「天に向かっての歩み」

及川 信

       ルカによる福音書  1章 1節〜 4節
1:1 -2わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。 1:3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。 1:4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

 特別な礼拝


 今日の礼拝は、私たち中渋谷教会にとってはいくつかの意味で特別な礼拝です。言うまでもなく、今日は召天者記念礼拝です。この世の旅路の中で主イエス・キリストと出会い、信仰の旅路を歩み、そのことの故に天に召された方たちを記念する礼拝です。誤解のないように一言付け加えておかねばならないことは、私たちは天に召された方たちを礼拝するのでも、顕彰するのでもなく、まして慰霊をするわけでもないということです。そのひとりひとりの罪を赦して救いを与え、天に召して下さった主イエス・キリストを礼拝するのです。人を尊敬することがあっても、礼拝することは、私たちキリスト者にとってはあり得ないことだからです。
 また、先週の日曜日は、たまたまルターによる宗教改革記念日と重なっていましたけれど、私たちにとっては九年間に亘って断続的に礼拝の中で読み続けてきた創世記の説教が百一回で終わった日です。そして、今日はルカによる福音書の説教の第一回目です。私にとっては、創世記の説教が終わったことは、五年をかけたヨハネ福音書の説教が八月に終わったことと同じように大きなことです。書斎で手を伸ばせば本が取れる本棚には、まだヨハネ関係や創世記関係の書籍がいくつも残っていて、ルカによる福音書関係のものと完全には入れ替わってはいません。少しずつ、心と体をルカ福音書に向けて、共々にこの福音書を通して御言を聴き、その御言に従う歩みをしていきたいと願っています。これも、数年がかりの長い旅になるだろうと思います。

 エルサレムを巡る旅

 私が神学校を卒業する頃に出版されたルカによる福音書に関する書籍の題は、『旅空に歩むイエス』というものです。今、その本も読み返しつつありますけれど、私の今の段階では、その題名を深く味わうまでには到底至っていません。しかし、確かにルカによる福音書におけるイエス様は、ガリラヤからエルサレムへと旅し、その旅路はついに天に至るものです。
 そして、ルカは、その旅路をイエス様が生まれる前から書き始めるのです。ご承知のように、ルカ福音書だけに主イエスの先駆者である洗礼者ヨハネの誕生物語があります。天使ガブリエルが、エルサレム神殿の中で香を焚く務めを果たしている祭司ザカリアに対して、ヨハネ誕生を預言する。それがこの福音書の最初の場面です。
 そして、ルカ福音書の最後の場面もエルサレム神殿です。主イエスは十字架の死から三日目の日曜日に復活され、弟子たちと過ごされ、ベタニア近郊で弟子たちを祝福した後に天に上げられていきました。弟子たちは、天に上げられる主イエスを礼拝した後、「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」とあります。これが最後の言葉です。
 つまり、ルカ福音書はエルサレム神殿から始まり、エルサレム神殿で終わるのです。それは、天から天使が下って来る所から始まり、天に主イエスが昇る所で終わるとも言えます。そして、ルカ福音書の続編である使徒言行録は、十二弟子たちがエルサレムで祈っている時に、天からの聖霊を受けて、イエス様がキリスト(救い主)であるという説教を開始し、その後、次第にエルサレム神殿からは離れて、世界各地に伝道に出ていき、キリストの教会を建て上げていく様が描かれています。それは、殉教の死に向けての旅路でもあり、また天に向かっての歩みでもあります。そのすべてを、聖霊において主イエス・キリストが共にして下さっているのです。今や、霊に生きるキリストの体なる教会がエルサレム神殿に代わっているのです。
 そういう、主イエスと弟子たちの天に向かっての旅路を記すルカ福音書(使徒言行録)説教の第一回目が、召天者記念礼拝の日と重なったことにも、私はある種の導きを感じています。

 アブラハム

 先週の礼拝では、創世記の最後、イスラエルの族長であるヤコブとヨセフが死ぬ場面を読みました。彼らは、先祖アブラハムに対する神様の約束が必ず実現することを信じ、その約束に向けて生き、また死んだ人々です。そして、イスラエルの先祖であるアブラハムに対する約束の根本に何かあるもの、それは「罪の赦し」という祝福です。その祝福の上に子孫と土地に関する約束が与えられるのです。それは、子どもがいない老夫婦に子どもが与えられるという約束だし、草と井戸を求めて外国から移動してきた一介の半遊牧民に定住の土地が与えられるという約束です。二つとも、人間の経験に基づく限り実現不可能な約束です。しかし、アブラハムはその約束を信じました。そして、その長い旅路の末に約束が少しずつではあっても、着実に実現していくことを目の当たりにするのです。そこには、恐るべき信仰の葛藤があり、挫折や失敗もありました。しかし、神様の選びの確かさと憐れみの故に、彼の信仰は守られ、成長させられて、全世界の民の祝福の源としてのアブラハムとなっていったのです。彼の孫であるヤコブもヤコブの息子であるヨセフも、そのアブラハムの子孫として生き、また死んだ。だからこそ、彼らの生と死は、神様の祝福と約束を証しする生と死になったのです。

 約束の実現としての主イエスの誕生

 この祝福と約束を代表する「アブラハム」の名が、新約聖書の中で最も多く出て来るのがルカ福音書です。
 一章二六節以下は、天使ガブリエルがマリアに受胎告知をする場面です。そこでマリアは、天使の思いがけない告知に心底戸惑いつつも、最後には「神にできないことは何一つない」ことを信じました。そして、老齢の親戚エリサベトがヨハネを胎に宿していることを確認し、思わず賛美の声を上げました。その「マリアの賛歌」(マグニフィカート)の中に、こういう言葉があります。

「わたしの魂は主をあがめ、
 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 ・・・・
 主は、・・・  その僕イスラエルを受け入れて、
 憐れみをお忘れになりません。
 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
 アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」


 旧約聖書と新約聖書が切り離すことのできない一つの書物であることは、こういう所からも明らかだと思います。イエス・キリストは、先週読んだザカリアの預言によれば、「罪の赦しによる救い」をもたらすためにお生まれになりました。そしてそれは、アブラハムとその子孫に対して神様が与えて下さった祝福と約束の実現です。新約聖書とは、旧約聖書つまり旧い約束の実現を告げる書物、神の言葉なのであり、それはさらに終末の救いに関する新しい約束を告げる神の言葉でもあります。ルカによる福音書は、その点において一貫していると思います。しばらく、その点を確認しておきたいと思います。

 旧約聖書とイエス・キリスト

 ルカ福音書の最後、二四章に、主イエスが復活されたことを告げる天使の言葉を信じることが出来ない二人の弟子たちが、生まれ故郷のエマオという村にトボトボと帰っていく場面があります。その二人の弟子の旅路に、いつのまにか復活の主イエスが寄り添い語りかけるのです。一般に「エマオ途上の物語」と言われる個所です。復活を信じない弟子たちには、それがイエス様であることが分からない。そういう弟子たちに向って、イエス様はこうおっしゃいました。

「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。」

 主イエスにとって、聖書全体(旧約聖書)とは、ご自分の苦難と栄光、つまり、十字架の死と復活を預言する(約束する)神の言葉なのです。そして、それは罪なき神の子が罪人として処刑され、死人が甦るという様々な意味で信じ難い出来事を通して、「罪の赦しによる救い」がもたらされることを預言する書物だということです。
 ルカ福音書は、その預言がイエス・キリストの誕生と十字架の死と復活、そして天に至る旅路を通して実現したことを告げているのです。それは、信じる者にとっては明らかに見える事実ですが、信じない者にとっては単なる空想の産物に過ぎないものです。
 そして、「召天者」と私たちが呼ぶ人々は、信じた人々なのですし、信じたからこそ、イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しを与えられ、その結果として主イエスが上げられた天に上げられ、天の御国における復活を約束されているのです。そして、私たちは今日、その約束を与え、世の終わりの日に必ずやその約束を実現して下さる父・子・聖霊なる神様を讃美、礼拝しているのです。

 誰だかは分からない

 今日の個所に入ります。

1:1 -2わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。 1:3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。 1:4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

 聖書には四つの福音書があります。その中で、ルカ福音書だけが「献呈の言葉」で始まっています。書き手は、「わたし」と出てきます。しかし、固有名詞は出てきません。相手は「テオフィロ様」となっています。けれど、実際にはどこの誰だか分かりません。つまり、書き手も最初の読み手も誰だか分からないのです。
 その点については、他の福音書も皆同じなのです。私たちは、「マタイによる福音書」とか「マルコによる福音書」とか言っていますが、福音書の中に、著者が誰かなど出てきませんし、最初の読者が誰かあるいはどこの教会かも出て来てはいません。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネというのは、後の伝説によって推定された呼び方に過ぎません。実際には、書かれた時代も場所も書き手も読み手も特定はできないのです。どこにも書かれていないのですから、仕方のないことです。ルカという人物は、他の文書に医者として登場しますし、使徒言行録ではパウロの伝道旅行に同行した人物としても出てきますけれど、そのルカとこの福音書の著者が同一人物であると証明は出来ません。同じ名前の人などいくらでもいるのですから。だから学問の世界では、マタイ福音書を第一福音書、ルカは第三福音書と呼んだりもします。どう呼ぶかは別問題として、こういう事態そのものが福音書の性質をよく表していると思うのです。ただ、私たちは今後も書き手はルカという名前の人としておこうと思います。

 わたしたちの間で実現した事柄 目撃者

 そのルカは、「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々が伝えてきた通りに」多くの人が書いてきたが、「わたしもすべての事を初めから詳しく調べて」いるから、改めて「順序正しく」書こうと思う、と言います。そして、それはこれまで読み手のテオフィロが受けてきた「教え」が確実なものであることをよく分かってもらいたいからだ、と言うのです。この文章の中に、本当にたくさんの語るべき事柄があります。そのことを、どう整理して語ったらよいか迷うほどです。
 最初に、「わたしたちの間で」という言葉ですけれど、これは明らかに、ルカが属するキリスト教会の中で、あるいは当時のキリスト者たちの間でということです。これから書くことは、教会の中で起こったこと、主イエス・キリストを信じる者たちの中で起こったこと、あるいは、教会を誕生させる出来事なのだ、ということです。そして、その出来事には目撃者がいると言っています。作り話ではなく目撃談に基づいているのだ、と。
 そして、その目撃者たちとは十二弟子であり、それは後に聖霊を受けて十二使徒になった人々です。つまり、イエス・キリストが死人の中から復活されたメシアであることを説教し始めた人々のことです。彼らこそが、主イエスがヨハネから洗礼を受けて天に上げられるまでのことを目撃し、それを語った最初の人たちです。だから、正統的キリスト教会は自らを「使徒的教会」と呼ぶのです。それは、教会とは十二使徒の証言に基づく信仰共同体であることを意味します。だから、教会においては、使徒たちの信仰告白である「使徒信条」を礼拝の中で繰り返し告白します。この信仰告白から外れたり、無視したりする教会は、もはや教会ではないからです。

 イエス様のことを書きたい

 そして、その使徒たちの証言と聖霊の導きの中でイエス・キリストに出会い、信仰を与えられた多くの人々が、イエス様の出来事について既に書いていることが分かります。普通は、「それらのものが信用するに値しないから、私が本格的にして正統な物語を書きます」となるのですが、ルカはそうではなく、「そういうものも真実を伝えているのだけれど、私は私で最初からのことを順序正しく書きます」と言います。彼が、マルコ福音書を知っていた、あるいはマルコ福音書やマタイ福音書が素材として用いていた資料を知っていただろうことは学問的には定説だと言ってよいと思います。そして、聖書にはそれぞれ特色ある四つの福音書があります。それはまさに私たちにとって宝物です。そして、似ている所が多いマタイ、マルコ、ルカ(共観福音書)とは全く異なる書き方をするヨハネ福音書は、こういう言葉で終わっていました。

イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

 こういう言葉を読んでも伝わって来ることですけれど、イエス様と出会い、その言葉を聞き、その業を見、今も目に見えない形で共に生きて下さるイエス様を知る時、その人は、イエス様のことを語りたくて仕方なくなるのです。何時間でも語り続けたいし、書き続けたいのです。愛する人のことを語っている時、人間は本当に幸せです。ペトロの説教を読んでも、パウロの手紙を読んでも、心の底からの喜びを感じます。イエス様が何をなさったか、何をされたか、イエス様とはどういうお方であるか、その一つ一つを、彼らは胸震わせる思いで語ったし、書いた。ヨハネもそうだし、ルカもそうなのです。それぞれの人間が、自分にとってのイエス・キリストとの出会いを語り、自分が見たイエス様を書き、自分が聞いたイエス様の言葉を書いている。イエス様からどれほど深く愛されているかを書いているのです。
 それらを丁寧に読んでいくと実に個性的であることが分かります。同じ話でも、人によって受け取り方は違います。私の説教を聞いていたって、どの部分が印象に残るかは人それぞれでしょうし、同じ言葉が印象に残ったとしても、その受け止め方はそれぞれ違うでしょう。イエス様の言葉に関しても同じことです。しかし、すべての福音書、すべての書簡に共通していることは、イエス様が私たちの罪の赦しのために十字架に掛かって死に、私たちに新しい命を与えるために復活された。その救いの出来事を告げるということです。ただその一点において、聖書は多様にして一つの書物なのです。そして、牧師が喜びをもって語る毎週の説教も、ただその一点を繰り返し語って止まないものなのです。どんなに語っても語り尽くせないものがそこにはあり、喜びの源泉がそこにあるからです。だから、その源泉に触れさえすれば、説教の言葉はどんどん溢れて来ます。源泉に触れなければ、命の言葉は何も出てきません。そして、ある学者は、ルカ福音書を長い説教として読みますし、それは正しい読み方だと私は思います。
 そして、旧約聖書はその全体として、その十字架と復活の一点を目指して書かれていることを、ルカは、「わたしたちの間で実現した」という言葉で言おうとしているのです。天地創造物語もアブラハムの物語も、出エジプトの物語も預言者の言葉も、何もかも神の子イエス・キリストの十字架と復活による救いを預言するものなのだし、そこに向って書かれたものなのだ。彼はそう言っている。そして、そう言いながら、神様の真実の愛に触れて溢れるばかりの喜びに満たされているのです。神様は、ご自分がお語りになったことを必ず実現して下さるお方だ、救いの御業を成就されるお方なのだ。その神様の真実の愛を、全能の力を知り、讃美して欲しい。彼は、そう言っているのです。

 御言葉のために働いた人々

 「御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに」
とあります。「御言葉」とは、言葉(ロゴス)に定冠詞(ホ)がついている言葉です。英語で言えば、THE WORDです。「言葉の中の言葉」、「神の言」を表す言葉です。必ず実現する言葉です。
 その言葉のために「働いた人々」とは、ギリシア語ではヒュペーレタイという言葉です。他の個所では、礼拝堂で聖書の巻物を出し入れする「下役」とか、何かする時の「助手」とかを意味する言葉です。言ってみれば名もなき人々というか、無名の人々なのです。歴史の表舞台に名が出て来るような人々ではない。「僕」、「奴隷」という意味もあります。元々は、昔の舟の船底で風がない時に黙々とオールを漕いで舟を前進させる奴隷たちを意味していたとも言われます。
 先ほど、最初の目撃者は十二弟子であり、十二使徒だと言いました。彼らの証言に基づいて新約聖書は書かれ、また教会が建てられていったのだ、と。だから、後のキリスト教会は、ペトロを筆頭とする十二使徒たちにみな「聖」(セイント)をつけて「聖ペトロ」と呼ぶようになったし、その証言に基づいて福音書を書いた人々のことも「聖ルカ」とか「聖マルコ」とか呼ぶようになりました。でも、福音書を書いた人々は誰も自分の名前など書いていないのです。その名を後世に残そうとか、有名になってやろうなどとは思ってはいません。まして、自分が聖人だとも思っていないでしょう。彼らは、ただただイエス・キリストという名を残すために語ったのだし、書いたのです。イエス・キリストだけが歴史の荒波の中で前進していく。ただそのことだけを願って語ったのだし、書いたのです。だから、ルカは自分のことを「わたし」としか書いていないし、この福音書の最初に十二使徒の名前なども書かない。彼らもまた、「御言葉のために働いた人々」のひとりひとりに過ぎないのだし、そのことこそが名誉あることだからです。現在まで名が知られている十二使徒たちも、その本質は、暗い船底で黙々とオールを漕ぎつつイエス・キリストとその体なる教会が前進していくために生き死にする人々の一人なのです。

 召天者たち

 今年、私たちの教会から天に召され、中渋谷教会で葬儀をされた方は、一月二五日に九十七歳で召されたSSさんと、三月一六日に八十八歳で召されたSTさんのお二人です。お二人とも若き日に主イエスと出会い、その信仰の旅路をそれぞれの仕方で最後まで生き切った方たちです。もう一人、OYさんという方が、恐らく八月に召されました。やはり五〇年以上も前に洗礼を受けられましたが、様々な事情があって、長く教会生活から離れざるを得ず、この教会でOYさんを知っているという方は今はおられないと思います。私はなんとかして中渋谷教会、あるいはご自宅近くの八王子教会での信仰生活に復帰できないか努力をしてきました。そして、OYさんも次第にそういう心持になり、数年前には何回か八王子教会の礼拝や祈祷会にも行ったことがあるのですが、残念ながら、完全な復帰は出来ませんでした。高齢の故に目が不自由になり、歩くことも不自由になり、八王子教会に一人だけいた友人も高齢の故に亡くなってしまい、さらに牧師も代わってしまって、その後が続かなかったのです。今年で八八歳のお方です。春にお訪ねして、今度訪ねる時には、八王子教会の新しい牧師さんを連れていける程度までの段取りはしていたのですが、私の怠慢の故に、その機会をなかなか持てぬまま、九月になってしまいました。そして、敬老の祝いをお持ちした時には、もうご自宅には誰も住んでおられませんでした。色々と手を尽くして消息を調べたのですが、今は個人情報が保護される時代ですから、役所に聞いても、郵便局に聞いても、民生委員の方に聞いても、多分、八月に召されただろうということまでしか知ることが出来ませんでした。でも、私は知ることが出来なくても、父・子・聖霊の名において洗礼を授けて下さった神様はご存知だし、すべての事情を知り、その苦労を共にして下さったイエス様は、OYさんを天に引き上げて下さったことを信じています。

 主の食卓に与る者たち

 中渋谷教会の九十三年の歴史において、召天者の名簿に名が残っている方は二百名を超えます。これからも増え続けていきます。そのお一人一人が、中渋谷教会の歴史を作って来た方だし、作っている方です。私たちの間では、有名な方もいるし、無名な方もいます。しかし、皆、「御言葉のために働いた人々」であり、天の命の書にその名が記されている方です。そして、誰もが罪人であり、誰もが主イエス・キリストへの信仰の故に「罪の赦しによる救い」に与った方たちです。誰もが、天において主イエス・キリストを主人とする主の食卓に与る人々なのです。私たちは、イエス・キリストに対する信仰によって、約束の天に向かって歩むアブラハムの子孫だからです。 今日は、全世界の教会でその方たちを覚えつつ、私たちを捉えて天に導き続けて下さる主イエス・キリストを讃美する礼拝が捧げられています。そして、主イエスを信じる信仰を告白し、洗礼を受けた私たちは、今日も天地を貫く主の食卓、聖餐の恵みに与るようにと招かれています。この恵みは、どれほど感謝してもし切れるものではありません。私たちの罪の赦しのために裂かれた主イエスの体、流された主イエスの血に与りつつ、体は天にあり、聖霊において今私たちの只中に生き給う主イエスをすべての聖徒たちと共に讃美したいと思います。

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