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メッセージ

羊飼い 『塵灰の中で』
ヨブ記 42章1−6節
1992年11月15日
説教者 加藤亨

そこでヨブは主に答えて言った。
「わたしは知ります、
あなたはすべての事をなすことができ、
またいかなるおぼしめしでも、
あなたにできないことはないことを。
『無知をもって神ははかりごとをおおう
このものは誰か』。
それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、
みずから知らない、測り難い事を述べました。
『聞け、わたしは語ろう。
わたしはあなたに尋ねる、私に答えよ』。
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、
今はわたしの目であなたを拝見いたします。これでわたしはみずから恨み、
ちり灰の中で悔います。」

今朝はただいま司会者に読んでいただきました、ヨブ記第四十二章のところをお話したいと思っております。「塵灰の中で」という題ですが、それはヨブが最後に、「それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」と、このところからとったわけでございます。ヨブ記をずっと今日まで学んでまいりまして、最後の時を迎えました。

ヨブ記と言いますと、これは一般の人々にとりましても、苦難ということに対処する書物として、読まれております。お話してきましたように、ヨブ記を貫いていることは、苦難ということに対して、わたしたちはどうしたらいいのかなということです。聖書を読んでみますとね、ペテロという人は最後にこう言っております。わたしたちに信仰をしっかり保つようにと言ったそのあとでですね、あなたがたが苦しみにあうのはね、全世界の兄弟たちも同じように苦しみに会っているんだ、あなただけが特別苦しいめにあってるんじゃないんだよと、こう言っているんです。なにも特別に、クリスチャンだけが、別世界におるというんじゃない。

またパウロは、コリント人への第一の手紙第十章において、わたしたちが試みに会うということは、これは世の常だと言ってます。これは世の中で常に起こることなんであって、特別な現象でもなんでもないんだという、そうじゃないでしょうか。旧約聖書の詩篇の九十篇に、モーセの歌がありますけれども、長生きすれば長生きするほど、振り返ってみる時に、わたしの一生はやっぱり辛いことが多かったと言ってます。そうしたことは、わたしだけではない、全世界の人たちがみんな同じようなそういう問題に、ぶつかっているんですよ。そうした苦難の多い中において、どうしたならばわたしたちは、感謝して、喜んで生きていくことができるんだろうか。その事がヨブ記を通して語られているのです。新約聖書でヨブのことを語っているのは、ヤコブ書だけなんです。ヤコブはヨブの忍耐をおまえたちは聞いているだろうと、ヨブはその果てを見て、耐えたんだということを言っているんですね。そのヤコブが初めのほうに、わたしたちは、試みに耐える人は幸いだと言っているんです。けれども忍耐しろ、我慢しろと言われたって、忍耐にも限界があるでしょ。しばらくの間、じっとこらえていても、それが続いていけばこらえきれなくなって、どこかで爆発してしまうでしょ。そのことによってどんなに、物事を混乱させるでしょうか。そうするとね、試みにあってもそれを耐え忍ぶ人は幸いだと言われているけれども、その試練に耐えるということは、容易なことじゃないでしょう。

このところではね、ヨブはまだ塵灰の中に伏してると言っておりますね。この時には彼の体はまだ治っていないんです。彼の状況は、なんにも変わっていないんです。そういう現実のただ中において、ヨブという人が、わたしは耳であなたのことを聞いておりましたけれども、今は目をもって見ます。それでわたしは自らを恨み、塵灰の中で悔いますと、こう言えた。そこに、試練に耐え忍ぶことのできる何かが、ヨブに与えられたんだ。それをわたしたちは知らなければいけない。

この間もお話しいたしましたように、神様がヨブに最後に答えた時に、神様はヨブに対して何の罪を責めてらっしゃらない。ただ言われたことは、いったいおまえは何者なのかということだけでした。汝自らを知れ、とよく言われますけれども、本当に自分と言うものがどういう存在なのか、自分というものがどういうものなのか。そのことを知ることが神を知ることであり、神の知恵を知らせていただくことなんだ。けれどもその自分が何者かということがわからない時に、わたしたちは無知になる。

ですからこの四十二章をある学者たちは、順序をかえたほうがいいだろうと言うんです。それは四十一章から続いて、三節のところでカギカッコになってますでしょ。「無知をもって神の計りごとをおおう、この者はだれか」と。そして四節に「聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ」と。そして、一節、三節「そこでヨブは主に答えて言った、わたしは知ります。あなたはすべての事をなすことができ、また、いかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。…それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました」。五節、六節「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずからを恨み、ちり灰の中で悔います」と。そうするとなんとなく文章が、なめらかに続いていくようですね。確かに神様の問いかけというものは、そうであったと思いますね。

おまえはいったい自分が何者だと思っているんだろうか、おまえは神様を知っていると言った。そうでしょ。ヨブも三人の友達もみな信じているんですよ。復習しましょうか。三人の友達はヨブを慰めにきた。しかしヨブの姿を見た時に、神様は正しいから悪いことはしない、間違ったことはしない。だから神様は必ず正しい人、神様に従う人を祝福し、幸せにして下さるはずなんだ。けれどヨブよ、おまえは悪いから、おまえは罪を犯しているから、神様はおまえを罰してこんな苦しみにあわせているんだ。これが三人の友情の見解でした。

ヨブはヨブでね、神様は全能者であるし、正しいお方であるということを信じておる。ところがそれなのになぜ、わたしがこんな苦しみにあわなければならないんでしょうか。それは神様のほうになにか問題があるんじゃないですか。ちょっと不公平じゃないですか。そしてヨブは自分のことを主張していくうちに、自分を義とするようになったんです。神様は正しいんです。神様は全能の方です。けれども自分も正しい。それなのにどうしてこんな目にあうのでしょうか。ヨブは自己矛盾に陥ってわからなくなってしまった。

ですからヨブの最初のことの信仰、ひたすら神に向かっていく姿はすばらしかったですけれども、ヨブの信仰の視点と言いましょうか、それがいつのまにかずれてきている。それで四人とも神様の義ということを、見失ってしまった。そこで神は三人の友情に対して、おまえたちは言葉をもってヨブをどうのこうのと言うけれども、おまえたちはわたしに代わって人を裁く権利があるかと言われ、ヨブに対してもおまえは、自分は正しいと言って、わたしに訴えてきたけれども、いつのまにかおまえは、傲慢になっていないか。一体おまえは何者なんだ。わたしと等しい立場に立とうと思っているのか。これがこの四十二章の、「無知をもって神の計りごとをおおう、この者はだれか。」「聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる。わたしに答えよ。」という意味ではないでしょうか。

ですから人間は自分で、我慢我慢と言っているうちに、いつのまにか、傲慢になってしまうんですよ。聖書に裁きは神に委ねなさいと言っているでしょ。神ご自身が裁かれると、おっしゃってるでしょ。そして高ぶることのないようにと、いつも語っておりますね。そうするとね、わたしたちにとって怖い罪とはなにかというと、人を裁いたり、人を責めたりすることでしょう。そして愛されておるという自分を忘れて、いつのまにか傲慢になってしまう。

そのことがこの間学びました、四十章三節ですね。「そこで、ヨブは主に答えて言った。『見よ、わたしはまことに卑しい者です。なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです。わたしはすでに一度言いました、また言いません、すでに二度言いました、重ねて申しません』」と。ヨブは神様の前で口をふさいでしまってる。わたしはなんにも言いませんと。それをここでは、神様わたしはもうあなたに対してなんにも言えないだけではありません。わたしは傲慢にも、神様の前に出て、神様と対等に話したいと思ってきた。神様の前でわたしは自分の無実を訴えたいと思ってきた。神と裁判の場において直接対決して、わたしは神に訴えようと思ってきた。そこにヨブは自分のうちにある傲慢さを気づかせられた。そのヨブに対して、神ご自身がいったいおまえは何者なんだと、語りかけて下さった。その神の語りかけを彼は聞いたときに、彼は塵灰の中で悔いますと、彼に悔い改めがおこってきた。

塵灰の中で悔いますということについてお話しましょう。この塵灰ということ言葉は、ひとつは非常に悲しみと嘆きの表現です。ですから、人が死んだりした時に、塵灰をかぶります、それは悲しいということのイメージを持ってます。けれども、ここで言われている塵灰の中で悔いますという、この塵灰という言葉は、そうした悲しみということを、意味しているのではないと思うんです。この言葉が出てくるのは、創世記の第十八章、それとヨブ記の三十章ですね。ヨブ記の三十章のところに、泥の中に投げ入れられたので、わたしは塵灰のようになったと、ヨブは言っておるんです。それと創世記の十八章二十七節ではね、アブラハムがソドムとゴモラのためにとりなしをしました。神様の前に立って、もしソドムとゴモラの町に、五十人の正しい人がいたら滅ぼしませんかと言ったら、滅ぼさないと言った。あなたの正しさが表されるために、わたしはあえて塵灰に等しいものですけれども、神様あなたにもう一度言わせて下さい。ここで出てくるのがこの塵灰。

そしてもうひとつ、ヨブ記の第二章のところです。ヨブが試みにあったその時に、二章八節のところですね。ヨブは陶器の破片をとり、それで自分の身をかき、灰の中に座ったと書いてある。これは苦しいということのイメージでしょう。けれども、その前にこの灰色の中に座ったということが意味していることは、ヨブは子供も財産もとられた時になんて言ったんですか。主は与え、主は取られる、主の御名はほむべきかな、とこう言ってる。彼は罪を犯さなかったと言っている。灰の中に彼は座していたということは、神の前に自分がどういう存在であるかということを、しっかりと認識していたということです。

ですからこの塵灰の中で悔いるという、この塵灰ということが意味していることはなんでしょう。アダムが創造された時に、なんで創造されました、塵。人間の創造された原点は塵です。ですから、塵灰の中でという時に、わたしたち人間は神によって造られた、被造物にしか過ぎない。先ほど詩篇第八篇を交読していただきました。なんでこんな小さい者を造られたんですか。そして神よりも少し低く造られた、それが人間なんだ。それが信仰の原点であり、人間が生きるということの原点は、神は神の形に似せて神よりも少し低く造られた、おまえは被造物なんだよということを、知ることでしょう。

今の世界に起こっている諸問題、否社会の中で起こっている問題。わたしたちの家庭の中にわたしたちの周りに起こっている問題の根底に、そのことがしっかりと認識されていないところに、問題がこじれてるんではないでしょうか。ですからヨブは、最初は神が与え、神が取られる、主の御名はほむべきかなと、彼は神の前に自分は造られたものであり、自分がこんなに祝福されて財産も豊かであったのも、これはすべて神によるものです。神が与えて下さったものを、神がご自由に取り上げたのですから、わたしにはなにも言うことはありません。主の御名はほむべきかな、神は全能者ですから、神がいっさいのことを支配しなさっているんでしょうと、彼は灰の中に座した。それはよかったんですが、そこから議論していくうちに、創造者によってつくられたということを忘れた。そこにヨブの間違いがあったと思いますね。

ですから、この塵灰の中に伏するということは、人間は神によって創造されたものであるということとともに、忘れてはならないことは、そこには自己卑下というものがないんだということです。わたしは造られた。神によって造られた。それなのに神様はわたしをなんでこんなに造ったんだという、劣等感があるんじゃないですか。わたしたちは神が神の意志をもって造られたことに対して、平等であるはずです。神は同じように愛してるはずです。それなのにわたしたちはどうして、劣等感を持つんでしょうか。どうして妬みを持つんでしょうか。どうして自己卑下してしまうんでしょうか。どうして積極的に行こうとしないんでしょうか。塵灰の中で悔いるということは、そのことに対して、方向を、考え方を転換するということです。

ですからアブラハムのことを見てもそうです。アブラハムは、わたしは塵灰に等しいものですけれども、あえて言いますと言ったのは、ロトはわたしから離れていったんです。自分勝手な道を歩いていってしまったんです。かれは自分の報いを受けたのではないですか、ではなかったでしょ。ロトとロトの家族だけではない、ソドムとゴモラの人たちのために、神様よどうか、すべてのソドムとゴモラの町に住んでる、今は罪の中に生活してるかもしれませんけれども、彼がどうぞ、あなたのあわれみを受けることができますように、そこにアブラハムの祈りがあります。ですからこの塵灰の中に伏すということは、自己卑下することではなくして、塵の中からわたしを創造し生かして下さった。そして今日まで生かして下さっているその目的はなんだ。あのウルの地からわたしを導きだしてきた、それはなんのためだったんだろうか。ウルの地にいた時には、わたしのうちにはそうした思いはなかった。周りの人たちを同じような生活をしていた。けれどもあそこからわたしを導き出し、カナンの地にまで導き入れて下さった神様の、わたしの人生に対するところの目的と使命とはなんだったんだろうかということを知ることなのです。

アブラハムはそれを十分知って、塵灰の中でわたしをあえて言います。無理なお願いかもしれません。けれどわたしに言わせて下さい。それは神の御心にかたったことだったでしょう。ですから、神はアブラハムの無理な要求、五十人に対しても四十五人に対しても、否十人までとアブラハムは言いました。けれども神はアブラハムよ、もしソドムとゴモラの町に十人の正しい人があったら、わたしはソドムとゴモラの町が今どんなにひどい町か、わたしは今滅ぼそうとしてるんだけれども、そのわたしの計画とわたしの思いを変えるよ、と言われた。

これが塵灰の中で、神に向かうところのわたしたちの姿ではないでしょうか。次に、それでわたしはみずから恨むと言ってます。恨むという言葉はあんまりいい言葉でないでしょ?けれどもこれは、自分の思いを変えるということなんです。みんな自分の思いが変えられないで、苦しんでいるんでしょう。そうじゃないでしょうか。どこかに、自分の思いが先行しやすくなる。なんでもない会話をしていても、自分が中心になって、自分の思いを通そうとする。すべての人を自分より勝れりとしなさいと、言われても、それはなかなかできない。そしてなんとなく優越感を持ったり、面と向かっては言わないけれども、影では人のことをうわさし、中傷したりすることも時にはある。本当に塵灰の中で悔いるということが、いかにわたしたちにとって大切なことなんだろうかなあと思う。ヨブが最後に神の語りかけに対して、とったこの態度ですね、塵灰の中で自分の思いを変えて、そして彼が悔い改めた。それは神様の愛に対する、ヨブの降伏であったのです。

そうです、最初にお話しましたね、神様はサタンがヨブのことを訴えてきた時に、神様はヨブに神の全存在を賭けたでしょう。神様が信頼して賭けたんでしょう。愛してかけたんでしょう。神がこの試みを苦しみに会うことを許されたことを、ヨブは知らなかった。けれどもこの塵灰の中で悔いたということは、その神の愛、神の真実と信頼を、彼は知らされたんじゃないでしょうか。目開かれたのではないでしょうか。彼の思いは変えられた、そのことによって、彼はその愛を実感したんでしょう。

彼がヨブ記第十九章二十五節から二十七節のところで、「わたしは知る、わたしをあがなうものは生きておられる。後の日に彼は必ず地の上に立たれる。わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう」と、彼は告白しました。まさにわたしは肉を離れて神を見るであろうと。それは将来ではなくして、彼が塵灰の中で悔いたその時に、神が愛であることを、神が真実なお方であることを。ヨブは自分の体験を通して見せていただきました。それだけでなく将来に対してもこのからだは朽ちていこうとも、神は必ずあがなって下さるという希望をもつことができたのです。そのことを成就して下さったのが、イエス・キリストの十字架であり、復活なのです。これこそが神の知恵なのです。

パウロが言っております。外なる人は滅びても、内なる人は日々に新たに、栄光から栄光へ、信仰から信仰へ、恵みから恵みへと成長させていただくことなのでしょう。これこそが、塵灰の中で悔いたヨブに対する、神の答えではなかったでしょうか。ですから七節からあとは、これは付録ですよ。わたしたちはあとのほうで、ヨブは人のためにお祈りしたら、二倍もらったから、わたしは人のためにお祈りしましょう。とりなししましょう。そしたら二倍のものが貰えるでしょう。そんなことではないのです。彼が塵灰の中で本当に悔いたというそのこと、これが大切なんです。ヨブ記はこれで終わっているんです、あとは神のもの。ですからわたしたちも、ヨブが最後に塵灰の中で自分の思いを変えて、神様に信頼しました。先ほども言いました。まだ彼の肉体は変わっていません。彼の状況はなんにも変化しておりません。けれどもあの苦難の時に、神様に呼びかけても、神様は返事して下さらなかった。そばを神様が通ってもわたしは気づかなかった、悟ることができなかった。東に行っても西に行っても、南に行っても北に行っても、神様を見ることができなかった。ヨブは言っています。神様がともにいて下さっているにもかかわらず、彼は知ることも悟ることも出来なかった、無知だった。けれども彼が悔いたその時に、神がいと近くにいらっしゃるということが、わかったのではないでしょうか。

わたしたちの目をくらませているものがいろいろあるでしょう。わたしたちの思いをそらせていくいろんなものも、あるでしょう。またある時には神様というお方になにか、限界という枠をはめ込んでしまって、このことは神様はできないんじゃないだろうかというような、不信仰に陥ることがあるかもしれません。人々に対するところの寛容な心も、失われていくこともありましょう。そうした醜い姿、破れていく姿、滅びていく姿。しかし、その中においても、神は信じてあなたに賭けているんですよ。イエス・キリストを十字架にかけたということは、特別な信者だけのため、熱心な人のためでもない、なにか能力のある人のためでもない。神はあなたに賭けているんですよ。塵灰の中から造ったあなたに賭けているんですよ。そのことをわたしたちは知る時に、はじめてその苦しみの中から、そのしがらみの中から、本当に開放されて聖霊によって、自由に生きることができるんです。

どうぞ愛する兄弟姉妹、クリスマスの記念すべき日を目前にしています。この神様の愛を本当に受け入れていきたい。神の愛にわたしたちは本当に心から降伏していきたい。そしてその愛の中に生き続けていきたいと思うんですね。わたしは今までいろんなことを聞いてきました。けれども今は目をもって心の目を開かれて、塵灰の中に悔いて、わたしに神様が特別に与えて下さっている、生き方、仕事、使命があるんだ。そのことを本当に一人一人自覚して、生き続けていきたいなあ。どうせ塵にかえっていくお互いでしょ。塵から造られたものは、塵にかえっていくんです。何を残します。どうか天に本当に宝を積みながら、栄光の姿にかえられるその時を、待ち望んで生きたいと思いますね。