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 江戸に幕府を開いた徳川家康は、政策の第一歩として大利根の大改修を命じた。関束郡代伊奈忠次に直命が下り、以来伊奈一族は三代に渡ってこの大事業に取り組むことになる。江戸川の前身は太日川といって渡良瀬川の下流であった。これを改修して、関宿で利根川とドッキングさせるのが目標であった。この大事業が完成すると、太日川は利根川水系となり、その名も江戸川と改められた。この新しい水系は、やがてこの地方に大きな繁栄をもたらすことになる。江戸末期になると、関宿回りの航路に問題が起きた。利根川上流に中州ができたためである。したがって、柏〜流山問は陸路をとるしかない。運河開さくの気運はこの頃に始まるのである。

 明治14年(1881)春、茨城県議会議員の広瀬誠一郎(翌年北相馬郡長となる。)らは、茨城県令(明治20年以降は県知事)の人見寧に、茨城〜束京を直結する要路の必要性を説き、人見県令もいつしか運河のとりことなっていく。この案は直ちに国の内務省に進達され、基本調査が何回か行われた。明治16年の調査では、オランダ人技師ムルデルが起用され2年後の2月、流山深井新田から柏船戸までの8.5km余りの間を適地とした利根運河計画書を内務省に提出した。しかし、内務省の計画も遅々として進まない。このような中、明治18年人見は県令を退き、後任の県令は鉄道論者で運河建設には消極的であったことなどがあって、翌19年8月広瀬は北相馬郡長の公職をやめ、運河に全精力をつぎこむことになった。20年になると内務省から財政上の理由によって政府事業は断念したという通知が届く。そこで、広瀬らは、もはや運河は民間人の手でなければできないと判断し、利根運河会社を設立したのであった。

 当時、広瀬と人見、それに後から加わった色川誠一は「利根運河の三狂生」とさえいわれ、その精力的な活動は世の語り草ともなった。工事は、明治21年7月14日に起工式を行い、およそ2年の歳月ののち、利根運河は明治23年2月25日全線通水となり、5月10日すべての工事が完成した。完成した運河は、水面幅18m、深さ平均低水位1.6mとし、渇水期でも1.1mの水位を保たせた。曳沿道の幅も1.8mであった。6月18日には、栄光の竣工式が行われ、山縣総理大臣、西郷内務大臣、芳川文部大臣、石田千葉県知事、蜂須賀束京府知事、安田茨城県知事、内村大阪府知事などが出席した大式典であった。いかにこの事業が当時の政治、経済、社会に与える影響が大きかったかうかがい知ることができる。

 みりんは、原料の蒸した餅米と米麹(読み:こめこうじ)を焼酎とともに仕込み、ゆっくり時間をかけ熟成させ、搾って濾過(読み:ろか)させることにより生まれます。流山は、古くから米の集散地で、酒造業もあり、江戸川の水運により大消費地江戸と結ばれていたことから、みりんづくりに最適の地でした。流山で“みりん”を作り始めたのは、江戸時代の後半。二代目堀切紋次郎(万上みりん)と五代目秋元三左衛門(天晴みりん)と、言われています。江戸時代の“みりん”は、甘口の飲料で、酒の飲めない人や女性に好まれ、流山の“みりん”は、関東一円に広まりました。 明治になると、天晴・万上 両みりんは、オーストリア・ウィーン万国博覧会に出品し有功賞牌を授与されるなどの栄誉を受け、“みりん”といえば“流山”というほどの黄金時代を迎えました。 
     
     

 銅版画 味醸造本 秋元三左衛門邸宅