『枯れた骨』
エゼキエル書 37章1−14節
1993年5月30日
説教者 加藤亨
主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て生かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。彼はわたしに言われた、「人よ子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか。」わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです。」彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る。」
わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まり相つらなった。わたしが見ているとその上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。時に彼はわたしに言われた、「人よ子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺されたる者たちの上に吹き、彼らを生かせ。」そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。
そこで彼はわたしに言われた、「人よ子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と。それゆえ彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。わが民よ、わたしがあなたがたを墓を開き、あなたがたをそこからとりあげる時、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。わたしがわが霊を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させる時、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったことを悟ると、主に言われる。」
今朝はキリスト教会におきましては、特別な記念日ペンテコステの日でございます。ペンテコステを記念するということは、ペンテコステの日に起こった事実と共に、イエス様がこの地上を去って行く時に、弟子たちにペンテコステはなぜ起こるかということを、そしてペンテコステを経験したものは、どういう生き方をするのかということを、しっかりと言い残しておられたんですよ。そのことを、思い返さなければならないと思うのです。それは新約聖書のヨハネによる福音書第十四章十五節に、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう、そうすれば父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。」こう書いてますね。
聖霊が下ることをイエス様は、神様にお願いする。そうすると神様は答えて、聖霊をあなたがたに与えて下さる、そうしてなんでもわたしの名によって、願うならばかなえて下さるという。このすばらしい祝福の約束を与えて下さったんですが、そこに一つの条件て言いましょうか、守らなければならないことがある。それはわたしを愛するならば、わたしの戒めを守りなさいということなのです。そうするとわたしは父にお願いし、父は聖霊をあなたに与えて下さる。そういう意味においてわたしたちはこのペンテコステの記念の日に、そのことを心にとめながらですね、エゼキエル書の三十七章の有名な、枯れた骨のたとえというところをご一緒に学んでいきたいと思うのです。
このところには、聖霊降臨の時に起こりましたそのことと、同じようなことが記されております。この三十七章に枯れた骨のたとえが語られておりますが、その前に三十六章二十六節のところを見ていただきたいと思います。「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。」ここにペンテコステの日に聖霊が注がれるということは、どういう目的かというと、わたしたちのうちに新しい心と、新しい霊とを与え、石のように固い心を取り除いて、柔らかい肉の心を与え、そしてわたしの霊をあなたがたの内に絶えず内住させて下さって、わたしたちが神の戒めを守ることができるようにして下さる。それが聖霊の働きなんだよと、エゼキエルはここのところで語っているように思いますね。
新しい心と新しい霊とを与えられることは、わたしたちにとっては大きな希望です、期待を抱かせる言葉ですね。けれども正直のところ人間の理性は、いったいどうしてわたしが新しくなることができるんですか。わたしのような者が、新しい心と新しい霊を与えられるというけれども、どんなになっていくんですか。そのことを思うと、なんだか難しそうだなと思うでしょ。あの有名なヨハネによる福音書第三章で、ニコデモがイエス様のことを聞いた時に、この方こそメシヤだと思って、夜訪ねてきたでしょ。ニコデモはユダヤ教の社会では、サンヒドリンの議員であり、学者ですよ。聖書に通じている人です。神の国のことについてメシヤの来臨については、十分な知識をもっている人です。けれどもイエス様が、新しく生まれなければ、あなたがたが期待し祈り待ち望んでいる、その神の国に入ることはできないんだよと言われた時に、ニコデモはそうですか信じますと言わなかったでしょ。わたしはもう年とってる。再びお母さんのお腹の中に逆戻りして、新しく生まれることはできません。
これはいかにもわたしたちを象徴しているように思われないでしょうか。新しい心と新しい霊とを与えて、わたしたちを新しい生涯へ入れて下さると言われているにもかかわらず、わたしはそんなことをされたら、今までの生活がひっくりかえってしまって、なんだか犠牲を強いられるような、厳しい生き方が求められるような気がして、ちょっと待てよ。それはすばらしい約束であり、希望をわたしに与えると思われる。けれども本気でそれを信じたならば、どうなるかなあという懐疑が、わたしたちの思いを横切るんじゃないでしょうか。
エゼキエルはそのことを、エゼキエル三十三章三十一節というところで、こう言っておりますね。「彼らは民が来るように、あなたのところに来、わたしの民のようにあなたの前に座して、あなたの言葉を聞く、しかし彼らはそれを行わない。彼らは口先では多くの愛を現すが、その心は利におもむいている。」と書いてある。わたしの前に座して聞くけれども、それを行わない。彼らは言葉で多くの愛を語り現すけれども、じつはその心は自分の我欲を求めることに熱心であると、エゼキエルは言ったんですね。それが新しい生涯へと入りたいという、願いを持ち、神様の約束がそこに与えられておりながらも、新しくなっていくことの妨げとなっているのではないだろうかなあと思います。ペンテコステを記念するこの時に、わたしたちはもう一度、神様が問いかけていらっしゃるその問いかけに、本気で答えていく必要があるのではないかと思いますね。
神様はこうしたイスラエルの人々の現状を見て、こう問いかけておりますね。三十七章二節に、「彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。彼はわたしに言われた、『人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか』。」生き返ることができるのか、枯れた骨というと骸骨ですよね。それが生き返るということは期待できないでしょう。その骨が満ち満ちている、これがイスラエルの現状なんだと、神様はここで言っておられるのです。
こうなるまでには相当の年数がたってるでしょう。それが生き返るなんてことは期待できないですよね。まさにエゼキエルがそのバビロン捕囚という中において、経験していること、そして彼がイスラエルの民の中に、見ている現状というものは、そうした姿であったと思う。民は退廃しております。そしてもう無気力状態になっている。それでも希望は捨てていないんです。どうしたらいいのか、解決の未知もわからないでいる。そしてエゼキエルはそれまでにも、いくたびかこのイスラエルの人々に神の言葉を語り続けてきました。神様の約束を語り続けてきました。あなたがたはもう一度戻ることもできるんだよ、捕囚の中においても神が共にいて、あなたがたを支えて下さるんだよ。罪を悔い改めて神のもとに立ち返ることが、大切なんだよということを、繰り返し語り続けてきました。けれども民はその神のことを聞き続けながらも、彼らの心は変わってなかった。無気力になっていってしまったんです。それがこの預言者エゼキエルが見せられたところの光景ではないでしょうか。
そしてここで、注意してみたいと思うことは、一節に主の霊に押し出されて谷の中に置かれたと言われていますね。そしてその谷には枯れた骨が満ち満ちていたと言っていますね。ところがこの谷という言葉は、エゼキエル書では二ヶ所しか使われてないのです。これは平野という意味がある。そのことが、用いられているのはエゼキエル三章二十二節二十三節ですね。そこでは平野という意味に用いられています。エゼキエルが預言者として立てられた時に、あのケバル川のほとりで神の栄光を見せられ、そしてこの平野に出て行ったと言うんです。そこで主の栄光を彼は見たと言っているんです。彼は今度は主の霊に導かれて行って見たのは、主の栄光が現われ、主の栄光を見た同じ場所で見たのは枯れた骨、栄光は去ってしまって、骨しかない現実です。これはもう人として、預言者としても、期待を持つことができないことだと思いますね。栄光は去った。そこには枯れた骨しかない。
ペンテコステから今日まで千九百有余念の歴史の中で、綿々と教会は続いてきておりますが、枯れた骨、それが現実になってくることもあるんではないでしょうか。御言葉を通して呼びかけはなされる。聖霊はわたしたちの内から語りかけて下さる。ささやき続けて下さる。にもかかわらずわたしたちは、自分の肉の欲から求めるその欲求が、その聖霊の声をかき消してします。
ですから神様がエゼキエルに、「人よ子よ、これらの骨は生き返ることができるのか」と、問いかけなさった時、エゼキエルの正直な答えは、「わたしは答えた、『主なる神よあなたはご存知です』。」ということでした。あなたが知ってる。これはふたつの意味にとられるかもしれません。エゼキエルは信仰をもって神のなさる業を期待して、あなたはすべてをなすことが出来ることを、わたしは知っていますという意味にもとれるでしょう。もう一つは栄光が去ってしまったこのイスラエルの民、この無気力にそして退廃的になってしまった、神の戒めから離れた生活の中に、安住しているこの民を見る時に、あなたはご存知です。わたしは語り続けてきました。けれども聞こうとしません。座してあなたの前に祈ってきました。けれども神の言葉に聞き従おうとはしません。この民の状態は、それはあなたが一番よく知っておられるでしょう。
これが預言者エゼキエルの思いではないでしょうか。わたしは時々思うんですよ、すばらしい信仰の人であったパウロが、大胆に福音を語ってきたでしょ。あのパウロがコリントの教会に対する手紙の中にですね、誰かこの任に耐えることができるかと言っているんですよ。それは語っても語っても、説いても説いても、頑なになって心を開かない、コリントの教会の姿を思う時に、誰がこの任に耐えることができるか、心の呷くような言葉ですね。まさにこの預言者エゼキエルがここで、主よあなたはそのことを、よくご存知ですというその言葉の気持ちを、パウロは同じように、誰がその任に耐えることができましょうかという、その言葉で言い表わしてるんじゃないか、という気がします。
けれども神様はエゼキエルに向かって、おまえはだめだと思うかも知れない。まさにおまえが見たのは、無気力になっているというだけじゃない、生き返ることもできない枯れた骨だ。それを見ただろう。けれども、神はその枯れた骨に向かって、預言して言えと言われた。あきらめるんじゃない。おまえはこれは駄目だと思う、不可能だと思う、事実その通りであるかもしれない。理性はそれを認めるだろうし、経験はそれを証明するだろう。けれども神は、その枯れた骨に向かっておまえは語れとこう言われた。希望が持てない、期待が持てない、不可能と思われるそのことに向かって、もう一度神の言葉を語れ。それが四節からの言葉です。「枯れた骨よ主の言葉を聞け、主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。わたしはあなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」と。
枯れた骨に向かって言えと言われた、この神様の業が、あのペンテコステの日において現されたと、わたしたちは見ることができると思うんです。枯れた骨、皆さんわたしたち自身が、枯れた骨であるかもしれません。わたしたちの回りに見るものは、枯れた骨であるかもしれません。そういう思いをする時がありますね。どんなに祈っても祈っても答えられない。どんなに涙を流して祈ってみても、なかなかに答えられない。状況は悪くなっていく。祈らないわけではない、祈ってるけどもなんとなくその祈りは、祈らなきゃ気がすまないから祈ってるようになってしまう。まさにわたしたちは、見回すところのものは枯れた骨のようなものではないしょうか。わたしたちも御言葉を聞き、神の前に座し、イエス様を愛すると言葉で言っておりながら、本当に心から愛して従っていこうとする、お言葉を守っていこうとするその思いも、薄らいでいくような、自分自身が枯れた骨である場合があるんですよ。けれども神の霊がそこに働いてくる時に、事が起こってくるというのです。否、わたしたちは聖霊を下したまえ、聖霊を注ぎたまえと、祈るだけではなく、もっとわたしたちがしっかりした立場に立たなければいけないことは、パウロがローマ人への手紙八章九節にキリスト・イエスに属するものは、キリストの御霊がそのうちに宿っており、キリストの御霊を持たない者はキリストに属しているものではないんだと言っています。
そうすると、わたしたちはイエス様の十字架のあがないを信じて、救いに入った時に、わたしが祈る前に、主がわたしのために、父に祈ってるんです。父よ助け主を与えて下さい。聖霊が彼のうちにあって、彼と共にいつでも共にいて下さい。人々は見ることができないでしょう。世は受けることができないでしょう。世はこれを孤児のように思うかもしれませんけれども、主よどうぞあなたを信じるこの人に、この魂に、父よ聖霊をどうぞ、うちに住まわせて下さい。このことはこの人が信じた時に、成就してるんです。とするとわたしたちがイエス・キリストを信じる時に、聖霊は注がれている、聖霊はうちに内住していて下さっている。それなのに、その聖霊に逆らい、悲しませ、憂えさせてきたのが、わたしたちの経験ではなかったでしょうか。
イスラエルの民がそうでありました。神様によってエジプトの地から救いだされ、そして神が共にいて下さり、栄光と臨在とを現し続けて下さり、彼らの必要にいつでも答え続けて下さったにもかかわらず、イスラエルの歴史は神のお言葉と約束とに、逆らい続ける歩みでありましたね。その結果がここでしょう。枯れた骨です。けれども神は諦めておられなかった。わたしの息を入れて、霊を注いであなたがたを生かす。これがペンテコステですね。その時にですよ、エゼキエルは骨と骨とが相連なり、そしてそこに骨が連なっただけではない、そこに筋ができ肉が被った、けれどもまだ命がなかった。そこに息が吹き込まれた。その時に生きるものとなった。ここでわたしたちが、心にとめたいことは音を聞くことです。ペンテコステの日にも「激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて」と言われてます。神の音を聞くことです。骨が相連なっていく、ギシギシいったのかゴツゴツといったのかしれませんけれども、音が聞こえる。その音を聞くということが、大切なのです。音を聞かせなければ、現実は変わらない。
それはなんの音かわかりません。なんか音がしてるなあという感じかもしれません。すばらしい音楽ではない、人が聞いたらなんだろうという音、雑音にしかすぎないような音、けれどもそこに神の音、神の声を聞く。聖霊によってそのことを聞かせていただく、耳を開いて聞かせていただく。その時にわたしたちの信仰は、生き返ってくるんじゃないですか。聞かないでいると信仰は働かない。聞こうとしなければなお信仰は働かない。けれども聞こうとし求めていく時に、そのかすかな骨のぶつかりあい、そこに音を聞くことができるんです。今わたしたちにとって必要なことは、そのことでしょう。まさにわたしたちはそうした、枯れた骨の谷の底に生かされてる状態でありましょう。教会は今その骨が相連なっていくその音を、聞くべき時じゃないでしょうか。
ペンテコステ、それはただ力が与えられて聖人となっていくというだけでなく、知恵と黙示との霊が与えられる、真理の御霊が与えられる。その聖霊が本当にわたしたちのうちに働いて、その骨と骨との連ならせていただけるその音を、聞かせていただくこと、その音を聞いて臆せずに語り、語り続けることではないでしょうか。パウロはあのたれかこの任に耐ええんやと言った、コリントの町に伝道していく時にですね、神様からの励ましの言葉を聞きました。この町は頑なな町だ。けれどもパウロよ。おまえは語れ、黙っていてはいけない。この町にも多くのわたしの民がいる。だれもあなたを責めて、あなたを苦しめるものはない。わたしがあなたとともにいるから、語れ黙すなとパウロを励ましました。(使徒行伝十八章九〜十節)
ダビデの生涯においても、サムエル記下五章二十二節からのところに、ペリシテと戦っている時のことが書いてあります。ダビデよおまえは、バルサムの木の上に、行進の音を聞いたならば、奪い立てよと。風が吹けば木がそよいで音が聞こえます。けれども神様はダビデに向かって、このバルサムの木の進行の足音を聞いたならば、と言われた。その音は木のそよぐ音ではないのです。風にそよいで起こるその音ではないんです。そのように聞こえるかもしれない、けれどもその中に、天使の大群が行進していく、その足音を聞け。そしたら奪い立って行け。必ずペリシテに勝たせると言われたんですね。ダビデはそのバルサムの木の上に足音を聞いた時に、彼は奪い立ってペリシテと戦っていきました。わたしたちが世に対して勝利し、誘惑に勝利を得ていく。そこにいつも天使の軍勢の足音を聞きたい。そしてお互いに力を尽くして、主を愛し力を尽くして主の戒めに従い、そこには困難があるかもしれない。戦いがあるかもしれない。時には犠牲を払わせられるようなことがあるかもしれない。けれども従うことこそが、どんな犠牲を捧げることよりも、どんなに奉仕を捧げることよりも、まさっているんです。聞くことが神様の求めておられることです。聞こうじゃないですか。ペンテコステの日に、この音を弟子たちは聞きました。わたしたちもその音をもう一度聞きたいです。