「洗礼者ヨハネの誕生」

及川 信

       ルカによる福音書  1章 5節〜25節
 1:5 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。 1:6 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。 1:7 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。
 1:8 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、 1:9 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。 1:10 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。 1:11 すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。 1:12 ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。
 1:13 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。 1:14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。 1:15 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、1:16 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。
 1:17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
 1:18 そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」 1:19 天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。
 1:20 あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
 1:21 民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。 1:22 ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。 1:23 やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。 1:24 その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。
 1:25 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

 世界史と救済史


 ルカ福音書は、「わたしたちの間で実現した事柄」という言葉で始まります。そして、ルカ福音書の特色の一つは、その「事柄」を世界史の中に位置付けることだと思います。聖書は、歴史との結びつき抜きに読むことはできません。旧約聖書の多くの部分は、世界史の中で生きているイスラエルの歴史そのものです。
 ルカ福音書は、そのことを意識的に受け継ぎ、折々に世界史との接点を書きます。今日の個所では、「ユダヤの王ヘロデの時代」がそれです。二章の冒頭では、「皇帝アウグストゥス」とか、「キリニウスがシリア州の総督であったとき」と出て来るし、三章冒頭にはさらに多くの歴史的な人物の名が記され、「皇帝ティベリウスの治世第十五年」という言葉まであります。ルカは、その時代の為政者が誰であるかを明記することによって、むしろ世界を動かしているのは実際には神であり、神が選んだ無名の人々であることを強調しているのだと思います。今日の個所では、ザカリアとエリサベトがその人々です。

 「神の前に正しい人」であったのに

 旧約聖書の歴代誌上の二四章を見ると、祭司の組は全部で二四組あり、アビヤの組はその八番目となっています。それぞれの組が年に二回、一週間ずつ神殿における祭司の務めを果たしたそうです。そして、主イエスの時代、一組に三百人ほどの祭司がおり、合計すれば七千人程いたのではないかと言われます。もっと多かったという説もあります。そして、一つの組の中で一人だけが「主の聖所に入って香をたくことに」なっており、その一人は籤引きで決められました。ですから、この重大な務めにつくのは祭司にとっても一生に一回あるかないかのことなのに、ザカリアがその役に当たった時に、とんでもないことが起こるのです。しかし、そのことを見る前に、ザカリアとエリサベト夫婦が、どういう夫婦であったかを確認しておきたいと思います。
 彼らは「二人とも神の前に正しい人」であり、ユダヤ教の「掟と定め」に忠実に従っていた人々と紹介されています。そして、祭司は聖なる仕事ですから、結婚相手が誰でもよかったわけではありません。汚れた仕事をしている女性や離縁された女性とは結婚できないことになっていました。エリサベトは、モーセの兄であるアロンの家系に属する女性です。アロン家は代々祭司の家系です。そういう意味で、この二人は血筋から言っても、その生活態度から言っても、全く理想的であり、祝福されるべき夫婦なのです。しかし、「彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」。祝福の一つの徴である子どもが、一人も与えられていないのです。
 今日は、礼拝の中で幼児祝福式を執り行いました。詩編一二七編は、「主御自身が建てて下さるのでなければ家を建てる人の労苦は空しい」という言葉で始まる有名な詩編です。その三節に、「見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。いかに幸いなことか、矢筒をこの矢で満たす人は」とあります。子が与えられるか否かは、病院も老人ホームもない時代においては、家族にとって死活問題です。子のない家は消滅していくほかにありません。神の家族としての教会においても同様です。新たに神の子となるべき信仰者が生まれなければ、その教会は消滅します。また、幼児たちが与えられ、彼らが信仰を受け継いで生きていくことも教会にとっては生命線です。人々に伝道することも大事ですけれど、自分たちの子どもたちに伝道出来なければ、それはやはり片手落ちと言うものです。そういう家族への伝道のために、クリスマスを控えたこの時期に、皆さまと共に幼児たちに対する祝福を求める祈りを捧げることが出来たことは幸いなことです。

 不妊

 しかし、ザカリアとエリサベトには信仰を受け継ぐべき子が一人も与えられないまま、老人になっている。「二人とも神の前に正しい人」であるのに、です。
 既に老人であり、妻が不妊の女であるという現実は、アブラハムとサラの現実でもありました。彼らは、バベルの塔に至る人間の罪をその身に負う形で登場します。だから、彼らの系図は親の代は「死んだ」で終わり、彼らの代は、「アブラ(ハ)ムの妻サラ(イ)は不妊の女で、子どもができなかった」で終わるのです。親の代は死に絶え、新しい世代は生まれない。つまり、これ以上続かない。自分たちの力では、未来を切り開くことができないのです。罪の結果は死の呪いである。創世記一章から一一章の物語は、そう告げています。
 しかし、神様はそこでも尚、なんとかして世界を祝福しようと新しい歴史を開始される。それが、子どもがいない老夫婦であったアブラハムとサラを選び出し、彼らに約束を与え、彼らがその約束を信じて生きるか否かに賭けるということでした。だから、アブラハムは人類の罪と呪いを身に受ける人でありつつ、同時に祝福を受け、新しい歴史を担う最初の人でもあったのです。その新しい旅立ちが、創世記一二章に記されていることです。

 不安になる

 そして今、神様は、老齢で子どもがいないザカリアとエリサベトを通して、新しい歴史を始めようとされているのです。ザカリアは一生に一回の大事な務めをちゃんと果たすために必死だったでしょう。そして、聖所の外には、その務めを終えた祭司ザカリアから祝福を受けたいと願う群衆が祈りつつ待っている。しかし、その時、「主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。」
 「不安になる」
とは、私たちがごく普通に使う言葉ですけれど、聖書の中では、全く違います。復活の主イエスが突然弟子たちの真ん中に立った時、彼らは「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」。主イエスは、「なぜ、うろたえるのか」とおっしゃいました。その時の「うろたえる」が、ここでの「不安になる」と同じ言葉です。それこそ一生に一回あるかないかの恐怖体験にさらされた時の状態を表しているのです。私たちは今、ある意味で、平然とこの礼拝堂の中にいるでしょう。しかしそれは、私たちが、まさかここに主の使いとか復活の主イエスが突然目に見える形で現れることはないと確信しているからです。
 しかし、盗人のようにいつ来るか分からない世の終わりの日には、主が何らかの意味で見える形で来られると聖書は告げています。その時の罪人の恐怖の念を、この「不安になる」という言葉は語っているのだし、その次の「恐怖の念に襲われた」は、いちいち例を上げませんけれど、まさにそのことなのです。

 天使の言葉の内容

 天使の言葉は、ザカリアの願いがきかれ、エリサベトから男の子が生まれる。生まれる子を「ヨハネ」(主は憐れみ深い)と名付けるようにとあり、その後は、ヨハネが与えられている使命に関する言葉です。彼は、後に言いますように、ヨルダン川の畔(ほとり)で禁欲的な生活をしつつ、人々に罪の悔い改めを迫ることを通して、来るべき主イエスの宣教への道を開くことになります。
 天使の言葉の背景には、旧約聖書の最後「マラキ書」の最後の言葉があります。そこで、マラキは、かつての大預言者エリヤのような預言者が到来し、人々に悔い改めを呼び起こさなければ、主の到来の日は破滅の日になる。その破滅を防ぐために、神様はエリヤを遣わすと預言しているのです。その預言が、旧約聖書の最後の言葉なのです。そして、天使は、この預言の実現としてヨハネの誕生を告げている。

 ザカリアと天使の対峙

 しかし、ザカリアは、この天使の言葉を聞いても俄かには信じることが出来ませんでした。彼は言います。

 「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」

 実にまっとうな質問です。しかし、「わたしは老人だ」に対して天使は「わたしはガブリエル、神の前に立つ者だ」と答える。これもまっとうな答えです。両者とも本当のこと、嘘偽りのない事実を告げています。彼らはここで、決闘のように対峙しています。天使は、「あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」としか言いようがありません。彼は、議論や説得をするために遣わされてきたのではなく、「喜ばしい知らせを伝えるために遣わされた」のです。

 喜ばしい知らせを告げる

 ルカ福音書には、「喜び」「喜ぶ」「喜ばしい知らせを伝える」という言葉が何度も出てきます。最初から最後まで、この言葉が出て来るのです。そして、「喜ばしい知らせを伝える」とはギリシア語では、ユーアンゲリゾウと言います。「福音を告げ知らせる」とも訳されます。そして、興味深いことに、ルカ福音書において、この言葉の主語は多様です。ここでは天使ですし、クリスマスの大いなる喜びを羊飼いに伝えるのも天使です。しかし、洗礼者ヨハネも福音を告げ知らせるし、イエス様はもちろん、町々村々に福音を告げ知らせます。イエス様に派遣された弟子たちも、村々を巡り歩きながら福音、つまり喜ばしい知らせを告げているのです。この「喜び」に関しては、説教の最後に触れたいと思います。
 ザカリアは、喜ばしい知らせを聞いても、信じることが出来ませんでした。そのことの故に、彼は口が利けなくなるのです。話せなくなる。それは信じなかったことに対する「罰だ」と普通は考えられます。確かにそうだとも言える。でも、それだけではない、と私は思います。

 身を隠すエリサベト

 その問題に入る前に、先まで読んでおきます。主の前での務めを終えたザカリアが出てきたら、彼から祝福を受けようと待っていた群衆は、彼がなかなか出て来ないので不思議がっていました。そして、漸く出てきたザカリアは話すことができず、身振り手振りで、天使に出会ったことを告げた。人々にはそれは「幻を見た」こととして伝わり、その内容は分からなかったのだと思います。
 務めの期間が終わり、ユダの山里にある自宅に帰って後に、エリサベトは身ごもりました。しかし、彼女は自分の身に起こったことで、それこそ「不安になり」、人々の目を避けて身を隠しました。この「身を隠す」は単数形で書かれていますから、ザカリアとも別居する形で、ひとり身を隠したのではないかと、私は思います。老女が身ごもるとは、様々な憶測を呼びますし、不確実なことなら物笑いの種にもなるわけで、ザカリア以外に誰にも行き先を言わずにひっそりと五か月間を過ごしたのです。ひとり残されたザカリアもまた、ただでさえ口が利けないのですから、黙って五か月間を過ごした。そういう期間、離れ離れになりそれぞれがひとりで黙って過ごす期間が、「二人とも正しい人であった」と言われる夫婦には必要だったのです。

 沈黙の必要

 何のために必要であったかと言えば、天使の言葉が「神の言」、つまり、「時が来れば実現する言葉」だと信じるためにです。神様からの言葉、それがたとえ喜びを告げる言葉だとしても、その言葉を信じるということ、それはそんなに簡単なことではないし、ザカリアが聞いたような内容であれば、それは尚更のことです。老人が子どもを産むことは本来あり得ないことだからです。それを信じるとは、それまでの自分の経験をすべて否定することと同じでしょう。
 しかし、自分の妊娠が確実であると分かった時、エリサベトはラケルがヨセフを産んだ時に発したのとほぼ同じ言葉を言っています。
 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」
 ラケルもまた、相当に高齢になるまで、姉や側女が次々と子を産むのを見ながら、ひとりの子も産むことができず、非常に悲しい思いをしてきた女性でした。
 以上が、今日の個所の出来事の流れです。そこで考えさせられることはいくつもあります。しかし、そのすべてを追求することは出来ませんから、最初に、ザカリアの口が利けなくなったことは何を意味するのかについて、少し考えておきたいと思います。

 何のための沈黙か

 文脈を見る限り、「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかった」ことに対する罰として、口が利けなくなったと考えることが真っ当だと思いますし、かつては私もそう受け取っていました。でも、今の私は、どうもそういうことではない、少なくともそういうことだけではないと思うようになりました。
 私は牧師ですから、説教を語ることが非常に大きな責任です。牧師には様々な仕事がありますけれど、礼拝で説教するということが、私にとっては最も大きな仕事です。そういう仕事をしている人間だから思うことかもしれませんが、聖書を読む、それも説教をするために聖書を読む時、「不安になり、恐怖の念に襲われる」ことがしばしばあるというか、毎週、そういう経験をします。仕事には、どんな仕事でも、その仕事特有の厳しい戦いがあると思います。牧師の場合は、説教です。説教をするということは、何年牧師をしていても当たり前のことではありません。牧師が説教するのは当たり前だけれど、その説教は牧師だから当たり前のように語れるものではないのです。
 先日、テレビでスポーツニュースを見ていたら、ひとりの力士のことが特集されていました。その力士は、土俵に上がると、子どもがするように一心不乱に自分に気合を入れるのです。その姿が、傍目には可愛らしくて、人気を集めています。でも、それは人気取りのパフォーマンスではなくて、彼にしてみると、相手と相撲を取るのが本当に怖くて仕方ないから必死になってやっていることなのです。その番組の中で、同年齢の友人たちと居酒屋でお酒を飲みながら語り合う場面がありました。多分、酒の助けを借りてのことでしょう。「正直に言おうか」と顔をしかめつつ言うので、何を言うのかと思ったら、「あの土俵に上がるのは怖いんだ」と言うのです。「本当に怖いんだ。本当は上がりたくないんだ。土俵で死ぬ覚悟は出来ているけれど、死ぬために戦いたいわけじゃない。生きるために戦いたい。でも怖いんだ」と言っていました。力士が場所中、土俵に上がるのは仕事ですし、相撲を取るのは当たり前のことです。でも、それは彼にとっては毎回心の底から不安になることなのだし、恐怖の念に襲われることなのです。多くの力士は、自分の中に力を漲らせ、勝負に勝つために塩をまきながら気合を入れていくのですが、彼は違う。彼は勝ち負け以前に、生きるか死ぬかの恐怖と闘っているのです。そして、その戦いは土俵に上がる前の稽古に繋がります。稽古を誰よりもよくやっておかないと、その点に関しての自信がないと、彼は相撲をとることの恐怖に勝つことができない。だから、部屋でのぶつかり稽古が終われば、ジムに通って、ひとり黙々と筋肉トレーニングを繰り返すのです。誰とも話すことなく鍛錬を重ね、怖くて仕方のない相撲に備える。そういうひとりの鍛錬がなければ、彼は土俵に上がることはできないと言います。
 牧師にとっては、週に一回やって来る日曜日の礼拝で説教を語ることは、力士が土俵に上がるようなものです。この一〜二年、私は以前にも増して説教が怖くなりました。数年前までは、土曜日の夕方まで一行も書き出すことができず、苦労しました。最初の一行が書き出せないのです。しかし、今は土曜日の夕方まで一行も書かないということの方が怖い。金曜日の晩にはとにかく書き出して、目星がつくところまでいかないと、怖くて仕方ありません。もう土曜日に徹夜する体力はありませんし、徹夜しても夕礼拝までもつ体力も気力もありません。
 「説教をなぜ書き出せないのか」と言えば、それは聖書の言葉が分からないからです。分からないまま日曜日を迎え、礼拝の時刻が来て説教をしなければならないとしたら、それほど恐ろしいことはないわけですから、ザカリアとは違う意味ですけれど、まさに不安と恐怖に駆られます。しかし、「聖書の言葉が分かる」とはどういうことなのか?と言うと、それがまたなかなか説明が難しいことです。皆さんも、どういう時に聖書の言葉が分かったと思われるのでしょうか?歴史的背景だとか、ギリシア語の意味だとか、そういうことが分かることと、「聖書が分かる」ということは、実際には何の関係もありません。でも、説教をするためには、いわゆる勉強も出来る限りやりながら、その勉強とは全く次元の違う所からの啓示を待つしかない。それは、本質的には何も出来ずに待つようなことです。まさに、時が来なければ何も実現しない。その時まで何をしていようが、結局、それは沈黙の内に待っているだけなのです。その不安や恐怖を内に秘めた「沈黙の行」に毎週じっとひとりで耐えることが、私たち牧師には必要だと思います。
 そしてそれは、説教者だけの問題ではない。私たちを生かす命のパンである神様の言葉が分からない時、私たちはキリスト者の命を生きることができないのですから、キリスト者としては死活問題です。そういう時、待つしかないのです。聖書を読み、祈りつつ、沈黙して待つしかないのです。砂をかむような思いで聖書を読みつつ、待つしかない。しかし、それは罰ではなく、恵みなのです。信仰は、そういう過程を経てでなければ与えられないものだと思います。そして、そのような過程を経て、初めて語るべき言葉が与えられるのです。その言葉は、信仰の告白であり、悔い改めであり、讃美となって現れるはずです。

 口が開かれるとき

 ザカリアは、ヨハネが生まれた時、字を書く板を持って来させて、「この子の名はヨハネ」と書きました。「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」とあります。そして「聖霊に満たされて」「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」に始まる讃美を捧げます。そして、その讃美は「罪の赦しによる救い」を与えて下さる「あけぼのの光」の到来を告げる預言となっていきます。ザカリアは、この讃美と預言が与えられる瞬間まで、沈黙の中で待たされたのです。そして、ついにこの時、彼の口は開かれて、まさに御言が、その口から出てきました。
 神殿の中で、天使がザカリアに語った御言が分かるとは、こういうことなのです。御言の意味が分かり、分かるから説明ができるとか、そういうことではありません。聖書研究会では御言の意味を説明することが大事ですが、礼拝における説教は聖書研究の奨励とか発表とは全くの別物です。意味の説明ではなく、御言が語られなければならないのです。福音が語られなければならない。そのためにだけ、口が開かれなければならないのです。それは、聖霊の導きによって御言が御言として啓示され、賛美と信仰の応答がなされる時にのみ起こることだと思います。

 福音を語る者たち

 喜びの福音は、天使だけが語ることができるのでなく、ヨハネも、弟子たちも、ある意味で主イエスと同じように語るのです。しかし、それは聖霊によります。聖霊が与えられなければ、誰も福音を語ることはできません。聖霊が与えられなければ、誰も御言が分からないからです。そして、御言が分からなければ、御言によって生きることはあり得ないし、御言を語りつつ生きることは起こり得ません。
 弟子たちは、主イエスの昇天後にエルサレムで聖霊を受けたが故に、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます・・」と説教をする人間になりました。そして、パウロが言うように、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」のです。
 今、クリスマスに洗礼を受けることを志している方の準備を始めています。受洗にとって必要なことは、言うまでもなく信仰告白です。自分の口で「イエスは主である」との信仰を告白しなければならないのです。そこに向けての歩みとは、非常に不安であり、恐怖でもあります。それはやはりこれまでの自分が死ぬことだからです。「自分を主」としてきたこれまでの生き方には死に、「イエス様を主」とする歩みを始めることは、非常に不安なことです。「自分は罪人でした。このままの自分では、ただ滅びとしての死が待っているだけです。このまま生きていても罪を増し加えるだけです。そんな惨めな自分を神様は憐れみ、御子イエス・キリストを遣わし、あの十字架の死を通して、私たちに『罪の赦しによる救い』を与えてくださいました。私は、この御子イエス・キリストを信じます」と告白することは、まさに聖霊の導きなくして出来ないことです。
 この信仰告白をすることが出来るとすれば、それは、そのまま讃美です。ザカリアの讃美を受け継ぐ讃美なのです。そして、その喜びに満ちた讃美に至る前には、長く苦しい沈黙、独りだけの沈黙、誰にも助けてもらえない沈黙の時があるはずです。私は、そういう観点からも、ザカリアが口を利けなくなったことを考えるべきなのではないかと思っています。罰としてではなく、信仰に導くための沈黙が与えられたのだ、と。

 喜びと死

 最後の問題に移ります。今日の個所には、「喜び」とか「楽しみ」という言葉が出てきます。たしかに、ヨハネが誕生したその時は、両親は勿論、近所の人々も皆喜びました。当然のことです。でも、ヨハネは使命を帯びて誕生する子です。それは、とてつもなく鋭い言葉で人々の罪を指摘し、悔い改めを求めるという使命です。ヨハネは、その使命を忠実に果たしました。彼は、洗礼を授けてもらうためにヨルダン川の畔(ほとり)にまではるばるやって来た人々に向かって、こう言うのです。
 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めに相応しい実を結べ。『われわれの父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。」
 これは凄まじく厳しい言葉です。そして、彼は、ヘロデ大王の息子である領主ヘロデの不貞に関しても遠慮会釈なく糾弾しました。その結果、彼は捕えられ、牢に閉じ込められ、なんとヘロデの気まぐれから首を切り落とされてしまうのです。それが彼の最期です。
 天使ガブリエルは、ザカリアにヨハネ誕生の予告をした時に、ヨハネの使命とその悲劇的な死を知らなかったのだろうか?私は、そんなことはあり得ないと思います。
 マリアに現れて受胎告知した時も、天使は「おめでとう、恵まれた方」と呼びかけます。「おめでとう」「喜びなさい」が直訳です。天使は、羊飼いにも「大きな喜びを告げる」と言って、主イエスの誕生を告げ知らせます。「救い主がお生まれになった」のですから、その知らせは喜びに満たされているべきだとも言えます。でも、まさに「福音そのもの」としてお生まれになった主イエスの地上の歩みの最後は、何なのか?!それは十字架の死です。神への冒涜者、犯罪者として処刑されることなのです。
 そして、実は、マリアはイエス様が生まれて四十日後、シメオンと言う老人から、「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人々を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」と言われていました。彼女は、自分の目の前で、自分の息子が人々の嘲りの中、処刑される様を見なければならないのです。そのことを、天使は知らずに、「おめでとう」「喜びなさい」と告げているのか?そんなことは考えられないと思います。
 ルカ福音書全体にわたって出てくる「喜び」とは何なのか、「喜びの知らせを告げる」とはどういうことなのか、それは今後数年にわたって探求し続けなければならない問題でしょう。しかし、今見ただけの個所からも、その「喜び」が人々によって殺される「死」と密接不可分な関係にあることは明らかです。ヨハネがそうです。イエス様がそうです。そして、弟子たちもそうです。彼らも聖霊を受けて以後、福音を告げ知らせるために世界に旅立ちました。しかし、それは殉教の死に向っての旅路だったのです。喜び、救いを告げ知らせつつ、告げ知らせる者たちは人々によって殺されていく。それは、どういうことなのか?

 人々の心にある思い

 先ほど、イエス様によって「多くの人の心にある思いがあらわにされる」というシメオンの言葉を引用しました。私たち人間の心の中にある思い、それは何なのかと言えば、やはりエゴイズムでしょう。自己中心です。自己中心とは、結局のところ、「己を主とする」ということです。つまり、「イエスは主である」の正反対なのです。その正反対の思いが、イエス様を殺すのだし、「イエス様こそ主だ」と告げ知らせる者を排除することになるのです。違うでしょうか?
 聖霊によって「イエスは主である」と告白した私たちキリスト者もまた、今でもエゴイズム、自己中心という罪の支配から完全には脱却できていない。それは事実です。だから、ルターが言うように、キリスト者の生涯は絶えず悔い改めなのです。キリスト者とは、誰に向かって罪の赦しを求めればよいかを知っている人間のことです。これは決定的なことでしょう?罪を犯しても、それをどうしたらよいか分からないのが、普通のことです。そして、現代人の根源的な不安は、そこにあるのだと思います。

 福音

 人間を支配している罪の問題に真っ向から取り組んだのは、アブラハム・イサク・ヤコブの神、イスラエルの神であり、主イエス・キリストの父なる神です。この神様が、ご自身の独り子を十字架に磔にするためにマリアから生まれさせた。その十字架において、私たち罪人の罪を裁き、私たちを赦して下さった。そして、主は十字架の死から三日目に甦り、天に上げられ、今も聖霊において私たちと共に生きておられる。己が罪を悔い改め、この方を罪と死に対する勝利の「主」と信じ受け入れる者は、それまでの「自分を主」としていた惨めな罪が赦され、それまでの命に死に、新たにされ、主イエス・キリストと共に生きることができる。これが福音です。これが、命をかけても宣べ伝えたい福音です。最大の喜びです。
 福音とは、物騒な言い方をすれば、やはり殺し合いを通して与えられるものなのだと思います。主の使いが、神殿の中でザカリアに現れたのは、主なる神様がそれまでのザカリアを殺し、新しいザカリアを産み出そうとすることです。そういう神様と出会うことには、不安があり、恐怖があります。復活の主イエスに出会うことも同じことです。そして、礼拝の中で説教が本当に神の言として語られ、聴かれるなら、そこに起こることは、神と出会う不安と恐怖を経ての死の経験です。そして、その死を経ての溢れる感謝と喜びと讃美を伴う命の誕生の経験です。私たちが、真実に礼拝を捧げることができるとしたら、それは聖霊の注ぎの中で、今日も死に、新たに生かされる経験をするということなのです。その経験を与えるために、神様は今日も私たちをこの礼拝堂に招かれたのだし、私たちはひたすら聖霊を求めて御言を聴いているのです。聖霊の導きがなければ、私たちは何を聴いても心の中で主を抹殺し、日々の行いにおいて殺してしまうことを繰り返します。しかし、聖霊の導きの中で語られる御言を聖霊の導きの中で御言として聴くことができる時、私たちの罪に支配された命が殺されて、私たちのために十字架で死に、復活されたイエス様に向って「あなたこそ私の主、キリストです」と告白し、憐れみを示して下さる神様を賛美しつつ生きることができるようになるのです。
 今日の礼拝が、私たちにとって、そういう礼拝でありますように。そして、今日、祝福された幼児たちが、また教会学校に通う子どもたちが、今日はこの場にはいないのですが幼児洗礼を受けた方たちや、私たちの子どもや孫たちが、いつの日か、私たちと共に、この礼拝堂で聖霊に満たされた礼拝を捧げることができますように祈りたいと思います。
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