『わたしの前に歩め』
創世記 17章1−5節
1994年6月19日
説教者 加藤亨
「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、
『わたしは全能の神である。
あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。
わたしはあなたと契約を結び、
大いにあなたの子孫を増すであろう。』
アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、
『わたしはあなたと契約を結ぶ。
あなたは多くの国民の父となるであろう。
あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、
あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。
わたしはあなたを多くの国民の
父とするからである。』」
今朝はただいま司会者に拝読していただきました、創世記の第十七章のところ、とくに「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」この言葉を中心にしてお話を進めてまいりたいと思います。
今アメリカから望先生が帰ってきて下さって、山上の恵福をずっと話しております。わたしはヨハネによる福音書を説教して第五章まできました。第六章からの途中で、一回二回やってまた中休みするということは、あまり心が進みませんし、それで設立総会が終わったあと、このしばしの時は、これからの教会ということを考えるとともに、わたしたちの信仰者としての歩みを、もう一度原点に立ち帰りながら、御言葉を通してメッセージを聞きたいとこう思っているわけです。そこで、今朝はこのアブラハムに神が現れて、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」この主題のもとにお話を進めていきたいと思うのです。
わたしたちは人生というものを、歩くという表現で語る場合があるんではないでしょうか。しかしよく考えてみますと、人間というものはただ歩くだけではないと思うんです。皆さんの現実の生活を振り返ってみて下さい。ただ歩いているだけでしょうか。ある意味においては歩き回ってるって言った方がいいかもしれませんね。歩き回ってる。これがわたしたちに語ることはなんとなく、目的のない人生、それは歩いていることには間違いないんですけれども、あちこち歩き回っておる。ある時には忙しさに追われてただかけずり回ってると言うことのほうが、あたるかもしれません。
人生に目的がないということは、わたしたちを疲れさせるだけであります。そして迷路の中にはいってしまったような気持ちにさせられることも、多いのではないでしょうか。いやわたしはそんなに歩き回って、迷路なんかに入っていませんと言うかもしれませんね。しかし冷静にわたしたちは自分の歩みを見てみます時に、自分の目の前のこと、目先のことだけで、我々の行動というものが振り回されていることが多いのではないだろうか。そういう目先のものに動かされないで、確信をもって、自信をもって、ある時にはどんなに受け入れられない、どんなに反対があってもその中に確固とした、自分の人生の歩みを歩み続けていくということは、非常に戦いの多い、抵抗の多い歩みであるかもしれません。ですからそこから、逃避という言葉は悪いですけども、その抵抗を避けるようにして、わたしたちはスイスイと逃れながら歩いていく場合もあるんじゃないだろうかなあとこう思うのです。
わたしたちのキリスト者としての生活を考える時に、信仰者としての歩みの原型と言いましょうか、そういう一人の人物が、わたしたちの前にあることを、もう一度思い返したいと思います。それは信仰の父と言われております。アブラハムの生涯でございます。アブラハムという人は、今からもう何千年も前に存在した人物です。イスラエルの民族の族長として、系図的に言うならば、イスラエル民族の最初に名を記される人、それがアブラハムという人ですね。このアブラハムという人の生涯を通して、わたしたちは歩くということ、それがどういうことか、そのことをご一緒に考えていきたいと思うのです。
創世記にアブラハムに関する記事は出ております。それは創世記の第十二章から始まります。そのアブラハムの生涯は、ふたつに分けることができると思うのですね。最初は第十二章一節であります。「時に主はアブラハムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。』」これがアブラハムがその神を信ずる信仰のスタートをした時ですね。それは神様から、アブラハムよ、おまえはあなたの国を出てきなさい。あなたの親族に別れなさい。あなたの父の家を離れなさい。そしてわたしが示す地に行きなさい。そこから、ずっと創世記の第十一章までは、アブラハムがその神様から示されたその地において、どのように彼が歩いたか、そして神様の祝福と神様の約束を彼は信じて、どのようにその中において生きていったかということが書かれております。
もうひとつの区分は創世記の第十二章になります。創世記の第十二章にこう書いてあります。「これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、『アブラハムよ、…あなたの子、あなたのあなたの愛するひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい』」と、最初はあなたの国を離れ、父の家を離れ、親族に離れてわたしの示す地に行きなさい。そこからスタートします。第十二章ではあなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きわたしが示す山で、彼を燔祭として捧げなさい。これを比較してみますと、似ているようですね、初めのほうは、なになにから離れ、なになにから別れて、わたしの示す地に行きなさい。そしてもうひとつは、あなたの子、あなたの愛するひとり子を連れてモリヤの山に行き、わたしの示す山で彼をいけにえとして捧げなさい。このふたつが同じような内容をもって語られていますね。これが、今日もアブラハムの生涯を通して、わたしたちに語りかけておられる神からのメッセージではないかと思うのです。
最初のところは、地理的な意味を持っています。イスラエルの国が、あの細長い領土を大事にしていますね。そしてこの時の約束に従って、あのエルサレムもそうです。あれももともとは、約束の地カナンに属するところです。そして今ヨルダンの地もそうです。あのヨルダン川の西側はみんなこれは神から賜った約束の地なのです。ですから今、中近東でイスラエルを中心にして、レバノンのほかいろいろのところで領土問題が起こってますでしょ。あれももとはと言うと、神がアブラハムを通してイスラエルの民族に、神の約束の地として与えて下さった土地なのです。ですからユダヤ教に熱心な人たち、その祖先からの言い伝えを、本当に信じている人たちは、その領土に非常に執着しているわけなのです。
ですからこの創世記の第十二章のところで、この地理的な条件であるわたしの示す地、これを獲得していくということがどんなにアブラハムにとって、またイスラエルの民族にとって大切なことであったかと思いますね。これが創世記の第十二章に書かれておることですね。ここからスタートしているわけです。
そしてもうひとつの第十二章の方はこれは今度は、契約の民としてのイスラエル民族と、神との間における第一歩です。アブラハムの生涯において、このイサクをモリヤの山で捧げるということは、これは本当に大きな出来事ですね。皆さんの方が、あの天地創造という映画を、ごらんになったかもしれません。アダムから始まって、ノアに行きましたでしょ。最後はなんで終わってます。アブラハムがイサクを捧げる。そこであの映画は終わってますよ。それはアブラハムの生涯にとってもそうです、後のイスラエル民族にとってもそうです。アブラハムがイサクをあのモリヤの山において捧げたという、あのことがイスラエルの民族として神を信じていく信仰の第一歩であり、そしてそれが信仰の原型とも言われるべき出来事であったということを、わたしたちは知ることが大切だろうと思うのですね。
このふたつの出来事を中心にして、アブラハムの生涯はずっと貫かれております。で今日開かれましたところはそのちょうど中間、最初の出発からイサクを捧げるその中間に存在しております。そこで神様はそのイサク奉献という出来事の前に、わたしは全能の神である。あたなはわたしの前に歩みて、完全であれという、この神からの語りかけをアブラハムにしておるわけであります。そういう意味において、今度はアブラハムのその国を出てからの信仰の歩みを少し学んでいきたいと思います。
アブラハムの信仰の生涯を考えてみます時に、これはわたしたちにとっても当てはまることだと思うんですが、我々の信仰の歩みというものは、いろいろは危機を通して導かれていくということです。すべてが順調にいくのでありません。いろんな試練に合い、ある時には危険に合い、そういう危機を通しながらわたしたちの信仰は、導かれていくということです。けれどもどうぞ皆さん、心に留めておいていただきたいと思うことは、時には自分の信仰というものを、過信する時があるかもしれない。自分は大丈夫だ、と思うかもしれませんね。逆にいやーわたしはやっぱり駄目なんですよ、弱いもんですとへこたれてしまうような、退却的な信仰の姿勢をとる場合もあります。けれどもそのふたつのことをどうしてわたしが言うかというと、アブラハムという人の信仰の歩みは、両方に解釈されるのです。ですからわたしたちは、アブラハムの生涯を通して、自分の信仰を励ましていただきたい思う、いな励まし続けていってほしいと思うんですよ。
まず、最初ですね、創世記の第十二章に、神様はアブラハムに現れてあなたはあなたの国を出て、あなたの親族に別れ、父の家を離れて、わたしの示す地に行きなさいと言われてスタートしたんです。ところがですね、この同じ出来事について、新約聖書の使徒行伝の第七章の二節に、ステパノという人が説教をしております。その中においてステパノは神様がアブラムに現れたのは、ここはどこの地とは書いてませんね。たた「時に」というだけ書いてありますね。けれどもステパノはユダヤ教のラビたちがこの旧約聖書を解釈して伝えてきた。そしてその当時はユダヤ教のラビたちの、共通したところの理解であったであろうと思われます、そのアブラハムの出発を、メソポタミアにいた時といっております。アブラハムは、ウルという町に、お父さんのテラと一緒に生活していたのです。ヨシュア記の第二十四章を見てみますと、そのウルという町は月を拝む宗教の町だった。ですからお父さんのラテもそのところで月を拝んで、異なった神々に仕える生活を送っていた。アブラハムの家族もそうした生活を送っていたんです。ステパノはあのカルデアのウルにアブラハムがいたその時に、栄光の神が現れておまえはここから出なさい、国から離れ、親族から離れ、父の家から離れ、わたしの示す地に行きなさいと言われた。出てきたかと思うとそうじゃない。創世記の第十一章を見てごらんなさい。第十一章の三十一節三十二節のところに書いてありますね。アブラハムは自分だけが出てきたんじゃないんですよ。お父さんのテラがここでは主導権をとってる、「テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。テラの年は二百五歳であった。テラはハランで死んだ」と、こう書いてあるでしょ。神様の声を聞きながらアブラハムは、お父さんによってウルの地を出発してきたんです。でお父さんがこのハランに留まるって言った時に、アブラハムも留まってしまった。お父さんが死んだのでお父さんを離れた、いいですか、言葉は少し言い過ぎかもしれませんね、「あなたの国を出て、親族に別れ、父の家を離れる」というこの神の声を聞きながら、アブラハムは国を捨てることができた、親族から別れることができた、父から別れることができたのは、それは彼の信仰ということよりも、父テラが中心であったように思います。しかしね皆さん、わたしたちはそのような出来事が、我々の周りにおいても、起こってくると思うんです。けれどもあのウルの地において、栄光の神が彼に現れたということ、そして彼に語りかけ彼を導きだしたという時に、周りのことがある時には偶然的に、起こってくるかもしれません。ある時にはそれは身内の主導権のもとに、ことが進んでいくかもしれません。しかしその背景には必ず現れたもうた神の摂理のみ手が伸べられているということを、知らなければなりません。
わたしたちは起こってくる出来事の背景に、いつでも生きている神が摂理のみ手を伸べ続けているということを信じる、それがわたしたちの信仰の姿です。ですからこのアブラハムはですね、お父さんは死んだ。そして親族であるところの、ナホルは別れていったわけですよね。だから自然に国を出ることができたし、親族と別れることができたし、父の家から離れることができて、彼は示す地に入った。ですからこの創世記の第十二章に語られてることは、再度の召命であったかもしれません。おまえはこういうふうにして離れてきた。けれどもいいか偶然ではないんだ、わたしがそれを導いてきたんだぞ、わたしが示す地におまえはこれから入っていかなければならないんだよと。これがここで語られているところの神からの示しだろうと思うんですね。これが第一の危機だと思いますね。
それから、今度はアブラハムが約束の地に入りましたね、神様が約束してくださった地ですから、それはすばらしい土地です。ですからそこにはいろんな問題もないだろうと思うんです。そうでしょ。皆さん我々には信じた時に平安があります。喜びがあります。幸せがあります。病気だってなおります。そういうことで信仰に入る場合も多いでありましょう。でも入ってみたらとんでもない、苦しみがあったり、試練があったりですね。やっぱりキリストを信じたから、崇りがあってこんな目に合っているんじゃないかなと思う人たちもあると思うんですね。アブラハムもそうじゃなかったでしょうか。神様に祝福された地に入ったら、そこにはすばらしい祝福が待ってると思ったら、どんでもない。そこにきたのは飢饉だった。満たされることでなくて餓えることだったのです。人間にとってねそうでしょう、餓えたとか苦しみばっかりだったら、わたしたちは辛くなっちゃいますよね。アブラハムもそうでした。飢饉が襲ってきました。あれっと人間なりに考えたのかもしれませんね。エジプトの方は、豊かだということで彼はそのカナンの地から、エジプトに旅だっていった。で、エジプトでですね、サラは美人だったようですから、彼女を自分の妻だというと、エジプト人に狙われ、自分が殺されてしまう。だからいやこれはわたしの妻じゃない、わたしの妹ですと、嘘を言ってしまった。エジプトの王は、サラが気に入って、これを自分の妃に迎えようとした、その時ですよ、神様はエジプトの家に災いを下された。これはどうしたことだとエジプトの王は考えた。でアブラハムはそれを告白しなければならなくなったんですね。そして、いやこれはわたしの妹じゃなくて、わたしの妻です。系図的には妹にあたるような間柄だけれども、わたしの妻だと告白したんです。そしてアブラハムはそのエジプトの王のために祈った時に、そのエジプト人に下された災いは取りのぞかれた。彼はエジプトの地からまた帰ってきた。これが第二章の危機ですね。
我々の信仰の生活の中においてもそうです。そういうことがあると思うのですね。もし信仰で病気はなんでもいやされると言ったならば、わたしなんかもう典型的な不信仰な者ですね。手術受けて十年経ってもまだ、肉体的な試みの中をいつも通される。肉体的には危機と言いましょうかね、そういうものを感じながら、生き続けているということは、ある意味においては、たいへんな不信仰かもしれませんね。けれども思うことは、わたしはわたしであって、わたしではない。わたしは神によって生かされてる、母の体を出た時からわたしを選び別って、この福音のために、悩める苦しめる者のために、おまえは証の存在として生かされていくんだということが、神の摂理だとこう思っているのです。
けれども人間にとってその危機というもの、それが自分の生活に関わることであればあるほど、それは迷いを生ぜしめることにはなりませんか。アプラハムはエジプトに逃れていきました。けれども神はもう一度彼をカナンの地に帰し、彼が最初に祭壇を築いたところで、彼は神を礼拝するようになったんですね。
第三番目の危機はですね、あのウルの地をお父さんのテラとともに出てきた、ロトという甥がおりました。ロトはアブラハムといつでも一緒に生活しておりました。アブラハムは甥でありながらも息子のような気持ちで、ロトをずっと連れて来たんですけれども、創世記第十三章のところへきますと、アブラハムのしもべとロトのしもべの間で、井戸の争いがあった。羊を飼ってますでしょ。水を飲ませなきゃいけない。いやこっちの井戸の水は多い、こっちはおれのものだ、いやこれはおれのものだということで、しもべ同士が争っちゃったんですね。 アブラハムは、身内のもので一緒におりながら、こうして争いばかりしてるのでは、これは今の言葉で言うと、証しが立たないからロトおまえと別れてこれから生活しよう。どっちをおまえは選ぶのか、おまえが右に行ったら僕は左に行くよ、というわけで、ロトと別れたのです。ロトはソドムとゴモラの町が、立派だしすごく栄えているもんですから、そっちの平地の町を選んで行った。アブラハムは山の方を選ぶことになった。そうしたら下の方の豊かな町を選んだロトは、災いに遭った。ある時他国の者に捕らえられて、ロトの一族は全部捕虜となって連れていかれた。それを聞いた時にアブラハムは手勢三百八十人というわずかな手下を連れて、そのロト奪還のために追いかけて行って、敵を散らしてロトの家族を救った。そしてソドムとゴモラの町が、もう罪が満ちて神が、この町はどうしても滅ぼさなければならないと言われた時に、ロトがそこに住んでいる。ロトの家族がそこにいる。そのことを思った時に、アブラハムは神の前に、神様もしソドムとゴモラの町に五十人の正しい人がいたら滅ぼさないですか、滅ぼさない。じゃ四十五人じゃどうですか、滅ぼさない。十人じゃどうですか、と下げていった。これぐらいはいるだろうと思って、アブラハムはとりなしをやめた。結果は町は滅ぼされたが、ロトと妻と娘が二人、この四人だけは救われた。けれども妻が途中で後ろを振り向くな、と言われながら後ろを振り向いたので滅ぼされてしまった。残されたのは三人。この三人がソドムとゴムラの町を脱出できましたね。
アブラハムからロトは離れていきました。けれでもロトに対する彼の思い、それは変わることがなかった。けれどもアブラハムのロトに対する思いを、逆にロトは知らないで結果的にはそれを裏切っていくような、そういう危機、そして後にはそのロトの娘二人がロトと関係することによって生まれた、モアブとアンモンというふたつの民族はイスラエルに対して、いつでも反抗し敵対するところの民族となっていってしまった。それは辛い、とげを刺されたような、アブラハムの生涯だったと思うんですね。愛が裏切られていく。そしてそれは民族にとっても、とげとなっていく、けれどもその危機を通して、アブラハムの信仰というものは、育てられていったのではないでしょうか。 皆さん、もし我々がこういう立場に立たされた時に、どうでしょうか。それでも神を信じ、神の許しを信じて、神の寛容と憐れみとを信じて、本当に従い続けていくことができるだろうか。これは人ごとでなくしてわたしたちの生涯の中にも、起こってくることではないかと思うんですね。
その危機は、約束の子供が与えられるという時ですね、アブラハムは、年老いてしまった。妻サライも年とって、子供を生むことができない状態になっている。けれども神様は、子供が生まれる、サラを通して生まれると言っているんです。でも生まれない。サラの入れ知恵ですね。あのエジプトから連れてきたハガルを第二の妻としてそこで子をもうけてしまった。そこで生まれたのがイシマエルです。ところがこのイシマエルが誕生したのちですよね。九十九歳ですから、十三年たっているわけです。十三年間はなんにもない。ですからアブラハムは、神からの語りかけを受けないで十三年間過ごした。アブラハムは、信じていなかったわけでない、信仰をもってたんですけれども、どうでしょうか。やっぱり人間ですよ、アブラハムにとっても、生まれたイシマエルはかわいいです。だんだんだんだん成長して九十九歳の時には、もう十三歳で青年となっております。そうすると頼もしいイシマエルですよ。あーもうわたしたちは子供は与えられない、生まれそうもない。それならばこのイシマエルが最後の望みだ。これに託そうという思いがあったでしょ。けれども神様はそうじゃない。「わたしは全能の神である。おまえはわたしの前に歩め」、この言葉です。これはわたしたちに対しても同じように語られるのではないでしょうか。
いろいろ人間的な思い、人間的な考え、人間的な歩みにおいて計画と言いましょうか、プランと言いましょうか、これで何とかうまくいくんじゃないか、信仰持ちながらでも、うまくいくんじゃないかなあと思ってる。けれども神様がそれを見た時に、神様はそれはいいとは言わない。それが駄目だとも言わない。「わたしは全能の神だ、あなたはわたしの前に歩んで、全きものであれ。」この意味をわたしたちはつかみたいと思うんです。これはいったいどういう意味か。わたしの前に歩めと言ってるんです。わたしたちの歩みは、自分の思いのままに神を意識しないで、自分の思いのままに歩き、自分の思いのままに歩き回っている。そうではない、わたしの前にと言ったら、それは規制された、神の前というその規制されたそこであなたは生活をしなさい。わたしたちの生活している領域は、神の前なんだよ。これは厳しいですね。あなたの自己満足とか、あなたの自由意志とか、そういうことでわたしたちは行動しやすいけれども、そうじゃない。わたしの前に歩みなさい、窮屈になるから。そうじゃない。けれども神様がそこでおっしゃっているのは、わたしは全能の神なんだから、わたしの前に歩め。このことがね、一番試みられたのが、創世記第十二章のイサクを捧げることだったのです。なんで神の前に歩み、全きものとして、信仰生活を送ることができるかというと、あのイサク奉献の試みを通して、そのことがなされていくのですね。
その第十二章のところを最後に学びたいと思うんですけれども、第十二章のところに、これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われたと言います。ここでも、試みという危機を通してですね。ここで、試練ということをちょっと考えてみたいと思います。わたしたちは試練というとなんか教訓的にとらえ易いのでは、ないでしょうか。わたしたちがあんまり人間的にできていないもんですから、ちょっと試練を通して、人格的にも少し成長させようという、教戒的な意味で、試みにあうと思っているんですね。またヘブル書第十二章の方では試みということは、本当の子供だから、試みるのだということを言ってますね。本当の父親は自分の子供を人間として成長させようということで、いろいろと懲らしめ合わせたり、試みに合わせたりすることがあるといっています。けれどもいいですか、ここで神が試みるという時に、試みというのは人間の側のなにか教戒的、教訓的、教育的意味ではないんだということを、わたしたちは覚えておきたいと思うんです。それはその前に、全能の神という言葉がありましたね。この言葉を心に留めながら、イサク奉献の時にどういうことが起こったのか。アブラハムは神様からイサクを捧げろと言われた時に、彼は、はいわたしはここにおりますと言いました。その神の言葉に対して、アブラハムは、あなたはこのイサクをわたしの世継として与えて下さったんじゃないですか、と文句は言わない。イサクを捧げるということはモロク礼拝につながることで、信仰的なことではないんじゃないですか、そのことに対しても彼は反論をしない。わたしはここにおります。
そして、彼はイサクを連れて三日旅をしモリヤに登った。この三日間というものはアブラハムは、沈黙の時であったかもしれません。そしてそこからスタートしてきました、その彼の考え方そして彼の心の状態は、動かされることなくしてモリヤの地に着いた。ただ着いただけでない。イサクから、お父さん薪はあります。けれども燔祭として捧ぐべき、羊がないじゃないですかと聞かれた時、アブラハムはイサクに対して、おまえがここに捧ぐべきいけにえだとは言えなかったでしょう。子よ、わたしはここにいます。イサクは父よ、わたしはここにいると言っても、なにもないじゃないですか。その時にアブラハムは黙したまま、イサクを縛ってそして殺して捧げようとした時に、天の使いは彼を止めた。アブラハムよアブラハムよ、この子に手をつけるな。彼は後ろを振り返った。そこには捧ぐべき雄羊が備えてあった。そこでアブラハムはアドナイ、エレ、エホバ、エレ、主のやまに備えあり、主が備えて下さると言った。そうするといいですが、試みというものは、わたしたちはなにか責任のゆえに、その試みに合わせられると思うかもしれないんですが、それもあるでしょう。しかし、試みというものは、そこにいつでも全能の神がわたしたちを見ていてくださる、そして全能の神がわたしたちのために逃れるべき道をも、備えていて下さる。神は備えて下さるという、その信仰の告白に至らせるということが、試みの本当の目的ではないしょうか。ですからわたしたちは何か試練に合った時に、その辛さを我慢するだけではない。その背景にはあなたのために逃れるべき道を備えて下さる、神はその愛するもののために必ず備えて下さっているんだということを、信じさせそこに向かって進み行かせる、それが試みの意味じゃないですか。アブラハムの生涯を通して考えてみます時に、いろんな危機を通して彼は導かれてきました。最後は神様の約束の子、イサクをも捧げるべく、彼は危機の中を通されてきました。しかし最後に彼はそこに黙して従って、ひれ伏していった、その時ですよ。アブラハムよ、わたしは今はじめて、おまえがわたしをおそれていることがわかったと言われた。本当におまえはわたしを信じて、わたしに従ってきてくれたということが、このアブラハムの何十年という信仰の危機を通して、最後のイサク奉献の時に至るまでの危機を通して、あー今初めておまえがわたしを信じ、わたしに従い続けてきたということがわかったよと言われた。信仰それは、神をおそれるということ。それはなにかおそろしいとか、という意味じゃない。神をおそれるという信仰の本当の姿は、ひれ伏して、信頼をして、従っていくというそれが神をおそれる道、それが神の前に歩んでいく、わたしたちの信仰の歩みではないでしょうか。
アブラハムの生涯をこう振り返ってみます時にね、それが今日わたしたちにとってもそうです。神がいらっしゃる。その神を信じ続けていくがゆえに、あのイエス・キリストが苦しみを受け、十字架の死を遂げて、復活されていった。神はイエス・キリストをわたしたちの犠牲の羊として備えて下さった。その神がわたしたちに、わたしは全能の神である、あまえはわたしの前に歩めとおっしゃる時に、そこに初めて慰めの言葉として、復活の言葉がわたしたちのうちに、生きてくるんです。ですからキリスト者は死をもおそれない、なぜならば、神がイエス・キリストを通してわたしたちのために、人間の理性で判断するならば、非常に矛盾と思われるような、そういう人生の中においても、神が語りかけて下さる、そこには復活がある。そこにキリスト者の本当の喜びがあります。本当の希望がある。そこに生きていく。それがお互いの道じゃないかとこう思いますね。
そういう意味においても、あのアブラハムが神から離れて、自分の思いで選んできました、イシマエルが生まれた後の十三年間の空白の後、わたしは全能の神であるあなたはわたしの前に歩いて、全き者であれと仰せ下さったこの神の言葉を、今朝これは誰かれでありません。わたし自身に対して、あなた方一人一人に対しての神からの慰めの言葉としてお互い受け入れて、信仰をもって従っていく道を歩き続けていきたいとこう思いますね。