「泊る場所がなかった」

及川 信

       ルカによる福音書  2章 1節〜 7節
2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 クリスマスの喜びと悲しみ


 クリスマスの季節は喜びに満ちた季節です。しかし、私は今年も、その喜びの裏側にある悲しみを見ますし、様々な所で喜びと悲しみについて語り続けています。
 これまで登場してきたザカリアもエリサベトもマリアも、激しい動揺、悲しみ、苦しみを経て、神の御心を我が身に受け入れ、我が身を捧げたのです。そして、そういう人間だけに湧き起こる讃美を捧げたのです。そこには、それまでの自分の死がありました。そして、その死を通しての命の誕生があったのです。そこに喜びがあり讃美がある。死の悲しみを経ない喜びは、クリスマスの喜びではありません。

 居場所がない

 二十年くらい前からでしょうか、日本の自殺者が一年で三万人を超えるようになりました。月別で言うと、卒業や就職の季節である三月〜五月が多いそうです。景気の動向や家庭問題、病気など、様々な要因があると言われます。具体的な要因は何であれ、この世には自分の居場所がないと思ったということだと思います。生きる場所がなければ、死ぬしかないということになってしまいます。
 昔読んだある本には、ドイツでは、クリスマスシーズンに自殺者が一番多いと書かれていました。今の現実はどうなのか良く分かりませんが、キリスト教的な世界という一体感がまだ残っていた頃のヨーロッパにおいては、クリスマスやイースターは日本における盆と正月のようなもので、遠く近くの家族が実家に集まって食事をしながらクリスマスを祝うのです。多くの人々が、そのために移動をする。しかし、そういう社会の中で、帰る家がない人もいます。家族がいない、いても会えない事情がある。そういう人々がいます。そういう人々が、一年で最も華やかなクリスマスシーズンに自ら命を絶つことが多い。だから、キリスト教会が主導して、日本で言えば「いのちの電話」のようなものをこの時期だけ開設して、社会や家族の中に自分の居場所を持てない人々の話し相手をするそうです。
 社会の中には、表に見える部分と見えない部分があります。光と影がある。そして、それはひとりの人間の心の中にもあって、影の中に光は入って来られないし、光の中に影は入って来られません。それぞれの中に、自分の居場所がないのです。互いに排除し合っているからです。居場所がない時、人は自分が何者であるかを見失っていきます。

 光の祝祭

 クリスマスは、神の家族としてのキリスト教会にとって、イースターに並ぶ大きな祝祭です。この時ばかりは、普段は疎遠になりがちな家族も集まってきます。そういう喜びの時なのです。この二つの祝祭に共通していることは、両方とも光の祝祭であるということです。主イエスの復活を祝うイースターは、暗い夜が明けて太陽が昇って来る時の祝祭です。死の闇に閉ざされていた洞窟の墓の中に、復活の命の光が輝いたからです。主イエスのご降誕を祝うクリスマスは、夜の闇の中に輝く星の光の祝祭です。東の国の占星術者たちはメシア誕生を告げる星を追い求めてやって来ました。羊と共に野宿をしている羊飼いは、夜空に星が輝く夜、ダビデの町で救い主が誕生したことを知らされました。占星術者は、当時のユダヤ人からしてみれば神に見捨てられた異教徒であり異邦人です。羊飼いはと言えば、社会の最底辺を生きる貧しい人々であり、律法に適う生活をなし得ない汚らわしい罪人です。しかし、そういう異邦人、罪人たちによって、最初のクリスマス、キリスト礼拝が捧げられたのです。いずれも、正統的ユダヤ人、神の民の中に、自分たちの居場所を持たない人々です。そういう人々が、主イエスが寝かされている家畜小屋の飼い葉桶の周りに呼び寄せられて、集まって来るのです。彼らは、その場所に自分たちの居場所を発見し、そこで自分が何者であるかを知らされていったのです。

 ローマの平和

 先ほど読んだルカ福音書二章一節には、これまでと同様に、時の為政者の名前が明記されていました。アウグストゥスとは、「崇高なる者」を意味する称号です。名前はオクタビアヌスです。(正式にはもっと長いのですが。)しかし、私たちが今、「キリスト」と言えばイエスと結びつくように、「アウグストゥス」と言えばオクタビアヌスと結びつく。それほどに強大な権力を持ったローマ帝国の皇帝でした。彼の登場によって、戦乱が続いていた地中海世界に「ローマの平和」〈パックスロマーナ〉と呼ばれる平和がもたらされたのです。だから、彼は当時の人々から「救い主」と言われ、「神の子」とも言われ、彼の誕生日は「福音」(良き知らせ)として国民的な祝賀行事だったのです。私たちの国においても、天皇が現人神とされていた戦前戦中には、天皇誕生日は国民的祝賀行事の日だったのではないでしょうか。神武天皇の誕生日は、紀元節と呼ばれていました。
 そういう絶対的な天皇のような存在として、皇帝アウグストゥスが首都のローマにおり、その下でキリニウスという総督が、ユダヤ人が住む地方を含むシリア州を統治していたのです。国の為政者は自らの支配を盤石とするために税金を徴収し、徴兵制を確立しようとします。そのためには、住民の数、年齢、資産状況などを調べなければなりません。そこで、アウグストゥスはその支配下のすべての住民の登録をするように命じたというのです。この世の最高権力者が、平和と繁栄を造り出すために住民登録をせよとの勅令を出した。これは政治家として当然のことです。

 世界史の中の救済史

 その勅令に従って、本籍地から離れて暮らしている人々は皆、自分の本籍地に帰って登録をしなければなりませんでした。ヨセフもその一人です。彼は、皇帝にしてみれば虫けらのような存在です。しかし、ヨセフは、かつてのユダ王国の王「ダビデの血筋」であり、ダビデの出生地であるベツレヘムが本籍地だったのです。そこで彼は、ガリラヤ地方のナザレからユダヤ地方のベツレヘムまで片道四日とも言われる旅をしなければなりませんでした。
 ここは、注意深く読んでいかなければなりません。ローマ帝国の皇帝アウグストゥスとかつてのユダ王国の王ダビデ、それは国の大きさも権力の強さも比較にならぬ支配者です。そして、ダビデが王だったユダ王国は、この時よりも六百年も前に滅亡しているのです。そして、ダビデ王の末裔であるヨセフは、今はしがない大工ですから、皇帝アウグストゥスなどとは比較のしようもありません。しかし、いつの日かダビデの子孫から王(メシア)が生まれる。その場所は、ダビデの町ベツレヘムである。それが、イスラエルの神、主が預言者たちを通して語られた預言なのです。その預言が、古代地中海世界で最強の王と言ってもよいアウグストゥスの時代に実現し始めている。ルカは、そう告げているのだと思います。誰にも知られぬ形で、世界史を紀元前と紀元後に分けていく出来事が進展しているのだ、そのことに目を向けて欲しいと言っている。
 それは、ザカリアの預言によれば、神の「憐れみの心」によることです。そして、その「憐れみの心」によって高い所から訪れて来る「あけぼのの光」としての王は、「罪の赦しによる救い」を与えて下さる王です。その意味で、「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」王なのです。その王がもたらす平和は、武力と権力によって実現するこの世の一時的な平和(戦争がないだけ)ではなく、罪の赦しによる神と人との永遠の平和です。この時は、誰も知らないことですが、そういう平和の王が神様の預言の実現として、アウグストゥスの世に誕生しようとしている。この世の帝国の中に神の国が突入して来ている。世界史の直中で、神様の救済の歴史が展開しているのです。虫けらのように扱われる庶民を通して、世界史が根本的に新しくされる出来事が進行している。その隠された事実がここに記されていることだと思います。

 なぜ「一緒に」いくのか?

 五節には、「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである」とあります。住民登録は、基本的に成人男子だけがすればよかったし、家族を代表してすればよいことで、妻も一緒である必要はありませんでした。しかし、彼らは「一緒に」ベツレヘムへ行きました。マリアは身重であり、臨月を迎えていたのに、です。何故なのか?
 先週と今週、青山学院女子短期大学の講義で『マリア』という映画を二回に分けて観ています。原題は『降誕物語』です。その映画を観るために、十一月下旬から聖書のクリスマス物語を読んできました。その映画を観るとよく分かるのですが、婚約はしていてもまだ結婚生活をしていない時期に女が身ごもることは、許されざる戒律違反でした。彼らが婚約中は禁じられている性行為をしたか、マリアが他の男との関係を持ったかとしか考えられないからです。身に覚えのないヨセフが訴えれば、マリアは姦淫の罪を犯した女として石打ちの刑を受けねばなりません。ヨセフは、死ぬほどに悩みました。しかし、マリアだって身に覚えはないのです。彼女は聖霊に包まれる中で天使の言葉を信じ、受け入れざるを得なかったのです。そこには、彼女の重大な決心、これまでの自分が死んで、新しく主に献身するという決心がありました。その結果の妊娠です。
 もちろん、それ以前に、独り子を人として生まれさせるという神様の側の決心、ご自身の殻を破り、それまでの御自身のあり方を破壊して新しくなるという神様の決心があるのです。しかし、そんなことは誰も知らないことだし、マリアの言うことを信じる人が周囲にいるはずもありません。
 ヨセフも同じことです。しかし、ヨセフにも夢の中で天使が現れ、マリアが言っていることは本当のことであると告げたのです。そのことによって、ヨセフもマリアと同様にそれまでの自分が破壊され、マリアを受け入れ、その胎の実を聖霊によって宿った神の子として受け入れたのです。しかし、そんなことを信じるのは、この地上ではザカリアとエリサベトとヨセフとマリアだけです。親兄弟は勿論、村の人々の誰も信じてはいません。だから、彼らは絶えず不信の目で見られ、陰口をたたかれているのです。ナザレでは心安く生活も出来なかった。映画では、その雰囲気がよく描かれていました。
 そういう状況の中で、ヨセフとしては、身重のマリアをナザレにひとり残して、ベツレヘムまでの長旅をすることは出来なかったと思います。もし、自分が不在の時に彼女に陣痛が襲ってきても、親や近所の人たちの好意に彼女を委ねることはできないのです。だから、彼は「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するため」にベツレヘムに行かねばならなかった。つまり、彼らはナザレには居場所がなかったのです。

 場所がなかった

 そして、ベツレヘムに到着後、マリアは月が満ちて、初めての子を産むことになります。そのことを、ルカは、こう記します。
 「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊る場所がなかったからである。」
 布は「おむつ」だとか「うぶ着」だとか色々言われますが、どちらにせよ、マリアとヨセフが初めて生まれる子のために精一杯用意したものでしょう。しかし、彼らは子どもを産む部屋を用意はできませんでした。原文には「泊る」という言葉はありません。ただ「宿屋の中に、彼らのための場所がなかった」と記されています。ナザレにもベツレヘムにも、彼らのための場所がないのです。それは、生まれ出て来るイエス様が安心できる場所がないということです。
 本来いるべき場所に自分の場がない。肉親の家族がいるのに、その中に自分の居場所がないということがあります。家庭という場そのものがない場合もあります。羊飼いとは、一生を独身で過ごす人々だと言われます。寝泊まりする家もなければ寝食を共にする家族もいない人々。そして、罪人として町の中には入れない人々。人々の交わりの中に、自分の居場所がないのです。そういう人々の所に、天使は真っ先に訪ねてきたのです。
 牧師にとって、クリスマス・シーズンは、説教を数多く語る季節であると同時にたくさんの訪問をする季節でもあります。今現在この礼拝堂に集まり、共に礼拝を捧げることが出来る方をお訪ねすることは、この季節は特にありません。かつてはこの礼拝堂で共に礼拝を捧げていたのに、今は高齢の故に、病の故に、様々な事情によって礼拝堂に集まることが出来ない方たちをお訪ねします。御言を携え、可能であれば聖餐のパンとぶどう酒を携えてです。さらに可能であれば、信仰の家族と共にです。この礼拝堂に来ることが出来ない。神の家族として皆と一緒に礼拝を捧げたいのに、もう自分はその場所にはいけない。そこは自分の居場所ではなくなってしまった。そういう方々は、どの教会にもいます。あるいは、長年住み慣れた家からも離れ、互いに言葉も通じない高齢者がいる施設の中で過ごすしかない。病院のベッドの上だけが居場所になってしまった。誰とも信仰の話など出来ない。かつては、日曜日毎にここに集まり、礼拝をし、食事を共にし、信仰に生きることの苦しみと喜びを分かち合っていたのに、今は、そんなことは夢の夢。そういう方たちがおられます。そういう方たちを訪問しつつ、私は、生まれた時からこの世の中に心安らぐ場所がなかった主イエスのことを思い続けていました。そして、主イエスだけが、この世に居場所のない人間にとっての居場所になれる唯一のお方なのだと思いました。

 排除されるイエス

 ヨセフとマリアにとっては、ナザレも安心して暮らせる場所ではなかったし、ベツレヘムでも安心して子を産む場所がありませんでした。主イエスは、そういう両親の許に生まれたのです。最初から、この世においては歓迎されざる者だったのです。
 マタイ福音書では、それはもっと露骨です。ヘロデ大王は、預言の成就として「ユダヤ人の王」が生またことを聞かされると、ベツレヘム周辺の二歳以下の男児を皆殺しにしました。イエス様は、最初からこの世にいてはならない存在なのです。排除されなければならない存在なのです。
 そして、イエス様を排除する。それが、この世です。その本質は今も変わっていません。この世の本質は罪です。罪に支配されているということです。それは死の闇に支配されていることなのです。誰もがそのことは薄々感じてはいます。しかし、誰もが罪の闇の中にいる安楽さを好むものでもあります。悔い改めることが嫌なのです。自分を中心にして、願望や欲望に従って生きていたいのです。そういう自分が破壊されることが嫌なのです。
 クリスマスは、自分の殻が突き破られることです。この世に神の国が突入して来ることです。自分の体に主イエスが突入して来ることです。その方を受け入れるとは、それまでの自分ではいられないことなのです。そうと分かれば、私たち人間は一斉に主イエスを排除します。「罪の赦しによる救い」、神との和解としての平和をもたらす王よりも、繁栄に基づく平和をもたらしてくれる王の方が余程良いのです。自分が罪人であることを自覚させられることは、私たちにとっては最も嫌悪すべきことなのです。そういう私たちの心の中に主イエスの居場所はないし、そういう私たちが作り出す社会の中に主イエスの居場所はありません。クリスマス会の名の許に食べたり飲んだりすればするほど、そのことによって主イエスを排除しているのです。その祭り騒ぎの中に、主イエスの居場所はありません。
 そして、実はそうすることによって、私たちは自分自身を排除しているのです。神に象って創造され、神の息によって生かされる本来の自分の居場所を排除しているのです。私たちの罪を赦し、神様との愛の交わりの中に迎え入れようとしてくださるお方を排除しているのですから。しかし、そのことに気づかない。そこに罪人の悲劇があります。

 家畜小屋の飼い葉桶

 飼い葉桶とは、家畜小屋にあるものです。家畜小屋は動物の体臭、糞尿の匂いが漂う場所です。しかし、これは私たちがイメージするような木の掘立小屋ではなく洞窟だったと思われます。薄暗い洞窟です。そして、飼い葉桶は羊や山羊や牛がその鼻先を突っ込んで草を食べる桶です。動物のよだれがこびりついている。そういう不潔な場所が、人間社会にはあります。そして、そういう場所が人間の心の中にはあります。神の子、救い主は、そこに生まれたのです。
 そして、そのことを真っ先に知らされたのは、街には居場所がない羊飼いたちです。汚らわしい罪人として排除されている彼らこそ、世界中の人間に与えられる大きな喜びを最初に知らされた人々であり、最初に主イエスに会いに行き、讃美しつつ帰ったのも彼らなのです。彼らは、家畜小屋には居場所があります。そこには、罪の赦しによる救いを与えて下さる王がいるからです。その王の前にぬかずく時、つまり、キリストを礼拝する時、彼らの心は平和に満たされました。初めて、自分の存在を丸ごと受け入れ、そしてそのことによって汚れを清めて下さるお方と出会うことが出来たからです。彼らはこの時、神はかくまで深く自分たちを愛して下さっていることを知ったのです。この主イエスを心に受け入れ、主イエスの愛の中に自分を見出す時、私たちは自分が誰であるかを知るのです。私たちは神様に愛されている罪人です。私たちはその愛の故に罪を赦して頂いたキリスト者です。私たちは、神の御腕に抱かれている神の子です。その腕の中に自分の居場所が与えられた神の子なのです。

 飼い葉桶から十字架へ

 主イエスは、暗い洞窟の中の飼い葉桶に布にくるまって寝かされることからその地上の人生を始められました。その歩みの行き着く先は、処刑場でした。"お前の居場所などこの世界にはないのだ、さっさと消え失せろ"と言われ、布一枚も身につけることなく、素っ裸にされて、生きたまま十字架に釘打たれて磔にされる恥辱と苦痛に耐え、多くの人々の嘲りの中に死んで行かれたのです。その人々の罪が赦されるように祈りつつです。そして、その赦しのために、ご自身が神の裁きを受けて下さっているのです。
 その処刑場には、やはりこの世に居場所をなくした人たちがいました。同じように十字架に磔にされている二人の人がいた。その内の一人は、多くの人々と同じように主イエスを嘲りました。罪の悔い改めを拒み、主イエスを抹殺することで実は自分の救いをも排除してしまいました。しかし、もう一人は罪人の罪が赦されるように祈りつつ、身代りに死んで行かれる主イエスの姿を見て、自分の罪を知りました。そして、死すべき罪人をかくまで深く愛し、その愛ゆえに命を捨てて下さる主イエスを救い主と信じたのです。そして、これまでの罪をすべて悔い改めて、主イエスがもたらす御国の中に迎えて頂きたいと願いました。主イエスが王である神の国の中には、自分のような罪人にも居場所があると確信したからです。彼は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。罪を犯し続けたが故にこの世の中での居場所を失った者が、罪犯さなかったが故に十字架上で息を引き取られる直前の主イエスに、罪の赦しによる救いを与えてくださいと懇願した。その時、主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。
 この世において、羊飼いが一番最初に「民全体に与えられる大きな喜び」を知らされたように、十字架につけられて処刑される犯罪者が、一番最初に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と告げられたのです。

 私たちの居場所としての聖餐の食卓

 今日は、MKさんが洗礼を受けられました。自分の罪を悔い改め、主イエスによる罪の赦しを信じ、救いを求めて洗礼を受けられました。私たちキリスト者は皆同じです。そして、それはこの世を生きつつもその本質において御国を生きることです。主イエスを王として生きることなのです。目に見える形では、アウグストゥスの命令に従い、彼の王国の秩序に与しながらも、そしてそれは大事なことです。しかし、実際には神の御国の中を生きていくのです。イエス・キリストを通して与えられた神様の愛と赦しを受けた者として、イエス・キリストを証しして生きるからです。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というあの主イエスの言葉を、私たちは礼拝と生活の中で生きるのだし、また告げるのです。神の国の中にこそ、私たちの永遠の居場所があり、救いがあるからです。
 これから聖餐の食卓に与ります。これは洗礼を受けたキリスト者が御国を仰ぎ見つつ与る命の食卓です。先週の礼拝で、神と会衆の前で信仰告白をしたHYさんと、今日洗礼を受けられた松丸和弘さんは、今日初めてこの食卓に与り、神の家族の一員として主を賛美します。まだ洗礼を受けておられない方が、礼拝に出席することを継続することによって、いつの日か、心に主を信じ、口で信仰を告白して洗礼を受けることが出来ますように。そして、共々にこの食卓に与りつつ罪の赦しによって与えられる御救いを感謝し、主を賛美出来ますように祈ります。ここにこそ、私たちの居場所があるのですから。
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