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メッセージ

羊飼い 伝道礼拝
『命が与えられる』
創世記 2章4−8節
コリント人への第二の手紙 5章1−10節
2010/2/14 説教者 濱和弘

先日、ある新聞社の方から質問があるということでお電話をいただきました。その質問の内容は「ご愁傷様」という言葉の使い方についてでした。どうやら、新聞の4コマまんがの中で、キリスト教では葬儀の場で「ご愁傷様です。」という言葉は使わないというようなことが書かれてあったところ、読者の方から、「そんなことはない。キリスト教でも『ご愁傷様』と言うのだ」というご指摘をいただいたので、実際のところはどうなのか確かめたかったようです。確かに、一般的には教会の葬儀で「ご愁傷様」という言葉は使われません。もちろん、弔電やクリスチャンでない方がご親族にかける言葉の中で、「ご愁傷様です。」という言葉を耳にすることはありますが、教会が積極的にその言葉を使うことはありません。

それは、キリスト教における死の理解によるものです。死という現実は、私たちにとって本当に悲しいものです。家族や友人の死は、私たちに深い悲しみを覚えさせ、心に痛みを与えます。そういった意味では、クリスチャンであっても、相手のことを可哀想に思う気持ちを表す「ご愁傷様」という言葉をかけたくなる気持ちは、わからないわけでもありません。しかし、それでもあえて教会では「ご愁傷様」という言葉を使わないのは、キリスト教における死は、単に悲しみの出来事で終わるものではないからです。そこには、死に打ち勝つ希望があり、悲しみの先にある天国という悲しみや苦しみを乗り越えたよろこびがあるからです。

今、司式の兄弟に読んでいただきました聖書の冒頭の箇所には、「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。」と書かれてあります。この「わたしたちの住んでいる地上の幕屋」とは私たちの肉体のことを指していると考えていただければよろしいかと思います。ですからこの「地上の幕屋がこわれる」ということは、私たちの死を意味しているのです。しかし聖書は、私たちのこの肉体が死というまさに「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれる」ような事になったとしても、「神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてある」というのです。この「神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてある」というのは、死では終わらない命、死に打ち勝つ命が私たちに与えられるということです。

今日では、仏式の葬儀の席でも、自然に「亡くなられた方が天国に行った」という言い方がなされますが、まさに天国で生きる命と体が与えられるというのです。しかし、天国で生きる体と命といいますが、聖書では天国という言葉は神の国という言葉とほぼ同じ意味で使われます。そして、神の国というのは、神の恵みが支配している国なのです。その神の国を支配しておられる御方は永遠の存在するお方です。ですから、その神の国で生きる命と体もまた、永遠に続くものですから、この地上で生きている私たちの今の肉体と命とは、根本的に性質が違うものだと言えます。それが与えられるというのです。この天国で生きる永遠の命と体は、今すぐそうなるものでありません。聖書には「そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。」とか書かれています。ですから、神が永遠の命と滅びることのない体を与えて下さると言っても、それは今ここでということではなく、やがてそれが与えられるという希望なのです。しかし、この希望があるからこそ、この地上での別れである死もけっして「ご愁傷様です」という言葉ではかたづけられない出来事となるのです。だから、キリスト教の葬儀では、普通は「ご愁傷様です」といった言葉は使わないのです。

ところが、その荒唐無稽と思われ、私たちの生活に関係ないと思われるような話が、実は私たちの生活や生き方に深くかかわっているのです。と申しますのも、先ほどの聖書の箇所「そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。」という言葉を丁寧に読んで参りますと、そこには私たちの人生の現実があるからです。この聖書の言葉は、荒唐無稽と思われるようなできごと、すなわち天から賜るそのすみか、つまり天国で生きる永遠の命と滅びることのない体を与えていただくという望みがあるということです。「そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら」というのですから、そこには望みがある。

それにしても「天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望む」というのは、ちょっと変な言い方ですよね。すみかを着るという言い回しはあまり日本語ではしません。すみかは住むものであって、着るものではありません。おそらく、他の言語でもそのような言い回しはしないのではないでしょうか。聖書のもともとの言語であるギリシャ語やヘブル語にもこのような言い回しはなかったように思います。なのに、それをあえて「すみかを着る」といってしているのは、その次の4節にある「この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。」という言葉が関係しているからだと思われます。つまり、私たちはこの世界に生きている限り、重荷を背負い苦難の中で苦しみもだえながら生きていかなければならないというのです。もちろん、そのような重荷を負い、苦難の中で苦しみもだえながら生きなければならないような人生を生きたいと思う人などいないと思いますし、もしそのようなことが私たちの人生に起こってきたならば何とかそこから逃れ脱したいと願います。

けれども、天国で生きる永遠の命と滅びることのないからだが、私たちを覆い包み込まないかぎり、その苦しみやそのような苦しみにもだえながら生きていかなければならないというのです。それは、この苦しみは死という私たちが逃れることのできない運命だからです。みなさん、死は私たちの人生から決して剥ぎ取ることのできない現実です。死はまるでからだの一部分、そうまるで私たちの皮膚のであるかのように、剥ぎ取ることのできない悲しみや苦しみや苦難として張り付いているのです。ですから、それは脱ぎ去るもの、剥ぎ取るものでなく、むしろ裸のままの姿を覆い包む衣を着せるような希望が必要なのです。だからこそ聖書は、「天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望む」といった言い方をしているのだろうと思われます。つまり、私たちの「そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。」という言葉には、天国で生きる永遠の命と滅びることのない体を与えていただくという望みがあることの正反対にある二つ目のこと私たちの人生には、死という必ず訪れる重荷を負うような苦難や苦しみの時、悲しみの時があるという現実が見据えられているのです。

もちろん、私たちの住むこの世界には、死という苦難や悲しみだけではない、さまざまな苦しみや悲しみが沢山あります。そういった意味では私たちの住む世界には、様々な苦難や悲しみがある。なのに聖書は、特に新約聖書はことさら死の問題を大きく取り上げているのです。そして、その死の問題の解決に目を注ぐのです。それは、死の問題の解決が、この世界にある様々な苦難や悲しみの解決にも繋がるからです。古代から、私たち人間の世界に様々な苦しみや悲しみといった問題をもたらすものいったいは何であるかということが考えられてきました。そのような中で、ある人は、人間の最大の問題は罪を犯さざる得ない人間の性質にあるのであって、人間の罪が私たちに悲しみや苦しみをもたらすのだと考えました。そして、死という悲しみも私たちの罪の結果であり、罪に対する裁きであるというのです。もちろん、このような見方の背後にはキリスト教の考え方があります。また、ある人たちは死という現実の悲しみ苦しみがあるからこそ、人々は罪や過ちを犯し、私たちの世界に様々な悲しみや苦しみをもたらすのだと言いました。死という苦難がすべての苦しみや悲しみを引き起こしているのだというのです。実は、このような見方も実は聖書の中に見ることができるのです。

みなさんは、聖書が新約聖書と旧約聖書の二つの部分から成り立っていることをご存知かと思います。この新約聖書と旧約聖書を死ということから読み比べて参りますと、新約聖書は死がなぜ私たちの人生に入り込んだのかということに関心を向け、この死という問題をどのように解決し乗り越えていくかということに強い関心を寄せているのに対し、旧約聖書は、死を運命として引き受け、死という問題にたいしてはあまり深く考えてはいないのです。むしろ、死という現実にたいして諦め、無関心でいるようにさえみえます。そして、この限られた命を如何に生きていくかに関心を向けているのです。ここがポイントです。つまり、私たちの命が限られたものであると考えて、この限られた命を如何に生きていくかという生き方が問題なのです。そして、私たちが死という現実のまえに、限られた命を如何に生きていくかということを考えるならば、その限られた命の中で、自分の人生を、自分の心を楽しませおもしろおかしく生きたいと思っても仕方のないことなのです。ですから人間はどこかで自己中心的になってしまいます。そして、そしてその自己中心的な部分が、様々な問題の根底にある私たち人間の問題の根底にあるのです。そういった意味では、旧約聖書がそのような人間の問題ある姿を浮き彫りにするのは、私たちの命が限られたものであると考えて、この限られた命を如何に生きていくかという死生観から導かれているということもできるのです。

もちろん、限られた人生を如何に生きるかという問題は、なにも死という避けられない運命を見つめることによってのみ自覚されるというものではありません。私たちが死という問題から目をそむけていきているときに、無自覚的に私たちを支配している生き方です。そもそも、だれにとっても本来は死というものは嬉しいものではありません。だから人間は本能的に今を生きると言うことに関心を向けます。それは、死を無視しているからです。けれどもみなさん、私たちは死という問題を考えなければ、本当に生きるということの意味と価値がわかりません。私たちが存在し生きる本当の意味と価値が分からないから自分の心を喜ばせ楽しく生きようとするのです。そもそも、私たちが人として存在し、生きているということに意味と価値はどこにあるのか。その問題は、死ということを考えてはじめて分かるものなのです。なぜならば、生きるということは死ということと反対にあるものだからです。

ところが、この私たちが存在し私たちが生きているということの意味を明らかにする死ということに対して、私たちは実はほとんど何も知っていないのです。私は、N牧師の肝臓移植の問題に深くかかわりましたので、それ以来、脳死という生命倫理の問題を少なからず考え、また調べてきました。その結果分かってきたことは、現代の医学においてでさえ、死というものがいったい何であるか、何をもって人の死というかということを明確に定義できないということです。だとすれば、人として存在し生きている意味と価値は何なのかということについては、もっと分からないと言えます。物言えず、機械によって呼吸し、それによって心臓の鼓動が保たれている人の存在の意味と価値はどこにあるのか。それはもっと分からない問題なのです。ある人にとっては、そのようにベッドに横たわっている人の姿に、その人の体はそこにあるが、しかしその人はもうそこにいないと感じる。「犠牲(サクリフェイス)わが息子・脳死11日」という本を書かれたノンフィクション作家の柳田邦夫さんは、脳死になったご子息を看病なさっているある時に、そこに物言えず、機械によって呼吸し、それによって心臓の鼓動が保たれて寝かされているご子息の姿を見て、「ああここに息子はもういないのだ」と感じられたといいます。その時に、ご子息の脳死は、ご子息の死となったのです。しかし、同じように脳死の子供を抱えているお母さんの一人は、そのお子さんが生きて自分たちに力を与えてくれていると感じている。そういった人たちにとっては、脳死であっても、それは人の死ではなく、今もそのお子さんはそこに生きて存在しているのです。だからこそ、脳死の問題が取り上げられるときに賛成の人も反対の人も生まれてくる。そのように、脳死の問題はそのように単純に医学的、生物化学的な問題として、はっきり定義できない要素を持っています。そこには、一人一人の死生観といった問題があるからです。ですから、この脳死といった問題には宗教に携わる人たちもこの問題に関わるのです。

では、聖書では死というものはいったい何であり、人が存在し生きている意味と価値は何処にあるといっているのでしょうか。私は、今日のこのお話をはじめるにあたって、二つの聖書の箇所を取り上げました。一つは、ここまでお話ししてきた主たる内容の部分である新約聖書コリント人への第2の手紙5章1節から11節まで。もう一つは、創世記2章4節から8節までです。この創世記2章4節から8節までは、神が人間をお造りになった人間の創造に関する出来事が書かれている部分です。そこにはこう書かれています。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」主なる神は土のちりで人を造ったというのですが、それは私たちの肉体に関することです。肉体は土のちりから造られたのですが、その肉体に神が命の息が吹き入れられてはじめて人間は生きた存在となったというのです。この命の息という言葉は、神の命の霊とも理解できるもので、神の霊が私たちと共にあるときに私たちは人間として生きるものとなったというのです。いうなれば、私たちが神とともにある時に私たちは人として生きるものとなったということだと言えるでしょう。つまり人の命は神から与えられ、神に依存しているのです。人が死ぬということは、私たち人間が神と共に歩まなくなったときに人間は人として死ぬのだというのです。

だからこそ、私たちはたとえこの肉体が生きていると言われている状態にあっても、私たちは神と共にいなければ死が私たちを覆っているのであり、それゆえに、私たちは死ぬべき運命にあるといえます。ところが、神は私たちが再び神を信じるならば、私たちはその死すべき運命にあるものに、神の国である天国で生きる永遠の命と、滅びることのない体を与えて下さるという約束を与えて下さるのです。そして、その約束に基づいて、死ぬべき私たちが命にのみこまれてしまったのです。ですから、新約聖書のコリント人への2の手紙5章5節では「わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。」とそういうのです。土のちりから造られた体に、神に命の息が吹き入れられた時に、人は生きた存在になったように、死ぬべき運命にあった私たちに神の御霊が与えられたときに、死ぬべき私たちに、神の国に生きる命が与えられたのです。これが、キリスト教で言う命です。生きるということです。私たちは神と共にある時に生きたものとなるのです。

しかし、神と共にあるということは極めて抽象的な言い方で、分かるようで分からない言い方です。いったい神と共にあるということはどういうことなのか。それについては、5章5節で「わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。」といわれたすぐ次の言葉に目を向けたいと思います。すなわち6節、7節の「だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」という言葉です。ここでは、私たちは「肉体を宿としている間は主(すなわち神)かた離れていることをよく知っている」といっています。そのように肉体は神から離れている、しかし「見るものによらないで信仰によって歩いている」というのです。「信仰をもって」というのは神を信じ、信頼することです。神が恵みをもって私たちに永遠の命と滅びることのないからだを与えて下さるということを信じて疑わないことです。つまり、私たちが本当に頼るべきものは、この世の何ものでもなく、ただ恵みをもって私たちに命を与えてくれる神のであると信じ、その神によりすがりながら生きることが神と共にあるということなのです。

みなさん、聖書は「見るものによらないで信仰によって歩いている」といいますが、考えてみれば、私たちは見えるものによって歩いていることがあまりにも多いように思います。実際目に見えるものは確かに私たちを豊かにし、私たちの心を愉快にしてくれることが多くあります。ですから、私たちは目に見えることが私たちを幸せにしてくれるように思ってしまいます。しかしどんなに私たちの生活を豊かにし、私たちの心を愉快に楽しませてくれるものであっても、私たちを死から救ってはくれませんし、死に打ち勝つ希望も命も与えてはくれません。それらは過ぎ去る一時的なものであり、永遠に私たちを幸せにしてくれるものではないのです。ですから、死という現実のまえに命は限りあるものだと諦めてのみ意味のあるものとなります。しかし、それは私たちが死という悲しみと苦難に打ち勝ち、永遠という一時的ではないものをもとめるならば、何も意味を持たないのです。そして、死という悲しみに打ち勝ち永遠に続く幸いを与える希望は、神を信じて生きる人生の中に与えられるのです。

このとき、神を信じる人生の意味と価値は、「私たちが神に喜ばれるものとなる」ということの中に顕われてきます。この「神に喜ばれるものとなる」ということの第一義的な意味は、神を信じ、神によりすがるものとなるという意味だといえます。神を信じ、神によりすがるものは、そのすべての罪をゆるされ、神の国に受け入れられるからです。そのことは、コリント人への第2の手紙5章10節には「神の喜ばれる者となるのが、私たちの心からの願いである」というということうけ、なぜ神に喜ばれる者となることを心から願うのかという理由が、「なぜならば」という言葉に導かれて語られる言葉の中に見ることができます。そこにはこうあります。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」この言葉が意味するところは、私たちが私たちの行なったことに対して神の裁きを受けなければならないということです。そして、その裁きの際に、私たちの罪に対して下される報いが永遠の死というものなのです。そういった意味では、罪を裁く神は、恐ろしい神でもあります。

しかし、その罪を裁く恐ろしい神は、私たちを憐れみ、恵み救おうとする愛の神でもあるのです。その神の裁きと憐れみと恵みが、キリストのさばきの座の前にあらわれるのです。というのは、イエス・キリスト様が、私たちの罪の救い主として十字架に架かかり死なれることで。私たちの犯した罪に対して赦しを与える神の愛と恵みと憐れみを私たちにお示しになったからです。この神の愛と恵みと憐れみのゆえに、イエス・キリスト様の十字架の死が私たちの罪を赦し、罪の裁きである死から救う神の恵みのわざであると信じる者を、神は喜んで下さり、永遠の命と滅ぶことのないからだを与え神の国である天国に迎え入れて下さるのです。ですから、「神の喜ばれる者となるのが、私たちの心からの願いである」というとき、それは「私たちを恵みあわれんでくださる神を信じる者となるのだ」というであるといえます。しかし、同時に、「神に喜ばれるものとなる」ということは、「神に喜ばれることをする者となる」ということをも意味しています。なぜならば、神によって救われ神の命を与えられた者は、神様という存在を意識しないではいられないからです。神を信じて生きるということは神を意識して生きるということでもあるのです。

そして、私たちが神を意識して生きるようになりますと、まず第一に私たちは罪を犯すことができなくなります。仮に罪の誘惑に負けることがあっても、そこには大きな悔いが残り、それゆえに神の赦しと救いを求めます。それは神の喜ばれることなのです。そのように罪を嫌うものを神は喜ばれるのです。そして、罪から離れるということだけではなく、人を愛し、人のために役立つ人になります。なぜならば、神が神を信じる者、永遠の命が与えられる希望を得させて下さった者には、その保証として神の御霊である聖霊を与えて下さったからです。その聖霊が、私たちに神のお心が何であるかを教えて下さり、神のお心に生きる者として下さるからです。つまり、神を意識して生きるものは、第二に人を愛し、思いやりの心をもつ人になるのです。それは、その神のお心はすべて神の愛に基づき、人を思いやり、憐れむ心に満ちているからです。このように、私たちが神を信じて生きるとき、また永遠の命が与えられる希望に生きるときに、私たちの存在は、神にとっても人によっても意味ある存在となり、この世界にあっても神にも人にも喜ばれる純粋で汚れのない価値ある者となるのです。

みなさん、神は私たちをそのような人生、そのような存在へと招き導いておられます。そして、なによりも「ご愁傷様です」と言わせることのない、命の希望、永遠の命を与えて下さるのです。だからこそ、聖書もまた教会も、2000年にわたって、この事を語り、人々に説き勧め続けてきているのです。そして今日も、神はみなさんの心に、この神の救いを示しておられるのです。みなさんに命を与えようとしているのです。そして、みなさんを通して、みなさんの愛する家族に、永遠の命を与え、神の恵みと祝福の中に導いておられるのです。その神の命をみなさんも受け取り、また、みなさんの愛する家族にも手渡していこうではありませんか。

お祈りしましょう。