『新しい出エジプト』
エゼキエル書 20章1−17節
1993年5月23日
説教者 加藤亨
第七年の五月十日に、イスラエルの長老たちのある人々が、主に尋ねるためにきて、わたしの前に座した。時に主の言葉がわたしに臨んだ、「人の子よ、イスラエルの長老たちに告げて言え。主なる神はこう言われる、あなたがたがわたしのもとに来たのは、わたしに何か尋ねるためであるか。主なる神は言われる、わたしは生きている、わたしはあなたがたの尋ねに答えない。あなたは彼らをさばこうとするのか。人の子よ、あなたは彼らをさばこうとするのか。人の子よ、あなたは彼らをさばこうとするのか。それなら彼らの先祖たちのした憎むべき事を彼らに知らせ、かつ彼らに言え。主なる神はこう言われる、わたしがイスラエルを選び、ヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地でわたし自身を彼らに知らせ、彼らに誓って、わたしはあなたがたの神、主であると言った日、その日にわたしは彼らに誓って、エジプトの地から彼らを導き出し、わたしが彼らのために探り求めた乳と蜜との流れる地、全地の中で最もすばらしい所へ行かせると言った。わたしは彼らに言った、あなたがたは、おのおのその目を楽しませる憎むべきものを捨てよ。エジプトの偶像をもって、その身を汚すな。わたしはあなたがたの神、主であると。ところが彼らはわたしにそむき、わたしの言うことを聞こうともしなかった。彼らは、おのおのその目を楽しませた憎むべきものを捨てず、またエジプトの偶像を捨てなかった。
それで、わたしはエジプトの地のうちで、わたしの憤りを彼らに注ぎ、わたしの怒りを彼らに漏らそうと思った。しかしわたしはわたしの名のために行動した。それはエジプトの地から彼らを導き出して、周囲に住んでいた異邦人たちに、わたしのことを知らせ、わたしの名が彼らの目の前に、はずかしめられないためである。すなわち、わたしはエジプトの地から彼らを導き出して、荒野に連れて行き、わたしの定めを彼らに授け、わたしのおきてを彼らに示した。これは人がこれを行うことによって生きるものである。わたしはまた彼らに示した。これは人がこれを行うことによって生きるものである。わたしはまた安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである。しかしイスラエルの家は荒野でわたしにそむき、わたしの定めに歩まず、人がそれを行うことによって、生きることのできるわたしのおきてを捨て、大いにわたしの安息日を汚した。
そこでわたしは荒野で、わたしの憤りを彼らの上に注ぎ、これを滅ぼそうと思ったが、わたしはわたしの名のために行動した。それはわたしが彼らを導き出して見せた異邦人の前に、わたしの名が汚されないためである。ただし、わたしは荒野で彼らに誓い、わたしが彼らに与えた乳と蜜との流れる地、全地の最もすばらしい地に、彼らを導かないと言った。これは彼らがその心に偶像慕って、わがおきてを捨て、わが定めに歩まず、わが安息日を汚したからである。けれどもわたしは彼らを惜しみ見て、彼らを滅ぼさず、荒野で彼らを絶やさなかった。
今朝は、ただいま司会者に読んでいただきました、エゼキエル書第二十章のところから「新しい出エジプト」という主題のもとに、ご一緒に学んでいきたいと思います。
先週の木曜日が昇天日でございました。ペンテコステを前にして、十日間の祈り会がもたれました。あの祈り会をわたしたちは覚えておきたいと思うんです。あの十日間の祈り会に、彼らは集まって熱心に祈っていたと思います。それに見習ってよくこのペンテコステ前の十日間、待望の祈祷会をもちます。そして何か神様の賜物に与ろうと思うと、とくに聖霊のみたしを受けようと思うと、熱心に断食してでもというような気持ちになるんですね。それがいかにも待ち望んでいるものだというふうに思うんです。バクストン先生が使途行伝講解の中で語っていますが、彼らは集まって、熱心に祈っていたというだけじゃないんですね。ペテロがあのペンテコステの日に、どうしてこのことが起こったかということを、ヨエル書を通して語っております。彼はヨエル書のあのペンテコステに関する箇所だけ読んだんじゃないんです。ヨエル書全体を読んでいる。あの約束が実現する前にどういうことが起こったかというと、祭司たちは、祭壇とたかどのの間の廊下で、彼らは悔い改めたと書いてあります。ですから十日間、ただ集まって一緒にお祈りしましょう。聖霊が下りますようにと祈っていたのではないんです。彼らが祈りつつある間に、彼らの心に御言葉の約束とともに、その約束の実現のためにどうしなければならないか。彼らはお互い最後の晩餐の席上においても、だれが大いならんかと争った、自分の心の中にある妬み、そうしたものを彼らは悔い改めた。ですからこの十日間というものは、ただ熱心な祈りを一晩中祈り続けたとかいうんじゃなく、そこに悔い改めの業が行われていたんです。
じつは今日のところで、エゼキエルはそのことを語っているんです。今日のところを見て見ますと、長老たちが来たと書いてありますね。長老たちが、主に尋ねるために来て、わたしの前に座した。時に主の言葉がわたしに臨んだ、「人の子よ、イスラエルの長老たちに告げて言え。主なる神はこう言われる、あなたがたがわたしのもとに来たのは、わたしに何か尋ねるためであるか。主なる神は言われる、わたしは生きている、わたしはあなたがたの尋ねに来てるかわかっているんだ。でも答えない。何を尋ねに来たのか。彼らはその当時のユダヤの社会におけるエリートの人たちで、バビロンに捕囚になっていたんです。民衆はまだエルサレムに残っていました。祭司たちにとっては、エルサレムの神殿で礼拝し、祈りを捧げると同じように祈りの場がほしいわけです。しかし今は、その祈りの場はないわけです。ですから長老たちの願いは、バビロンに捕囚になっている人たちが、エルサレムにいた時と同じように、祈りの場、神を礼拝する場所を作ることができないだろうか、という願を持ってきたんです。そうしますとそれは切実な求めであり、信仰的な願いのように思えるでしょう。ところが神様は答えないと言っているんです。わたしたちには理解することができないことですね。しかしエゼキエルはそのことをこのところで語っておる。それはわたしたちにとっても語られておることだと思います。
それは良き願いであるかも知れません。それは御心にかなった願いであるかも知れません。しかしそこに人間の妥協というものが、生まれてきやすいのです。彼らはバビロンに捕囚となっているけれども、これは神のこらしめのせいであって、そこに永住させるために移したのではない。彼らをもう一度乳と蜜との流れる地、神の都エルサレムに引き戻す、これが神様の計画でしょ。そして神様を礼拝できる場を求めることは、すばらしいことであるかもしれませんけれども、それはイスラエルに対する、神の思いというものを逆に妨げて、捕囚の地が自分たちがそこに住むべき地となり、神様の目的と離れてしまった結果に至らせてしまう。そのことに対して、神様はノーと言われた。エゼキエルはそのことをこの長老たちに、語っているんです。
ですからこれはね、わたしたちにとっても理解しなければいけないことだと思います。人間が環境に順応するということは、大切でしょうしその事によって、人間は孤独感というものを取り除かれることがあるかもしれません。けれどもそのことによって本当に孤独とはなんなのか、神とともに生きるということが、どういうものであるか、そのことの真の解決には至らない。そのことはわたしたちの現実の生活の中において、それを選択するということに、躊躇すら感じ判断することが困難な問題であるかもしれませんけれども、神様はエゼキエルを通して、その問題をグサッと語っておる。ですから今日の私たちにとって、それはあるときには厳しいメッセージであるかもしれない、あるときにはわたしたちの生き方に対して、鋭い光と時には糾弾するようなメッセージであるかもしれません。しかしそのことをわたしたちは、エゼキエルがその当時の長老たちに語った、神様のメッセージを今のわたしたちの時代に、まさにバビロンに捕囚されてるような、現実の中に生きているその中で、孤独と戦いながらどのように生きていかなければならないか、そのことに対する新しい光を与えられるのではないだろうか、と思うんですね。それがペンテコステにおいて、十日間待ち望んだということの意味です。わたしたちも待ち望むということが、どういうことであるかということを、その中からしっかりと汲み取っていきたいと思いますね。
旧約聖書を読んでいきますときに、よく歴史に対する懐古として、イスラエルの民がエジプトを脱出したことが、取り上げられています。この歴史に対する、イスラエルの民たちの思いというものは非常に強かったんです。ですからイスラエルは今だに嘆きの壁で祈っているんですが、メシヤを待ち望んでいるんですよ。乳と蜜との流れる地、神の子の約束の地の回復ということのためにも、イスラエルが執念を燃やして世界から非難を浴びせられても、なお獲得していこうとするところの、あのイスラエルの姿勢は、歴史への懐古から生まれていると思いますね。
ですからこのイスラエルの民にとって、このエジプトから脱出したということは繰り返し繰り返し、語られておるんです。今日のところを見てもおわかりだと思うんですけれども、神様がこのイスラエルの民をエジプトの地から脱出させる時に、彼らの叫びのためだけではなかったですね。神様はこのことを通して、神の御名が崇められ、神の御名が全地に伝えられることのために、エジプトから救い出した。そしてイスラエルの民に語ったことは偶像から離れるということです。それから安息日を守るということですね。律法はたくさんありましたね。けれども一番の要は人間関係のことよりも、神中心に生きるということでした。そのために偶像から離れなさい。神のみ前に安息日を守りなさい。そうすることによって人間社会的な倫理、人間社会のあらゆることは円滑になってくるんだよ。それがモーセの十戒が教えるところですね。
ですから神様がイスラエルの民に求めていたことは、エジプトの偶像から離れ、エジプトにおいて行われていた、異教的な習慣から離れていく。そのことでありましたね。そして彼らは、自分の力で救い出されたのではなく、神様の哀れみによっていくうちに、装飾されていきますし、風化していきます。このイスラエルの民にとってもそうだったと思うんですね。ですからエジプトの地から救い出されたというこの事実は、これはすばらしい、その事実だけが強調され、その事実だけが思い出され忘れられないように伝えられてきていた。その時にどういう約束で神様がイスラエルの民を救い出したのか、そのことが忘れられてしまっていた。それがイスラエルの歴史ですね。神様は絶対的な力をもってイスラエルを必ず救い出す。そうでしょ、あのヒゼキヤの時、セナケリブに攻撃された時にそうですね。絶対神様はこのエルサレムを滅ぼすことはない。なぜならばあのエジプトの奴隷の地から、わたしたちを救いだした神は、今も生きておられるから、この苦難の中においても神は必ずわれらを救い出すことができるんだということ。その勝利の場面だけが信じられてきた。
エゼキエルがここで言ってることはそのことです。歴史を懐古して、あなた方は神様によってエジプトの地から救い出されたことを信じているだろう。しかしその時に神様は、どういう約束で救い出したか、イスラエルの民に与えた神様の約束は、偶像から離れなさい、安息日を守りなさいということではなかったか。しかしあのエジプトの地から、救い出されたのちの、イスラエルの歴史を振り返ってみますと、それは八節から二十一節に、「ところが彼らはわたしにそむき、わたしの言うことを聞こうともしなかった。彼らは、おのおのその日を楽しませた憎むべきものを捨てず、またエジプトの偶像を捨てなかった」、と書いてありますね。そして十二節、「わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである」、と言われているのにも関わらず、「しかしイスラエルの家は荒野でわたしにそむき、わたしの定めに歩まず、人がそれを行うことによって、生きることのできるわたしのおきてを捨て、大いにわたしの安息日を汚した」、というこの記述を見る時に、エジプトの国を脱出したあとのイスラエルの歩みはなんだったかと思う。神様は慈愛のお方として彼らを、エジプトの地から救いだし見守っていて下さるにも関わらず、彼らの歩みは背き、神を捨てたという失敗の歴史であったということです。けれどもイスラエルの民はその失敗を顧みなかった。そうですね、このことは新約聖書のコリント人への第一の手紙十章に記されておりますね。彼らは呟いた、試みた、不品行、偶像から離れなかった。ということは、彼らはエジプトの地から離れました、救い出されました。けれども彼らの心はエジプトから脱出していなかったんです。
愛する兄弟姉妹、わたしたちが考えなければならないことは、わたしたちはみんなイエス・キリストによる救いを確信して、洗礼を受けました。クリスチャンとして生きております。しかしその心がなおエジプトの地にある偶像から、また神が与えて下さったその安息日の律法を破っておるとするならば、どうですか。自分はイエス・キリストを信じて救われたクリスチャンです。神様の恵みの中に生きてるんですという、そのすばらしい歴史的な事実は、大切です。けれどもそこにはイエス・キリストを信じてイエス・キリストと神とに一切を委ねるという、信仰の約束のもとにわたしたちはバプテスマに与ったんではないですか。だから洗礼を受けたという、わたしはあの時に救われたという、その歴史的な事実は大切です。けれどももっと大切なことは、その時に神様の前に信仰をもって約束したその約束が、わたしの今の現実の生活の中において、生きておるか。もしそうでなかったとするならば、このエゼキエル書において長老たちが、エゼキエルのもとに尋ねてきたときに、神がノーと言ってエゼキエルを通して語られたメッセージは、今のわたしたちに対するメッセージだと、受けとめなければならないのではないでしょうか。悲しいかなイスラエルの歴史はそうだったんですね。それは荒野の旅だけではありません。約束の地に入っても先住の民を全部追い出せと言われたけれども、彼らは追い出さなかったと書いてあるでしょ。追い出さなかったゆえに、それは彼らの脇腹にとっては刺となった。だから約束の地に入って後にあの士師記にあるように、再び異国の支配を受けるよになってしまったという、これが失敗の歴史ではないでしょうか。
人間の歴史は繰り返してきます。ですから二十一節から三十一節のところを見てますと、エゼキエルを通して語られたことは、裁きです。そしてね、このことは覚えておきたいと思うんです。あのエジプトの地を脱出した後、モーセもアロンもミリアムも、指導的な役割をした。そしてその出エジプトというすばらしい体験をした人は、カレブとヨシュアを除いて、何十万、何百万とエジプトを脱出した人がいたかもしれませんけれども、その二人以外はみんな荒野で滅ぼされてしまった。そして荒野において子供が生まれた、その二世たちはその現実を見せられながら、そのことを伝え聞かされながら、彼らはそれを悟ることが出来なかった。ここにわたしたちが考えなければならないことがあるんではないでしょうか。
神様はイスラエルの民を約束の地に導き入れるということは、神の御名のゆえに、神の御名が辱められることのないために、神が選んだ民に対してなされたことを、全世界にあかしすることのために、神様はこのイスラエルの民を導き出した。新しい民は、この歴史の恐ろしさ、その現実を見せられておりながらも、彼らは目をさますことができなかった。それが、ヨシュア記、士師記を通して、教えられるところのことです。エゼキエルが問題にしてることは、二十五節からのところですかね。子供を犠牲として捧げるというモロク礼拝を、受けとめたという事です。それは、出エジプト記二十二章二十九節に、確かにモーセの律法の中に初子が神のものであるから、初子は捧げなさいと言われてるんです。ですから彼らの考えは、初めて生まれた子供は神のものだから、神に捧げろというのであったなら、犠牲として捧げるということは、これは当然神の律法に従ってることじゃないか、律法を破ってることではないんだと。
いいですか、御言葉をどのように解釈し、どのように受けとめるかということの、これは際どい線です。初子は捧げろという。そうすると捧げるということは、犠牲とすることだ。そうするならば自分の家に生まれた最初の子供は、犠牲として捧げることを神様は求めておられるし、それをするのが当然のことなんだ。だからわたしたちは犠牲として、初子を捧げるんだ。という解釈のもとにイスラエルの歴史は、律法を自分たちなりに解釈して、それは神様の律法を守ることだし、御心に適うことだといってきた。
ところが申命記の十八章九節から十二節を見てみますとね、そこのところにおいては、彼らは幼児を犠牲として捧げてはいけない、エジプトの呪いに傚ってはならないということが、ちゃんと書かれてある。エジプトの偶像から離れなさい。異教の習慣に捉われてはいけません。そのことが語られてるんですけれども、その事を忘れてしまった。神様が求めてることはなんだ、神様に献身することじゃないか。このことが聖書を通して語られているメッセージでしょ。そうするとわたしたちは、この世に生きていくためには、ときには妥協の道を、御言葉とみむねとを求めながら探っていく。そのことによって、神様が脇に追いやられて、自分の御言葉の解釈だけが生きていってしまう危険性があるのではないでしょうか。
ですからエゼキエルは、ただ過去の罪を責めてるだけじゃありません。苦難があるでしょう。つらい孤独感に襲われるでしょう。詩篇の記者も歌っているように、バビロンの捕囚の時に、バビロンの人たちは、おまえたちの歌を歌ってみろと、さらしものにされる。ただわたしたちは夜昼流す涙のみが、神に対する祈りだとまで、そのときの状況を告白してるでしょ。皆さん現実はわたしたちもそうでしょ。そうじゃないですか。理解されないことがある、どんなに祈っても、理解されない受け入れられない。皆逆かれ拒まれ反抗されることの多い、孤独感をじっくりと味わされるような、厳しい現実の中にわたしたちは生かされてる、否生きてるんじゃないですか。淋しい時があるでしょう。辛い時があるでしょう。枕に涙することもあるでしょう。しかしそこからのただ脱出だけ、そこからのただ開放だけを求めて、妥協するということがあってはいけないんだよ。辛いでしょ、苦しいでしょう。けれどもあなたは、この世に倣ってはいけない。神の御心の善にして喜ぶべく、かつ全きことを弁え知るために、あなた方の心を新たにして、神に喜ばれるいけにえとして捧げて下さい。これが神のメッセージ。神がわたしたちに求めておられることではないでしょうか。そうするとね、わたしたちはこの長老たちと同じように、なんらかの和解の道、解決の方策を探し求めて、妥協するということの危険性を、悟らなければならないんじゃないでしょうか。
イスラエルの民はなぜこのように、神様のお言葉と約束と与えられ、約束の地に導き入れられながら、なぜこの苦難の旅路を辿らなければならなかったのでしょうか。それはひとつは彼らの頑迷さです。イスラエルの歴史はこの一語に尽きます。神様の意志と人間側の意志と戦いの歴史です。神様はこうあってほしいと願う、けれどもイスラエルの民たちは自分たちはこう思う。神の意志と人間の意志とが一致していくのではなくして、そこに絶えざる戦いがあった。意志の疎通がなかった。否、反抗的な戦いの歴史、それがイスラエルの歴史であった。このことを通してわたしたちは、考えるときに神様はわたしたちのために、善をして下さるお方です。すべてのことは相働きて益とならしめて下さる方です。わたしたちを楽しませることのために、万の物を備えて待っていて下さる神様です。その神の善意に対し、人間は反抗する意志を持っていた。ですから解決の方策は神の意志と人間の意志とが、ひとつとなるこれがイエス・キリストとひとつになるということじゃないですか。清めの生涯というものはこの神の意志とイエス・キリストの意志と、人間の意志とが、ひとつになっていく、イエス・キリストの心を心としていく。キリストがわたしの内にあって生きてるんだ、わたしはもはや生きているんではないんだという、ここにわたしたちの歩みがあるんじゃないでしょうか。イスラエルの歴史はそのことに対して、反発する頑迷さの歴史でもありました。
そしてもうひとつは、人間の心の強情さというものを、ここにわたしたちは学ばせられます。人間の意志と神の意志との戦いと言いました。その人間の心があまりにも強情であるがゆえに、わたしたちは神の意志に従うことがない。よく言います。人間の心がひねくれていると、物事を正しく受け止めることはできません。イエス・キリストによる救いは、人間のそのねじれたひねくれた心を、イエス・キリストによって新しくする、新しくされていく。それがイエス・キリストによって救われた生涯ではないでしょうか。古き人を脱ぎ捨てて、新しい人イエス・キリストを着せられたということは、そのことではないでしょうか。サムエルは、強情な偶像礼拝につながると言っています。どうです。心の頑なさ、心のねじれ、それは偶像礼拝につながっていくんです。そして人間は自己中心的に自分の欲望を達成しようとして、生きていくんです。
これがあの長老たちが、神のために祈りの場をわたしたちのために作らせて下さい、神を礼拝する場所を作らせて下さいという、思いを持ちながら出てきた時に、神はその心を知って、わたしは答えないよ。エゼキエルよおまえは語れと言われて、語ったメッセージであろうと思います。ですから最後に、この二十章四十四節をごらんいただきたいと思います。「イスラエルの家よ、わたしがあなたがたの悪しきおこないによらず、またその腐れたわざによらず、わたしの名のために、あなたがたを扱う時、あなたがたはわたしが主であることを知るのであると、主なる神は言われる」。あなたがたがその罪を、悔い改めて立ち返ってくるならば、わたしはあなたがたの悪しき行いによらず、またその腐れたわざによらず、わたしの名のためにあたながたを扱うとき、あなたがたはわたしが主であることを知る。そして生きるものとなる。イエス様はあのヨハネによる福音書第一章十二節で、わたしの名を信じるときには、神の子となる力を与えられるとおっしゃった。これは肉の願いによらず、人の願いによらず、神によってであると言われました。また神は砕けた悔いし魂を、かろしめられることはないとするならば、主の前に立ち返ることじゃないでしょうか。そこに神の平安があり、そこで主を本当に知ることができ、主とひとつになって生きることができるんだと、主は約束して下さってる。わたしたちも新しい出エジプト、それを自分のものとして経験させていただきたいと思いますね。