「言葉の意味が分からない」
2:41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。2:42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。2:43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。2:44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、2:45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。2:46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。2:47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 2:50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。 2:51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。2:52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。 ルカ福音書の構造 今日の箇所は、クリスマス物語と洗礼者ヨハネの登場の間に置かれたイエス様の少年時代に関する物語です。こういう物語はルカ福音書にしかありません。今、私は「物語」と言っていますが、聖書における物語とは「出来事」を意味します。単なる作り話という意味で物語なのではなく、出来事です。しかし、いわゆる歴史的な出来事とはまた違う、神様の救済の歴史を語る出来事と言うべきだろうと思います。それは目に見える者には見える出来事です。ルカは、その出来事を順序正しく、そして緻密な構想をもって書いていると思います。 先週、ルカ福音書の構造について少し触れました。今日は、もう少し深く構造について語らせて頂きたいと思います。ルカのメッセージは、その構造を通しても示されていると思うからです。 場面と文章の枠 先ほどは「新共同訳聖書」の区切りに従って四一節から読みました。物語の「場面」という意味では、四一節から新しい場面が始まることは確かです。しかし、三九節と四〇節は「律法」がキーワードの二二節からの段落の結末であると同時に、四一節以降の始まりでもあります。それは、「知恵」という言葉が四〇節と五二節に出て来ることからも分かります。四〇節には「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」とあり、五二節は「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」です。この二つの文章が、一つの枠になっていることは明らかです。 また、イエス様の両親が律法に定められたことをすべてなし終えてエルサレム神殿から居住地であるナザレに「帰った」という三九節の記述は、五一節にも出てきます。彼らは、ここでも定められた祭りの期間をちゃんとエルサレムで過ごした上でナザレに帰るのです。エルサレム神殿における礼拝を起点として、生活の場に帰る。信仰を生きる現場に帰って行く。それは、ルカ福音書一章のザカリアの経験と同じだし、二四章でイエス様が弟子たちに命じることとも軌を一にしています。エルサレム神殿における礼拝から生活へ、礼拝から伝道へ、そういう大きな構造をルカ福音書は持っているのだと思います。その点において、福音書の冒頭と結末は対応しており全体の枠になっていると思います。福音書冒頭部分の結末である今日の箇所は特に、二四章との関連がある箇所なのです。 言葉 出来事 もう少し、今日の箇所の構造的なことに触れておきます。「母はこれらのことをすべて心に納めていた」とあります。これは、羊飼いたちがベツレヘムの家畜小屋にやって来て天使が告げた言葉を語った時、人々の驚きをよそに「マリアは、これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」に対応します。そして、「これらのこと」と「これらの出来事」は、レーマというギリシア語でしばしば「言葉」と訳されます。今日の説教題に挙げた、「イエスの言葉の意味が分からなかった」の「言葉」がレーマです。だから、ここは「両親にはイエスの語ったことが分からなかった」とも訳せます。「言葉」は「出来事」なのです。そして、その言葉、出来事、あるいは物語が何を語っているのか?それは、語られたその時、あるいは読んだその時に自動的に分かるわけではありません。イエス様によって「心の目が開かれ」なければ分からない。そのことが、この福音書の最後、二四章まで読んでいくと分かります。 十二歳 今日の箇所に登場するイエス様は、十二歳です。ユダヤ人にとって十二歳の少年は、律法に従った成人男子の歩みを見習う年齢だそうです。十三歳で律法の知識を身につけて、宗教的な意味では成人男子として扱うことになっていました。日本で言えば中学一年生ですけれど、昔は日本でも十五歳で元服でしたし、「十二歳」と聞いて、今の日本の中学一年生を思い浮かべることはしないほうがよいでしょう。 両親 捜す 今日の箇所に、繰り返し出てくる言葉があります。その一つは「両親」です。四一節と四三節に出てきます。翻訳では、その後も三回出てきますが、原文では最初の二回だけが両親と記されており、あとは「彼ら」という形なのです。それは、後に言いますように意味のあることだと思います。 また、「捜す」という言葉が四回出てきます。最初の二回は、両親がイエス様を捜しながらエルサレムに引き返したという説明文の中に出てきます。アナゼーテオウと言って、捜し回るとか、徹底的に捜すという強調形です。後の二回はゼーテオウで、マリアとイエス様の対話の中に出てきます。このゼーテオウは、ここで初めて使われます。そして、二四章にも出てきます。今日の説教は最終的に、この言葉に関するものとなります。 人の子 神の子 ルカ福音書を少しずつ読み進めていて分かることは、イエス様は律法に忠実に生きるユダヤ人家庭に生まれた長男であるということです。生まれて八日目に割礼を施されることも、長男として主に捧げられることも律法の規定どおりでしたし、年に最低一回、過越し祭にはエルサレム神殿に詣でることも律法に定められたことです。ユダヤ人であれば皆が皆、忠実に守っていたわけではないでしょう。しかし、イエス様の両親は、そういうことをきちんと守る人々でした。そういう家庭の長男、一人の人間としてのイエス様が描かれています。 しかし、その一人の人間は、同時に「神の子」「救い主」「メシア」「主」である。そういうことが、天使によって高らかに宣言される。それも、ルカ福音書の際立った特色です。人にして神、そういう存在として、ルカ福音書はイエス様を順序正しい物語の中で描いていくのです。 知恵 先ほども言いましたように、ここでは「知恵」という言葉が一つの枠組みになっています。その「知恵」とは、いわゆる人間的な「賢さ」を超えた意味を持つ言葉です。聖書の中で「知恵」が、どのように使われ、どのような意味を持っているかを跡付けて語ることは、私には到底出来ることではありませんし、説教ですべきことでもないでしょう。 ルカ福音書では、この後、何回かイエス様の言葉の中に「知恵」という言葉が出てきます。そこにおける「知恵」とは、イエス様ご自身のことであったり、イエス様が弟子たちに授けるものです。パウロは、コリントの信徒への手紙一において、「神の知恵たるキリスト」と言っています。つまり、「知恵」は、単に人間として賢いこととは全く別物であり、知恵の源である神様の性質を示す言葉なのです。そして、知恵はしばしば命の創造と関わりをもっています。 わが子、イエスを捜す両親 しかし、そういうことは、この時の両親には分からない現実です。彼らは、あくまでも「自分たちの子ども」であるイエス様を捜し回ります。最初は、同行していた親類や知人たちの中にいないかを捜し回りました。イエス様の同年齢の少年たちだって一行の中には何人もいたでしょうから、そういう少年グループの中にいることが自然です。しかし、イエス様は、そこにもいませんでした。ナザレから来た一行は、たった一日分だけ歩いただけです。しかし、両親が、エルサレムに引き返しつつ、イエス様を見つけるのに三日も掛かっています。主イエスが本来どこにいるべき方であるかを、彼らが全く理解していなかったことが、こういう記述からも分かります。 神殿にいるイエス様 イエス様は、神殿の境内にいました。そこは、民衆が学者(教師)から律法に関する教えを受けることができる場所だったと言われます。そして、多分、イエス様は一人の生徒として学者たちに様々な質問をしていたのだと思います。質問は、話を聞いても分からないからするものです。しかし、分からない人は質問も出来ないのです。ちゃんとした質問が出来るのは、ある程度分かっている人ですし、質問の中には鋭いものがあって教師がタジタジになる場合もあります。イエス様も多分、そういう質問をしていたのでしょう。そして、何とかして父なる神様の御言の意味、つまり御心を知りたいと願っておられた。 驚く 周囲にいる人たちは、そのイエス様の受け答えの賢さに触れて「驚いていた」とあります。既にルカ福音書では「驚く」という言葉が出て来ていました。シメオンの言葉を聞いてイエス様の両親が「驚いていた」とありました。今日の箇所の四八節にも両親(原文では「彼ら」ですが)が「驚く」とあります。翻訳は皆同じなのですけれど、原文では三つとも違う言葉が使われているのです。 この時「周囲にいた人々の驚き」は、イエス様が会堂司の娘を死から復活させた時に、「娘の両親は非常に驚いた」という形で出てきます。もう一回は、二四章で、イエス様の復活を女たちから知らされた弟子たちの驚きです。両方とも、死人の復活という異常な出来事を知らされた時の驚きを表しています。イエス様を通して示される神様の御業の究極が復活です。その復活を目の当たりにしたり、聞かされた時の驚きと似たものが、この時イエス様の周囲にいた人々にあった。そういうことを、ルカは言いたいのだと思います。 それに対して、イエス様の両親の「驚き」は、イエス様が語る言葉の権威や奇跡を目の当たりにした時の人間の驚きという形で出てきます。周囲にいた人々の驚きに比べると、こちらの方は、単純な驚き、びっくり仰天したという感じが強いと思います。特に両親においては、そうでしょう。 詰問する母 だから、母(「彼の母」)はこう言うのです。 「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。 何故か翻訳されていませんが、冒頭に「息子よ」という言葉があります。「坊や」と訳しているものもありました。この時の彼女にとっては、イエス様はあくまでも十二歳の息子です。十三年前には、天使から受胎告知をされたマリアです。しかし、彼女にとってイエス様は、自分の体から生まれ、毎日何回もおむつを替え、おっぱいをあげ、様々な世話をして大きく育ててきた息子です。この時のイエス様は、そういう息子の一人なのです。 それは、五一節の言葉からも分かります。イエス様は、この後、両親と一緒にナザレに帰ります。そして、「両親に仕えて暮らす」のです。先ほども言いましたように、原文では敢えて「両親」ではなく「彼ら」になっています。もちろん、目に見える形ではイエス様の両親です。でも「彼ら」なのです。イエス様にとって、特に父は、ヨセフではなく神様です。そういうことを、この「彼ら」は暗示しているでしょう。「両親」から「彼ら」にはっきりと替わるのは、四九節の主イエスの言葉以降です。 しかし、その「彼ら」と一緒にイエス様はナザレに帰り、仕える。十戒にあるように、父母を敬って、服従して生きるのです。「仕える」とは、自分を下位に置く、目上の存在に服従するという意味です。イエス様は、そういう一人の子、ユダヤ人の子という側面を、この時はまだ色濃く持っています。 しかし、この時既に、イエス様はそういう一人の子どもであるだけではない。父の家で父の仕事を継ぐことが使命の長男ではない。そのことが、マリアとの問答を通して明らかになっていきます。 マリアは、「息子よ、なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と言いました。なじったと言った方がよいかもしれません。「お父さん」は「あなたのお父さん」と書かれています。「心配した」は、悶え苦しむという意味です。それはそうでしょう。親が、多くの群衆の中で息子を見失ってしまい、三日も見つけ出すことができなかったとしたら、もう生きた心地がしないと思います。しかし、彼らはこの時、イエス様の姿を捜し求めつつ、実はイエス様の正体を捜し求めてもいるのです。そうとは自覚しない形で。 イエスの父 それはとにかくとして、この母マリアの詰問に対して、イエス様はこうお答えになりました。 「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。 この言葉は、先週も言いましたように、親にしてみれば鋭い剣でその心が刺し貫かれるような言葉でしょう。イエス様は、「あなたのお父さんは」という言葉に対して、「私が、私のお父さんの家にいるのは当たり前であることが、なぜ分からないのですか?」と言うのです。これはきつい言葉です。そして、彼らにとっては意味が分からない言葉です。 さらにこの言葉は、私たちにとっても実は意味不明の言葉でもあります。私たちが礼拝で用いている新共同訳聖書は、「自分の父の家」と訳しています。それは文脈上正しいでしょう。でも、原文では「家」という言葉はなく、「私の父の事柄の中に」とも言うべき言葉で記されている。だから、こうも訳せるのです。「私の父の仕事をしていることが、なぜ分からないのですか」。英訳ではマイ ファーザーズ ビジネスという言葉が使われます。 成人男子の見習いをする年齢のイエス様が、自分の家は神殿だと言い、あるいは御言に関する問答していることを父の仕事をしているのだと言う。「ここにいることこそ、そしてこういうことをしていることこそ、本来の私なのだ」とおっしゃる。この時のヨセフとマリアに、その言葉、あるいは目の前で起こっている出来事の意味が分かるはずもありません。 当たり前 捜す ここで「当たり前だ」と訳されている言葉、それはギリシア語ではデイと言います。必然を表す言葉で、他の福音書でも重要な言葉ですが、ルカ福音書には頻出しますし、非常に重要な言葉なのです。その言葉が、この箇所で初めて出てきます。先ほど、「捜す」(ゼーテオウ)という言葉も、この箇所に初めて出てくると言い、最後に出て来るのは二四章であると言いました。それはとても大事なことだと思います。 二四章は、イエス様の復活と弟子への顕現、そして昇天が記されている章です。女たちは、安息日が開けた日曜日の明け方に、イエス様の遺体に香料を塗ろうとして墓に向かいました。しかし、行ってみると、墓の蓋である大きな石が転がされており、「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」とあります。「見当たらなかった」とは「見つけることができなかった」という意味です。それは、イエス様の両親がイエス様の姿を見つけた時と同じ言葉が使われています。でも、彼らはイエス様を捜しに捜した上で、漸く神殿の境内でイエス様の姿を見つけたのだけれど、イエス様の正体、その本性を見つけることはできませんでした。この時の女たちも、イエス様の遺体を見つけよう捜し求めて墓に来たのです。しかし、見つけることが出来なかった。墓にいた二人の天使は、彼女らにこう言いました。 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」。 天使は、女たちに、「あなたたちは、イエス様が本来いるはずのない所を必死になって捜している。何故なんだ」と言っているのです。そして、「イエス様の言葉を思い出せ」と言いました。 イエス様はなんとおっしゃっていたか。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」とおっしゃっていたのです。この「なっている」という言葉が「デイ」、「当たり前」と同じ言葉です。 弟子を捜すイエス様 主イエスはこの後、女たちが伝えた天使の言葉を聞いて驚きつつも、結局、すべては終わったと諦め、故郷のエマオに帰って行ってしまう二人の弟子たちを追いかけて、見つけ出し、語りかけて下さったのです。しかし、心の目が閉ざされている弟子たちは、それがイエス様だとは分かりませんでした。その二人に向って、イエス様はこうおっしゃいました。 「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 この「はずだったのではないか」もデイ、「当たり前ではないか」、「必然ではないか」です。その後、イエス様から旧約聖書の説き明かしを聴き、さらに賛美の祈りを唱えてパンを裂く主イエスの姿を見た時、彼らの「心の目が開かれ」ました。そして、目の前にいるお方が、主イエスだと分かったのです。その途端、主イエスは肉眼の目には見えなくなりました。 しかし、彼らは心燃える思いでエルサレムにとって返しました。すると、そこではやはり復活の主イエスと出会ったペトロを初めとする弟子たちが集まっていました。その輪の中に、イエス様が突然現れて「あなたがたに平和があるように」と語りかけられたのです。しかし、彼らはまだ亡霊を見ているような恐れに捕らわれていました。 そこで、主イエスは、彼らの目の前で魚を食べ、その上で、こうおっしゃった。 「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。 「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 この中の「必ず実現する」の「必ず」がデイです。旧約聖書で語られているメシアに関する神の言葉は、実現するのが当たり前、必然なのです。主イエスは、ずっとそのことを語ってこられた。しかし、その当然のこと、当たり前のことを告げるイエス様の言葉の意味が、この時まで弟子たちには分からなかったのです。絶えずイエス様のお姿を目では見ていたのですが、彼らはイエス様が誰であるか分からず、その語る言葉の意味が分からなかったのです。イエス様の両親と同じです。 「分かる」とは しかし、今、イエス様によって「心の目が開かれた」時、メシアとは必ず苦しみを受けて三日目に死者の中から復活されることを分からされた。この「分かる」は、今日の箇所で両親が、イエス様の言葉が「分からなかった」と言われる言葉が肯定形で使われています。つまり、心の目が開かれて分かること、それはイエス様がただ単に死人の中から甦ったということではなく、そのことを通して、「罪の赦しという救い」が罪人にもたらされたことなのです。 「罪の赦しという救い」、それこそ洗礼者ヨハネが主イエスに先立って告げる知らせであると、祭司ザカリアは預言していました。そして、ヨハネは、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」ことが、次回ご一緒に読む三章の初めに記されています。その悔い改めと罪の赦しによる救いが、ついに「苦しみを受けて三日目に死者の中から復活された」イエス・キリストの名によってもたらされたのです。イエス様によって「心の目が開かれる」時に分かること、それはこういうことです。ペンテコステの日、聖霊によって心の目が開かれ、言葉が与えられたペトロは、「罪の赦し」を与えるイエスの名と、悔い改めを勧める説教をしました。悔い改めなさい、洗礼を受けなさい、と。 律法に忠実なユダヤ人の夫婦の間に一人の子としても生まれたイエス様こそが、「メシア」であり、「救い主」であり、「神の子」であり、「主」であることが、聖書を読むことによって分かる。その時、私たちはこの方の名を信じる以外にありません。己が罪を悔い改めるしかない。 何故なら、罪を赦して下さるこの方との出会いによってのみ、私たちは自分が滅ぶべき罪人であることが分かるからです。私たちは、自分だけでは何も分かりません。 罪人を捜す主イエス ルカは、「捜す」(ゼーテオウ)という言葉を実に二五回も使っています。人間が主語であったり、神様やイエス様が主語であったりします。人間は人間でイエス様を捜すのです。姿が見えないイエス様を見つけ出したいと願って。それは救いを捜し求める人間の姿でもあります。救いを捜し求めつつ、あらぬ所を捜して見つけることが出来ない。あの両親の姿や、女たちの姿は、そういう人間の象徴でもあるでしょう。それは罪人の姿なのです。何度も言いますが、「罪人」とは「悪人」という意味ではありません。神様との交わりを失ってしまった人間のことです。だから、命の源、知恵の源である神様を捜すのです。知恵は創造の力でもあるからです。知恵を求めることは、命を求めることなのです。 人間は、本能的に命を求めます。捜すのです。しかし、その一方で、神様も迷える小羊を捜し求めて下さいます。罪人に命を与えるためにです。 主イエスは、群れから離れてしまったたった一匹の羊を捜し求める羊飼いの譬話をされました。また無くしてしまったたった一枚の銀貨を捜し求める女の話をされました。その話の結論は、こういうものです。 「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」 ザアカイ また一九章には、エリコという町に住む徴税人ザアカイの物語が出てきます。徴税人は当時のユダヤ人の間では最も罪深い者とされていた人です。そのザアカイは、エリコにイエス様が来るというので、イエス様をひと目見ようとしたのです。「見ることを求めた」と、ゼーテオウが使われています。しかし、嫌われ者で背が低いザアカイは人々に邪魔されてイエス様の姿を見ることが出来ない。そこでいちじく桑の木に登って、その葉っぱの陰から、主イエスのお姿を見たのです。必死になって救いを捜し求めるザアカイがここにはいます。しかし、そのザアカイの姿を、主イエスが見ました。そして、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃった。 人々は、よりによってなんであのザアカイの家に行くのだと訝しがりました。しかし、ザアカイは、イエス様が来て下さって一緒に食事をして下さったことに心から感動したことは言うまでもありません。 ユダヤ人は異邦人とは食事をしませんし、同じユダヤ人でも罪人とは食事をしないのです。汚れるからです。彼らにとっての食事は、賛美と感謝の祈りから始まり、祈りで終わる礼拝なのです。だから、神に捨てられている異邦人や汚れた罪人とは一緒に食事をすることができないのです。しかし、イエス様はザアカイと食事をされました。それは、イエス様も罪人の一人に数えられ、人々から蔑まれ、疎まれることです。そして、そのことがイエス様の十字架の死に繋がるのです。そのことをご承知の上で、主イエスはザアカイの家に行き、食事を共にされた。そこが苦難を受けるべきメシアである主イエスがいる所、いるのが当たり前のところなのです。ある意味で、そこが主イエスの父の家であり、そこで、イエス様は父の仕事をするのです。 ザアカイは、食事の席で立ち上がり、こう言いました。 「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 主イエスと出会うことを通して、彼は己が罪を知ったのです。そして、その罪を悔い改めた。 その言葉を聞いて、主イエスはこう言われました。 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 罪の赦しを得させる悔い改め、それは救いを捜し求める罪人と、罪人を救わんとして捜し求める主イエスとの出会いにおいて起こることです。その出会いが起こる家、そこが父の家、神殿です。そこで、主イエスは父の仕事、罪人を救うという仕事をなさる。 父の家、父の仕事、喜び 私たちは、今、その父の家に招かれて、主イエスの言葉を聞いています。私たちも救いを求めているし、主イエスはさらに私たちを救うことを求めてくださっているからです。そして、今、私たちを捜し求め、見つけ出してくださった主イエスの言葉を聴いています。聖霊の導きの中で聞いています。その今、この礼拝の時、私たちは、主イエスの言葉の意味が分かるのではないでしょうか?「この方こそ、私たちの主、メシア、キリストだ」と。 この方の名以外に救いはありません。私たちは、かつて失われた者、かつては心の目が閉じていた者です。でも、今、捜し出され、見い出され、今は見ることが出来、悟ることができます。私たちは今、私たちの罪の赦しのために十字架に掛かって死んで下さり、私たちに新しい命を与えるために復活された主イエスを信じる信仰によって、神の家族なのです。主イエスと共に、主の食卓を囲むことが許されている者たちなのです。こんなに感謝すべきことはないし、こんなに喜ばしいことはありません。 今ここに悔い改めの信仰をもって集う私たちを見て、天使たちは神の御前で喜び、賛美しているのです。もちろん、神様も主イエスも喜んで下さっています。罪人を捜し求め、見つけ出し、神の家族に迎え入れることができた喜びがあります。そして、救いを捜し求めていた私たちは、ついに救い主を見つけた喜びがある。また、見つけて頂いた喜びがある。だから、私たちは、あの時のマリアとは全く逆の意味で、「あなたは私たちに何ということをして下さったのですか?!」と感謝と喜びと賛美を捧げることが出来るのではないでしょうか。 救い主を賛美する礼拝は、天地を貫く喜びと讃美の時です。こういうことが分からせて頂いた私たちは、なんと幸いな人間なのでしょうか。ただただ、父・子・聖霊なる神様を賛美するしかありません。 |