『目を開いて見させてください』
列王記下 6章8−17節
コリント人への第二の手紙 4章16−18節
2010/2/7 説教者 濱和弘
今朝は、コリント人への第2の手紙4章16から18節から聖書が私たちに語っていることに目を向けたいと思っていますが、私はその説教のタイトルを「目を開いて見させてください」と致しました。この「目を開いて見させてください」という言葉は、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた旧約聖書列王記下の6章17節で、エリシャが「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」と祈ったその祈りの言葉からとったものです。このエリシャの祈りの言葉は、エリシャがアラム、口語訳聖書ではスリアとなっていますが、そのアラムの軍勢に取り囲まれたときに祈った祈りです。エリシャという人は、紀元前9世紀の中頃の人ですので、今から2800年以上前に現在のイスラエルのあたりで活躍した預言者です。
この当時、この地域にはアラムやモアブ、エドム、といった国々があり、とくにこの時期アラムと北イスラエル王国との関係は、一時的に平和あったとしても、しかし決して良好な状況ではなかったようです。つまり、いつも火種を抱えている状況だったといえます。そのようなわけでしょう、このときもアラムはイスラエルと戦っていたようです。そのとき、アラムの王はいろいろと策略を練るのですが、どうもその情報がもれているようで、なかなか策略がうまく行かないといったことがありました。そこでいろいろと調べてみますと、エリシャがアラムの王の策略を事前に察知してイスラエルの王に伝えているということが分かりました。それでアラムの王はエリシャを捕えようと、夜の内に多くの軍勢を送ってエリシャがいるドタンという町を取り囲んだのです。朝になってエリシャの召使いが町の外を見ると、大勢のアラムの軍勢が町を取り囲んでいました。当然、その召使いはあわてふためき、また恐れおののいて、エリシャに的の軍勢が町を取り囲んでいることを知らせます。
その時にエリシャは、「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」と祈るのです。このとき、「彼の目を開いて下さい」と祈ったその「彼」とは、あのあわてふためき恐れおののいていたエリシャの召使いです。その彼の目を開いて下さいとそう祈るのです。もちろん、エリシャが「目を開いて見させてください」と祈るその目は、いわゆるこの肉眼ではありません。エリシャの召使いの肉眼は、ちゃんと見えるのです。見えるからこそ、町を何重にも取り囲んでいるアラムの軍勢がいることがわかるのです。けれども、彼の信仰の目は、その表面に表れた出来事の背後に起こっている信仰の出来事を見ることができなかったのです。ですから、エリシャは「主よ、どうぞ、彼の(信仰の)目を開いて見させてください」とそう祈るのです。
そのエリシャの祈りに神がお答えになり、エリシャの召使いの目を開かれたとき、彼が見たものは、火の馬と火の戦車がエリシャとエリシャの召使の回りを取り囲んでいるという状況でした。つまり、目に見えるこの世の状況はアラムの軍勢が町を取り囲んでいる絶体絶命と思われるような状況であったとしても、神が守って下さっているという信仰の出来事がそこに起こっていたのです。エリシャは、その私たちの肉眼では見えない信仰の出来事を、この召使いに見せようとして、「主よ、どうぞ、彼の(信仰の)目を開いて見させてください」と祈ったのです。私は、今日のこの説教の準備のためにコリント人への第2の手紙4章16〜18節の箇所を読んでおりましたときに、このエリシャとその召使いに起こったことが重なり合うように思い浮かばれてきたのです。ともうしますのは、このコリント人への第2の手紙を書いたパウロもまた、人間の目には絶体絶命と思われるような状況の中を何度もくぐりながら、神の守りと支えによってその状況を乗り越えてきた人だからです。
パウロは、このコリント人への第2の手紙4章16節で「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」とそう述べています。ですからという言葉は、理由を示す言葉であり、「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」というには、それなりに理由があるということです。そして、その理由とは、この4章16節に先だつ4章8節から15節までの内容であろうかと思いますが、そこで述べられていることは「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである」。ということです。
このように患難に遭い、迫害にあい、死を覚悟しなければならない中にあって、行き詰まらず、窮せず、見捨てられることもなく滅びることもないというのは、パウロが十字架の上で死なれ、そして3日後によみがえられた事によって、この世を支配する罪と死に打ち勝ちかたれたイエス・キリスト様という御方を信じているからです。このように、死にも打ち勝たれた御方が自分と共にいて下さるから、かりにこの世にあって死という出来事が襲ってきても、それに打ち勝つ永遠の命という神の国の命、天国の命をもっている。だから、「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」とそういうのです。そこには、どんなに絶望的な状況であり、絶体絶命と思われる状況であって、けっして希望を棄てない神により頼み、神によりすがるパウロの信仰があります。それは、どのような試みや試練であっても、信仰の目を通して見るときに、そこにある神の助けを見ているところからくるのです。だからこそパウロは、「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」というのです。
先週はエラスムスという15世紀から16世紀にかけての知の巨人であり敬虔な信仰者が、「試練の攻撃を何も受けていないならば、それは人が神のあわれみから拒絶されていることの最大の証明であります」と言った言葉をご紹介しました。それと同じ事を宗教改革者のルターという人もいうのです。すなわち「神が私たちを多くの危急、苦悩、試練、そして死さえも賜い、さらには多くの邪悪な罪深い欲望の中に生活せしめたもう理由である。すなわち神はそれによって人に迫り、人々がみもとに走り、大声を上げて聖き御名を呼び求める重大な機縁を与え」、こうして神の御名を崇めるものとならしめて下さるのだというのです。神の御名を崇めると言っても、そこに喜びや感謝や希望がなければ、神の御名を崇めることができません。しかし現実は、危急、苦悩、試練、そして死さえも賜い、さらには多くの邪悪な罪深い欲望の中に生活が私たちを取り巻いている。それは私たちの肉の目が見ている現実の世界です。
しかし、私たちが信仰の目を見開いてみるならば、そのような暗い闇のような世界、絶望と思われるような世界の中に、神の守りや支え、そして神が与える希望があるのです。ですから、どんなに現実に生きているこの世界で、私たちが傷つき心をすり減らすようなことがあっても、その試みを通して私たちが神との交わりの中に生きるならば、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」とそういうのです。このたとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにしてくれる神の交わりは、どのようにして築かれていくのかというと、それは祈り神のことばを通してです。交わりとは言葉を交わすことによって築き上げられていくものです。ですから、神との交わりにも言葉が必要です。それでは、私たちから神に対する言葉は何かというと、それが祈りなのです。
もちろん、時に言葉は明瞭な整えられた言葉とならない場合があります。それこそ言語を介さないで、涙や呻きによってその心の思いが通じることがある。赤ん坊は言語を話すことは出来なくても、泣き声で自分の求めることを母親に伝えるように、同じように私たちは、明瞭な整えられた言葉で祈ることができなくても、神に信頼して祈るならば、神は私たちの祈りに耳を傾けて聞いて下さいます。また、どのようなたどたどしい祈りであっても、また苦しさと悲しさの中で、呻きに言葉にならないような思いのなかで、ただ呻き声を持って神の前に出ていくならば、神はその呻きの声の中から私たちの心の思いを聞いて下さるのです。ですから祈りは神との交わりの糸口だといえます。
そして、そのような祈りに対して神からの語りかけは、聖書を通して、また聖書の御言葉を解き明し、照らし出す説教の言葉を通して神は私たちに語りかけて下さるのです。先ほどの試練を通して私たちは神を崇めるものとならせていただくのだといったルターは、同じように試練についてこのようなことを言っています。それは神学を学ぶ正しい学び方ということについて語っているのですが、具体的には聖書をどう読めばよいのかについて語るのですが、ルターはこう言うのです。「神学を研究する正しい方法をあなたがたに示そう。この方法で私が修練してきたからである。…(中略)…。すなわち、0ratio(祈り)、Meditatio(黙想)、Tentatio(試練)である。」つまり、聖書は祈り心持って読め、黙想しながら読め、そして試練を通して読めというのです。
祈り心を持って読むとは、神に聖霊を与えていただき、聖霊が私たちの心を照らし、導き、理解力を与えたもうように祈りつつ読みなさいということです。また黙想しながら読めとは、単に心の中で聖書の言葉を思い起こすということではなく、それこそ何度も何度も繰り返して聖書を読みなさいということです。しかも、私たちが自分の愛唱歌をことに刻んで、それをそらんじ口ずさむように、そうやってくり返しくり返し、声にだして読むことで、聖書の言葉をしっかりと心にとどまらせ、そのうえで深く考える、それが黙想しながら聖書を読ということなのです。つまり、黙想しながら聖書を読むとは歌うように聖書を読みなさいということなのです。そして、最後の試練を通して聖書を読むということですが、ルターは、試練は聖書の言葉がどれほど正しく、どれほどまことで、どれほど心地よく、どれほどこの好ましく、どれほど慰めにみちたものであるかを体験するように教えるものであるので、私たちは試練の中にあるときに聖書の言葉を体験することができるのだというのです。
これは、500年前の人間の言葉ですが、学ぶべき響きを持った実に味わい深い言葉です。聖書は祈り心を持って、くり返し心に刻み込み歌うように読み、試練の中にあってその言葉の真実さを経験できる。そういった意味では、聖書の言葉は学問や研究によって明らかにされるのではない、本当に信仰の目を持って読み、信仰の耳を持って耳を傾けるときに、表面に見えている字面ではない、見えない神の奥義、慰めや、心地よさ、真実さや力強さといったものを私たちに体験させるのです。そしてその体験が、私たちの信仰の目を開き、試練や苦難、患難の中にあっても私たちを守って下さっているという、肉の目には見ることのできない、見えない信仰の事実を私たちに見せてくれるのです。ですから、私たちは、この肉の目に映っているものを追い求めるのではなく、肉の目では決して見ることのできない信仰の事実、信仰の出来事に目を注ぎたいと思うのです。
そのため、祈り心をもって、くり返しくり返し聖書を心に刻み込むように読み、試練の中にあっても神によりすがる思いでよみ、神のことばの慰め深さや力強さや真実さを実感することが大事なのです。そして、その祈り心を持って、祈る最初の祈りは「主よ、どうぞ、私の目を開いて見させてください」という祈りなのです。このような祈りは、目に見える世界のことに関心を持ち、目に見える世界の中にあるものがもつ価値、たとえばお金や名声や地位といったものに心をよせているならば、決して祈ることのできないものです。むしろ、神が私たちに与えて下さる、神の命である永遠の命や神が私たちに与えて下さる愛や慰めといったものに絶大な価値を見出していなければ祈ることのできない祈りなのです。ですから、私たちは試練が襲ってきても、苦難や患難の中に置かれても、絶望しないで希望を持って生きていきましょう。むしろその試練や苦難、患難は、私たちに神の慰めや支え、そして神が私たちを守って下さる御方であるというその神の真実さを私たちに経験させることによって、私たちが確かに神の子とされたのだという栄光にみちた出来事を確かなものとして私たちに確信させてくれるのです。そして死にも打ち勝つ永遠の命という希望を私たちに得させるのです。だからこそ私たちは「主よ、どうぞ、私の目を開いて見させてください」と祈り続けるものでありたいと思うのです。
一昨日は私と家内は、K姉の病院を訪問させていただきました。パーキンソン病の病状に大きく変わりなく、酸素マスクをつけた中で、「あー」という声をずっと出し続けながらおられるのですが、私たちの言うことはちゃんと分かっておられ、お祈りすると最後には「アーメン」と唱和して下さいます。ご主人は、毎日、病院に通い、ずっとK姉の看病を続けておられるのですが、先週O姉妹がお見舞いに行って下さったときに、K姉とO姉の愛唱聖歌が同じ曲なのだという話をしたのだということを伺いました。そして、その歌詞が、クリスマスの時にみなさんが書いて下さった寄せ書きの中に書いてあると仰るのです。その寄せ書きは、K姉の枕元に置いてあります。ですから、その寄せ書きを見ますと、そこには新聖歌266番「罪、咎を赦され」の歌詞が書かれていました。新聖歌266番は、私も好きな賛美の一つですので、それこそそらんじて口ずさむことがある賛美です。それで、病室ですので大きな声で歌うことはできませんし、私は音痴ですので人前で歌を歌うのは正直抵抗を感じるのですが、しかし、その賛美を、K姉の耳元で、小さな声で、新聖歌「罪、咎を赦され」の一節を賛美しました。
すると、それまで言葉にならない「あー」という声を断続的に発しておられたK姉がスーと声を出すのを止められ、静かになられたのです。聞いておられたんですね。そして、その状態は賛美を歌い終わってもしばらく続いていました。その様子は、まるでK姉の心の中に平安が広がっていっているようなそんな感じを与えるものでした。K姉は、「あー」というような声を断続的に発しておられますが、意識はちゃんとあり、こちらのいうこともちゃんと分かっておられます。ですから、「あー」という声を発しておられるのは、苦しい中で何かを私たちに訴えておられる言葉にならない言葉なのだろうと思います。そのK姉が、ご自分が愛唱なさっておられた賛美をじっと耳を澄まして聞いておられる。きっと賛美を聞きながら、ご自分の信仰の生涯の様々なことを思い出しておられたのではないかと思うのです。それこそ、神がK姉の生涯に関わって下さり、導いて下さった出来事の一つ一つが、心の中を駆けめぐり、それを思いめぐらしておられたのではないかとそんな気がするのです。それは、聖書の言葉によって示され、また説教を聞くことによって心に養われていれた神の恵みや慰め、そして慈しみを体験するという出来事なのです。
まさに病気という苦しみ、試練の中で神が聖書を通して約束して下さっている恵みを思い起こし、それを体験しているかのように見える出来事でした。だとしたら、あのときにK姉は、K姉の目が開かれて、K姉を取り囲み守り支えている神の恵みを見ていたのかもしれません。なによりも、K姉と共にいて下さるイエス・キリスト様のお姿を見ておられたのかも知れないとそう思うのです。それこそ、私たちの肉の目には見えません。しかし霊の目、信仰の目を見開いてみるならば私たちにも見える出来事なのです。愛する兄弟姉妹のみなさん。私たちにとって目に見える出来事は確かなことのように思われます。しかしもっと確かなことは、目に見える聖書の文字、言葉の背後にある目に見えない信仰の出来事であり、あのエリシャの召使いが、信仰の目を神によって開いていた時に見た、また同じようにパウロも信仰の目を開いて見た出来事なのです。そしてそれは、私たちもまた心の目、霊の目、信仰の目を開いて見るならば私たちにも必ず見えるものなのです。
いや、ここにこうして集っているみなさんも、今までの信仰生涯で、そのような経験を何度もしてきたのではなかろうかと思います。私にもそのような経験がある。しかし、いつもそうであるというわけではない。普段は、あまりにたやすく霊の目を閉じ、信仰の目を閉じてしまい、肉の目に見えるものに頼っていきがちなのです。だからこそ愛する兄弟姉妹のみなさん。私たちは「主よ、どうぞ、私の目を開いて見させてください」と祈りたいと思います。そして神によって霊の目を開いていただいて、肉の目では見えない神の真実と恵みと慈しみそして神の愛を見させていただき、慰めと平安と喜び、そして感謝に心を満たさせながら歩んでいこうではありませんか。
お祈りしましょう。