「どうして、そんなことが?」

及川 信

       ルカによる福音書  1章26節〜38節
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 「ルカ」の緊迫感


 一一月の初めから、ルカによる福音書をご一緒に読み始めました。私自身は、まだその世界に入り込むという段階にはなりませんが、少しずつルカ福音書独特の雰囲気、ある種の緊迫感を感じ始めてはいます。
 ルカ福音書独特の緊迫感とは、ルカが「順序正しく書き記していく」出来事が、世界史の中で起こった出来事であることから生じます。もちろん、福音書はすべて世界史との接点をもって書かれています。しかし、ルカは特に「ユダヤの王ヘロデの時代」とか、ローマの「皇帝アウグストゥス」、次の皇帝「ティベリウス」という、時の為政者の名前を書きます。一般の歴史書に登場する有名な人々の名を書きつつ、その歴史書には決して登場しない無名の庶民を通して実現していく神様の救済の出来事を書いていく。その救済の出来事そのものが、いつの日か、世の権力者と神様との間に決定的な対決を生じさせることを暗示しています。ルカ福音書を読んでいると、最初からそういう対決の予感、不吉な予感がします。

 クリスマスに始まる戦い

 来週は、「マリアの賛歌」を読みます。そこには「主はその腕をふるい、思いあがる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く引き上げる」という過激な言葉があります。こういう過激な言葉が、神様をほめたたえる賛歌に入っているのです。クリスマスの出来事は、ほのぼのとした温かさに包まれているイメージがありますけれど、私には到底そんなものとは思えません。闇の支配の中に光が突入して来ることなのですから、そこには光と闇の鋭い対決があるのです。クリスマスは、その厳しい戦いの初めを告げる出来事なのです。
 今、「対決」とか「戦い」と言いました。それは、神様とこの世の権力者の間にだけ起こることではありません。普通の庶民、それも敬虔な信仰をもった人と神様との間でも起こるのです。
 祭司ザカリアとエリサベトは、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがない」老夫婦でした。しかし、その彼らに、真っ向から対決を挑むようにして天使ガブリエルが登場するのです。天使は、彼ら夫婦の間に「準備のできた民を主のために用意する」男の子が生まれると告げます。それは、ザカリアには到底信じることができない言葉です。しかし、彼が信じようが信じまいが、天使を通して語られる言葉は、彼ら夫婦を通して実現していく。それはまさに、有無を言わせぬ形で実現していくのです。
 ザカリアは、沈黙を強いられる中で、その様を見続けることになりました。妻エリサベトも五カ月の間、ひとりひっそりと身を隠しつつ、自分の体の中で実現していく神の言葉の力を見続けることになりました。それは彼らにとっては、古い革袋に新しい酒が入って来て、古い革袋が裂かれていく厳しく激しい体験です。何もそこまでしなくても、と思わないわけでもありません。けれど、神様が世界の歴史を転換する出来事を引き起こす時、世の権力者の全く与り知らぬ所で、密かにこういう激烈なことが起こっている。古い革袋が伸びて少し大きくなればよいという程度のことではなく、古い自分は捨て去り、新しい自分にならねばならない。そういうことが求められる。それは古い自分の死を通して起こることですから、生半可なことではありません。洗礼を受けて信仰の道に入るとはそういうことだし、その道を歩み続ける信仰者の歩みも常にそういうものでなければなりません。そうでないとすれば、酒も腐っていくのです。

 再び天使が

 前回は、神殿の中でザカリアと天使ガブリエルが決闘をするように対峙している姿を見て、私もその緊迫感の中に巻き込まれる経験をしました。ザカリアとエリサベツは、その決闘に負けることによって、新しい人間となり、ヨハネの親になっていくことになります。
 その時から六か月目、天使ガブリエルは、ガリラヤ地方のナザレに住むマリアという乙女に遣わされました。今度は、結婚歴の長い老人ではなく、婚約をしていてもまだ夫婦生活をしていない乙女です。
 前回の礼拝後、下の集会室で、炊き込みごはんの皿を片手に持って、さあこれから大急ぎで食事をしようとしている時、ある方がいきなり「先生、天使って本当にいるんですか?」と聞くので、ギョッとしました。そういう質問は、普通は子どもがするものだからです。子どもは、大人の先生は知っていると思うので単純素朴に何でも聞いてきます。だから怖い。「サンタクロースって本当にいるの?」と真顔で聞かれた時も、ちょっと似たような困惑を感じますけれど、「天使って本当にいるんですか?」という質問は、普通、大人はしません。質問をされる教師が困ることが、大人には分かっているからです。その困る原因の一つは、質問している方が、天使をどのようにイメージしているのか分からないということです。その点が曖昧なまま、「いる」とか「いない」とか答えると話がますますこんがらがって来るのは目に見えています。また、この問題は立ち話で済むような話でもありません。先日は、たまたま私の隣にニコニコしながら立っていた非現任長老がいたので、「お聞きになったように、天使がいるかって質問です。あとはよろしく。○○さんなら答えられるでしょう」と言って、私はその場をすぐに立ち去りました。でも、今でも気にはなっているのです。
 今日も、天使がいるかいないかについて真っ向から話すつもりはありません。が、少しだけ触れておきます。天使は、ギリシア語ではアンゲロスと言い、それが英語のエンジェルになっていきます。アンゲロスの意味は、「告知する者」です。人間が遣わす「使者」という意味でも、しばしば出てきます。その場合は、白い服を着て羽が生えている必要はありません。ただの人間ですから。ルカ福音書には、合計二五回アンゲロスが出てきます。私がざっと数えた限りでは、その内の二回が洗礼者ヨハネが派遣した使いであり、一回がイエス様の使いでした。あとは皆、「天上の天使」だったり、イエス様の墓の前で「輝く衣を着た二人の人」として現れる天使だったりします。そういう天使の登場が多いのもルカの特色の一つです。しかし、その場合も背中に羽があるとは書かれていません。
 それはともかく、ルカ福音書では、クリスマスの出来事はすべて天使によって人間たちに告げられます。その天使たちは、まさに天から「突入して来る」。もっと言えば「攻撃して来る」ように人の所にやって来ます。ザカリアもマリアも羊飼いも、皆、そういう形でヨハネやイエス様の誕生を知らされています。だから、その三回とも天使は「恐れるな」と言うのです。それは、そう言わざるを得ないほど、ザカリアやマリアや羊飼いが恐怖を感じたからです。肉眼で天使が見えたのかどうかは書かれていません。「天使が語りかけてきた」としか表現できないような形で、彼らが神様の御言を聴いた。それも鼓膜で聴いたかどうかは問題ではありません。とにかく、神の声を聴いたのです。

 ダビデ

 マリアは、ダビデ家のヨセフの許嫁でした。これは大事なことです。この場面は、マリアが主人公ですから私たちの目線はマリアに注がれます。説教でも、マリアの若さとか、処女性とか、そういうことに注目することが多いと思いますし、それはそれで理由のあることです。しかし、マリアがあのダビデ王の子孫の許嫁であったこともまた、大きなことなのです。それは、一章だけで「ダビデ」の名が三度も出て来ることからも分かります。
 マリアが産むことになる男の子は、天使ガブリエルによれば、「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」と言われます。ザカリアも、イエス様の誕生を預言する讃美の中で「主は・・我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」と言っています。そして、羊飼いに現れた天使は、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と告げている。
 今は、ナザレという田舎町で大工をしているヨセフです。しかし、彼の本籍地はダビデの町ベツレヘムであり、彼はそのダビデの子孫です。そのヨセフの許嫁であるマリアが、今、神様の選びに与っている。そして、世界史を全く新しくする出来事との関わりを持たされようとしているのです。それは、イエス様が祝福の源としての「アブラハムの子孫」であり、同時に真の王である「ダビデの子」として誕生するために不可欠の要素なのです。ここに、神様の確固たる選びがあり、その選びを実現していく神様の意志が明確に現れているのです。

 許嫁

 マリアはこの時、ほぼ間違いなく十代半ばの娘だと思います。日本でも、昔は男も女も十五〜六歳で結婚していました。六十歳も生きれば長寿の時代ですから、当然でしょう。つい最近のテレビの歴史番組で知ったことですが、武田信玄の娘の一人は、まだ七〜八歳の時に戦国武将の息子と縁組をさせられたそうです。もちろん、相手も少年です。しかし、その少年は結婚前に死んでしまった。すると、信玄の娘は、その後に来る縁談をすべて断って、ついには出家してしまったそうです。その娘は、相手の少年とは会ったことがなくても、許嫁になったとは結婚したことと同じであり、他の男とは結婚しないと心にきめてしまったらしいのです。
 時代も場所も違いますけれど、ヨセフとマリアの関係も、それと似ていると思います。彼らは法的には夫婦です。しかし、まだ現実に一緒に暮らしていない。夫婦の営みもしていない。そういうマリアの所に、天使が現れ「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と語りかけたのです。

 戸惑った

 マリアは、この言葉を聞いて「戸惑った」とあります。しかし、これはもっと強く訳すべき言葉だと思います。新約聖書には、ここにしか出て来ない言葉です。
 ザカリアは神殿で祭司の務めを果たしている時に、天使の姿を見て「不安になった」とあります。「不安になる」は、タラスソウという言葉で、ルカ福音書では、存在の根底が揺り動かされるような意味で使われます。復活の主イエスと出会った時、弟子たちは最初亡霊を見ているのだと思って不安になった。そういう恐ろしい場面で使われる。
 しかし、マリアが「戸惑った」という場合、それはタラスソウをさらに強調するディアという言葉がついてディアタラスソウとなっているのです。ひどい胸騒ぎがするというか、不安で不安で居ても立ってもいられない、そういう感じです。
 次の「考え込んだ」もまた、ちょっと考えるどころではない。頭がくらくらするような状態に叩きこまれたのです。まさにそれまでの皮袋には入りきれない酒、それもこれまで全く味わったこともない種類の酒が、いきなり激流のように流れ込んでくるような衝撃が、彼女にはあったのだと思います。
 天使は、そういうマリアに語りかけます。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」
 ここまでは、まだよいでしょう。でも、この後は、恵みどころではない話が続きます。
「 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
 この天使の言葉は、マリアの理解の範疇を超える、あるいは許容範囲をはるかに超える言葉だと思います。

 マリアの問い

 今日は、この天使の言葉の内容ではなく、その後のマリアの応答に注目したいと思います。
 マリアは、このとてつもない規模の言葉を聞いて、こう答えました。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
 この言葉を聞いて、皆さんはどういう印象をお持ちになるのでしょうか。「そんなことはあり得ない」とマリアは言っているのか。それとも「あり得るけれど、それはどのようにして起こるのか」と尋ねているのか?どっちの可能性が強いとお考えでしょうか?私はこれまでずっと、「あり得ない」と言っていると解釈してきました。でも、こうしてルカ福音書を最初から読みかえしてみると、これまでの受け止め方とは変わって来ました。
 文章は問いの形です。しかし、否定的な意味、あるいは拒絶を問いに込めることは出来ます。ザカリアがそうでした。彼は、自分も妻も年寄りなのだから、子どもが生まれるはずがないという確信をもって、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか」と問うたのです。「具体的な証拠を見せろ」と言った。だから、天使から「あなたは信じなかった」と言われたのです。そして、具体的な証拠は、彼の口が利けなくなることだったとも言えます。
 マリアは老人ではなく、夫婦生活をする前の乙女です。老人とは逆の意味で、妊娠は不可能です。だから、天使の言うことを、そのまま信じ受け入れることは出来ないはずです。私たちが現在、礼拝で用いている新共同訳聖書の訳では、マリアもまたザカリアと同じく、「信じていない」という感じが強いと思います。以前用いていた口語訳聖書も同じです。「どうして、そのようなことがありえましょうか」は、「あり得ない」というニュアンスの方が強いと思います。
 でも、原文は、「どのようにして、それは可能なのでしょうか」と訳せる言葉です。つまり、「男を知らない女から子どもが生まれるはずがないのだから、そんなことはあり得ないはずだ」とマリアは言ったと考えることも出来るけれども、「男を知らない女から子どもがうまれるはずがない。でも、神様がおっしゃるのであれば、それは可能なのでしょう。しかし、それはどのようにして実現するのですか」とマリアは問いかけたのだと考えることも出来る。そして、どうもそちらの方が、文脈としては正しいような気がします。

 聖霊が降り

 天使は、激しい戸惑いと恐れの中で、天使が告げる主の言葉をその心と体に受け入れようとしているマリアに答えます。それは、これまでの自分を投げ捨て、新しい自分になろうとしているマリアに向けての言葉だと言えます。その新しさがなければ、何も分からず、何も起こらないからです。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」

 どのようにして実現するのか、との問いに対して、天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」ことによってと、答えます。神が送る聖霊こそ、命の創造者です。いと高き神の子主イエス・キリストの命がマリアの肉体に宿る時、そのマリア自身が、いと高き神の力である聖霊に包まれて、新しい命にされるのです。その新しいマリアの誕生抜きに、イエス様が彼女に宿るわけではありません。
 そこで注意しておきたいのは、聖霊が「降る」という言葉です。これは、エペルコマイという言葉です。新約聖書に九回しか使われていないのに、ルカ福音書とその続きの使徒言行録に七回も出てきます。ルカが、ある事態を表現するために用いる独特の言葉なのです。辞書で見ると、獣が襲ってくるとか、敵が襲ってくるという意味でも使われる言葉です。
 一一章一四節以下は、イエス様が、ご自身と悪霊との戦いについて語っている個所です。その中で、イエス様は、どれほど武装して家を守っていようと、さらに強い者が襲ってくればその家はひとたまりもないとおっしゃっています。その強い者が「襲ってくる」が、ここで「聖霊が降る」「降る」と言葉と同じです。
 また二一章二五節以下では、イエス様が、世の終わりに起こることを告げています。
「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」
 この中の「世界に何が起こるのかとおびえ」とある、「起こる」という言葉が「降る」と同じです。つまり、これまでの世界を滅ぼし尽くす何かがやって来ることを意味します。天体が揺り動かされるような現実が襲ってくる。その時に、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」のです。
 つまり、「聖霊が降る」「降る」とは、強盗に襲われて家の中の物が何もかも盗まれてしまうとか、天体が崩壊してしまうとか、恐るべき事態が起こることを示している言葉です。そして、言うまでもなく、あのペンテコステの日に、かつては死を恐れて隠れていた弟子たちが、「十字架に磔にされて死んだイエス様を神様は復活させ、主、キリストとしてお立てになったのだ」と説教を始めたのは、彼らに「聖霊が降る」ことによってです。聖霊が降って来ることによって、彼らの古き命がズタズタに引き裂かれてしまい、それによって彼らは新しい皮袋とされ、その彼らの中にイエス・キリストが宿り、イエス・キリストが彼らを通して説教をして下さったということでしょう。パウロは、その事態を「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と言うのです。

 主の言葉こそ

 天使は、このような事態が起こった時、マリアの体に「聖なる者」「神の子と呼ばれる」お方が宿ると言います。そして、エリサベツの事例を知らせた上で、「神にはできないことは何一つない」と言う。
 ここで「こと」と訳された言葉は、ギリシア語ではレーマですが、マリアの応答の中に出て来る「お言葉どおり、この身になりますように」「お言葉」と同じです。だから、私は天使の言葉も「神からのすべての言葉は実現不可能なものではない」と訳した方がよいように思います。この後、エリサベツもマリアに向って、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言っていることからも、ここは主の「言葉」が大事だと思います。
 到底人間が信じることができない言葉があります。しかし、その言葉を信じさせる聖霊の到来があるのです。聖霊が降る時、その聖霊に覆われる時、人は主の言葉は必ず実現することを信じるようになる。そして、我が身をその御業のために捧げるようになるのです。

 マリアと私たち

 もちろん、マリアに起こったことはマリアに起こったことであり、さらに言えば、彼女にだけ起こったことです。到底、一般化して語れることではありません。歴史上、彼女と同じ経験をした人はひとりもいないのです。そのことは、きちんと踏まえておかねばならない。でも、ルカは、ただそういう出来事としてこの場面を書いたのかと言えば、そんなことはないと思います。
 キリスト者とは、先ほどのパウロの言葉で言えば、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と告白する者たちなのです。しかし、私たち自身が、よく知っていることですが、古い自分が活き活きと生きており、自己顕示欲、自己満足だけを追い求めている自称牧師とか、自称クリスチャンは山ほどいます。新しい酒の入れ方が少ないが故に古い革袋がそのまま生き残っていたり、いれた酒が水で薄められたもので発酵せず、そのまま腐っていたりするからです。
 しかし、本当に活ける神の言葉が聖霊によって私たちに入ってこようとする時、それはまさに圧倒的に強い獣に襲いかかられるような事態なのです。その襲撃を受けて、完膚なきまでにやられてしまう。存在の根底から揺り動かされ、最早これまで立っていた所には立っていられない。この世ではなく、この世を破壊して突入してきた神の国の中に立たざるを得ない。そういう事態を招来するのです。
 その国の王はダビデの子であり、同時にいと高き方の子です。その支配は、永遠に終わることがありません。その神の国に生きるためには、この方をキリスト、王として受け入れなければならない。それは、この世の支配者、権力者とは時に厳しく対峙することになります。同時に、自らを王とする自分とは絶えず対決することになります。自己顕示によって自己満足だけを追い求める自分を捨ててイエス様をキリスト、わが主、わが王として受け入れ、従うことだからです。これこそ本当に厳しい戦いです。
 イエス・キリストは、天の高みから地の低みにまで降り給い、ついにはあの十字架の死に至るまで神様の御心に従順に従ったお方です。罪との戦いに勝利された方です。そのお方を、わが主、わが王として受け入れ、従う。つまり、マリアのように、「わたしは主の僕です。お言葉どおり、この身になりますように」と献身する。主の喜び、主の満足だけを求めて生きる。それが、新鮮な酒を存分に受け入れ、その酒が内部で発酵し、それまでの古い革袋が破れ、神様によって新しい皮袋が与えられたキリスト者です。そのキリスト者という皮袋の中で生きておられるのは、いつも活き活きと語り、救いの御業をなし続けておられるイエス・キリストです。

 イエス・キリストの誕生 キリスト者の誕生

 クリスマスの出来事は、イエス・キリストが地上に肉をもって誕生する出来事です。そしてそれは、神様ご自身のそれまでのあり方を破壊することです。殻を破って、私たち罪人の救いのために、御子が人として生まれて下さった出来事です。
 しかしそれは、同時に、そのイエス・キリストを心と体の中に迎え入れるキリスト者が誕生した最初の出来事でもあるのです。それは、ほのぼのとした温かさに包まれた出来事ではありません。激しい霊の襲撃によって完膚なきまでに打ちのめされ、降伏し、主に自分を明け渡すという壮絶な出来事です。
 今年も、この季節に信仰告白式や洗礼式に臨もうとする人々が立てられ、来週、試問会をすることになっています。それはその方たちにとって本当に幸いなことです。しかし、それは大変なことです。今はまさに戸惑い、考え込む時を過ごしておられるでしょう。そういう時期を過ごさねばなりません。しかし、必ず聖霊が降り、そして包み込み、それまでの古き命が死に、新しくされる日が来ます。その日に、全く新たに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という御言を聴くことができます。そして、「神様は、どんな罪人をも、主イエスの十字架の死と復活を通して赦し給い、死の後の復活の命を創造し、世の終わりには神の国を完成され、私たちキリスト者を招き入れて下さる」という聖書の御言は、すべて実現すると信じることが出来るようになります。聖霊が、その信仰を与えてくださいますから。
 既に信仰を与えられ、その恵みの中を生きている私たちキリスト者もまた、毎週ごとの礼拝を通して、その聖霊によって信仰を新たにされ、「わたしは主の僕です。お言葉どおり、この身になりますように」と献身したいと思います。
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