「必ず実現する主の言葉」

及川 信

       ルカによる福音書  1章39節〜56節
1:39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 1:40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 1:41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 1:42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 1:43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 1:44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
1:46 そこで、マリアは言った。
1:47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
1:48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
1:49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
1:50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
1:51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
1:53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
1:54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
1:56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

 師走


 先週は、マリアに対する受胎告知の場面を読みました。天使の言葉一つ一つの意味は吟味せず、マリアの反応の方に注目しました。今、私たちはクリスマスに向けて歩んでいます。今年はクリスマス礼拝が十九日ですし、婦人会のクリスマスは今週です。教会でも青山学院でも今週と来週、それぞれクリスマスに関する説教をさせて頂きますし、講義でもクリスマスとは何かについて語っています。ですから、私は、ルカ福音書やマタイ福音書を読んでは考え、いくつもの説教原稿を書く日々を送っています。
 また、クリスマスは訪問の季節です。時間を作って可能な限りお見舞いや訪問をしたいと願っています。「師走」とは、坊さんが多くの檀家の家でお経を読むために走り回ることを表すと言われます。私も、まさにあちこちで聖書を読み、語る日々を過ごしています。行きも帰りも急いでいます。やるべきことが山ほどあるからです。しかし、それは「気ぜわしい」ということではありません。喜びです。聖書は、ひとりで読んでも様々なことを感じます。悲喜交々の出来事が自分の中で起こります。それはそれで大事なことです。しかし、私の場合、独りで聖書を読むことも含めて、人と共に聖書を読むためにやっているという面があります。そして、聖書を共に読むことがどれほど嬉しいことかを、様々な時に感じます。

 聖書を共に読む

 私の訪問は、それがご自宅であれ、病院であれ、聖書を共に読み、祈るためのものです。そして、私は若い時から高齢の方たちと聖書を読み祈ることが好きです。その多くの方は、長年信仰を生きてきた方です。しかし、高齢になってから信仰の道に入った方もいる。予めこのことを語ろうと思ってお訪ねするわけではなく、聖書の何処を読むかも決めていないことが多い。しばらくお話をしていると、聖書の言葉が鮮明に心に浮かんできて、それを読み、そして語る。その時、聖書の言葉はまさに今ここで語る神様の言葉として私の中から出てきます。その言葉を私も聞いている。そして、目の前の信徒の方と共に、この言葉は私たちの身において実現していることを確認して感謝が溢れて来たり、これから必ず実現する言葉として信じることが出来たりする。そういう瞬間の喜びは、他のものに代え難い喜びです。そういう喜びを味わいに、また神様に感謝と讃美を捧げるために走り回るのですから、それは喜ばしいことです。

 急ぐマリア

 「神にできないことは何一つない」
(神の言葉で不可能なことはない)と聞いて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と信仰の告白をしたマリアは、親戚のエリサベトがいるユダの山里に向かいました。それも「急いで」です。ガリラヤのナザレからユダの山里までは、徒歩で四日かかります。その道を、まだ十代半ばのマリアは「急いだ」。その心の中にあった思いは何でしょうか?
 高齢のエリサベトが身ごもって既に六カ月となっているという天使の言葉が、本当かどうかを一日も早く確かめたかったのだろうか?私は違うと思います。マリアは、エリサベトが妊娠六カ月になっていることを天使から聞いた時に、エリサベトもまた主の言葉に自分の身を捧げたのだと確信したと思います。そして、マリアは、この時、まだ自分の身に起こったことを誰にも告げていないでしょう。告げたって信じてもらえないことは火を見るよりも明らかだからです。親に、「今日、私に天使が現れました。そして、私は聖霊によって妊娠するそうです」と言ったとしたら、親は、「ほう、それはめでたい」と言うでしょうか?「冗談もほどほどにしろ。お前、何を言っているのか分かっているのか?姦淫の罪を隠すために、天使まで持ち出すとは、なんて娘だ」と言われて当然なのではないでしょうか。マリアは法的には結婚しており、ヨセフとの交わり以外の妊娠は姦淫の結果とならざるを得ません。夫が訴えれば、それは死刑です。だから、彼女はヨセフにも何も言っていないでしょう。誰にも何も言わずに、家を飛び出すようにして、エリサベトに会いに、危険な旅に出たのです。
 彼女は、どうしてもエリサベトに会いに行きたかったのです。エリサベトもまた、最初、自分の身に起こったことの意味が分からず、「五か月の間身を隠した」女性です。しかし、そういう恐るべき経験を通して、「主の言葉は必ず実現する」ことをその体で知らされた女性です。この時のマリアは、そのエリサベトにどうしても会いたいのです。そして、主の言葉を聴いて受け入れる、信じる信仰を共にしたいのです。「主の言葉は必ず実現する」ことを信じる信仰を、顔を見つつ互いに確認できることは、本当に大きな喜びだからです。その喜びは、自ずと主への賛美となって現れます。マリアは、その喜びと讃美に向ってユダの山里に向って急ぎ、その坂道を登っているのだと思います。

 エインカレム

 私は、今年の六月に十数年ぶりにイスラエルを旅することが出来ました。私にとっては三度目のことですが、今回も楽しみにしていた一つのことは、エリサベトとマリアが会ったと言われる山里、エインカレムに行くことでした。そこは、私たち日本人にとっては何の変哲もない場所です。しかし、エルサレムの東側とは別世界なのです。東側は死海の方です。そこに広がる光景は、うす茶色の砂と石が転がる荒涼たる大地です。しかし、地中海側である西側は、木々が生い茂り、何種類もの鳥が競うように囀っている。そういう場所です。日本には、いくらでもある所です。しかし、イスラエルに行くと、そういう場所が命を潤す泉のように感じるのです。エインカレムという名前そのものが「泉の里」を意味します。そのエインカレムの丘の上に、「マリアの訪問教会」と呼ばれる教会が建っています。門を入ってすぐの庭の壁一面に、各国の原語で記された「マリアの賛歌」が刻まれたプレートが一枚ずつ飾ってあります。もちろん、日本語のものもありました。そこに行く前に、私たち一行は「ナチス迫害記念館」で凄惨な現実を見てきたこともあって、木々の緑の中を鳥の囀りを聞きつつ坂道を登り、清楚な礼拝堂に辿りついた時には、まさに心が潤いました。
 皆さんも、この中渋谷教会で礼拝を捧げるために坂道を登って来られました。駅前の人混みをかき分け、歩道橋を渡り、そして桜丘の坂道を一所懸命に登って来られた。それは、何のためでしょうか?それは兄弟姉妹と共に御言を聴き、讃美するためでしょう。同じ信仰をもっている兄弟姉妹と御言と讃美を分かち合うためだと思います。そんなことは、この世の中の通常の生活では決して出来ないことです。ここでしか出来ない。週に一回、この丘の上の礼拝堂で、主の言葉を聴き、その言葉は私たちにおいて実現していることを感謝し、またこれから実現することを信じ、信仰を同じくする者たちと主を讃美する。その喜びを分かち合うために、日曜日の朝あるいは夕に、はるばるこの礼拝堂に来られるのではないでしょうか。そして、互いの顔を見ながら、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じることが出来た私たちは、なんと幸いでしょう」と心の中で喜び、主を賛美する。それが私たちにとっての礼拝です。そういう意味で、この礼拝堂は私たちにとってのエインカレムなのです。私は、この礼拝堂の中で、皆さんと一緒に御言を聴き、共に讃美するその喜びのために生きていると思います。

 讃美

 四六節以下は「マリアの賛歌」と呼ばれる個所です。ルカ福音書の冒頭部分は、讃美に満ちています。マリアの賛歌(マグニフィカート:あがめる、大きくするの意)があり、六七節からはザカリアの賛歌(ベネディクトス:ほめたたえよの意)があります。また羊飼いに天使がイエス様誕生を告げた後の「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」も頌栄としての讃美です。さらに、シメオンの讃美が続きます。主イエスの誕生を告げる記事はすべて讃美で包まれるのです。そして、ルカ福音書の説教の一回目に語りましたように、この福音書は主イエスが天に昇っていく様を弟子たちが見た後の神殿における讃美の場面で終わります。最初と最後が讃美なのです。そのことを踏まえた上で、マリアの賛歌の声に耳を傾け、そして最後は共に讃美したいと願います。

 演奏 説教

 先日、新聞の人物紹介のコーナーに、滅多に一位を出さないことで有名なピアノコンクールで、日本人として最初に一位を獲得した若い女性が紹介されていました。彼女は天才肌とよく言われるようなのですけれど、「自分が弾いている」という感覚が嫌いなのだそうです。また、「ここを聴いてちょうだい」と訴えるような弾き方も嫌いで、なによりも「聴衆と一緒に音楽に耳を傾けたい」と言っていました。そういう演奏がよい演奏だということでしょう。
 私は何かにつけ説教に引き付けて考えてしまうのですが、何が良い説教かと言えば、それは神様の言葉が聞こえて来る説教がよい説教なのです。説教者が何を言おうが、どういう論理を展開し、どういう解釈をしようが、神ご自身が語りかけて来ていることが分かり、悔い改め、信仰、讃美が湧きおこってくれば、それは良い説教です。しかし、それは音楽同様に、聴き手にもよります。そして、説教に良し悪しがあるように、聴き方にも良し悪しがあります。良い耳をもっている人は、良くも悪くも、説教の良し悪しが分かるし、良い説教を聴いた後は、悔い改めと信仰と讃美を捧げるものです。
 良い説教者は、説教をしつつ聴き手と共に聖書の語りかけを聴く説教者です。説教者は何よりも良い聴き手でなければなりません。福音書はいずれも壮大な交響曲のようなものだとすれば、楽譜である聖書を読みこみ、曲全体の構造を掴み、細部の音色や、一つの音の意味を深く探求して、それを美しい音として響かせていく。そこに、自分という存在が介在し、自分なりの解釈があるとしても、その説教は自分が語っているのではないし、最早、自分のものではありません。自分が聞いた御言でなければならないと思います。そして、聴き手は「牧師の説教」ではなく、御言を聞きとり、悔い改めと讃美を捧げていく。そこに礼拝が生じるのだと思います。

 わたしの魂

 何でこんなことを長々と語るのかと言うと、マリアの賛歌の歌い出しと、今言ったこととは深い関係があるからです。
 彼女は、こう言って賛歌を始めます。

「わたしの魂は主をあがめ、
  わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」


 彼女は「わたしの魂」と言います。「魂」はプシュケーという言葉で、息をすることから来ている言葉で、生命力、生命、生き物、心、魂と様々な訳語があてられる言葉です。ここでは人間の心の奥底を表す意味で「魂」でよいかと思いますが、彼女は、「わたしは主をあがめ」とは言わないで、「わたしの魂は主をあがめ」と言うのです。
 その後に出てくる言葉の背後には旧約聖書の言葉がたくさんあります。彼女は、そういう聖書の伝統の中で主を賛美しています。旧約聖書に出て来る主の言葉の一つ一つが、今まさに実現しようとしている。その現実が、彼女の体の奥深くの魂において感得されたのです。その時、彼女の魂が揺さぶられた。そして、その魂から出て来る言葉を彼女の口が発しているのです。だから、彼女も聞いている。彼女が賛美しているのではなく、彼女の魂が賛美している。
 その時、彼女は神の前にどんどん小さくなっていき、見えない存在になっていく。マリアの口を通して、神ご自身が語っているからです。
 先ほどのピアニストが目指しているのも、そのことでしょう。ピアニストの技術だとか創意工夫だとか、努力の成果だとか、才能だとか、そんなことは目に入らないで、ただ音楽が自分の手の先から響き出てきて、聴衆と共にその音に耳を傾け、その音の世界に浸りたい。そこに自分の姿など見える必要がない。彼女は、そういうことを言っているのだと思います。そして、説教者もそのことをだけを目指しているし、聴衆もそうでしょう。見た目では、ピアニストの演奏を聴いているのかもしれないけれど、実は奏者も聴衆も音楽を聴いているはずだし、そうでなければおかしい。礼拝においては、牧師の説教を聴いているのだけれど、実は説教者も聴衆も御言を聴いているはずだし、そうでなければおかしいのです。そのことを妨げる演奏や説教は、良くない演奏であり説教です。「自分の」演奏、「自分の」説教を聞かせようとする所に、大きな間違いがあると思います。

 あがめる

 マリアの賛歌、それは耳を澄まし、目を澄ませて見ていけば、神の言葉が聞こえ、神の憐れみが見えて来る賛歌です。「あがめる」メガルノウは英語ではマグニファイで「大きくする」という意味です。ラテン語では「マグニフィカート」なので、この賛歌自体がしばしばマグニフィカートと呼ばれます。マリアは神を大きくしているのです。でも、神様は人間が大きくしたり小さくしたりできるお方なのでしょうか?そんなことはあり得ません。神様の大きさは、人間の態度で変化するものではない。でも、人間の態度やあり様は、大きくもなれば小さくもなります。そして、その人間にとって、神様が大きくなったり小さくなったりすることはあります。
 牧師であった父がしばしば言っていたことの一つを、私はこの個所を読むと思い出します。それは神様と自分の関係を分数で考えると分かりやすいというものです。分母が自分、分子が神です。分子である神は一であることに変わりはない。分母の自分が十であれば、数は十分の一になります。しかし、半分の大きさの五になれば数は五分の一となり倍の大きさになります。分母が一になれば十倍です。分子が0.五になれば最初の数の二十倍になり、結果として神様がどんどん大きくなるのです。自分が小さくなればなるほど、神様は大きくなるのです。そのことによって、小さな自分の魂の奥底から、ほとばしる様に神の言葉が出て来る。マリアは、その言葉を自ら聞きながら、神を賛美している。この時のマリアに起こっていることは、そういうことだと思います。

 憐れみ

 今日は、この賛歌の中で特に二度出て来る「憐れみ」「お忘れになりません」に注目したいと思います。

「その憐れみは代々に限りなく、
 主を畏れる者に及びます。
 ・・・・・
 その僕イスラエルを受け入れて、
 憐れみをお忘れになりません、
 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
 アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」


 五一節から五三節で語られていることは、社会における上下関係、貧富の格差をひっくり返すという革命で歌われるような歌です。ルカ福音書には、こういう言葉がこれからいくつも出てきますし、その意味を正しく受け止めることは、そう簡単なことではないでしょう。
 しかし、それは今後の課題として、「憐れみ」はエレオスという言葉です。ルカ福音書全体で六回使われており、マリアの賛歌とザカリアの賛歌にそれぞれ二回出てきます。旧約聖書では、ヘセドというヘブライ語です。それは、契約に基づく神様の愛、真実の愛を表す言葉としてしばしば使われます。分かりやすく言えば、「約束を守る愛」です。ですから、ザカリアの賛歌では、「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる」とあります。「覚えていてくださる」はマリアの賛歌の方では「憐れみをお忘れになりません」と訳されています。神様の真実な愛とは、アブラハムの子孫であるイスラエルとの契約を決して忘れない、とこしえに忘れないということです。
 それに対して、私たちの愛は忘れる愛です。私たち人間は、約束を忘れます。つまり、破るのです。契約を破る。結婚の約束も、信仰告白の約束も破る。あなただけを愛します、あなたを信じます、あなたに従います、と公に告白し、誓ったのに、その約束などどこ吹く風のように振舞ってしまうことが幾らでもある。愛したはずの人を捨てたり、捨てられたり、信仰を捨てたりする。それが、私たちの愛です。それは到底讃美すべきことではありませんし、そのような愛しか持ち得ない人間も讃美の対象にはなり得ません。
 マリアにしろ、ザカリアにしろ、ここで何を賛美しているのかと言えば、それは主の真実な愛です。人間にはない愛です。この愛がなければ人間は救われないのです。

 罪の赦しを与える憐れみ

 何故なら、この愛は、罪を赦して下さる愛だからです。ザカリアは、「ほめたたえよ」(ベネディクトス)で始まる賛歌の後半で、エリサベトが産んだヨハネに向って、こう言います。

「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
 主に先立って行き、その道を整え、
 主の民に罪の赦しによる救いを
   知らせるからである。
 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、
   高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
 我らの歩みを平和の道に導く。」


 主イエスによってもたらされる救いとは、「罪の赦しによる救い」なのです。そして、その救いを与えるのは、神様の憐れみの心なのです。この「憐れみ」によって、暗闇と死の陰に座している者たちに、あけぼのの光が射して来るのです。それは、罪を犯して自ら滅びに落ちていく者たちを、それでもアブラハムに立てた誓いの故に決して見捨てず、忘れず、「祝福する」という契約を覚え続けて下さるということです。その愛を「憐れみ」と言うのです。それは放っておけば死ぬしかない人間を何とかして救おうとする愛であり、その救いのためには自身の犠牲を厭わない愛にならざるを得ません。憐れみの愛で愛する相手は、滅ぶべき罪人なのですから。
 「憐れみ」という言葉は、一章以外ではよきサマリア人の譬話に出て来るだけです。強盗に襲われて倒れている者。放っておけば死ぬしかない者を、大変な犠牲を払って助けたあのサマリア人の行為に対して「憐れみ」という言葉が原語では使われています。そして、あのサマリア人は、主イエスご自身の比喩でしょう。

 覚えている 忘れない 

 それでは、「忘れない」「覚えている」と訳されるミムネースコウという言葉はどこで使われているのかと言いますと、マリアの賛歌とザカリアの賛歌以外では一六章の譬話に一回と十字架、復活の場面に出て来るだけです。そして、その事実はやはり示唆深いと思います。
 ルカ福音書の十字架の場面は、マルコとマタイが似ているのに対して、全く独特のものです。ルカでは、犯罪者の一人がイエス様を罵り、もう一人がたしなめたという記事があります。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。

 彼は、罪に対する裁きを受けて死ぬのです。それを当然のこととして受け止めている。それはその罪を犯したことを悔い、悲しんでいるということです。しかし、今目の前に、死に値する罪など何も犯していないお方が、自分と同じ刑罰を受けているのを見ているのです。そして、そのお方が、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈っておられるのです。これを「憐れみ」と言うのです。その憐れみそのものである主イエスの姿に間近に接して、彼は人間によって与えられた死の裁きの後に、「罪の赦しによる救い」を与えて下さるように乞い求めた。それが、「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出して下さい」という言葉の意味です。「私のことを忘れないでください。この罪人を。捨てられて当然のこの者を。しかし、どうぞ憐れんでください、罪を赦して下さい。」彼は、そう叫んだ。祈ったのです。
 主イエスは言われました。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」
 あのどうしようもない罪人であったザアカイが、主イエスの愛に触れて悔い改めた時、主イエスは「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」とおっしゃいました。まさに、主イエスは「アブラハムとその子孫に対する憐れみ」を忘れることなく、とこしえに覚えて下さっているのです。そして、罪の赦しによる救いを与えるために、罪なきご自身の身をあの十字架の上に捧げて下さったのです。死すべき罪を犯した者だけが磔にされる、汚れた、忌まわしい、あの十字架に、です。

 思い出しなさい

 私たちは、その事実を忘れてはなりません。いつも覚えていなければならない。主イエスにおいて現れた神様の憐れみの故に救われたことを、そして今も救いへと導かれていることを。そのことが、神様が主イエスを通して与えて下さっている御救いの中に生きるために、必須のことなのです。
 ルカ福音書において、この「覚えている」、「忘れない」という言葉の主語は、一六章の譬話の用例を別とすれば、これまでは神様です。神様が、アブラハムに立てた契約を忘れない、アブラハムの子孫であるイスラエルに対する憐れみを忘れない。主を畏れる者への憐れみは世々限りないという形で出てきます。この神様の憐れみ、真実の愛、それが私たち罪人に対する救いの根拠です。
 しかし、その御救いを現実に受け止めて生きるためには、与えられている憐れみを私たち自身が忘れないで覚えておくことが不可欠です。私たちを決して忘れないでいて下さる神の憐れみを、私たちが忘れてしまえば、何の意味もなくなってしまうのです。
 先ほど、ミムネースコウは十字架と復活の場面に出て来ると言いました。残ったのは、復活の場面です。
 安息日が開けた翌日の日曜日の朝、ガリラヤから主イエスに従って来た婦人たちが、主イエスの遺体に香料を塗ろうとして墓に行ってみると、墓の蓋は転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体はありませんでした。すると、輝く衣を着た二人の人が現れ、恐れて地に顔を伏せる女たちにこう言ったとあります。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。

 「思い出しなさい」
が、ミムネースコウです。覚えておきなさい、忘れてはならない。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」と主イエスがおっしゃっていた。その事実を忘れてはならない。

 「今こそ、主イエスはそのお言葉どおり、すべての人間に、罪の赦しによる救いを与えるための十字架の死から甦られたのだ。主の言葉は必ず実現する。その事実、その真実の愛、その憐れみを決して忘れてはいけない。主は、あなたたちを愛し、罪の赦しのためにご自身を犠牲として捧げ、そして今、あなたたちと共に生きて下さっている。その事実を忘れてはならない。主は片時もあなたたちを忘れることなどないのだ。だから、あなたがたも忘れてはならない。その憐れみを。」

 天使は、そう告げているのです。そして、女たちは、主イエスの言葉を「思い出した」のです。彼女らこそが、最初に救われた人たちです。

 信じる者の幸い

 マリア、彼女はエリサベトから「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言われた女性です。そして、その後、彼女の魂から溢れ出てきた言葉のほとんどが旧約聖書の言葉です。主が語られた言葉です。その言葉が、今こそ我が身において実現し、これからもアブラハムの子孫において実現し続けることを確信して、彼女の魂から讃美が湧きでているのです。
 そして、私たちもまた、主の憐れみの故に信仰を与えられたアブラハムの子孫です。私たちは、その信仰の故に今日も丘の上の教会に集まっています。主の言葉は必ず実現することを信じ、その憐れみ、その真実な愛の中に生かされていることを喜び、感謝し、讃美するために集まっています。私たちのこの世における現実は、しばしば疑い迷いの只中に突き落とされるというものです。しかし、こうして、主の憐れみの中で礼拝に集まり、主の言葉を共々に聴く時に、私たちの信仰を新たにされ、「主の言葉は必ず実現すると信じることが出来た私たちはなんと幸いなことでしょう」と喜びと讃美を分かち合うことが出来るようになるのです。
 今日も、主イエスが私たちの真ん中に立って、「これは私の体である」「これはあなたがたのために流された血である」と言って、その真実の愛、憐れみの徴であるパンとぶどう酒を私たちに分け与えて下さいます。私たちが、その愛を決して忘れぬために、その愛を体の中に入れて生きることが出来るように、です。悔い改めと信仰と讃美をもって与ることが出来ますように。そして、与えられた幸いを心から感謝し、新たに主を喜び称える歩みを始めたいと願います。

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