い主として信じたものは、この御方を持っているのです。

みなさん、確かに私たちの人生は儚く、脆いものです。私も今年で52歳になりますが、50歳を越えた頃から、ああ、50になるということはこういう事なんだと実感させられることが多くあります。確かに肉体は確実に衰えていく。それは確実に死に渡されるということです。しかし、そうやってひとつひとつ自分に無理を感じ、限界を感じるからこそ、神の恵みを知ることができることも少なくないのです。この御方は、私も気付いていないことが多かったのですが、私が神を信じキリストを信じてクリスチャンとなったときから、いつも私と共に生き、私と共に歩んでくださっていたのです。そして、これからも私と共に生き、私を慰め、支え、励まし、導いていってくだるのです。そして、同じようにみなさんと共に生き、を慰め、支え、励まし、導いてくださいます。私たちを恵みあわれんでくださる御方として、私たちと共に歩いていってくださるのです。ですから、みなさん。この御方が私の人生には共におられるということをしって、この御方から力をいただきながら歩んでいきたいと思いますね。

お祈りしましょう。