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メッセージ

羊飼い 受難節第二主日礼拝
『愚かなことと思えても』
創世記 6章11−22節
コリント人への第二の手紙 5章11−15節
2010/2/28 説教者 濱和弘

先週O修養生がお伝えしましたように、今年は2月17日からレント(受難節)には入っています。毎年説明していることではありますが、受難節というのは、イエス・キリスト様が十字架に架かられた日、これを受苦日といいますが、その受苦日がある週を受難週と呼び、その受難週に入る日曜日から起算して40日前から受難節という教会暦の期間にはいるのです。なぜ、40日かというと、それは、イエス・キリスト様が荒野で40日間試みに合われたその試練にちなんで、40日と定めらえているのです。つまり、この40日間は「イエス・キリスト様の十字架の出来事を覚えて、身を正して自らの罪を顧み、悔い改めて過ごすときにしようではないか」ということであろうと思います。

そんなわけで、カトリック教会ではこの40日間の期間に結婚式を挙げることを控えたり、肉やチーズ、バターといった乳製品を絶って過ごしたりします。もちろん、形だけこのような一種の断食や祝い事を絶つということをしても意味はありません。そのような形に表されたことを通して、イエス・キリスト様の受難の意味に思いを馳せ、それが私の救いのためであったということを深く味わってこそ、受難節の意味があり、それこそが本当の受難節の過ごし方なのです。ですから、私たちの教会では、肉やチーズやバター、牛乳といった乳製品を食べるな等と申しませんし、祝い事をするなとも申しません。しかし、ぜひ、このときに、もう一度、イエス・キリスト様が「私を救うために十字架に架かって死なれたのだ」ということを心に覚え、深く心に刻んでいって欲しいのです。そのように、イエス・キリスト様の十字架の死の意味が、毎年毎年心に深く刻まれますと、それが私たちの信仰の年輪のようになって、私たちを神の民として成長させ信仰の歩みを刻むからです。その受難節の第二主日の礼拝の聖書の箇所にコリント人への第二の手紙の5章11節から15節までが開かれています。

このコリント人への第二の手紙5章11節で、「このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、」という「主の恐るべきこと」とは、その前の10節にある、「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」という言葉を受けてのものです。ですから、私たちが死後、最期の審判のときに主イエス・キリスト様の前で、裁きを受けなければならない情景を思い浮かべながら、「主の恐るべきことを知っている」というのです。そして、なぜ最期の審判のときに主イエス・キリスト様の前で、裁き座にたつのときに、主イエス・キリスト様が恐るべき存在であるかというと、それは主イエス・キリスト様が、私たちの行なった善と悪とをすべて明らかにされるからです。

私たちの善が神の前に明らかにされても、私たちは特に怖れることはありません。神が私たちのなした善きことを裁かれることはないからです。しかし、私たちが罪を犯していたとするならば、それは実に恐ろしいことです。なぜならば、その犯した罪によって私たちは神の裁きを受けなければならないからです。私たちは、自分の罪というものが人前にさらされることを嫌います。だから隠そうとする。けれども私たちがどんなに巧妙に自分の罪や汚れを隠し、人の目をごまかしていたとしても、主イエス・キリスト様の前によって、その隠れた罪までもが明らかにされ、そして裁かれるのです。

先日、今学期のAGST最後の授業があり、AGST学生と教師とで一緒に昼食をしていました。その時に英国気質の神学とドイツ気質の神学の違いについて話をしていたのですが、どうもドイツ気質の神学は人間の内面を突きつけてみる傾向がある。だから、ドイツからフロイトといった心理学者が出てきて心理学が発展していった話になりました。そして、そのように自分の内面にじっと目を向けると、どうしてもうつになりがちだというのです。なぜならば、自分の内面を掘り下げてじっと見つめていくと、自分の中の汚いもの、どろどろとしたものが見えてくるからです。心理学の世界でいわれることですが、人間は、自分の思い出したくないことや嫌なことほど、自分の心の奥底にしまって忘れていく性向があるようです。そして、そうやって無意識の世界が形成されていきます。そのように、私たちの内面を突き詰めてみていくと私たちの罪や汚れといったものがみえてくるのです。

私がよく引き合いに出しますルターという人は、自分の内面をよく見つめた人でした。宗教改革運動が始まり、ルターがカトリック教会から破門される以前は、当然のことですがルターはカトリック教会に所属していました。そしてアウグスティヌス修道会という厳格な修道会の修道司祭として生活していたのです。みなさんも御存知のように、カトリック教会には告解という大切な儀式があります。告解は、かつては懺悔と呼ばれていましたが、自分の罪を贖罪司祭に告白し、そして神からの赦しの宣言を受けるものです。カトリック教会では、この告解を経なければミサと呼ばれる私たちプロテスタント教会でいう聖餐に与ることができません。それほど、告解は大切なものなのです。

その告解は、修道院では、その修道院での上司に当たる人が贖罪司祭を務めました。ルターの告解司祭はシュタウピッツという人だったのですが、ルターは、いつも自分の内面をさぐり、しょっちゅう告解を求めてシュタウピッツのもとをたずねるのです。それこそ、一日に何度もたずねてくるということさえあった。それでシュタウピッツは、とうとうルターに「もう罪の悔い改めのために告解を求めてたずねてこなくていい。こんどたずねてくるときは人を殺したか姦淫の罪を犯したといったときに来てくれ」といったといいます。そして、それほど自分の内面を見つめ、自分の心に目を向けていると、自分の中にある汚れや、自分の心にしまい込んでいた罪に私たちは気がつかざるを得ないのです。だから、自分の内面を真摯に見つめる人は、鬱傾向にあるというのですが、果してルターも鬱傾向にある人でした。そして神様のことが恐くて恐くて仕方がなかったのです。まさにルターにとって神は恐るべき存在だったのです。

ところが、今日のこの聖書の箇所でパウロは、「主は、恐るべき御方である」といいながら、「わたしたちのことは、神のみまえに明らかになっている。さらにはあなたがたの良心にも明らかになるように望む。」というのです。この言葉には、鬱傾向にあるような響きはありません。むしろ、すがすがしく、そして明るく「わたしたしのことは神の前に明らかになっている」といっている感じがするのです。実際、パウロは「(わたしたちのことは)あなたがたの良心にも明らかになるように望む。」とそう言っているのです。そして「わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない。ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ」たいのだとさえいうのです。神の前に明らかにされるものは、善いことも悪いことも洗いざらい明らかにされるのです。「えー、あの人はこんな人だったんだ」「この人は、こんな事を心の中で思っていたんだ」と思われるような事まで明らかになる。本当なら、そんなことは人に知られたくない、隠しておきたいことまで、パウロはあなたがたの良心に明らかになればよいと望む、そしてそれが明らかになったら、そのことを通してあなたがたはパウロを誇ることができるというのです。

いったいどうしてそんなことが言えるのでしょか。パウロという人は自分のことを罪人の中の罪人、罪人の頭だといった人です。それほど自分の罪を深く自覚していた人だと言えます。けれども、同時に、自分の罪深さが明らかになればなるほど、その罪を十字架の上で赦し、私たちを罪の支配から解放してくださる神の恵みと愛とが明らかになるということを最もよく理解していた人の一人でもあったのです。パウロは、ローマ人への手紙の5章20節21節でこのようなことをいっています。「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。 それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。」このように、パウロは「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」といいます。しかし、これは私たちが住む世界では考えられない言葉です。なぜなら「罪がまし加わるところには、刑罰がまし加わる」のが私たちの世界の常識だからです。ですから、できるだけ自分の罪が小さくなるように、罪を隠し、言い訳をし、大きな罪がばれないようにとするのです。

ところがパウロは、それとは全く逆の「罪がまし加わるところに恵みもまし加わる」といいます。それは、私たちが自分の罪深さを知り、その罪深さに打ちひしがれるならば打ちひしがれるほど、その罪人をより深く愛し憐れみ、そして恵みを与えて下さる神の愛がわかるからです。もし誰かが、「私たちは罪人だ。だから神に認めて頂けるように頑張ってよい人になろうよ」といわれれば、「確かにそうだ」と思います。「よし頑張ろう」という気持ちにもなる。そして、善い行ないをしたならば、誇らしい気持ちにもなる。けれども、そうではなく「自分自身が罪人であり、その罪が深ければ深いほど、私たちは神に顧みられるのであり、私たちが神に認めていただけるのは、自分の心に目を向け、自分の罪深さ、愚かさを神の前に顕わしていくことなのだ」とパウロはそういうのです。

罪深さ、愚かさを認める神。それが邪悪な神ならわかりもします。しかしパウロの言う神、聖書の神は、曲がったことの大嫌いな聖なる正しい神、義なる神なのです。その神が、自分は罪人であり、自分の愚かさを明らかにすると認めてくれるというのは、それこそ愚かな考えのように思われます。あまり良い言葉ではないのですが、パウロは13節で次のようにいっています。「もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである」気が狂っているという言葉は、今は放送禁止用語にもなっている不快語です。ですから新共同訳聖書では「正気ではない」という言葉を使っています。私もその方がよいと思いますので「正気ではない」という言葉を使いますが、パウロがここで「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであった」といっているのは、おそらく、パウロに反対する人たちが「パウロのいっていることは正気の沙汰ではない」というような批判や中傷をしていたのだろうと思います。そのような非難に対してパウロは「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであった」といいきるのです。どんなに愚かで正気ではないと思われようとも、それが神の真実ならば、その神の真実に従い、神が罪人を愛し、赦し、受け入れ、その罪人のために十字架について死なれ救いの道を開いてくださったということを語り続けなければならないというパウロの思いがそこにあるからです。

私は、きょうの聖書箇所に新約聖書コリント人への第二の手紙5章11節から15節までと、旧約聖書創世記5章11節から22節までをあげ、司式の兄弟に読んで頂きました。この創世記5章11節から22節に書かれているのは、有名なノアの方舟の記事です。今日も何人かの子どもたちが一緒に礼拝を守っていますが、ノアの方舟の物語は教会学校でも何度もお話しされています。そのストーリーは、大まかにいった次のようなものです。昔、人間が神にそむき、この地上に悪がはびこってしまったのを見て、神様はこの地上から人間をぬぐい去ろうと決心します。神様が選んだ方法は、大雨を降らし、地上のあらゆるものを洗い流してしまおうというものでした。けれども、神様は、ノアだけがその時代の人々の中で、正しく全き人であったので、ノアとその家族を救おうと、神様のご計画をノアに教えます。そして、大きな方舟を山の上に造って、地上にいるあらゆる生き物の雄と雌ひとつがいを方舟に乗せなさいと命じるのです。

船は海や川で使うものです。ですから山の上で船をつくる、しかも巨大な船を造るということなど考えられない、全く愚かなことで正気の沙汰とは思えない行動です。けれども、ノアはその神の言葉に従ってその愚かで正気だとは思えない山の上に船を造るということをするのです。聖書には書いてありませんが、おそらくそんなノアの姿を見て、人々はノアのことを愚かな奴だとか、正気ではないといっていただろう事は容易に想像できます。常識的に考えるならば、そのように思えることをノアはしているからです。たしかに、ノアは人の目からみれば愚かだったのかもしれません。しかし、そのノアの愚かさは、神の言葉であるならば、どんなに愚かで正気を失ったように見えることでも、それに従う愚直さだったのです。

聖書は、ノアは正しい、全き人であったといっていますが、このノアの正しさは、たとえ人から愚かで正気ではないといわれるようなことでも、それが神から出た言葉であるならば、その言葉に聞き従うという愚直さにおける正しさであり、完全さであったといえます。神から出たことであるならば、それを信じ、それに従う。それは神を信頼しているからできることです。結局、ノアは神様を信頼するその信頼において正しい選択をし、その信頼において全きものだったのです。そういった意味では。パウロも、ノアと同じように神を信頼するということにおいて全きものでした。パウロは、かつてはクリスチャンを迫害していたという過去を持っています。その過去は、どんなことをしてもパウロの経歴から消すことはできません。パウロもそれは良くわかっている。だから、彼は自分のことを罪人の頭とそういうのです。けれども、そのパウロをイエス・キリスト様は赦し、かつてはキリスト様が十字架にかけられて死なれたのは、神の呪いと怒りがイエス・キリスト様の上に鉄槌のように下されたと思っていました。そのパウロが、あのキリスト様の十字架の死が、実は自分を救い、神の子として迎え入れるための神の愛と恵みのわざであったと知ったとき、彼は、それまでの自分の生き方と決別したのです。

パウロは、このコリント人への第二の手紙5章14節でこういっています。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。」かつてのパウロはイエス・キリスト様は神に呪われたものであると信じていました。木にかけられたものは呪われると旧約聖書の申命記21章23節に書いてあるからです。だからその神に呪われたものであるイエス・キリスト様という御方を崇めているものも受け入れることができなかった。そしてクリスチャンを異端者として迫害していたのです。けれども、そのようなパウロであったのにも拘らず、イエス・キリスト様はそのような者を、赦し、受け入れて下さっていると知ったとき、パウロは、本当に呪われていた存在であったのは自分であったことを知ったのです。そして、かつては神の呪いの証であると信じて疑わなかったイエス・キリスト様の十字架が、実は呪われた存在であった自分を救ってくれるものであったということに気が付いたとき、彼はキリストの愛がパウロに強く迫っていることを知ったのです。

このキリストの愛が私たちに強く迫っているという言葉を、新改訳聖書は「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」と訳しています。新共同訳聖書は「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」となっている。自分を憎み、迫害し、呪われた者といったパウロを赦し、受け入れてくださるキリストの愛がパウロを取り囲み、パウロに、強く迫り、強いるようにして、この愛を人々に伝えよと駆り立てているというのです。かつての自分にとって、キリストの十字架の死は愚かな呪われた死でしかありませんでした。ですから、その十字架の死が私たちを救うという事など全くばからしい話であり、罪が大きいほど、神はより大きな愛で愛して下さるなどということは、全くもって正気を失ってしまったかのような話です。余談にはなりますが、日本のある新興宗教団体が、他宗教の過ちを指摘し、自分たちの宗教がいかに正しいかを示して説得し布教するために、折伏教典というものをもって、信徒を教育しています。その折伏教典のキリスト教の覧には、キリスト教は、当時のローマ帝国で罪人を処刑するために使われた十字架刑で殺された人間を神と崇めている、罪人を教祖する宗教であるといって、そのように、処刑された罪人を神と崇める宗教はおかしいといって非難するのです。まさに、神のひとり子であり、神である御方が十字架で死なれたということが、全く愚かしい事だといっているのです。そしてそのようなことを信じているなど正気の沙汰とは思われないことなのでしょう。

けれども、その愚かしいと思われることであっても、正気を失ってしまったと思われるようなことであっても、そのキリストの愛に触れたパウロにとっては、その愛に押し出されて伝えずにはいられない神の真実なのです。パウロは生粋のユダヤ人でしたし、ユダヤ教の教えを当時の一級の学者ガマリエルから学んでいましたから、彼の旧約聖書の知識や学識はおそらく抜群のものだったろうと思います。だからこそ、旧約聖書申命記21章23節に書いてある「木にかけられたものは呪われる」という言葉から、十字架にかけられて死んだものが神のひとり子であり、救い主だと伝える、当時のクリスチャンたちの言葉が、正気を逸したおろかな言葉に聞こえたのだろうと思います。また、当時のギリシャ哲学の影響を受けたヘレニズム文化の中にすんでいた人たちにとっては、死ぬべきからだがよみがえり、朽ちない永遠の命と体を神から与えて頂くことができるということは、愚かしいことのように聞こえたのかもしれません。

そして、現代の日本にすむ私たちにとっても、2000年前にイエス・キリスト様が私たちを救うために十字架で死なれたのであり、それを信じる者は罪と死の法則から解放され、永遠の命をいただいて神の子となるのだといっても、それはにわかには信じられない話だろうと思います。そもそも、聖書に書いてある創造の物語や奇跡なども信じがたいことなのです。ですから、そういったものを信じているといいますと、普通に考えるならば、正気を失っているように思えても仕方がないことなのかもしれません。だから、日本での伝道は本当に難しい。けれども、本当に私たちが、神の愛に触れ、イエス・キリスト様によって救われたという経験を心で感じるならば、たとえ愚かと思われ、正気を失っていると思われることがあろうとも、そのキリストの愛におしだされて、神を信じる者として神に対して誠実に生きていくのです。そして、そうやって神を信じ、神に対して誠実に生きていくことが、実は神を証しイエス・キリスト様を伝えていくこととなります。

それでは、神に対して誠実に生きていく生き方とはどのような生き方でしょうか。具体的に誰をモデルとして生きていけば、そのように神に対して誠実に生きていくことができるのでしょうか。 実は、この問題は長い教会の歴史の中で真摯に問われてきた問題です。そしてそのように、神の前に真実に生きるということを求めた人たちの中で生まれてきた言葉が、敬虔という言葉です。その敬虔に生きるという事の中から生まれてきたのがキリストに倣うということです。私たちの教会の創立者の一人である加藤亨牧師が、よい信仰書の一つとしてあげていたのが、トマス・アケンピスの「キリストに倣いて」という本でした。その本の主題はまさにキリストに倣う生き方をするということです。このトマス・アケンピスという人は15世紀の後半にオランダを中心におこった近代的敬虔(divotio modeina)という敬虔な生き方を求めるグループに属する人ですが、彼の「キリストに倣いて」は15世紀から16世紀の知の巨人であったエラスムスや宗教改革者のルター、そしてカトリック教会内で改革を行ないイエズス会の創立者であるイグナチウス・ロヨラなどに強い影響を与えました。

そのような影響を受けた、エラスムスやルターは実践的なキリスト教、つまり具体的にキリスト教の信仰を如何に生きるかということを追い求めていったのです。その結果、彼らが行き着いたのは、キリストを模範として生きるということです。つまり、神に対して誠実に生きる人のモデルはイエス・キリスト様ご自身であるというのです。このイエス・キリスト様の生き方は聖書の中に表されています。またイエス・キリスト様ご自身が神の言葉であるとも言われている。ですから、私たちが神を信じ、神に対して誠実に生きていく生き方とは、イエス・キリスト様を信じて、愚かと思われても、聖書の御言葉に従って誠実に生きていく生き方なのです。そして、私たちが、聖書の言葉に従い、イエス・キリスト様に倣って生きていくならば、それこそが神を伝える一番大きな伝道になっていくのです。

パウロは、キリストの愛が私を取り囲んだとき、かつての熱心なユダヤ教徒、パリサイ人としての生き方をすることができなきなりました。そして、かつての生き方に死に、キリスト者として新しく生まれ、キリストの愛に迫られてキリスト教の伝道者として、イエス・キリスト様を伝え、福音を語らずにはいられなくなったのです。そのようにパウロをかつての自分に死なせ、神の前に誠実に生きる者となさしめたキリストの愛は、あのイエス・キリスト様の十字架の死によってあらわされた愛です。

みなさん。この受難節の期間は、そのイエス・キリスト様の十字架の出来事、受難の出来事を思い、そこに顕わされたキリストの愛を思い起こすときです。ですから私たちは、この受難節の時に、もう一度、私を愛し、私を導き、私を罪と死の支配から解放するためにイエス・キリスト様があの十字架の上で苦しまれたのだということを、思い起こしながら過ごしたいと思います。そうやって、私たちを取り囲み、迫ってくる神の愛を感じて、より深く神を愛する者にさせていただきたいと思うのです。そしてキリストの証し人として、神の言葉である聖書が指し示す生き方に愚直なまでに従って誠実に生きる者とならせていきたいと思うのです。

お祈りしましょう。