「神をあがめ、讃美しながら帰った」

及川 信

       ルカによる福音書  2章 8節〜21節
2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、
    地には平和、御心に適う人にあれ。」
2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 2:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2:21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。


 幸い

 先週の新年礼拝では、詩編一編をご一緒に読みました。その説教において、「幸い」に関して詩編一編とルカ福音書の共通点を見ました。そして、私は聖書に出会ったことの幸いに関して、個人的な思いを少し語らせていただいたのです。聖書に出会ったことの幸いについては、語り出せば切りがないという思いもあります。今日も、そのことについて少し語ることから始めさせて頂きたいと思います。
 詩編一編で語られる「幸い」とは、神の教え、つまり神の言葉を「昼も夜も口ずさむ」ようにして生きる人間の幸いでした。そのようにして生きる人は、「流れのほとりに植えられた木が、時が来れば葉を茂らせ、実を結ぶように」、いつの日にか、必ず繁栄が与えられるのです。ルカ福音書では、その繁栄とは神の国に招き入れられる幸いのことでした。それは、死後の天国という意味だけでなく、信仰において生き始める神と人との愛の交わりの深まりでもあります。
 今、「交わりの深まり」と言いました。人間関係をとってみても、深まる関係と深まらない関係があります。ある程度まで深まることによって、途切れる関係もあります。長い時間の経過の中で徐々に交わりが深まっていく。そういう関係もある。互いの間に交わされる言葉が真実であるか否かが、交わりが継続するか否か、また交わりが深まっていくか否かの違いを産み出す一つの要因だろうと思います。言葉の真実とは、その言葉が心から出てくる言葉であるかどうかでもありますが、その心が真実でなければそこから出てくる言葉も真実ではあり得ません。

 憐れみ 真実の愛

 ルカ福音書で既に何度か出てきた言葉の中に、「憐れみ」という言葉がありました。マリアの賛歌の中に、「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」「(主は)その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」とあり、ザカリアの預言(讃美)の中にも「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる」とありました。この「憐れみ」は、ギリシア語でエレオスと言います。そのエレオスは旧約聖書では、神様がイスラエルと結んだ契約に基づく愛を表すヘセドというヘブル語の訳です。
 その愛は、真実の愛なのです。何故なら、神様は契約を決して忘れない、覚えていてくださるのです。そして、約束を破ることがないからです。「私はあなたを愛している。私はあなたの神だ」と神様がおっしゃれば、それは神様の心から出てきた言葉であり、その言葉は必ず現実となる、出来事となるのです。それは、その言葉が口先だけの言葉ではないからだし、不真実な心から出てきた言葉でもないからです。
 この真実の愛、「憐れみ」を、主の言葉を聴いて信じることが出来る時、その人と神との間の愛の交わりは深くなっていきます。そして、その人も真実の言葉を使う人間に次第に造り替えられていく希望があるのです。そして、そういう真実な言葉のやり取りをしている人間同士の愛の交わりは深くなっていくでしょう。

 真実な言葉と出会う幸い

 私たち人間にとっての幸い、それは真実な言葉と出会うことにあると思います。「これは本当の言葉だ」と確信を持って言える言葉に出会う。その出会いがあれば、生きていける。そう思います。「真実な言葉との出会い」とは、「真実な言葉を語る方との出会い」だからです。聖書との出会いの喜び、聖書と出会うことの幸い、それは真実な言葉との出会いだし、真実な愛で愛して下さる神様と出会う喜びであり、幸いです。なにかの名言、名句に出会って座右の銘とする喜びとかいうものとは、全くの別物です。
 人間は、信じるものが何もない時、深い絶望に覆われていく存在だと思います。他人も自分も信じることが出来ない。それは皮肉なことに、真実を求めて生きていく時にこそ、誰もが突き当たる現実だと思います。その時にこそ、私たち人間には、真実な愛などないことが分かるからです。しかし、その不真実な者を真実な愛で愛し抜いて下さるお方がいる。そのことを、聖書の言葉を通して知り、信じることが出来る時、私たちは絶望から解放され、喜びと感謝と讃美に溢れた歩みを始めることが出来るのです。それは、私自身の確信をもって言えることです。

 羊飼い 嘘つき

 真っ暗な夜、羊を襲う獣や羊泥棒を警戒しつつ、代わり番こに寝ずの番をしている羊飼いがいます。彼らは、社会の最底辺に生きる人々であり、神からも見捨てられたと思われており、人からは軽蔑されていた人々です。一説によると、羊飼いは「嘘つき」の代名詞でもあったようです。羊を盗むのは、他の羊飼いだからかもしれませんが、日本でも、「貧乏人の言うことなど信じない」という風潮はあったし、今もあるように思います。地位も名誉もある人は、滅多なことでは嘘はつかないはずだ。しかし、地位も名誉も金も家も家族もないような人は、平気で嘘をつくものだ。だから信用できない。そう思っている場合が多いと思います。事実はまるで違って、嘘をつき続けることで地位や名誉を持った人だっているでしょうし、嘘をつかないが故にそれらのものを持てないケースもあるでしょう。そして、誰だって多かれ少なかれ嘘はついているものです。しかし、いつの時代も、この時代の「羊飼い」に象徴されるような人々がいるものです。

 天使の告知と賛美

 しかし、その羊飼いに主の天使が近づき、「民全体に与えられる大きな喜びを」告げたのです。その内容は、前回の礼拝で語りましたから、今日は繰り返しません。主から遣わされた天使が羊飼いたちに大きな喜びを告げ終わった途端、天の大軍が加わって、「いと高きところに栄光、神にあれ、地は平和、御心に適う人にあれ」と神様を賛美したとあります。前回は、この天使の大軍の心について思いを馳せました。彼らは、自分たちが仕えている神様の真実の愛に心打たれて、もはや天に留まっていることが出来ずに、一斉に地上に降って来たのでしょう。そして、声高らかに神の栄光を賛美し、地に平和が到来したことを宣言したのです。
 飼い葉桶は十字架に直行する。最も低き所に生まれたお方は、最も惨めな所で死ぬ。そのようにして、罪人を救う救い主、メシアとなられ、天に上げられて主となられる。そこに、神の栄光が現れる。そのことを信じる者たち、つまり、御心に適う者たちには永遠の平和が与えられる。そこに現される神様の憐れみ、真実の愛を、天使の大軍は賛美し、その賛美において伝道したのです。

 見ることが出来る言葉


天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。


 原文では「今こそベツレヘムへ行こう、そして、見よう出来事を」とあり、その出来事に続いて、「主が私たちに知らせて下さった実際に起こったこと」と続きます。「出来事」と「起こったこと」と似たような言葉が一つの文章に出て来て、ちょっとくどいのです。そして、彼らが「見よう」と言っている「出来事」、これはレーマという言葉で、しばしば「言葉」「語ったこと」と訳されるものです。だから、「今こそベツレヘムに行こう、そして、見よう。主が知らせて下さり、実際に起こった言葉を」とも訳せます。
 言葉が出来事となる。言葉が現実となる。見ることが出来る言葉。それこそ、信じるに足る真実な言葉でしょう。私たちが毎日、言ったり聞いたりする言葉の中に、そのように真実な言葉は滅多にないと言って差し支えないと思います。
 聖書において最初に出てくる言葉、それは神様の言葉です。そして、それは「光あれ」です。闇が覆っている世界に、神が「光あれ」と語りかけた。すると何が起こったのか。「こうして、光があった。」これが、主なる神の発する言葉です。言葉が言葉だけでは終わらない。言葉が出来事となる、現実となる。それが神の言葉、真実の言葉、信じるべき言葉、そして人を生かす言葉です。
 羊飼いは、これまでの生涯の中で初めて、そういう主の言葉を聴いたのです。どうして胸が弾まないはずがあろうかと、思います。これは、彼らにとって言葉に衝き動かされる初めての経験でしょう。彼らは、主の言葉に衝き動かされて「急いで行き」ました。そして、「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当て」ました。つまり、天使が話してくれた言葉通りのことがそこにあったのです。

 知らされたように知らせる羊飼い

「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」

   「その光景」
は意訳で、語の順で訳すと「彼らは見た、そして知らせた。言葉を(あるいは出来事を)、彼らに語られた、その子に関する」となります。ここでも、レーマという言葉が出てきます。天使が語った言葉を彼らは見て、それを天使が彼らに知らせたように彼らも人々に知らせたのです。「その光景」と訳されている言葉がレーマ、言葉です。そして、それは一五節の「主が知らせてくださったその出来事(言葉)」のままだったのです。それを見た羊飼いが、天使を通して主が知らせてくださったその出来事(言葉)を人々に知らせる者たちとされたのです。嘘つきの代名詞とも言われる羊飼いたちが、今や、主の言葉を伝える器にされている。

 不思議に思う 驚き

 「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」
とあります。「不思議に思う」とは、奇跡を目の当たりにした人々の恐怖に似た驚きを表す言葉としてしばしば使われます。暴風や大波で荒れ狂うガリラヤ湖をイエス様がひと声で鎮めてしまった時、弟子たちは、「恐れ驚いて、『いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか』」と互いに言いました。その時の「驚き」。あるいは、男の子にとりついて放れない悪霊を叱り、その子を悪霊から解放された時、「人々は皆、神の偉大さに心打たれた」とあります。この「心打たれる」「不思議に思う」(サウマゾウ)と同じ言葉です。
 羊飼いの語る言葉を聞いた人々は皆、そこに神様の働きがあることを感じた。それは確かでしょう。しかし、その後、彼らがどうなったかは分かりません。それ以上の反応については書かれていないのです。彼らは、聞き、不思議に思っただけで終わったのかもしれません。そういうことだって、いくらでもあります。

 心に納め 思い巡らす

「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」

 「心に納め」
とは「堅く守る」という意味の言葉です。そして、「思い巡らす」は、日本語の語感よりもうちょっと激しく心の内で葛藤するというか、議論を戦わせる。一体、この出来事は何なのかと激しく考えることです。ルカ福音書一四章三一節に、「どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは」という文章があります。その「戦いに行く」の中に、ここで「思い巡らす」と訳されたスムバロウという言葉が入っています。そういう激しさを伴う言葉なのです。
 そして、ここに出てくる「これらの出来事」も、レーマ「言葉」の複数形です。羊飼いが語った言葉のことでもあり、それはそのまま天使を通して主が語った言葉です。そして、それはマリアにしてみれば、語られた通りに自分の体を通して実現している出来事です。また、今、目の前に天使の言葉に衝き動かされた羊飼いが来ており、天使が語った通りの出来事を見て、天使から知らされたように、今度は彼らが人々にその言葉、その出来事を知らせている事実。それらすべてを含めて、マリアは「心に納めて、思い巡らしていた」のです。
 そのマリアは、イエス様の復活後、弟子たちと混ざって聖霊の降臨を熱心に祈り求める女性となっていました。自分が産んだ子を、救い主、メシア、主と信じる人間になったのです。そこにどれだけの激しい葛藤があったかは、想像を絶することです。

 律法の定めの実現

羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 初めに二一節の方から見ておきます。ここで言われている一つのことは、イエス様は当時の敬虔な信仰を持ったユダヤ人の家庭に生まれ、律法の定めの通りに割礼が施されたということです。生後八日目に男児には割礼を施す。これはアブラハムに遡るとされ、ユダヤ人の律法に定められたことです。

 天使の言葉の実現

 もう一つ言われていることは、「主は救い」を意味するイエスという命名は、受胎告知の時に天使ガブリエルがマリアに告げていたことで、その天使の言葉どおりにマリアたちは行ったということです。ここでも原文では天使がイエスと名付けたように、イエスと名付けられたとあって、天使の語った言葉が、そのまま出来事となった、現実となったということを強調しているのです。
 律法の言葉にしろ、天使の言葉にしろ、それは主の言葉なのですから、その言葉が実現していく、出来事となっている様を、この箇所は描いているのです。

 マリアにとっての言葉 出来事 賛美

 羊飼いたちは、まさに「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行き」ました。
 今日の箇所には、「出来事」でもあり語られた「言葉」でもあるレーマという言葉と、「話す」ことを意味するラレオウという言葉が何度も出てきます。天使が話したこと(言葉)を、羊飼いが話す。天使が話した通りのことが出来事となっているのを見て、羊飼いたちが神をあがめ、賛美しつつ帰っていく。この八節から二一節は、徹底的に「言葉」と「出来事」にこだわった箇所なのです。
 主の言葉は出来事となるのだ。まずは、そのことが高らかに宣言されていると思います。そして、その出来事としての言葉に出会った時、驚く人々と、その言葉に衝き動かされて行動する人々と、心深くにその言葉(出来事)を留め、激しく考え続ける人がいる。羊飼いは行動し、そのことで神をあがめ、賛美する人間となっていったのです。
 しかし、思い返してみると、マリアもそうでした。受胎告知の時、マリアは天使からこう言われたのです。

「あなたの親類エリサベトも、年をとっているが、男の子をみごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六カ月になっている。神にできないことは何一つない。」

 この場合の「こと」も、原文ではレーマですから「すべての言葉が神には不可能なことではない」とも訳せます。
 そして、この言葉を聴き、「お言葉どおりこの身になりますように」と献身したマリアは、早速エリサベトに会いに行きました。その時、エリサベトはマリアにこう言ったでしょう。

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 この「おっしゃったこと」は、今日の個所で四回も出てくるあのラレオウです。エリサベトによって、主がおっしゃったことは必ず出来事となると信じることの幸いを告げられたマリアは、羊飼いに先んじて、声高らかに神をあがめ、賛美を捧げました。そして、人々の疑いと蔑みの目にさらされるナザレの村に帰っていったのです。しかし、全く別人となって帰って行ったのです。

 羊飼いたちにとっての言葉 出来事 賛美

 羊飼いたち、彼らもまたしんしんと冷える夜の闇の中、夜明けに至るまで代わり番こに羊の番をする苛酷な現場に帰って行きました。人々の蔑みの目にさらされる羊飼いであり続けたのです。しかし、マリアも羊飼いも、主の言葉の真実を知る前と後では別人にされていました。心の奥底から湧き出る賛美を捧げる人間になっていたからです。
 この説教の準備をする上で、私はいつものように幾人かの牧師の説教を読みました。大抵は、私の先生とか大先輩の説教を読むのです。説教が本になっているのは、多くは著名な牧師のものですから、そういう牧師の説教を読むことになります。でも、最近は教会の礼拝で語られたごく普通の牧師の説教をインターネットで読んだり、聞いたりすることが出来る時代です。
 先日、昨年の四月に神学校を卒業したばかりの若い牧師が、地方の教会でルカ福音書の説教をしていることを思い出して、久しぶりに読んでみました。それは、私の若い頃など比較にもならぬ素晴らしい説教で、本当に驚きましたし、なによりも嬉しかったです。その牧師が、説教の最後で、この時の羊飼いがどんな賛美をしながら帰って行ったかを想像しています。「想像している」と言っても、あれこれ想像するわけではなく、極めて単純に、羊飼いたちは、天の大軍の賛美を歌いながら、厳しい現場に帰って行ったのではないか?という想像です。「マリアの賛歌」のような旧約聖書の言葉がちりばめられた立派な讃美歌ではない。たった二行のあの言葉、

「いとたかきところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」


 この言葉を、彼らは真っ暗な夜、底冷えがする夜、羊たちを引き連れながら、大きな声で歌いつつ、あの現場に帰って行った。私は、その様を思い浮かべつつ本当に胸が熱くなりました。

 キャンドルライトサービス

 昨年のクリスマスのキャンドルライトサービスで、この言葉に曲をつけて出演者、聖歌隊、そして会衆一同で繰り返し賛美をしました。その時も、心の底からの喜びを感じました。でも、毎年、ページェントでは、「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」というセリフが羊飼いの最後の台詞なのです。その後は、それまでの登場人物が、赤ん坊のイエス様を中心にして「きよしこの夜」を歌う場面で終わります。それがページェントの定番の終わり方だし、マタイ福音書とルカ福音書の登場人物を全部出すためには、そのようにして終わらなければなりません。だから、私は「神をあがめ、賛美しながら帰って行く」羊飼いについて、これまであまり注目してこなかったのです。でも、若い牧師の説教を読んだ時に、夜の闇の中を歌いながら帰って行く羊飼いたちひとりひとりの顔の輝きまで思い浮かべることが出来て、胸が震えました。

 私たちの代表としての羊飼い

 羊飼いは、私たち人間の一つの代表です。嘘をつくという意味で。その言葉が偽りである場合があるという意味で。私たちの口は汚れています。嘘をつきたくなくてもついてしまうのです。富を求めて、また自分を守るために、また嫌いな人間を陥れるために、傷つけるために。そして、ペトロのように「あなたとなら一緒に死にます」と言いつつ、数時間後には「あの人のことは知らない」と言って逃げていく。私たちの言葉は不真実です。
 ここで羊飼いが「賛美する」と訳されたアイネオウという言葉は、ルカ福音書では三回しか出てきません。そのうちの二回が、今日の箇所です。

「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
『いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。』」

 羊飼いの口から出る「賛美」は、天使の口から出る「賛美」と同じです。人間が、真実に神を賛美できるのです。この汚れた唇が清められ、神を賛美し、神の言葉を語ることが出来るのです。こんなに幸いなことはないでしょう!?

 真実な言葉を語れる喜び

 私たち人間は、真実な言葉に出会いたいのです。そして、真実な言葉を聴きたい。そして、真実な言葉を語りたい。嘘偽りのない真実な言葉を聴き、そしてその言葉によって生じる現実や出来事を見、そして語りたいのです。私にとっては、それは聖書の言葉を聴き、それが実現する様を見、そして語ることです。
 他人を引き合いに出すのは気が引けるので、自分のことを語りますが、私が若い頃からずっと真実の言葉を求めているのは、自分に真実の言葉がないからです。だから苦しいし、だから空しいし、だから悲しいのです。愛や信頼の言葉を素直に言えないし、素直に聞けない。人に真実な愛などない、と思っているからです。そういう私にとって、聖書の言葉、そこに出てくる神の言葉、イエス様の言葉、それだけが真実な言葉です。出来事となるからです。神様が「光あれ」とおっしゃれば「光がある」のです。イエス様が、「わたしはよい羊飼い。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃれば、それは出来事となるのです。そして、「わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」とおっしゃれば、信じた者にとってそれは出来事となる、現実となるのです。私がキリスト者として生きている、牧師として生きている、喜んで感謝して、賛美して生きている。それは目に見える現実です。主の言葉を信じたから、今もこうして、皆さんと礼拝を捧げているし、その中で主の言葉を語らせて頂いているのです。これも目に見える現実です。主の言葉が引き起こした現実です。皆さんも、同じです。礼拝者は、主の言葉が造り出す存在だからです。
 だから、この言葉だけは信じて語ることが出来ます。真実な言葉、救いの出来事を引き起こす言葉だからです。そういう言葉と出会うことの喜びに勝るものはないし、そういう言葉を私のような人間が語ることが出来る喜びに勝るものはありません。
 羊飼いの喜びもそこにあるでしょう。もちろん、最も貧しき者、神に見捨てられた者とされていた自分たちに、真っ先に「民全体に与えられる大きな喜び」が伝えられた喜びがあるでしょう。しかし、それだけではない、天使の口と同じように、自分たちも神の言葉を語ることが出来る、賛美の言葉として語ることが出来る。その喜びがあるのです。真実な言葉を見聞きして信じた時、人は、こういう真実の言葉を天使と共に語ることが出来るようになるのです。その喜びは、よく分かります。
 彼らが帰って行く現場、それは厳しいものです。ローマの皇帝がおり、その下にローマの総督がおり、さらにヘロデ大王がおり、彼の家来がいる。そして、過酷な税の取り立てがあり、差別と抑圧と人殺しがある世界です。その世界の最底辺に、彼らは帰って行きます。でも、その最底辺から、天にある神の栄光を賛美し、地に到来した平和を宣言するのです。富や名誉によって保証される平和ではない。神の愛によって与えられる平和です。
 信じる私たちは、今日もその平和を与えられるのです。主の十字架の死と復活を通して与えられた平和を、です。だから神様を賛美しましょう。そして、賛美しつつ各々の現場に帰りましょう。これほど大きな喜びはないのです。

説教目次へ
礼拝案内へ