三鷹教会のロゴ

メッセージ

羊飼い 受難節第三主日礼拝
『和解の福音を生きる』
イザヤ書 43章19−21節
コリント人への第二の手紙 5章16−21節
2010/3/7 説教者 濱和弘

今週は受難節第3主日です。その受難節第3主日の説教を、新約聖書コリント人への第2の手紙5章16節から21節を中心にお取り次ぎさせていただきたいと思いますが、このコリント人への第2の手紙5章16節から21節は、16節の「それだから」という言葉から始まっています。この「それだから」ということば、ギリシャ語ではωστεというのですが、前の文をうけて、その結果、「こうこうである」あるいは「こうこうしましょうね。」というように話を繋いでいく接続詞です。ですから、このコリント人への第2の手紙5章16節の「それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。」という言葉は、その直前の「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。」という言葉と密接に関係していることになります。

つまり、パウロは、「イエス・キリスト様は、その罪のために霊も肉も死すべき定めにあった私たちを救うために、十字架の上で死なれ、私たちがもはや自分のために生きる人生ではなく、イエス・キリスト様を証し伝えるための人生を生きる者としてくださったのだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい」といっているわけです。平たくいえば、イエス・キリスト様を信じてクリスチャンとなったものは、いままでのものの見方で人を判断するのではなく、またイエス・キリスト様という御方を見、そして判断するのは止めようということです。これは、まことにパウロらしい言葉だなぁと思わされます。と申しますのも、先週お話しましたように、クリスチャンになる前のパウロは、熱心なユダヤ教徒であり、ユダヤ教に関しては十分な学識を持っている人物であり、そのユダヤ教徒としての信仰と学識によって、十字架にはりつけられて死んだナザレのイエスという男は神によって呪われたものであると信じて疑ってはいなかったからです。

ですから、パウロにとって肉で知るイエス・キリスト様とは、神に呪われ、みじめに十字架で死んだ一人の男にしかすぎませんでした。けれどもそのパウロが、あのイエス・キリスト様の十字架の死は、私たちを滅びから救うためになされた神の愛の行為であるということを知ったとき、イエス・キリスト様という御方に対しても、またその十字架の死の意味に対しても、見方も全く変わってしまったのです。当然、イエス・キリスト様をどのように理解するのかという理解の仕方も変わってしまいました。それまでは、それこそ正気を失った、愚かでみじめな一人の男にすぎなかったのが、私たちを救う神の愛を示し、実現するために人となられた神のひとり子であって崇めるべき御方、信じすがる御方、自分の人生の主権者である「主」と呼ぶべき御方であると知ったのです。

このイエス・キリスト様という御方ほど、この御方をどう理解するかということで、様々な論争を巻き起こした御方はそう多くはありません。たとえば、4世紀にキリストが神であるかどうかという問題で大論争が起こり、325年のニケヤ会議でニケヤ信条が採択され、アリウス派と呼ばれるグループが異端とされました。これは、イエス・キリスト様をどのような御方であるかということが、世界史的規模で議論されたひとつ事例です。もちろん、ごく普通に考えるならば、神が人となるなどということは考えにくいことです。そんなわけで、今日でもイエス・キリスト様は偉大な教師であったとか、人間の道徳的模範であるといったことが言われます。そして、このような主張の背後には、たとえイエス・キリスト様がどんなに優れて偉大な教師であり、人類の模範となるような存在であったとしても、結局は一人の人間にすぎないのだといった見方が潜んでいるのです。このイエス・キリスト様が一人の人間にすぎなかったという見方は、私たち人間の知恵や知識、また考えによるものだといえます。ですから、それは聖書の言葉を借りていうならば、肉によってイエス・キリスト様という御方を知る知り方です。

けれども、私たちの罪を赦すキリストの愛に取り囲まれ、迫られたものは、もはやそのような肉による見方でイエス・キリスト様を見るのではなく、パウロもように信仰の目を開いてイエス・キリスト様を見るべきだというのです。それでは、平たくいうならば、神が罪人である私たちを愛しておられ、その罪人である私たちを救うために、神のひとり子であるイエス・キリスト様をこの世に送られ、私たちの罪とその罪の裁きである死から解放するために十字架の上で死なせたのだということを信じる信仰をもってイエス・キリスト様を見るということです。そしてこの信仰をもつためには、どこかで古い自分に死に、あたらしい自分として生まれ変わる必要があります。いうならば新生の経験です。この新生の経験を通して人はクリスチャンになるのです。

もちろん、中世のヨーロッパのように生まれたときからキリスト教の世界の中でうまれ、キリスト教が当たり前の世界で育った人には、古い自分に死に新しい自分に生きるといった転機的経験は持ちにくいかもしれません。今日で言うならば、両親がクリスチャンである家庭、あるいはお父さんかお母さんがクリスチャンである家庭に生まれた人たちは、それに似ているかも知れません。それこそ、生まれたときからキリスト教が当然のように身近にあって、あたりまえのように神の存在が語られ、信仰の世界の中で育っていきます。それでもどこかで、信仰に悩み、葛藤することがあるのです。私が時折礼拝で引き合いに出すエラスムスという人がいます。この人は15世紀から16世紀の時代の人ですから、まさしく生まれたときからキリスト教が身近にあり、キリスト教の信仰の世界で育った人です。このエラスムスという人は、おそらく自分自身の経験を通して、また人間の実際の姿を見ながらのことでしょう、「キリスト者兵士必携」という本の中で、人間というものは、自分の内側にある欲望と、敬虔な思いとの激しい葛藤と戦いの中にあるということを主張しました。そして、その葛藤と欲望に打ち勝ってクリスチャンらしく生きるためには、聖書を学び、それによって得たイエス・キリスト様を知る知識と祈りしかないといったのです。

それは、自分自身の内側から起こってくるパウロが肉と呼んでいる人間の思いや考え、あるいは欲望といったものに死んで、人間ではなく神が与える知識を学び、そして神によりすがる信仰で物事を捕えていくということです。そしてそれがなければ、私たちは罪の誘惑に打ち勝つことができないのです。ここには、クリスチャン・ホームで生まれて育ってきた兄弟姉妹が多くいらっしゃいます。そのお一人お一人が、おそらくクリスチャン・ホームで生まれ育つことでしか味わえない葛藤を覚えたことがあっただろうと思います。たとえば、学校では宇宙の起源や人間の進化といったことが教えられるのに対し、教会では、小さいときから神様が天地万物を造り、人間もお造りになったという話を聞いている。その二つ間で悩むこともあったでしょう。また友達は日曜日に遊びにいくのに、自分は教会に行くことを求められ、あるいは否応なしに教会に連れられていく、そのことに葛藤を覚えることもあったのではないかと思います。

けれども、そういったことを通りつつも、今、こうして共に礼拝を守っている。それは、強い経験として自覚していることではないかもしれませんが古い自分に死に新しい者として生まれたということなのです。たしかに葛藤もあるし、「これはどうなのだろうか」といった思いもある。しかし、それでも礼拝を守り、礼拝に集ってくる、それは、たしかに私たちの信仰の現れ方の一つなのです。そして、それこそが神の前に新しく生まれたものとされているということの証だといえます。もちろん、キリスト教とは縁もゆかりもないところに生まれ、それでも神を信じ、イエス・キリスト様を信じてクリスチャンとなった人は、明確にクリスチャンになる以前となったあとの分岐点を持っておられることでしょう。どこかで、クリスチャンとなろうという決心した時があるからです。ですからクリスチャンになる以前の自分とクリスチャンになったあとの自分という、古い自分と新しい自分という区別がつけやすいと言えます。

もっとも、生活それ自体をみるならば、クリスチャンになる前となったあとの生活に何の変化もみられないといったことはあるかも知れませんね。しかし、だからといってがっかりしたり、自分は本当にクリスチャンだろうかと心配する必要はありません。このコリント人への2の手紙5章18節にあるように、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者」だからです。そしてキリストを信じ、キリストにあって新しく生まれたならば、必ず、その人のうちに、そしてその人の人生に新しいことが起こってくる、変化がおこってくるのです。先ほど司式の兄弟に、このコリント人への第2手紙とともに、読んでいただいた旧約聖書のイザヤ書43章19節から21節にはこのように書かれています。「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。野の獣はわたしをあがめ、山犬および、だちょうもわたしをあがめる。わたしが荒野に水をいだし、さばくに川を流れさせて、わたしの選んだ民に飲ませるからだ。この民は、わが誉を述べさせるために、わたしが自分のために造ったものである。」

ここには、神が新しいことをなすと言われています。それこそ、聖書の言葉は神の啓示であると信じてこの言葉を受け取るならば、そこには希望があります。クリスチャンになっても何も変わっていない、何も新しいことがないと思っていても、神の約束は、かりにそのような新しいことが起こっていないとしても、必ず「やがてそれは起こる」というのです。だから、がっかりする必要はないのです。しかも、この言葉は、「わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。野の獣はわたしをあがめ、山犬および、だちょうもわたしをあがめる。わたしが荒野に水をいだし、さばくに川を流れさせて、わたしの選んだ民に飲ませるからだ。」という言葉へとつながっていきます。「さばくに川を流れさせる」ということは、そこに「さばく」があるということです。のどがからからになるような現実がそこにあるのです。「野の獣はわたしをあがめ、山犬および、だちょうもわたしをあがめる。」というのも、野の獣や山犬、だちょうがいるような荒野の中を通ることがあることが前提とされています。けれども、そこに川が流れ、泉が湧いてくるというのです。

それは、その人の人生に新しい事が起こってくるということでもあります。ともうしますのも、このイザヤ書43章は、イスラエルの民が、神にそむき自分勝手に生きていたその罪のために神の裁きにあってバビロンに奴隷として捕われていくが、その裁きの中から、神を呼び求めるならば、やがて神は救いという恵みを与えて下さるということが述べられている箇所だからです。神の前に罪を犯した民の運命として、そこに神の裁きとしてのバビロンに奴隷として連れていかれ奴隷として生きていかなければならない運命がある。けれども、神は、その民が神に立ち帰るならば、救いという新しい出来事を起して下さり、奴隷としての生き方から解放してくださるというのです。そのように奴隷から解放されるということは、その生き方、人生そのものが変わっていきます。しかも、その人生は、砂漠のような人生でもなければ、荒野のような人生ではないのです。パウロが、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」というとき、まさしく、イザヤ書43章19節から21節でいうように、自分自身の内面が変わるだけではなく、その生き方や人生までもが変わってくると言うのです。まさに「古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなった」のです。

でもどうしてそんなことが起こるのでしょうか。私はその鍵が18節以降の言葉にあるように思われます。そこで18節以降をもう一度見てみますと、次のように書かれています。「しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」

「すべてこれらの事は、神から出ている。」というのは、私たちが神によって新しくクリスチャンとして生まれ、新しい人生を生きるものとなったということです。パウロは、「これらの事は、すべて神から出ている」というのです。なぜなら、だれも自分の力で神に正しいものであると認めていただくことができないからです。ただキリストのみが、私たちの罪のためにご自分の命を投げ出すことで、私たちと神の間に立って私たちを執り成し、神と私たちの間に和解をもたらして下さったのです。もちろん、それは父なる神のご意志でもありました。だからこそ、「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ」たといえるのです。それだけではない、その神と人との和解の福音を私たちに委ねられ、私たちをキリストの使者として和解の務めを授けて下さったというのです。

もちろん、和解の福音を委ね、キリストの使者として和解の務めを授けて下さったということは、第一義的には、私たちに、キリスト教の伝道のわざを委ねてくださったということです。そして、私たち一人一人をキリストの証人として、神を伝え、イエス・キリスト様による救いを語り伝えていくという使命を与えてくださったのです。しかし、同時に、この和解の福音を委ねられたものは、和解に生きるものでなければなりません。私たちが、誰かを赦し、和解することなしに、神が私たちと和解してくださったという和解の福音を伝えても、その言葉には力がないのです。和解の福音を語るものが、和解に生きてこそ、その言葉は力を持ちます。真実として伝わっていくのです。しかし、自分と敵対し争っている相手をゆるし、和解するということは本当に難しいことです。ましてやそれが自分に対して罪を犯し迷惑をかけている相手であればなおさらです。そんなことなどとうていできないことのようにさえ思います。いや、私たちの生まれ持った性質ではできないことなのです。

だからこそ、私たちは神の和解を受けなければならない。神がこの罪人である私を、汚れた思いや醜い思い、あるいは怒りと自己中心の心に満ちた私を赦し受け入れてくださり救って下さった、その恵みをしっかりと受け止め意識しなければならないのです。それは、この救いの出来事をしっかりと意識しているならば、16節の言葉に帰りますが、「わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。」というところ立つことができるからです。パウロがここで、「肉によって知るまい」といっているこの言葉は、キリストだけを「肉によって知るまい」というのではなく、「だれをも肉によって知るまい」ということです。つまり、あなたが敵対している相手、怒りや憤りを感じている相手であっても、「肉によって知るまい」という覚悟がそこにあります。しかも、「今後は」というのですから、一回限りのことではなく、これからずっとということです。それも、パウロ一人の決心、決意としてかたられているのではなく、わたしたちはというのですから、すべてのクリスチャンにその決心と決意を迫っているのです。

誰かに対して憤りや怒りを感じ、相手を嫌いだと思うとき、その思いにはたいていの場合、そう思い感じるだけの理由があります。理由はないけど生理的に嫌いということは、ほとんどない。それなりに理由はあるものです。そして、その理由を聞くと、「なるほどな」「そう思っても仕方がないな」と思われるものです。しかし、あえてそのような見方ではなく、その憤りを感じている人も神の愛の対象であり、キリストが愛している一人だとしてみるならば、その人は私たちの怒りや憤りの対象ではなく、私たちが和解すべき対象なのです。みなさん、考えてみてください。もし私たちが、そのように憤り怒りを感じている人と和解し、和らぐことができるならば、そこから私たちの人生に何か新しい変化が起こってくるとは考えられないでしょうか。もし、私たちが、神の和解の福音を受け、この和解の福音を生き、この和解の福音を伝えるものとなっていくならば、私たちの人生に必ず新しいことが起こってくるのです。ですから、まず私たちは、キリストの救いを信じキリストにあって新しく生まれたものとなりましょう。また、すでにクリスチャンとなっておられる方は、新しく生まれたものとされたということをもう一度確認したいと思います。

そして、そのように新しく生まれたものは神の和解を受けているのだということを心に刻んで欲しいのです。そして、そこから、和解の福音に生きるものとなりましょう。夫婦の間で和解しなければならないことがあるならば、赦し受け入れ和解していきましょう。親子の間で和解しなければならないことがあるならば、和解していきましょう。兄弟の間であってもそうです。友人の間でもそうです。そうやって和解の福音を生きるならば、私たちに人生には必ず新しい事が起こり、より神の恵みに見た者へと変えられていきます。イエス・キリスト様は、そのために十字架の上で苦しみ死なれるという受難の出来事を経験なさったのです。

お祈りしましょう。