『嵐の中の声』
ヨブ記 40章1−14節
1992年11月8日
説教者 加藤亨
主はまたヨブに答えて言われた、
「非難する者が全能者と争うとするのか神と論ずる者はこれに答えよ。」
そこで、ヨブは主に答えて言った、
「見よ、わたしはまことに卑しい者です。なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです。わたしはすでに一度言いました、また言いません。すでに二度言いました、重ねて申しません。」
主はまたつむじ風の中からヨブに答えられた、
「あなたは腰に帯びして、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。あなたはなお、わたしに責任を負わそうとするのか。あなたはわたしを非とし、自分を是としようとするのか。あなたは神のような腕を持っているのか、神のような声でとどろきわたることができるか。あなたは威光と尊厳とを持ってその身を飾り、栄光と華麗とをもってその身を装ってみよ。あなたのあふるる怒りを漏らし、すべての高ぶる者を見て、これを低くせよ。すべての高ぶる者を見て、これをかがませ、また悪人をその所で踏みつけ、彼らをともにちりの中にうずめ、その顔を隠れた所に閉じこめよ。そうすれば、わたしもまた、あなたをほめて、あなたの右の手はあなたを救うことができるとしよう。
皆さんといっしょにヨブ記をずっと学んでまいりました。一章ずつと思いましたけれども、後半はまとめて学んでまいりました。今日と来週で、ヨブ記を終わろうと思っております。それで今日は「嵐の中の声」という題でお話をしたいと思っております。これはヨブに対しての神様の答えなんです。ヨブはいろんな苦しみにあいました。その時に、三人の友達が慰めにきて、助言をしてくれました。そうして話し合っているうちに、いつのまにか議論になり、どうしようもなくなってしまった。そこでそれを聞いていたエリフという人が中に入り込んできて、ヨブと、三人の友達に、とくにヨブに向かって語ってくれたことを、この間お話したんですね。
それはこの次にちょっとまとめて苦難の問題ということについてふれていこうと思いますが、今お話いたしたように、わたしたちが生きている限り、そして人々といっしょに生活しているかぎり、お互いに何か対立することがあると思うんです。みなさんも経験されるでしょう。自分が語った言葉に対して何でと思うほどに、反発される時があると思うんですね。とくにわたしたちが何かを弱さをおぼえて、また問題にぶつかって、助言でもしてほしいなあという気持ちで話す時に、わたしたちが想像しないような冷たい言葉が、返ってくる時がある。ヨブがこのところにおいて、経験したことはそういうことなんですよ。
ヨブはもう全部の財産を取られました。子供も全部失ってしまいました。自分のからだもひどい目にあいました。自分の妻も自分を裏切って逃げていってしまおうとしている。そうしたひどい試みにあっている時に、同情して三人の友達が来て、慰めてくれたんでしょう。慰めなんですよ。その慰めの言葉がいつのまにか、ヨブを攻撃する言葉になり、ヨブの存在そのものを批判し、ヨブが一生懸命自分はまじめに生きてきているのに、どうしてこんな目にあうのだろうかと、悩んでいる。それに対して、彼らは説教はするけれども知ってくれない。そういうジレンマに陥ってきたというのが、今まで学んできたヨブ記の筋だと思うんです。そうした時に、一番大切なことは神の声を聞くという事を忘れないことです。それは聖書からしか聞けない。まぼろしの中に主が現れて、主が語って下さるという特殊な経験を持つ人があります。けれどもすべての人が、そのような特別な経験を持つという事はないんです。そうすると、すべての人がどんな人でも神の声を聞くことのできるということは、聖書を読むことによってその中から神の声を聞く以外にないんです。その事をヨブ記を通して、考えたいと思うんです。
ヨブはそうした友達と話しているうちに、反論していくことになってきます。思い出して下さい。最初の時に、ヨブはいっさいのものを奪われました。その時になんと言いました。「主は与え、主はとられるんです。」と言ったでしょう。私がこんなに祝福され、恵まれた生活を送ることができるのは、全部神様がわたしに与えて下さったからです。ですから神様が与えて下さったものは、神様が自由にわたしからそれを取り去ったとしてもそれは、わたしの権限以外のことであって、神様のことですから、わたしは喜んで神様に従いますし、そういう中でもわたしは神様に栄光を帰し、喜んで生きていきますよ、と彼は 告白しているんです。
ところがそうした素晴らしい信仰を持っているヨブでさえ、友達と話しているうちに、自分の生まれた日も呪うようになったでしょ。自分では正しい信仰をもっているように思っているんですけれども、そのうちなどうなりました。神様の前にわたしは出ていって、神様に直接訴えたいとか、わたしがこんな目にあっているのは、神様に責任があるんだとか、わたしは何にも過ちを犯したことはない。わたしは潔白だ、責任は神にあるんだ、どうして神はわたしの訴えを聞いてくれないんだ。聞いてくれないんだったら、誰かわたしのために、弁護者が出てきて、神様にそのことを訴えてくれ。それもできないんだったら、わたしのことを岩に刻み込んで、後々の人がわたしのことを思い出して、ヨブ という人は間違った人ではなかった、ということん伝えてほしいと。そこまでヨブはいつのまにか考え方がずれてきたでしょ。なぜ人間はそうなってくるんだろいか。ここにわたしたちがいつも考えなければならない、問題点があると思うんです。
それは、最初ヨブはわたしは神様から愛されて、神様によって作られて、神様によってみんな与えられたといって神様中心だったでしょう。どんな苦しい中でもわたしは神様を喜んでいますよ、と言っていましたね。しかし友達と話しているうちに、いつのまにか目が、神様に向かうよりも、自分に向けられてきた。なぜ自分はこんな苦しみにあうんですか。ほかの人たちはもっと幸せに生きているじゃあないですか。それなのにどうしてわたしだけが、ここですよ。神様中心ではなくして自分なんですよ。自分の苦しみなんですよ。自分の今抱えている問題なんですよ。これはわたしたち、お互いがそういう気持ちになることがあるでしょう。なぜ神様は答えてくれないんだ、なぜ神はわたしの祈りをきいてくれないんでしょう、なぜ神は沈黙しているのでしょう、という思いになると思うんですよね。いままでずっと学んできたヨブ記はそのところを語っているのです。いつのまにかヨブが自分の苦しみ、自分の悲劇、どうして神様は、黙っているんですか。神様は語ってくれないんですか。そのやるせないヨブの気持ち。神はその時に嵐の中から旋風の中から、神は語られたのです。
しかし嵐の中から語る神の声は、わたしたちの思いどおりに語って下さるんじゃあないんです。それは神の側からの語りかけであって、人間の求めに対する答えではないんです。よく言いますでしょ、わたしたちの神様に対する信仰というものは、なにか自動販売機のようなもので、いろんなものがある。わたしは今、これが欲しいんだというとお金を入れてガシャンと押すと欲しいものが出てくる。そんなもではないんです。うっかりしていると、わたしたちの信仰はいつのまにかそうなってしまうでしょ。神様はヨブを御存知です。ヨブがどんなに正しい人であるか、どんなに彼が清い人であるか、どんなに彼が神を信じてわたしにわたしに忠実な者であるかということを、神はヨブを誇りとして語っているでしょう。サタンは言ったでしょう。神様、ヨブは、あなたからの祝福を受けなくなったらそんなことないですよ。神様はいつもヨブを特別に保護して、必用な物をいつでも与えて祝福しているから、ヨブは、神様、神様と言っているんだって、そういうものが一切なくなってしまったらヨブは、あなたを恨みますよ、と。けれども神はそれに賭けたでしょう。ヨブに賭けたんですよ。じゃあおまえ試してごらん。そしてヨブは試されてきた生涯でしょ。なんだか筋書きからいうと、サタンの思惑どおりに、ヨブは神様に対する信仰を、だんだんだんだんと歪められていくようになってしまった。もう危険な状態、神様がヨブに賭けたその神の賭は、反故になってしまうような、そういう危機的な状況になった時に、神は嵐の中から語った。出るべき時に神は出てきたんです。
それでなにを語ったんです。神の第一の答えは、これは三十八章にちょっと戻りましょうか。ここのところに、ひとつの神の語りかけの声があるんです。三十八章の一節から、ちょっと見てみましょうか。「この時、主はつむじの中からヨブに答えられた。『無知の言葉をもって神のはかりごとを暗くするこのものは誰か。あなたは腰に帯びして男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに答えよ』」ヨブよ、一体おまえは何者なんだ、と言うんです。神様は全能なお方だ、神は創造者であることを知っているだろう。おまえはそしてその事をいままでずっと、語ってきただろう。そして神様に栄光を帰すということを言ってきただろう。ヨブよ、おまえは何者なんだ。おまえは知っていると言うけれども何を知っているんだ。おまえは自分の無知であることがわからないのか。神が働こうとする神の御業を拒んでいる者は誰か、それはおまえなんだよ。妨げているのはおまえなんだよ。彼が神の、語りかけなんですよ。あまりにも激しい神からの反問にあって、ヨブはどんなに驚き、恐れたことでしょう。
ここで神様が問題にしているのは、ヨブがなにか、倫理的な罪を犯したとか、そういうことは一言も言っていないんです。神様がここでヨブに問うていることは、一体おまえは誰なんだ。そのことを通して神は、神ご自身がどういうかたであるかということをヨブに語った。これはわたしたちの経験においてもそうですよ。信仰をするという時に大切なことはね、ここだと思うんです。神を信じるという時に、一体おまえは何者なんですか。この問いに答えていくことです。
この三十八章から、三十九章にかけて、書かれていることは、無知の言葉をもって神のはかりごとを暗くするこの者、ヨブよ、おまえは何者なんだということが書いてあるんです。ですから人間そう言われてみたら、ああ何も知らないんだと思いますよ。ですからパウロという人は、ローマ人への手紙の第十一章三十三節から三十六節までのところで、こう言っております。「ああ深いかな、神の知恵と知識の富は。そのさばきは究めがたく、その道は測りがたい。『だれが、主の心を知っていたか。だれが主の計画にあずかったか。また、だれが主に与えて、その報いを受けるであろうか。』万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アーメン。」誰が髪の知恵と神のその素晴らしい富を知ることができるかと、それは知ることはできないんだ。でもいいですか、人間は無知で神を知ることはできない。傲慢になって神を侮っているかもしれないけれども、神は、あのイスラエルを選んだんだよ。イスラエルは神を捨てていってる。神の栄光を踏みにじっている。けれども神はあのイスラエルをも決して見捨てないんだよ。それが九章、十章、十一章に語られているイスラエルの問題の結論であり、それがわたしたち一人一人に対してもそうなんだ。だから愛する兄弟姉妹、一人一人が、神があなたを愛し、あなたを選んで、あなたをイエス・キリストによって救って下さったんだよ。その神の絶大な知恵を我々は、知ることができない。それほどあなたに対して、神は賭けてらっしゃるのだから、ローマ書の十二章一節に、「わたしは、神のあわれみによってあなたがたに勧める、あなたがたのからだを神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として、ささげなさい。」という言葉が続いていくんですよ。
いいですか。神を神として信じ従っていく生活というものは、自分の生涯を神様に喜ばれる清き生ける供え物として、ささげていく、これが神を信じる道なんだよと、パウロは語っている。ヨブよ、おまえは自分の知識を誇って、神の裁きの前に俺をだしてくれ。俺の訴えをそこで誰か聞いてくれ。おまえは傲慢にもわたしの前に出るということを、わたしと対等な場所において、わたしと語ろうとおまえは思ってきたのか。一体おまえは何者なんだ。これが神が嵐の中から語られた声。ヨブが一生懸命訴えてきたことに対する答えです。ですから答えが答えにならないんですよ。ヨブが苦しんだことは何故かということを答えてないんですよ。我々に対しても神は、語りかけなさる時にそうです。あなたが苦しみ悩んでいる、行き詰まりどうしようもないせん方尽きた時に、神はあなたがいままで何をしてきたか、そのことを問われないでしょう。一体おまえは何なんだ。おまえは本当に解決を求めているのか。本当におまえの求めるものはなんだ。おまえの知識が妨げているんじゃないのか。おまえのこの世的な知恵が、判断がおまえの信仰を妨げているんじゃないのか。人々とうまくいかない。それはおまえ自身にあるのではないのか。神の前におけるおまえの存在はなんだ。おまえはわたしに作られた者じゃあないか。人間がどんなに偉くなろうと、どんなに素晴らしい才能を持とうと、それは神から与えられたものではないか。神の知恵、髪の知識、それは、人間の理性で考えられるその枠内において、神は考えなさるんじゃあないんだ。それを超越しているお方だ。このことをわたしたちは忘れてはならないと思いますね。わたしはある兄弟の証、「イエス様を信じて洗礼を受けるという事は、自分を捨てる以外にないんだ。信じるという事は、自分を放棄する以外ないんです」と語ったことを忘れません。キリストと合体するという事は、自分を捨てる事以外にない。人間の考え方、生き方が自分中心じゃあないということ。神中心に置き換えられていく、それが救いであり、それが信仰なんです。多くの人は、人生が終わろうとする時に、詩篇の九十篇に言われているように、そこには苦しみだけだったというほどに、問題がある時間の方が長いんですよ。けれどもそのなかでわたしたちが平安で生きていくことができ、いつでも希望をもって生きていくことのできる、そうしてその苦しみという現実の中に、わたしたちが力強く生きていくことのできる秘訣は、神からしか来ない。このことを知ってほしい。これが神の答えです。
第二の答えは、読んでいただきました四十章ですね。四十章六節、「主はまたつむじ風の中からヨブに答えられた、あなたは腰に帯びして男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。あなたはなお、わたしに責任を負わそうとするか。あなたはわたしを非とし、自分を是としようとするのか」。これはヨブの主張ですね。けれどもここで、神様がヨブに言っていることは、四十章二節、「非難する者が全能者と争うとするのか、神と論ずるものはこれに答えよ。」と。いつのまにかヨブは、全能者である神と争っていたんです。なぜ神は、わたしにこういうことをされるのか。神は聞いてくれないのか。髪はそれを全能者と争うといった。けれどもあの三十八章、ヨブよ、おまえは何者だ、と言われて、こう神の声を聞いた時に、四十章三節「そこで、ヨブは主に答えていった、『見よ、わたしはまことに卑しいものです、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです。わしはすでに一度言いました。また言いません。すでに二度言いました。重ねて申しません。』」と。ヨブはもう、恥ずかしくて恥ずかしくて、口に手を当ててもう重ねて何も言いません、とこう言っている。それに向かってですよ。ああそうか。おまえわかったか。それでいいよ、と神様はおっしゃらない。それでは、神の義を貫くことはできない。
信仰にとって、大切なことは、ここです。今の時代は人間中心の時代でしょ。人間がただ幸せを求める時代でしょ。人間が自分の欲望を達成することのためにその創造された自然界に対して、創造された動物に対しても、人間は自分中心に全てのことを考えるために、絶滅の危機に陥っているでしょう。けれどもそれを知らない。それを悟ろうとしない。環境問題を考えたり、いろんな事をするけれども、神というお方を認めないで、神が創造されたこの自然というものを、神は全てのものを祝福し、全てものが増え広がっていくことを期待していらっしゃる、全てのものが共存していくことができることを、神は期待していらっしゃる、その神の喜びがわからない。人間のただ欲望の追求、利益の追求、それだけが世界を支配している。そこに問題がある。
ですから神はね、ローマ人へ手紙の三章二十五節、二十六節「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって、受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐を持って見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」と。神が神たることをあなたの生涯において、現そうとする時に、神はご自身が義であることをここで貫かなければならなかった。あなたにそれを求めても、あなたはそれをはらうことができない。我々は求められてもそれに何の支払いをすることもできない。生涯をかけて支払ったとしても過去の我々の犯してきたところの過ち、それを償うことはできない。それをも神様許して下さるとするならば、その帳尻は誰が払ってくれるのですか。その生涯の罪はだれが消すんですか。そこです。神が神の義を貫こうとされる時に、人間が犯した罪の代価を何か支払わなければならない。この神の義が貫かれることのために、キリストが十字架につけられて、殺されなければならなかった。神が神の子を殺さなければならなかった。神が神の子を罪と定めなければならなかった。その代価を支払ったのがイエス・キリストなんだ。そのことを通して、神はご自身の義を人々に示し、それだけではない。あなたが神の前に義とせらるそのために、一切の代価はあなたが償うのでなく、神ご自身がイエス・キリストをもって、償わせた。そのゆえに神は、あなたの生涯を義とされた。このことをこの四十章のところで、語っておられると思うんです。
わたしたちの人生において、いろいろと疑問も起こってくるでしょうと思います。我々は人とどうしたらつきあっていくことができるか。そういうことに、気を奪われることが多いかもしれません。それは確かに必要でしょう。けれども、もっともっとわたしたちが忘れてはならないことは、神は命をかけて独り子の命をかけて、あなたを愛して下さっている。人は、どう思うかしれません。あなたに対して人々はどういう評価をするかしれません。けれどもその評価を越えて、神はあなたを愛しておられるんです。不完全であり、ろくでなしであろうと神はあなたを愛してるんです。わたしは何の役立たない人間だと、自分の生涯を悲観している人であろうと、神はあなたを愛してらっしゃる。あなたが必要なんです。あなたがそこに存在していることが、弱さの中で存在しているそのことに、神は賭けているんです。これが神がわたしたちに語りたいメッセージなんです。嵐の中から神が語るメッセージは、それなんです。独り子をたまわうほどに愛して下さったというのは、そのことなんです。
わたしたちは、その神様の愛、イエス様の十字架の愛を思う時にね、神様を粗末に扱ってはいけません。自分の都合で取捨選択をするような信仰であってはならないと思います。自分の予定で変更してはならないんです。そうじゃあないですか。神は命をかけてあなたを愛してるんです。その愛に対して、いいかげんな態度で、いいかげんな思いで、自分の都合で神様との約束を変更していいものでしょうか。そうじゃあないでしょ。だからパウロは神の知恵は計りがたい、神はご自身の義を全うするために、御子を我等のためにくだして下さったんだ。その愛を知ったならば、この世にならわないで、神を恐れて生きていってほしい。ある時は、熱心になって、ある時には冷めてしまうようなそうした気まぐれな信仰生活、気まぐれな人生を送ることのないように。心をつくして生きていってほしい。神を神として生きていってほしい。それが嵐の中から神がわたしたちに、語りかけている声であろうと思います。わたしたちは今、嵐の中にいるかもしれません。絶望というどん底にいるかもしれません。谷底ではいずりまわっているかもしれませんけれど、どうか、神は独り子を賜うほどにあなたを愛して下さった。わたしは、あなたの名をわたしの手に刻み込んで、一生忘れないよ。おっしゃって下さる神を神として生きていきたいなあと、こう思うんですね。