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メッセージ

羊飼い 『しがみつく信仰』
ヨブ記 19章21−29節
1992年6月19日
説教者 加藤亨

わが友よ、わたしをあわれめ、わたしをあわれめ、
神のみ手がわたしを打ったからである。
あなたがたは、なにゆえ神のようにわたしを責め、
わたしの肉をもって満足しないのか。
どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように。
どうか、わたしの言葉が、書物にしるされるように。
鉄の筆と鉛とをもって、
ながく岩に刻みつけられるように。
わたしは知る、
わたしをあがなう者は生きておられる、
後の日に彼は必ず地の上に立たれる。
わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、
わたしは肉を離れて神を見るであろう。
しかもわたしの味方として見るであろう。
わたしの見るものはこれ以外のものではない。
わたしの心はこれを望んでこがれる。
あなたがたがもし「われわれはどうして
彼を責めようか」と言い、
また「ことの根源は彼に見いだされる」
というならば、
つるぎを恐れよ、
怒りはつるぎの罰をきたすからだ。
これによって、あなたがたは、
さばきのあることを知るであろう。」

今朝はただいま司会者に読んでいただきましたヨブ記の第19章を「しがみつく信仰」という主題のもとに学んでいきたいと思っております。

先月から子猫がきているんです。聖書学院で拾ったんですけれども、拾われた時には、まだ、へその緒がついていました。家にきましてもうかれこれ三週間近くになりますかね。子猫はすぐに母親から離されて捨てられたんでしょ。最近はわたしが時々ミルクを飲ませていますが、まあその仕種もあかちゃんと同じで、手で哺乳瓶を抱えて飲むんですよ。猫らしくないですよ。ところが、十分満足してそのあとですね、わたしのこのごつごつした手の中に顔を突っ込んできて、くわえて、それこそもう体をよじり震わせながら、そこにくいついてきて、ちゅっちゅっ吸ってるんです。それを五分くらいやってやっと離れて自分の箱の中に休む。猫の本能かもしれません。それを見た時にわたしたちの信仰はイエス様に対して本当に体を震わせるように、身を捩るようにして、しがみついているでしょうか。あっさりとこの世に妥協して生きているんではないかと探られるような思いがします。

このことは、またイエス様もマルコの福音書第7章の、一つの癒しの奇跡をとおして示しておられます。子供が病んだとき、お母さんがイエス様のところに訪ねてきます。その女性はギリシャ人で、スロ・フエニキアの生まれの女だと言っています。ユダヤ人ではないんです。けれども彼女は自分の子供が病んでいるのでイエス様の所に来てひたすら求めているのです。弟子たちはもう面倒でしょうがない。「ダビデの子よ憐れんで下さい」と、いつまでもついてくる。うるさくてしょうがないから、先生、この女を早く追い払って下さいと言う。イエス様もまたそっけなく、わたしはイスラエルの子供の他に遣わされているのではないから、わたしには関係ないよと、突っぱねたでしょ。弟子たちに突き放され、彼女が癒し主として、求めてきているイエスに、わたしは子犬にね、餌をやるためにきたんじゃあないよと、ぽんと蹴られてしまった。これほどの侮辱がありますでしょうか。けれどもそのとき女はなんと言いました。主よそうです、しかし子犬でさえ主人の食卓から落ちるパン屑をたべることができるではないですか。主はそのときにあなたの信仰は見上げたものだと言われた。その時に子供は癒された。

ドイツの説教者でテイリケという人がいますが、この箇所を中心としたメッセージに神の沈黙という主題をつけています。神は沈黙しておられる、否拒んでおられるように思われる。しかしそれでもなお、しがみついていく。食らいついていく。疎外され、軽蔑され、捨てられてもなお、しがみついて求めていく。あなたの信仰は見上げたものだと言われるのは、そのような信仰であり、「信仰がなくては神に喜ばれることができない。」というのは、このことを指しているのではないでしょうか。まだ見ていない事実を確認することである。ずっとヨブ記を学んで参りました。ヨブ記を通してわたしたちが学びとらせていただくことは、そのことではないでしょうか。

今までのところを、まとめてみますと、ヨブのところに三人の友人が、慰めのため訪ねてきたでしょ。そしてあまりにもヨブの惨めな姿を見て、彼らはもう座してただ泣くだけだったといっていますね。それほどにヨブは苦しんでいたんでしょ。それで最初のときは、三人の友達は慰めようと思ってこう話して、ヨブとのあいだに対話が続いてきました。そして第一回目が終わって今は第二回目に入っているところです。エリパズ、ビルダデとゾバル、この三人の友に対するヨブの答え。エリパズに対しての答えは、この間「証人を求める」というところで学びました。けれども今までのところを通して考えられることは、三人の友人の信仰は、神様についての教義をちゃんと知っている。そして、それを相手にそのまま当てはめようとしている。どっちかというと責める一方でした。ところがヨブはその苦しみの中に悶えながら、これは自分が何かしたからではない、この原因は神様にある。だからこの間話しましたね。新約聖書は、神はわたしたちの味方だと教えてくれているけれども、神が敵であっても、なおその神に寄り縋り、祈ると。これがいままで学んできたところだと思うんですね。ですからヨブにとって神様は、一面では、本当に自分を慰め、助けて下さる神様である。そしてわたしを何とか守って下さる神様です、という信頼を持ってます。けれども現実は、その神様はわたしを苦しめている存在なんだ。財産を奪っていった。そして、自分の体をこのように苦しめている、それだけじゃあない。友人たちはわたしをこの苦しみのなかにおいてなお、攻撃する。今日のところにありますね、垣根を巡らして光を遮り、ヨブが光を見ることができないように苦しめている、この矛盾したなかで、ヨブが今日のところで叫んでいるんです。これが本当に神の沈黙でしょう。いうなればあの十字架上においてイエス様が、我が神、我が神どうしてあなたは、わたしをお見捨てになったんですかと叫ばれたあの境地。あれがヨブの境地でしょう。このなかからわたしたちは、生きている信仰というものを学びとっていきたいと思うんですね。

今までのところを振り返ってみて思うことは、この友人たちの態度ですね。ヨブに対してこの友人たちは、慰めようと来たんですけれども、彼らはヨブをいつでも責めた。ヨブあなたは罪を犯しているから試練と苦難をうけている。神は正しい方です。こんなにヨブが苦しみ、どんなに祈っても叫んでもなお、神が沈黙しているということは、ヨブあなたが罪を犯しているからなんです。これがこの三人が、自分の体験を通し、ある時は神学上の論理を通し、二回目になるとそこに感情がはいりこんで、激昂しながら言っていることです。この三人のヨブの友人は立派な信仰を持っています。立派な知識をもっています。素晴らしい経験をもっています。それでありながら、ヨブに対しては、神の立場に立って彼らは裁いておると言っていますね。このゾバルという人はね、20章29節で、こういう事を言っているんですよ。ヨブがこんなに財産を取られたり、苦しみにあっているのは、これが悪しき人の神から受ける分だと言っています。神によって定められた嗣行なんだと。お前が苦しんでいるのは、神の刑罰をうけているしるしなんだと。怖いですよ。

ヨブは友人たちに対してね、この19章において反論をしているんですね。これが1節から5節までのところに、書いてありますね。「そこでヨブは答えて言った、あなたがたはいつまでわたしを悩まし、言葉をもってわたしを打ち砕くのか。あなたがたはすでに十度もわたしをはずかしめ、わたしを悪くあしらってもなお恥じないのか。たといわたしが、まことにあやまったとしても、そのあやまちは、わたし自身にとどまる。もしあなたがたが、まことにわたしに向かって高ぶり、わたしの恥を論じるならば、『神がわたしをしえたげ、その網でわたしを囲まれたのだ』と知るべきだ。」ここのところを見てみますときに、ヨブはなんで、あなたがたは徹底的に、わたしを打ちのめし、わたしを苦しめる。それでも恥ずかしく思わないのか。そして22節のところを見てください。「あなたがたは、なにゆえ神のようにわたしを責め、わたしの肉をもって満足しないのか。」神の立場に立って彼を責めているんですよ。もしあなたがたが本当にわたしを慰めようとして来たのであるならば、わたしの苦難は、神によってきたことを悟ってほしいと。これが6節です。

ヨブが言わんとすることは、わたしが苦しみにあっているのは、これは、わたしと神様との問題であって、あなたがたがわたしと同じように苦しんでいるんじゃあないでしょう。あなたたちは、客観的にわたしを見てるんでしょう。わたしの苦しみを体験してるんですか。体験してないですね。それはできないんです。けれども現実にヨブは苦しんでいるんです。彼はあとの告白を読んでいくとき、もう彼は暴虐に暴虐を加えられ、阻害に阻害され、本当に孤独になっている。これほどの孤独があるかというほどの孤独感に陥っている。そうでしょう。だから、財産は失われただけじゃあない、子供たちもみな奪い取られたでしょ。それだけじゃあない。このわたしを慰めようとしてきた友人たちは、わたしを責める。わたしの妻はわたしのこの腐れきったような息に、耐えられんと逃げていく。わたしの召使たちは、みんなわたしをばかにして言うことをきかない。子供たちですら、町の子供たちですら、今はわたしの姿をみて、みんな嘲笑っている。避けて逃げていく。わたしの苦しみは、歯がなくなってただ肉がわずかに歯茎をとどめているようなものだ。この苦しみを誰がわかってくれる。これほどの孤独がありましょうか。苦しめられているだけじゃあない、疎外されてしまって誰からも見捨てられてしまっている。否、神ご自身ですら彼の叫びを聞こうとしていない。ある時には、神の細いかすかな声が聞こえたのかなと思うとすぐにかき消されてしまう。わずかな光が見えたかなあと思って、それに寄りすがろうとするのだけれども、その光はスッと瞬間に消えていってしまう。再び暗黒の中に、絶望の中に陥られていく。ですからヨブの神に対する信仰の告白をみるときに、わずかな光、かすかな細いみ声を聞いたときに、彼の信仰は、燃えるというか、生ける神に対してすがりつくような信仰が起こってくるけれども、次の瞬間にまた、絶望のどん底に陥られていく。その繰り返しでここまできているんです。けれどもヨブはそのことをこう言っていますね。23節、「どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように。どうか、わたしの言葉が、書物にしるされるように。鉄の筆と鉛とをもって、ながく岩に刻みつけられるように。」これは、ヨブがもうこの生きている地上には、なんの期待することもできない。解決も見出せない、もうこれで終わりだ。しかし、わたしが死んでもわたしの世はこれで終わったとしても、このことを書き残しておきたい。書き留めておいてほしい。書物に残しておいてほしい。そうして岩に鉛筆をもって、刻みつけておいてほしい。そして後の人がそれを見、読み、その岩に刻みつけられた文字を見るときに、あぁこういう人が、こういう戦いをして、こういう信仰を持っていたんだ、ということを見て知ってくれればいい。もうこの地上には何の希望もない。解決はもう、将来に任せます。これがヨブのこの時の状態ですよねぇ。ヨブは本当に絶望と孤独の中に、落ちていたんですね。

しかしヨブがそうした中で25節からの告白は、彼の最後の力をふりしぼっての信仰の告白であり、ある意味において、ヨブの信仰の告白としては正にクライマックスではないでしょうか。「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日には彼は必ず地の上に立たれる。わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。」このところは復活に対する信仰の告白として、引用されています。わたしは知ってる。わたしをあがなう者は生きておられる。それは後の世に必ず来て、その神の前にわたしはまみえることができるんだと。しかし今までのヨブの話の筋からいうと、今地上で今この苦しみのどまんなかで、のたうちまわっているこのわたしに対して、この時に神が生きておられて、業をするんです。地上において何にも祝福もうけないかもしれない。しかし、神をわたしの味方としてみたい。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。ここにヨブが現実がどうあろうと現状がどのように変化しようとしなかろうと、彼の信仰は、わたしの見る者はこのあがなうお方以外にはないんだ。わたしの見るべきお方は、このお方なんだ。わたしはこのお方に必ず会うことができる。それは今、神はわたしに敵対しているようだけれども、わたしはわたしの味方としてこの方を見る事ができる。これがヨブがこの苦難のなかで、その極限の状況において、彼が告白した信仰です。

ある人は言いました。時と、所の極点こそがあがなうものの立つべきところ、時の極点は最後である。所の極点は塵の上である。この出会う場所が十字架ではなかったでしょうか。ですからわたしたちは、使徒信条をもって告白しております。彼は我々の罪のために十字架につけられ、死して葬られ、黄泉に下り、三日目に死人のうちよりよみがえられたこのあがない主ですよ。わたしたちクリスチャンは、死んでも大丈夫だよ。イエス様が十字架にかかって死んでよみがえって下さったから、わたしたちも天国に行けるよ、とこう安易に考えます。そしてこの世の何ものか、わたしたちを満足させるもの、そういうものにわたしたちの心は、動かされているんじゃあないでしょうか。わたしの見るものは、これ以外のものではない、何を見ましょう、何を求めましょう。幸せですか。財産ですか。栄誉ですか。楽しみですか。これ以外のものではない。何ですか。神を味方として。これ以外のものにわたしたちは心を奪われることがない。とこれがヨブの信仰の告白でした。否ヨブが言いました。わたしのことを書き残しておいてほしい。わたしのことを書物にしておいてほしい。まさにヨブ記はそのように残されました。一人のヨブという人の信仰の戦いを残してくれました。わたしたちはこれをみて、本当にあなたの信仰はじつにすばらしい、と主に言われるようになりたいなあと思うんです。パウロはローマ書12章に愛のことを語った時に、神の愛をうけたわたしたちが、神の愛、キリストの愛に応答していく時、霊に燃えて、心を熱くし、主に仕えます。それは、お湯が沸騰点に達してぐらぐらぐらぐらと煮え立つでしょ。あの事です。わたしたちの心が、煮え立つようにわきたっている。これが心燃える信仰の姿だと思う。わたしたちもおなじように、聖霊によって神の愛が注がれているんです。その霊に燃やされていこうではないですか。