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葛飾県庁跡

流山市立博物館
(流山市加1-1225-6)
流山駅から徒歩6分

 慶応3年(1867年)10月10日、最後の将軍「徳川慶喜」は大政を奉還し、幕府の領地は国の直轄地となり、同4年には房総三国もその配下となった。この年の9月8日から年号も『明治』となり、一世一元の制が定められている。流山をはじめ、周辺の村々は同年12月25日をもって『葛飾県』の管理下となる。当初葛飾県庁は東京の薬研堀に置かれたので「薬研堀役所」と称した。
 明治2年(1869年)1月12日になって流山地方一帯に飛地領を持っていた幕臣田中藩主本多正訥が房州長尾にお国替えとなり、流山・加村坂にあった下屋敷があいたので、薬研堀役所をこの場所に移すことになった。明治4年7月14日になると廃藩置県が断行され、それまで房総三国には30あまりの県があったがこれによって木更津県・印旛県・新治県の三県に統一され、この地方は印旛県葛飾郡となった。
 この大改革により、行徳町の徳願寺に県庁を移し、支庁を佐倉と翌5年には関宿に置いた。しかし、行徳では非常に不便であったため、印旛県庁を再び流山の加村坂に戻した。明治6年6月15日に印旛県と木更津県が合併して現在の千葉県が誕生。県庁は千葉に移された。

 葛飾県庁のあった場所は、現在の市役所前から市立博物館の台地上であり、市立博物館開館の昭和53年6月にその記念碑が建立されました。
 閻 魔 堂

金子市之丞の墓
(流山市流山2丁目
流山駅から徒歩4分
 閻魔堂は、その名の通り、閻魔大王を祀り、安永5年(1776年)銘の座像が安置されている。境内には、如意輪観音や宝篋印塔などの石造物があり、また、天保六花撰のひとり義賊 金子市之丞と遊女三千歳の墓がある。昔からこの墓に詣でると、頭の病気が治るとか犯罪者の刑が軽くなるなどと言われている。
金子市之丞とは?
 江戸時代、金子屋という裕福な店の一人息子として生まれた市之丞(いちのじょう)は何不自由することなく育ちました。しかし、市之丞が7〜8歳の頃に父親が事業に失敗しそれがもとで亡くなってしまいました。一転貧乏生活を強いられた市之丞は、それに耐えられず悪の道に走ってしまい、さらには盗賊になってしまいました。しかし、金持ちばかりを狙い、そのうえ奪った金品を貧しい町民にばらまいたことから陰では『ビン小僧市之丞様』と、ありがたがられました。やがて、役人に捕らえられ、処刑されてしまいましたが、町民は亡骸をこそっと引き取り閻魔堂の脇に葬りました。後にかの有名なねずみ小僧次郎吉もその儀行をまねたと言われています。
朝寝坊観音
(琵琶首観音)


西栄寺
(流山市桐ヶ谷230)
 西栄寺には、不動明王を本尊とする、真言宗の寺院です。室町時代のものと思われる「阿弥陀仏座像」、江戸時代中期の豊山の作と伝えられる「世界大曼荼羅図」、宝暦7年(1757)の「十六善神図」などがあり、歴史の重みをうかがい知ることができます。中でも「観音菩薩立像」は琵琶首観音とも朝寝坊観音ともよばれ、民話が語りつがれています。
朝寝坊観音(民話)
 昔下花輪の台地の南の高台は、琵琶山といい、とても景色の良いところでした。そこには昔からのお堂があり、観音様がまつられておりました。その村はずれに伝松と、平六という2人の怠け者がおり、村人が観音様にお供えしたお供物を盗み食いするのが大好きでした。ある晩2人はいつものように観音堂に入ると、いつも以上に豪華なお供え物があり、おまけに酒まであったので、おおいに盛り上がってしまいました。すると、その様子をみていた観音様が笑い出し、一緒に酒盛りを始めたのでした2人の怠け者は、観音様との宴にとても幸せな気持ちになり、明日からまじめに働こうと誓い合ったのでした。翌朝になり寝坊した観音様は天上界での大事な会議に遅れてしまったと言うことです。
目つぶしの鴨

東福寺
(流山市鰭ヶ崎1303))
 平安時代創建の真言宗豊山派の寺院です。文化財は豊富で、市指定の二十一仏板碑、伝運慶作の仁王像と仁王門、平将門天慶の乱鎮撫祈願をした藤原秀郷にちなむ大絵馬額、そして伝左甚五郎作の「目つぶしの鴨」の彫刻など数多く、市内屈指の名刹です。
目つぶしの鴨(民話
 昔の鰭ヶ崎に伝わる民話です。田んぼと畑が広がる豊かな村の高台には弘法大師というえらい坊さんが開いた東福寺というお寺がありました。種まきも終わったある朝、村人達が自分達の田畑が荒らされていると大騒ぎをしていました。そしてその夜犯人を捕らえるために村人達は夜通し番をすることになりました。すると、どこからか鴨の大群が現れたかと思うと、寺のほうから大鴨が飛んできて、他の先にいた鴨に指示をすると、いっせいに田畑を荒らし始めました。村人は大鴨を捕らえようと飛び出すのですが、大鴨は東福寺のほうへ飛んで行ってしまいました。寺にたどり着き、鴨を探していると、山門にある鴨の彫刻の手や足が泥だらけになっていることに気付きました。そこへ住職さんが出てきて「檀家衆がお困りならば何とかせねば・・・」とその鴨の彫刻の目に五寸釘を打ち込みました。それ以来田畑は1度もあらされませんでした。
オランダ観音

写真右:野馬除土手跡
(流山市十太夫)
 野馬堀とは、野馬たちが民家のある地域に侵入したり、田畑を荒らすことのないように柵や囲いの役割を果たしていました。下総台地一帯の野馬堀は船橋方面から人家地域を囲うように走り、それはまるで小型の万里の長城のようでした。市内では平方新田、上新宿、十太夫、駒木、松ヶ丘、野々下などがありますが、特に十太夫付近は原型をとどめています。
オランダ馬の悲話
 延宝4年(1676)江戸初期の頃から幕府は品種改良の目的でオランダから葦毛の三歳駒を輸入しました。この葦毛馬はさっそく上野牧に放牧されましたが、気候や風土の違いから小柄な日本馬ともなじめないまま気質が凶暴になり、野馬堀を一気に超え作物を食い荒らし、人にも危害を及ぼすようになってしまいました。これを見かねた牧士頭は勢子を動員して駒を追いよせ狙撃してしまいました。傷を負った葦毛馬は四苦八苦の末、日頃住みなれた十太夫新田の沢にたどりつき、そこで水を飲みながら息絶えたとされています。その哀れな姿に村人や狙撃した牧士たちは、馬を哀れみその霊を慰めるためにその近くに祠を建てました。
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