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流山の渡し跡
 江戸川とともに栄えた商都流山は、江戸時代から明治時代にかけて、通商の中心地でした。
その商圏は茨城や、埼玉をも含み往来は終日大変な賑わいでした。
茨城方面からの街道は、諏訪道(今の柏流山線)と、野田街道で諏訪道の途中には諏訪神社があり、出店が建ち並ぶ絶好の休憩ポイントでした。
 
 そして、埼玉方面に向かう人々は江戸川を渡らなければならないために渡し舟を利用したのでした。
当時の江戸川には8箇所もの渡し舟が存在しましたが陸路が主流となった現代では、渡し舟を利用する人もいなくなりその姿を見ることは出来なくなりました。

 しかし、近年になりその跡を後世に残そうということで流山市観光協会では8本の標柱を整備しました。
 
  深井新田の渡し跡
(ふかいしんでん)
 深井新田は江戸時代の江戸川開鑿で分断された地域で、対岸に耕作地を持つ人も多く認可は明治10年6月だが、江戸時代からの古い渡しである。
  尼谷の渡し跡
 (あまや)
 平方村新田と平方新田(埼玉側)が共同で運営していた渡しで、30人程度が乗れる時には牛や馬、自転車も渡したと伝えられている。時には牛や馬、自転車も渡したと伝えられている。
  六兵衛の渡し跡
 (ろくべえ)
 別名「上新宿の渡し」と言うが、六兵衛なる人が運営し「六兵衛の渡し」が一般的。大型の舟を使用し、作業場(対岸の耕作地や流作場)への渡しとして昭和20年頃まで存続。
  半割(南)の渡し跡
 (はんわり)
 3,4人が共同で運営、昭和20年代後半まで存続した。埼玉側では農閑期に牛や馬を千葉側に預けることが多く、「馬船」と呼ばれる大型の船を使用した。
  羽口の渡し跡
(はぐち・はくち)
 流山に屯集した新選組を制圧するため、新政府軍が来流し、砲列を敷いた。田中藩が統治した加村の公営の渡し場だが、近くに賭博場があったとも言われる。
  矢河原の渡し跡
 (やっから)
 「加村の渡し」とも言い昭和35年頃まで存続した。幕末に再起を図るため流山で屯集した新選組の局長・近藤勇は新政府軍の包囲に単身出頭、この渡しで流山を後にした。
  丹後の渡し跡
 (たんご)
 「羽口の渡し」と並ぶ公営の渡しで小金道の一部として、3艘の舟が用いられていた。新選組が来流時に利用したとも言われる。昭和10年の流山架橋橋で廃止された。
  幸房の渡し跡
 (こうぼう)
 「岩野木の渡し」「七右衛門新田の渡し」幸房の渡し」と様々な名称がある。江戸川の渡しは千葉側と埼玉側の地名を交互につけたが、自分側で呼ぶことが多い。