「悔い改めにふさわしい実を結べ」

及川 信

       ルカによる福音書  3章 1節〜14節
3:1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、3:2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
3:3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。3:4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。
3:5 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、
3:6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
3:7 そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 3:9 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」3:10 そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。3:11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。3:12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。3:13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。 3:14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。


 A.Y.さんの死

 今日は、私たちにとっては全く思いがけないことですが、A.Y.さんの御遺体を前にした礼拝となりました。先週の礼拝に、ご子息の智洋さんと共に御出席になっていたことは、皆さんも御承知の通りです。しかし、A.Y.さんは、その前日に一ヶ月近い入院から退院したばかりなのです。肝臓癌が次第に悪化し、末期状態になっていたからです。口数の少ないA.Y.さんですから、何もおっしゃいませんが、五年前に岡山から娘の真喜子さんの近くに越してこられた時から、ご自身の死の時が近づいている予感はあったと思います。治療の最後の期間は、真喜子さんと同じ教会での礼拝を守りたい。そういう願いがあってのことだと思います。先週は、歩く姿も覚束なく、目の焦点も少し合っていない感じがしました。何人もの方が、そのことに気づき心配しました。帰りも、タクシーを呼んで、塚本京子さんに駅まで送って頂いたのです。その日の夕方と夜、私と妻がそれぞれ無事にお帰りになったことを電話で確認しましたが、その後、容態が急変されたのでしょう。医師による検死の結果では、二十三日の水曜日に息を引き取られたと推定されました。
 真喜子さんと私が、ご自宅で亡くなっているA.Y.さんと対面したのは、一昨日の金曜日の夜です。その間、同居されている智洋さん(知的障害者)は、「お父さんは寝ている」と思い込むことでしか、その悲しむべき現実を受け入れられなかったのだと思います。だから、お姉さんの真喜子さんにも電話をしなかった。出来なかった。その心中を思うと、胸が痛みます。とにかく、先週、智洋さんと共に指定席に座って礼拝を守られたA.Y.さんは、今、講壇の前に棺の中に眠っておられます。御国における復活を待って、です。A.Y.さんの愛称讃美歌の一つは讃美歌二九一番「主に任せよ、汝が身を」です。これは、悔い改めの信仰の一つの究極的な姿を歌った讃美歌です。その悔い改めが、今、最終的な形で結実しているのだと思います。
 今月の二日に病院にお見舞いをしたのが、私がA.Y.さんとちゃんとした話をした最後になりました。A.Y.さんは、いつものようにやや唐突に「詩編一編は凄いですね。完璧だ」とおっしゃいました。詩編一編は、私が今年の新年礼拝で説教したものです。会報にも要旨を載せました。A.Y.さん自身が、詩編一編を原典にあたりながら、丹念に読み直したのだと思います。
 詩編一編は、世の富を求めて不正を犯す人、あるいは、そのような生き方とは決別して、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」は幸いだ、と言います。何故なら、「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない」からです。
 「ときが来れば実を結ぶ」。それは、流れのほとりに植えられた木、ちゃんと根を張って命の養分を吸収している木の必然です。もし、流れのほとりに立っているのに実を結ばないことがあるとすれば、それは、その木が流れのほとりに根を張ってはおらず、ただ立っているだけだからです。そういう見せかけの木は、いつまでそこに立っていても、実を結ぶことはできません。その状態が長く続けば、切り倒されることになります。その前に、自ら枯れてしまうかもしれません。私たちは、どういう木なのか?そのことが、問われます。

 預言者の眼差し

 先週に引き続き、私たちはルカ福音書の三章の前半、今日は七節以下を読みます。私は先週の説教で、ヨハネは「預言者」だと言いました。預言者の目は、目に見える現実の内実、あるいは背後にあるものを見通します。彼らには、透徹した眼差しがあるのです。普通の人間は、流れのほとりに立っている木と植えられた木の区別はつきません。土の中に根が張っているかどうかは肉眼で見ただけでは分からないからです。でも、神様はすべてお見通しです。そして、神の霊が授けられ、神の言葉が委ねられる預言者にも、土の中に根が張っているか否かが見えるのです。

 選民思想

そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな」。


 ヨハネが、ここできつい言葉で非難している相手は、ユダヤ人です。彼らの誇りは、自分たちは神に選ばれた民であるということです。日本人を含む多くの民族が、自分たちの独自性や優越性を主張する時に、選民思想を作り出します。
 ヨハネがここで詰問、あるいは非難している選民思想は、血の繋がりに頼るという意識です。ユダヤ人の先祖は、アブラハムです。この人物は、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒にとって最も重要な人物の一人です。つまり、世界に生きる半分以上の人々にとって、アブラハムは重大な関心を持たざるを得ない人なのです。そのアブラハムに関して中渋谷教会で語った説教集を読んで下さっている方が、アブラハムを再発見し、彼と新たに出会っているという感想を寄せて下さり、本当に嬉しく思っています。
 一介の半遊牧民として生涯を終えたアブラハムが、どうしてこれほどまでに大きな影響を後世に与えているのかと言うと、神様のこういう言葉があるからです。

「あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。・・・地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記二二章一六節〜一八節)
 言うまでもなく、あの「イサク奉献」の場面の最後に出てくる神様の言葉です。

 アブラハムの子孫

 「あなたの子孫」という言葉は、通常、血縁関係を表しますし、聖書においても同様です。しかし、それだけではない。アブラハムは、やはり深い意味で「信仰の父」なのです。独り子すら惜しまずに神に捧げようとする信仰の父なのです。そして、その信仰の究極は、罪の赦しを求める信仰です。その信仰を形だけ継承するのではなく、自分の信仰として生きる。それが、アブラハムの子孫です。アブラハムの子たちがすべて、彼のような信仰を生きたわけではありません。血の繋がりという意味では、イサク以外にも彼には多くの子がいます。今はアラブ人と呼ばれる人々もアブラハムの子孫です。しかし、父が生きた信仰を、己が信仰として生きたのはイサクだけです。彼もまた罪を犯し、その苦しみを味わい、そうであるが故に罪の赦しを神に乞い求め、赦された人です。信仰は、血の継承のように自然に継承できるものでないことは、子をもつクリスチャンの多くが嫌というほど知っていることです。
 ヨハネがここで、「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな」と言う時、彼は、血の繋がりが即、信仰の継承つまり祝福の継承を意味するわけではない、と言っているのです。誰もが、己が罪を知り、悔い改めなければ、罪の赦しという救いを受けることが出来ないと言っているのです。そのような悔い改めは、自分には人に誇れるなにほどかの価値があると思っている人間、また自分の生き方は正しいと思える人間には起こり得ません。そのことを気付かせるために、ヨハネは「蝮の子らよ」と恐るべき表現を使って叱っている。しかし、そこには、燃えるような熱い愛があるのです。

 アモスの預言 愛すればこそ

 ヨハネは預言者です。預言者を立たせ、言葉を与えるのは神様です。だから、預言者の言葉は神様の言葉です。この箇所を読みながら、私は、預言者アモスの言葉を思い出しました。彼は、紀元前八世紀に北イスラエルの民に向って裁きを語った預言者です。その時代の北イスラエルは繁栄していました。繁栄の陰には、いつも不正や腐敗があります。富の独占とか貧富の格差がある。弾圧や抑圧がある。それは今、北アフリカ一帯と一部中東で起こっていることを垣間見ても分かることです。アモスは語ります。

主はこう言われる。
イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに
わたしは決して赦さない。
彼らが正しい者を金で
貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。
彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ
悩む者の道を曲げている。
父も子も同じ女のもとに通い
わたしの聖なる名を汚している。
(アモス書二章六節〜七節)

 ここに出てくる「三つ、四つの罪」は、神の民イスラエルの社会における不正や堕落です。富と権力をもつ者は、貧しい人を売り買いの対象とし、その人生を踏みにじり、父も子も性的堕落の中を生きている。昔も今も、人とその社会は変わりません。しかし、それは聖なる神、義なる神が支配するイスラエルに於いては、赦されることではありません。だから、神様はアモスを通して「わたしは決して赦さない」と断言するのです。
 しかし、そのアモス書を読み進めていきますと、こういう言葉があります。

イスラエルの家よ、この言葉を聞け。
わたしがお前たちについてうたう悲しみの歌を。
「おとめイスラエルは倒れて
再び起き上がらず
地に捨てられて
助け起こす者はいない。」
・・・・・・・
まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。
わたしを求めよ、そして生きよ。
・・・・
主を求めよ、そして生きよ。
さもないと主は火のように
ヨセフの家(イスラエル)に襲いかかり
火が燃え盛っても
ベテルのためにその火を消す者はない。


 イスラエルの罪を「決して赦さない」とおっしゃった神様が、そのイスラエルのために悲しみの歌を歌うのです。愛する女が自分の罪の故に自ら倒れてしまい、見捨てられている様を見て、心が抉られるような悲しみに打ちのめされてしまう男のように。そして、神様は自分を裏切った結果倒れている女に向って、必死に叫ぶ。
 「わたしを求めよ、そして生きよ」と。
 何と言うことか?!と思います。罪を犯した者に対して、「決して赦さない」と断言する方が、「わたしを求めよ、そして生きよ」と招く方であり、「さもないと、主は火のようにヨセフの家に襲い掛かり、・・その火を消す者はない」と警告する方なのです。
 私たちのような罪人を神様が愛するとは、こういうことなのです。愛する相手と共に生きたいのに、相手が裏切りと背きと無視を繰り返す。そこに、湧き起こる怒り、憎しみがある。しかし、それらもまた愛するが故のものであり、「決して赦さない」と言いつつ、「わたしを求めよ」と必死になって招いている。悔い改めて帰って来て欲しいと。口先だけ、あるいはポーズだけではなく、ただ立っているのではなく、ちゃんと根を張る形で植えられ、しっかりと愛の交わりを結んで、豊かな実を結んで欲しい。そうでなければ、切り倒し、火に投げ込んでしまうことになる。そうなる前に、今こそ、わたしを求めよ、そして生きよ。
 神様の正義と愛の激しい葛藤がここにあり、愛に基づく懇願、愛の招きがある。アモスは、透徹した眼差しをもって神様の心の中を見据え、その葛藤を我が事としています。そして、神様の言葉を聴きとり、語るのです。その様は、読んでいて苦しくなるほどです。

 「わたしは、どうすればよいのですか」

 そして、ヨハネが「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と叫ぶ時、そこにもアモスが見たのと同じ神の愛があるのです。それを感じる人がいます。感じない人もいます。そして、感じる時があり、感じない時がある。感じた人々は、激しく揺さぶられ、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねました。
 説教を聴いていて、あるいは聖書を読んでいて、胸の動悸が激しくなり、それまでの自分が崩れていくということがあると思います。大きな決断をしなければならないと、分かる時がある。その時に、人の口から出てくる言葉、それは「わたしはどうすればよいのですか」です。これは、ペンテコステの時、聖霊の力に満たされたペトロの説教を聴いて、心を刺された群衆が口にした言葉でもあります。

 内と外 心と形の一致

 しかし、この時、その問いに対するヨハネの答えは、下着や食料を分けろ、規定以上の税金を取るな、自分の給料で満足しろというもので、何だか拍子抜けする感じもします。私たちの心の中には、もう少し高尚なことが言われるのではないかという期待があるのです。つまり、知的なことや抽象的なことを言われるのではないかという期待がある。しかし、その期待の裏側にある思いは、具体的なことは言って欲しくないというものです。「罪とはこういうものだから、悔い改めましょう。信仰は、こういうものだから、その信仰に生きましょう」という教えを聞くことは良いのですが、「それは具体的にはこういうことです」と言われると、抵抗を感じるのです。その具体的な行動が、これまでやっていないことであれば嫌なのです。そしてそれが既得権益を失うものであれば、尚更嫌なのです。
 残念ながら、聖書は知的にして観念的な神の言葉が書かれたものではないし、高尚にして抽象的な信仰の世界が描かれている訳でもありません。「悔い改める」とか「信じる」という内側で起こった変化が、どのような具体的な行動になって現れるのか、その内と外、心と形の一致を私たちに求めてくる書物なのです。
 ここでヨハネが求めていることは、ある意味では当たり前のことです。でも、実際には難しい。私たちもバザーの収益や売れ残った古着を、物やお金を必要としている施設に献品や献金の形で捧げます。大事な働きです。来週から皆さんに募金をお願いしますが、東京神学大学の学生寮が未だに冷房設備がないので献金して欲しいという要望がきています。これも、出来るだけのことをしたいと思っています。
 しかし、そういう献金は出来る範囲でしますが、ヨハネは下着にせよ、食べ物にせよ、自分が持っているものの半分を分けよということですから、それはなかなか出来ないことです。また、徴税人にとっては、規定以上の金額を取ることが出来なければ、人々から嫌悪されながらもその職を続ける意味がありません。高額収入を得ることが出来るから、嫌悪や軽蔑の目に耐えることが出来るのです。兵士も戦争がない時の稼ぎは、徴税人の税の取り立てに付き添って、後ろで威嚇したり、こん棒でなぐったりする。そういう用心棒役をして稼ぐ。そういうことがあったようです。それがその仕事の旨味であり、役得であった。憎まれたって、その旨味があるからやるのです。
 それは、多くの人々が当然と思っていたことです。多くの人々が当然と思っていることは、正しいことになります。戦争も同じです。平和の世には、「戦争は大量殺人だ、絶対にしてはいけない悪だ」と多くの人々が言います。それが正しい意見です。しかし、極端な不景気の時に、何かのきっかけで外国の挑発に乗ったり、嘘の宣伝に騙されてしまえば、戦争をして敵を殺すことは正しいこと、英雄的なこと、讃美すべきことになるのです。そして、領土と資源を獲得できれば、その戦争は良い戦争だというのが、正しい意見になる。私たち人間とは、そういうものです。だから、真実に悔い改めなければ救いがありません。

 ぶれないヨハネ

 ヨハネは、多くの人々が当然と思っていたことを、当然とは思いませんでした。彼は、神様の視点からものを見るからです。神様の視点から見れば、世の人々が当然としていることが実は不正であり、悪であり、「決して赦さない」と言わざるを得ない罪になる場合がいくらでもあります。
 「ヨハネは偉いな・・」と、私がつくづく思うのは、彼は神様から見て当たり前のこと、正しいことを、相手が誰であっても語ることです。この先の一九節には、時の権力者である領主ヘロデの結婚にまつわる不正、罪を、ヨハネはごく当然のように責めたことが分かります。彼は、無力な群衆にだけ「蝮の子らよ、このままでは切り倒されて、焼かれてしまうぞ」と言った訳ではありません。自分を捕え、気分次第で殺すことさえ出来る権力者が相手でも同じことを言うのです。不正は不正、罪は罪として指摘し、悔い改めを求めたのです。ヨハネは、ヘロデを愛しているからです。ヘロデが自分自身を愛するよりも、ヨハネの方が深くヘロデを愛している。ヘロデもまた、神に赦され、救われて欲しいからです。それが、神様の願いだからです。

 悔い改めることが出来ない人間

 しかし、今の北アフリカ、中東の権力者を見ても分かりますように、その愛に満ちた鋭い叱責を受けて、悔い改め、生き方を変えることが出来る人は、滅多にいるものではありません。それもまた権力者に限ることではありません。言葉は悪いですが、私たちのようなおじさんもおばさんも、おにいさんもおねえさんも、同じです。自由を求める反政府デモの最中に博物館の物を盗んだり、略奪したりする民衆もいるのです。
 こんなことを言うと身も蓋もありませんが、真実に悔い改めること自体が、人間には不可能なのではないか、と思います。だから、真実の預言者は、権力者からも民衆からも迫害を受け、時には殺されてしまうのです。でも、神に立てられた者、遣わされた者は、その殉教の死に向かって歩み続けるしかない。その死の先にこそ、神様が実らせて下さる豊かな実があるのです。
 先週の朝礼拝には、左近豊先生が説教に来て下さり、エレミヤ書の深い説き明かしをして下さいました。その際、アブラハムの説教集を謹呈しましたが、私には下心があって、もうすぐ出ることになっている左近先生が翻訳された本を頂けないかと思っていたのです。それは、アメリカの優れた旧約学者が書いた『聖書は語りかける』という本です。私は露骨に「頂戴」と言ったわけではありませんが、ちゃんと金曜日に出版社から出版と同時に送られて来ました。流石です。私の場合は、本は買って持っておくことが目的の場合が大半です。通常は、「あとがき」と目次を読んだら本棚に入れて、二度と読まないケースもあります。でも、一昨日は、「悔い改めて、生きよ!」という単元だけは必死になって読みました。今日の説教が、悔い改めに関するものですし、金曜日の時点で、何を語ったらよいのかの焦点が定まらずに、困っていたからです。
 その単元を読んでいて、ハッと示されたことがあります。本の著者も、人間の悔い改めの必要性を論じつつ、人間は悔い改めることが出来ないという不可能性に触れていました。聖書は、人間が悔い改めることが出来ないことを知っていると言うのです。にも拘らず、神様は悔い改めを求める。罪人の救いは、そこにしかないのですから、当然です。しかし、不可能なことを求められても困るとも言えます。

 悔い改める神?!

 著者は、神様が、私たちには不可能な悔い改めを求めるその根拠の一つは、神様ご自身が悔い改めて下さる、つまり方向転換して下さることにあるのだと、言います。
 たしかに、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と預言者が語るのは、これからその道を通って主が来られるからです。私たちが心で悔い改めて、体も主の方向に向けて歩きだすために、主の方が私たちに向って歩き出して下さっている。「わたしを求めよ、そして生きよ」と切実に愛を語りかけて下さる主の方が、私たちの方に向かって歩きだして下さっているのです。
 そして、新約聖書において「主」とは、イエス様のことである場合が大半です。イエス様が、私たちの所に来る。それは、コロサイの信徒への手紙によれば、「見えない神の姿である御子」が、一人の女を通して肉体をもって生まれるというとてつもない仕方で起こることです。神がご自身の栄光を一旦捨てるということなのです。フィリピの信徒への言葉で言えば、「キリストは、神の身分でありながら・・・自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになる」ということです。神が、人となる。人間の罪を裁くべき神が、人間の罪をその身に負って、自ら十字架の上で裁かれて死ぬ。そのことにおいて、神様の正義と愛が貫徹される。その十字架の死に向って、主イエスはヨハネによって真っ直ぐにされる道を通って来られるのです。これは、神様が、私たちを愛するが故に内なる悔い改めに基づく具体的な行動です。神様の愛から生じる悔い改め、大転換です。それは、主イエスにとっても死ぬほどに悲しいことだったし、嫌なことだったのです。「できることなら、この杯を取り除けて下さい」と祈らざるを得ないことだったのです。しかし、主イエスは、神の悔い改め、「決して赦さない」から、「わたしを求めよ、そして生きよ、赦す」という転換に伴う行動を生き抜いて下さった。その事実を、御言を通して知らされる。その時、その人に「罪の赦しを得させる悔い改め」が引き起こされるのです。

 悔い改めを与える神の霊

 しかし、聖書の言葉が、そのような御言として響くためには聖霊の働きが不可欠です。パウロは、「誰でも聖霊によらなければ『イエスは主である』とは言えない」と言っています。
 『聖書は語りかける』の著者も、神様の霊が注がれるところに悔い改めが生じると言います。私たちが悔い改めを拒むのは、私たちの心が固いから、頑なだからです。そのガチガチの心がある限り、私たちは口先だけの悔い改めをしても、内側には浅はかな誇りや優越感を抱え持っているので、新しくなることはできません。しかし、預言者エゼキエルを通して、神様はこう言われました。

「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」。(エゼキエル三六章二六節)
「また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」。(エゼキエル三七章一四節)
 私たちの頑なな心、それは人力では砕けません。石を素手で砕ける人はいません。それを砕けるのは、神様の愛だけです。ご自身の独り子をさえ惜しまずに与えて下さる愛。羊のために命を捨てる主の愛。その愛が御言と聖霊によって、私たちの心に注ぎこまれる時、私たちの石の心は砕かれ、肉の心となり、己が罪を知り、その罪の赦しのために主が何をして下さったかを知るのです。そして、その時にのみ、己が罪を悔いて、主の前に立ち帰ることが出来るのです。だから、悔い改めもまた、主イエスご自身の命を捧げる愛を通して与えられる恵みに他なりません。神様の悔い改め、そして聖霊が注がれることによって与えられるのです。

 信仰をもって職場を生きる

 先週の午後は、次第に増えている三十代四十代の男女が十数名集まって、「信仰と職場を語り合う」時を持ちました。私のような牧師は職場が教会ですし、「牧師」として呼ばれる所でしか仕事がありませんから、信仰と職場は直結しています。しかし、信徒の方の大半は違います。そういう職場の中で、信仰を生きるとはどういうことなのかを話し合ったのです。仕事は仕事であって、キリストへの信仰をことさらに発揮する場面もないし、下手にキリスト者であることを明言することで、仕事が仕事として正当な評価をされないケースがあります。また、キリスト者であると明言することだけが、信仰の証しなのかと言えば、そんなことはないだろう。そういうことも語られました。
 私が羨ましいなというか、流石と思ったのは、何人かの方が、クリスチャンであることを言ってはいないのに、突然、同僚から、「あなたクリスチャンでしょ?」って言われたことがあるということです。自慢ではありませんが、私はそんなことを言われたことはありません。言われる前に、自分で言って、その場の話題をそういう方向に持って行ってしまうことが多いせいもありますが、誰が見てもクリスチャンには見えないのでしょう。まして「牧師だ」などと言うと飛び上るほどビックリされて、さすがに傷つくこともあります。すべて身から出た錆だとは分かっています。
 ある方が、「これからは加齢臭ではなく、キリストの香りを漂わす中年になりたい」と言っていましたが、「あなたクリスチャンでしょ?」っていう言葉が、臭いクリスチャンという意味ではなく、香り高いクリスチャンという意味で言ってもらえることは、やはり大事なことです。そして、そのためにはどうすればよいのか?当たり前のことを言いますが、真面目に、誠実に仕事をすることだと思います。不正な利益を求めず、得た利益は必要な人々と分かち合い、脅したり、ゆすったりせず、与えられた給料で満足する。また、相手がだれであっても、仲の良い同僚であっても、恐るべき上司であっても、不正は不正であると言う。そして、日曜日は礼拝を捧げる。それを実行することは、キリスト者として当たり前だと思います。しかし、簡単ではないと思います。逆に、口を開けば、「キリストの愛を信じよう」「聖書は神の言葉だ」とか語りつつ、いい加減な仕事をしたり、人に媚びへつらうことは簡単なことです。しかし、それは最悪のことです。
 皆さんが、この社会の中でキリストの愛を証しする方法は、礼拝の最後の「派遣の言葉」にある通り、神を愛し、隣人に仕え、隣人を愛し、神に仕える思いで、真面目に誠実に仕事をし、生活をすることだと思います。その一見なんてことないような愛と奉仕の生活を、真実に実行することは、非常に難しい。だからこそ、毎日毎日、主の愛に立ち帰らなければならないと思います。御前に罪を悔い改め、そして、主の赦し、励まし、慰めが与えられなければならない。日曜日には礼拝を捧げ、御言と聖霊を存分に注ぎこまれなければ、この不毛の大地に潤いをもたらし、異臭漂う社会にキリストの香りをもたらすことはできない。それは、皆さんが身をもってご存じのことだと思います。
 そのような悔い改めを通して、私たちが気付かされることは、実は、主イエスこそが、いつも新しく私たちの方に向かって立ち帰って下さっているということです。いつも新たに、ほとばしる愛をもって、「わたしを求めよ、そして生きよ」と語りかけて下さっているのは、主イエスです。その声を聴き、昼も夜も口ずさむように生き続ける時、私たちは流れのほとりに植えられた木のようになっていくのです。少しずつですが、どんな苦難の中でも、愛と信仰と望みに満ちて生きることが出来るようになっていくのです。そのような実を結び、よい香りを放っていけるようになります。そして、主イエスが、悔い改めの信仰に生きる私たちの中に、永遠の命という実をならせて下さるのです。
 毎週、礼拝することに命をかけたA.Y.さんもまた、その実をならせていただいたキリスト者です。明日、この礼拝堂で執り行われる葬儀では、そのキリストの愛を、心から賛美したいと思います。
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