「賛美と剣」

及川 信

       ルカによる福音書  2章22節〜40節
2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
2:33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 2:35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
(二章二八節〜三五節)

 前回、二章二二節から四〇節までの段落はエルサレム神殿を舞台としており、旧約聖書の「律法」という言葉が枠組みになっていると言いました。そして、三二節までをご一緒に読みました。こうやって少しずつ読み進めて来ると、ルカは今日の箇所までのクリスマス物語において、老若男女や様々な立場の人々をバランスよく配置していることが分かります。高齢のザカリアとエリサベツ夫妻に対するヨセフとマリアの夫妻、ザカリアの賛歌とマリアの賛歌、身分の高い者と低い者、そして、ペアのように出てくるシメオンとアンナ。そういうきちんとした枠組みの中で主なる神様の救済の歴史が進展している様が描かれています。そのことを踏まえた上で、今日は三三節から三五節までのシメオンの言葉に注目したいと思っています。

 何故、驚いたのか?(1)

 父と母は、幼子について このように言われたことに驚いていた。

 「驚いていた」とあります。他の個所では、奇跡を目の当たりにした時の人々の驚きとして使われる言葉です。
 ヨセフとマリアは、なぜそれほどまでに驚いたのでしょうか?特にマリアは、天使から受胎告知を受けるという驚くべき経験をしたのだし、ヨセフだって彼女からそのことを聞いていたはずです。彼らは、それぞれ天使が語る驚くべき言葉に身を委ね、その言葉が実現していることを身をもって知っている。だから、シメオンがイエス様を抱いて神様を賛美する様を見ても、当然のこととして受け止めてもおかしくないとも思います。理屈から言えば、たしかにそうだと思います。でも、果たしてそうなのだろうか?
 牧師をしていると、時たま「先生でも知らないことがあるのですか?」ということを言われることがあります。牧師は聖書のことは何でも知っていると思われている節があるのです。どのレベルで「知っている」と思われているのかが問題です。聖書の成り立ちだとか、新旧併せて六六巻のそれぞれの特色だとか、キリスト教信仰の内容だとかのごく初歩的なことは知っておかねばならないだろうし、牧師であれば誰だって「知っている」と言ってもよいかもしれません。でも、「今日、この箇所を通して神様が私たちに何を語りかけて下さるのか」ということになれば、それは多少持っている知識など何の関係もないことであり、白紙の状態に近いのです。表面的な意味が分かることと、そこに記されている言葉を神の言葉として聞くことは全くの別物であり、神の言葉として聞く、あるいは聞こえる瞬間はいつだって驚きに満ちたものです。
 それは、皆さんも同様だと思います。特に福音書に記されていることは多くの方が「知っている」ことです。今日の箇所だって初めて読んだという方は実際には少ないだろうと思います。でも、毎週、礼拝を通して、「ここにはこんなことが書かれていたのか?知らなかった・・」という驚きを感じられるのではないでしょうか?少なくとも、私にとっては毎週の礼拝がそうです。神様の言葉を聞くとは、常に新しいことであり、常に驚きに満ちたことなのです。マリアやヨセフは、そういう意味で、シメオンの言葉を聞いて驚いている。そう言えるだろうと思います。

 何故、驚いたのか (2)

 しかし、多分それだけではない。彼らは、これまで聞いたこともないことを聞いて驚いている。そういうこともあると思います。
 先週も少し触れましたが、マリアの賛歌にしろ、ザカリアの賛歌にしろ、そこにあるのはイスラエルの民を救う神様に対する賛美でした。イスラエルの先祖アブラハムに対する約束を神様が覚えていて下さり、いよいよ実現して下さることを彼らは賛美したのです。問題は、あくまでも「イスラエルの救い」です。
 しかし、天使は「民全体に与えられる大きな喜び」を羊飼いに告げました。この場合の「民全体」は、全世界の民という意味だと思います。その言葉を、マリアとヨセフは羊飼いを通して間接的に聞いてはいます。しかし、今、シメオンは幼子イエスを抱きながら「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れ」ですと賛美したのです。はっきりと「異邦人」という言葉が出てきます。ギリシア語では、エスノスと言います。文脈によっては「民」とか「国民」とか訳されますが、「イスラエルの民」(ユダヤ人)に対する「異邦人」の意味でしばしば出てくる言葉なのです。
 たとえば、一二章二九節以下で、イエス様はこうおっしゃっています。

「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」。

 二一章二四節では、こうおっしゃっています。

「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」

 いずれも、決してよい意味で出てくるわけではありません。神への信仰がない異邦人、神の都エルサレムを蹂躙する異邦人。神を知らず、神に反逆する異邦人。それは、とりもなおさず神の民イスラエルの敵であり、神に見捨てられた人々という意味を持ちます。「異邦人」とは、そういうネガティヴな意味を持っている言葉です。神の民イスラエルと異邦人は完全に分裂しているのです。
 しかし、ルカ福音書の最後では、復活のイエス様が弟子たちに向けてこう語りかけておられます。二四章四五節以下を読みます。

そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。」

 ここに出てくる「あらゆる国の人々」が「すべてのエスノス」となります。それは「すべての人」のことです。イエス様から見るならば、イスラエルと異邦人の間の分裂はありません。すべての人間が罪に支配されているからです。つまり、神との間が分裂している。そのことこそが問題なのです。だから、その罪の赦しを得させる悔い改めが「あらゆる国の人々」に宣べ伝えられねばならない。そして、その宣教の言葉を聞いて悔い改めた者は、イスラエルに属する者であれ異邦人であれ、主イエス・キリストの贖いに与り、罪が赦される、救いに入れられる。そういうことです。
 その「異邦人」の救いが、イエス様によってもたらされると、シメオンは語っているのです。マリアもヨセフも、イスラエルの神、主の救いが異邦人に及ぶと聞いたのは初めてです。そんな救いがあるなど、当時のユダヤ人はだれも考えてもいませんでした。異邦人の支配から解放される救いを待ち望む人々はいました。また、異邦人にはないユダヤ人だけに与えられる罪の赦しを求めていた人もいたでしょう。アンナが賛美しつつ、イエス様のことを話した人々も、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々」でした。しかし、イエス様を通してこの地上にもたらされる救いは、イスラエルに限定されたものではない。イスラエルと異邦人の分裂を越えてすべての人に救いを与えるものなのだと、シメオンは告げている。それが、この時のヨセフとマリアにとっての驚きなのだと思います。

 祝福と苦しみ

シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。
「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」


 「祝福した。そして言った」が直訳ですが、そこで言われたことは、直前にある「賛美」「安らか」(平和)「栄光」とは全く裏腹に、「倒れる」「反対を受ける」「剣で刺し貫かれる」という物騒なものです。これは一体どういうことなのか?

 躓きの石 隅の親石

 「定められる」とは、「置かれる」とか「据えられる」という意味です。この言葉の背後にも旧約聖書の言葉があると思います。イザヤ書から二か所を読んでおきます。
 最初に、八章一四節以下ですが、そこにはこうあります。

「主は聖所にとっては、つまずきの石
 イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩
 エルサレムの住民にとっては
 仕掛け網となり、罠となられる。
 多くの者がこれに妨げられ、倒れて打ち砕かれ
 罠にかかって捕らえられる。


 続いて、二八章一六節以下を読みます。
それゆえ、主なる神はこう言われる。
「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない」。


 主を礼拝する聖所、エルサレム神殿において、主ご自身が人々のつまずきの石、妨げの岩となるというのです。なんという皮肉かと思います。そして、なんともリアルなことだとも思います。主を礼拝している多くの者が、実は主という石につまずき、妨げられ倒れるというのです。しかし、その一方で、信じる者にとっては、その石は、堅く据えられた礎の貴い石であり、何も慌てることはない。むしろ、その石の上に堅く立つことができる。それが、神の民イスラエルにおける分裂した現実なのです。誰も彼もが、主という石の上に信仰をもって堅く立つわけではない。主の名を語り、主を礼拝しつつ、主に反逆し、主につまずき、倒れる人もいるのです。それは教会の中でもいつでも起こっている分裂と同じです。

 信じる者とそうでない者との分裂

 イエス様は弟子たち、つまりイエス様を信じて従う者たち(教会)に向けてこうおっしゃいました。

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである」。

 クリスチャン家庭に生まれた人は、信仰を与えられるまではその家の中で何か居心地が悪い違和感を抱きつつ生きているものです。身内としては家族だけれど、完全な意味では神の家族となっていないからです。その一方で、家族の中で初めてキリスト者になる方の場合、それは家族内で分裂や敵対を引き起こすこともあると思います。封建制が崩壊した現代では、個人の思想信条は重んじられますから、昔ほどのことはないにせよ、本質は昔も今も変わりありません。
 イエス様と出会うということ、その言葉を聞くということ、それは誰にとってもそしていつでも、衝撃的な体験です。なんとなく聞き流すのではなく、自分に対する語りかけとしてちゃんと聞くとすれば、その言葉に対して賛成か反対の応答をせざるを得ないからです。イエス様を信じて従うか、信じないで従わないか、愛するか、憎むか。その中間がないのです。自分としては態度を保留しているつもりでも、それは保留でも何でもありません。信じて従わないことにおいて、反対している、拒否していることと同じだからです。イエス様を信じる者は、神殿の隅の親石の上に立つし、拒絶する者はつまずいて倒れるのです。そして、その人々はイエス様を殺す。
 主イエスの言葉とそれに対する態度によって、教会の内と外が分裂していくことは勿論のことです。しかし、実は、それえは教会の内側でも起こっていることなのです。

 心 剣

 シメオンは、ちょっと唐突に「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と言いました。これは何を言っているのでしょうか?一般的には、マリアの息子は、これからイスラエルの人々に反対され、拒絶され、殺されてしまう。そのことで母マリアは痛烈な痛みを感じることになる。そういうことを預言した言葉だ、という線で解釈されるように思います。私もこれまではなんとなくそのように感じていました。でも、果たしてそうなのか?それだけなのか?ちょっと違うような気もします。ここでシメオンは、一人の人間マリアの中にも引き裂かれる分裂が起こると言っているのではないか?
 ここに「心」とあります。でも、実はその「心」「多くの人の心にある思い」に出てくる「心」とは原語では違います。ここはちゃんと訳し分けた方がよいと思います。「マリアの心」はプシュケーという言葉で、「多くの人の心」はカルディアです。プシュケーは他の箇所ではしばしば「命」と訳される言葉です。内面の奥底という意味で「魂」と訳されることもあります。
 また、「剣」と訳された言葉、ロムファイアは、先ほど引用した中にある異邦人が剣でエルサレムを攻めるという場合の剣(マカイラ)のことではありません。ロムファイアは、ルカ福音書には、ここにしか出て来ない言葉ですし、新約聖書全体でも他にはヨハネ黙示録に六回だけ出て来る珍しい言葉です。
 黙示録でも、「だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう」という形で出て来ます。目に見える武器としての剣ではなく、人間の心の中に隠された罪を、鋭いメスのように抉りだしていく言葉、そういう言葉の象徴として「剣」という言葉が使われているのです。剣は罪人に対して鋭い痛みを与えます。その痛みを通して、悔い改めさせる。神の許に帰らせる。分断された神と人の間を繋いでいく。そういう鋭い言葉、それが「剣」、「口の剣」だと思います。裁く言葉であり、救いへと招くことなのです。分裂しなければならないものと分裂させ、繋がらねばならぬものと繋がせる。そういう言葉です。そして、その剣が、マリアの心、魂、命を刺し貫くことになる。シメオンは、そう語っている。私は、そう受け取ってもよいのではないかと思います。

 刺し貫かれる母マリア

 先ほどから私は「マリア」と言っていますが、ルカ福音書で、この言葉が出るのは今日の箇所が最後です。以後、「母」として出て来ます。しかし、その母は、イエス様の言葉によって、まさにその魂、命が刺し貫かれていくのです。
 次週読む箇所で、十二歳になったイエス様は、過越し祭が終わって多くの人々と一緒にナザレに帰って行く両親には無断で神殿に残ります。そして、学者たちと議論している。母は「なぜこんなことをしてくれたのです。お父さんもわたしも心配して捜したのです」と言って叱ります。しかし、イエス様はこうお答えになりました。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

 この少年イエスの言葉は、両親の心を突き刺したでしょう。そして、彼らはこの時、この言葉が何を言っているのか分からなかったのです。無理もない話です。(私も、今は全く分かりません。来週、分かりたいと願っています。)
 しかし、母マリアは、さらにきついことを言われることになります。それは八章一九節以下です。

さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

 皆さんの中でも母である人は、この言葉のきつさは肉感的に分かるのではないでしょうか?もう母と子の関係は、完全に断ち切られているのです。イエス様のおっしゃる通り、ここには平和はなく、分裂があります。肉親の家族は断ち切られ、イエス様には信仰の家族がある。最早、マリアは母でもない。こういう苦痛をマリアは味わうことになります。イエス様の剣のような言葉によって、母子、兄弟の関係は分断され、肉親の家族は分裂したのです。マリアもまた、肉親の母としてイエス様と交わりをもつことは許されない。彼女もまた、一人の人間、一人の罪人として悔い改め、神の言葉を行う人間とならねばならない。そういうことではないかと思う。

 あらわにされる心の思い

 このように言い放つイエス様を見、その言葉を聞く時、私たちの心にある思いがあらわにされていくのではないでしょうか?「こんな方にはとてもついていけない。」「こんな方とはまともに付き合いきれない。」そういう思いが私たちの心の中に「ない」とは言えないと思います。
 イエス様にとって、イスラエルの民と異邦人の区別はありません。そして、身内と他人の区別もない。通常は、イスラエルと異邦人の間は分裂しており、身内と他人の間も分裂しているのです。しかし、イエス様は、そういう分裂した人間世界の中を通り抜けて行かれるのです。そして、すべての人間と同じ立場で出会っていかれます。すべての人間が、罪によって神と関係が断ち切られている、分裂しているからです。

 巡り歩く主イエス

 「剣で刺し貫かれる」は原文では「剣が刺し貫く」ですけれど、「刺し貫く」(ディエルコマイ)とは、「間を通り抜ける」とか「巡り歩く」という意味です。イエス様が村から村へ、町から町へと伝道の旅をする様を描く時に使われる言葉です。そして、イエス様は、村々を巡り歩きながら、その鋭い剣のような言葉で、罪の悔い改めをするように叫び続けたのです。私たち人間にとって、最も深刻な問題は、神との分裂という罪であることをイスラエルの民に語り続けたのです。イスラエルの民もまた、罪を悔い改めない限り、異邦人と同じく裁かれて滅びに終わることを告げられたのです。その鋭い剣のような言葉で、人々の心の中にある思いを暴き出して行かれた。そうしない限り、誰も悔い改めないからです。しかし、そうすればするほど人々は躓きました。特に、自分は信仰深いと思っている人々ほどイエス様に躓き、倒れ、反対し、ついにはその命を奪おうとするようになりました。その結果が、イエス様の十字架の死です。

 イスラエルの民と異邦人 そして人間

 その十字架の下で、イスラエルの民を代表するユダヤ人の議員たちは、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と嘲りました。そして、異邦人を代表するローマの兵士たちは、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と嘲りました。ここにおいて、イスラエルの民も異邦人もありません。両者とも主イエスを拒絶し、嘲っているのです。
 パウロという人は、イスラエルの民と異邦人の区別、その分裂を誰よりも深く知っていた人であり、自分をイスラエルの中のイスラエルと自負していた人でした。律法の義と血筋を誇っていたのです。しかし、その彼が復活のキリストと出会い、その言葉に刺し貫かれることを通してユダヤ人として死んだのです。それは主の名を呼びつつ主に躓き、倒れている自分を知ったということです。そして、主は自分が迫害しているイエスであることを知り、そのイエスが、自分の罪を赦し、新たに生かしてくださることを知ったということです。そのようにしてキリスト者にされたパウロは、ローマの信徒に向けてこう言っています。

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

 一人の人の罪によって死がすべての人に及んだ。この「及んだ」はディエルコマイです。死がすべての人の間を通った、巡り歩いた、刺し貫いたのです。そのことにおいて、イスラエルも異邦人もないのです。身分の高い者も低い者もないし、男も女もない。身内も他人もない。すべての人間が罪人だからです。だから死すべき人間、神の裁きによって滅ぼされるべき人間なのです。聖書の言葉は、本当に鋭い剣です。
 しかし、そのすべての罪人の手によって十字架に磔にされた方こそ、「万民のために整えられた救い」「異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れ」であるイエス様です。パウロは先ほどの言葉の続きで、「一人の罪によってすべての人に有罪判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」と言っています。この「一人の正しい行為」とは、罪がないのに、いやそうであるが故に、罪人の罪を一身に背負って有罪判決を受け、十字架に磔にされる行為のことです。
 異邦人を代表するローマの兵士の百人隊長は、イエス様の体を十字架に釘で打ちつけた人間ですが、彼は、イエス様が「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈る姿を見ました。また、十字架の上で悔い改めた犯罪者に向って、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われるのを見ました。さらに、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と言って息を引き取られるのを見ました。そして、彼は「本当に、この人は正しい人だった」と言って、「神を賛美した」のです。ルカ福音書で、十字架の主イエスの前に悔い改めたのは死刑にされたユダヤ人の犯罪者であり、十字架の主イエスを見て神を賛美した最初の人間は、ユダヤ人を処刑する異邦人なのです。

 倒したり、立ち上がらせたり

 シメオンは、イエス様のことを「多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ」ていると言いました。ここは、解釈が分かれる所です。イエス様に躓いて倒れる人と信じて立ち上がる人がいる。その両者の間には越え難い分裂があると解釈することが出来ます。私は、ここまでその線に立って語って来たのです。しかし、その一方で、イエス様は一旦は不信仰によって倒れた者を、恵みによって新たに立ち上がらせることが出来るお方なのだと解釈することも出来ます。私は、二者択一である必要もないと思っています。イエス様と出会う時に、また従っていく間に、その鋭い言葉や激しい御業に躓かない人間などいないし、反発を覚えない人間などいません。誰だってイエス様には躓き、そして倒れます。祭司長や律法学者や議員だけが躓き、倒れたのではないのです。マリアだって躓き倒れたし、弟子の筆頭ペトロだって躓き、倒れたのです。
 でも、ルカ福音書の続きである使徒言行録の一章一四節には、「イエスの母マリア、またイエスの兄弟たち」が十二弟子たちと「心を合わせて熱心に祈っていた」と記されています。ルカ福音書の八章で、イエス様に面会すら拒絶された母マリアと兄弟たちは、イエス様の十字架の死と復活を経て、今や新しいイスラエル、神の家族の一員として新たに生きる者とされているのです。
 そして、剣によって刺し貫かれて死ぬことを恐れ、「わたしはあの人を知らない」と言ってしまい、泣き崩れたペトロは、聖霊を与えられた時、イスラエルの人々、また五旬祭を祝うために全世界の「あらゆる国から帰って来た信心深いユダヤ人たち」に向って立ち上がり、力強く説教をしました。

「神は、このイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。
だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」


 この説教を聞いて、心を刺された(翻訳は「打たれた」ですが、原語は「刺された」です)人々が、ペトロに「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねました。ペトロは言いました。

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

 イエス・キリスト、この方は、「異邦人を照らす啓示の光」「あなたの民イスラエルの誉れ」「万民のために整えてくださった救い」です。多くの人を倒し、そして立ち上がらせるお方です。多くの人の心を剣で刺し貫きつつ、今も私たちの間を巡り歩いておられるお方です。すべての人を悔い改めへと招くため、誰でも罪に死んでキリストと共に新たに生きることができるためです。
 私は今日も、イエス様の言葉に刺し貫かれて躓き倒れ、しかし、恵みよって、その言葉を語る者として新たに立ち上がらせて頂いています。だから平和です。説教を通してイエス様の言葉をその心に聞いた人にも同じことが起こっているはずです。皆さんも、この言葉に刺し貫かれ、倒れ、そして今立ち上がらされているでしょう。
 そういう私たちに向って、今日も主イエスは祝福を与え、そして、「平和の内にこの世へと出て行きなさい」と派遣されるのです。万民のための救いを宣べ伝えるためにです。私たちの「神を愛し、隣人に仕え、隣人を愛し、神に仕える」姿を通して、主の救いは表れて行くのです。主に感謝し、主を賛美したいと思います。
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