「福音と迫害」

及川 信

       ルカによる福音書  3章15節〜20節
3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。3:17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」3:18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
3:19 ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、 3:20 ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。


 東北・関東大地震

 一昨日の東北地方を襲った大地震と大津波は、私たちの国において未曾有の大惨事をもたらしました。その被害のあり様は、私たちがこれまでに目にしたことのない凄まじいものであり、今後もまだ何処で何が起こるか分からぬ状況が続いています。
 一瞬の内に海の水に呑み込まれ、火に焼かれ、建物に押しつぶされて息絶えた多くの人々がいます。大混乱の中で怪我や病の治療を受けられずに命を落とす人も大勢おられるでしょう。そして、全財産を失って路頭に迷う数え切れない人々がいるし、愛する家族を亡くして悲しみのどん底に叩き落とされている人々もいる。そのお一人ひとりのことを想像するだけで、胸が痛みます。そして、やはり「主よ、何故ですか。何故、このようなことが起こるのですか」と問わざるを得ません。
 今回の地震では、津波に襲われた地域がある一方で襲って来なかった地域もあります。そのことによって、多くの人々の生と死が分かれていきました。その差をもたらすのは、人間の善悪ではありません。善人は救われ、悪人は滅ぼされるということではない。それでは、何なのか?
 今私は、生きていることを「救い」と言い、死ぬことを「滅び」という意味で語りました。しかし、それは本当のこと、真実なのか?「救い」とか「滅び」とは何なのか?「救われる」とはどういうことで、「滅びる」とはどういうことなのか?また、救われる人と滅びる人の違いがあるのか、あるとすればそれはどこにあるのか?何によって、それは分かれていくのか。
 少なくとも、私は、災害で死んだ人は滅びたとか、その原因は、その人の罪にあったとは考えられません。聖書は、そういうことを語っていないと思うからです。それでは、聖書は、そういう人間の死について何を語っているのか?

 今の時を見分ける 一

 次から次へと浮かぶ思いや疑問を、今、整理して語ることなど出来ようはずもないし、するつもりもありません。しかし、今日与えられている御言は、人の生と死、救いと滅びと深く関係している言葉です。だから、このような大地震が起こるとは夢にも思っていなかった先週の予告通り、この言葉からの語りかけに耳を傾けたいと思います。
 しかし、その前に、一三章や二一章の主イエスの言葉を読んでおきたいと思います。
 一二章の後半から、主イエスは、「今の時を見分けることの必要性」をお語りになっています。今は何の時であるのか、今私たちが生きているとは、どういうことなのか。私たちは、必ず死ぬ存在です。誰にとっても、人生とは、いつどんな形でやって来るか分からぬ死に向かっているのです。その死に向かって生きている今の時とは、何の時なのか。何のためにある時なのか?主イエスは、繰り返し、私たちに問いかけてきます。

「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

   シロアムの塔とは、エルサレムを囲む城壁の上に立っている一つの塔です。しかし、その塔が、地震があったのか工事のミスなのか分かりませんが、いきなりごった返す人々の上に倒れてきて十八人もの人々が大きな石の下敷きになって死ぬという大惨事があり、人々がそのことについて論じていたようです。多くの人々は、「あの事故で死んだ人々は、何らかの罪があったから神の裁きを受けたのだ」と思っていた。主イエスの言葉の背景には、人々の因果応報的な信仰があります。そして、イエス様は、その信仰を否定しているのです。
 地震という天災にしろ、人間のミスによる人災にしろ、その事故によって死ぬことを神の裁きとして受け止め、その原因を各自の罪として受け止める。そのように片付けて、分かった気になってしまう。分からないことに、私たちは耐えられないのです。しかし、そのような理解によって、事故で死んだ人は、死ななかった私たちよりも罪深いのだと裁いているのです。そして、神は正しいと思う。生きている自分のことを正しい存在だと認めてくれた神だからです。
 しかし、天災や人災で死んだ人たちが生きている自分よりも罪深い人だとは思えない場合、今度は、罪もない老若男女を区別もなく殺してしまう神など正義の神、愛の神ではあり得ない。そんな神を信じることは正しくない。そう考える。つまり、すべては神の業だと決めつけ、その業の是非も自分で決める。そうやって神を裁く。そういうことも、私たちにはよくあります。
 その両方とも、結局のところ、自分を神の立場に置いていることに変わりはありません。しかし、自分を神の立場に置いている人間だって、いつ何時どのようにして死ぬかは分からないのです。私たちはどれほど思い煩ったからとて、寿命を延ばすことはできません。生死は私たちの手の中にはないのです。死ぬ時は死にます。死にたくなくたって死ぬ時は死ぬ。望んだ形であるかないかも、私たちは決めることはできません。そういう死に向かっている時を、私たちは今生きている。生かされている。それは何故か?「あなたがたが、死んだ人々よりも罪が軽いからではない」と、主イエスは言われる。では、何故なのか?そういう問いが、主イエスの言葉の中にはあるでしょう。

 今の時を見分ける 二

 私たちには分からないことが、たくさんあるのです。地震が何時何処でどのような規模で起こり、どのような被害がもたらされるかも、私たちは全く分かりませんでした。そして、私たち個々の人間が、いつどこでどのように死ぬのかも分からない。その分からないことを、勝手に理屈付けをして、神を裁き、人を裁くことは、厳に戒めるべきだと思います。分からないことは分からないのです。
 分からないということは、私たちにとっては辛く、苦しいことです。だから、その現実からすぐに逃避しようとするのです。しかし、その辛さ、苦しさの中に留まることでしか、分からないこともある。つまり、分からないという苦しみの中に留まることでしか見えてこないものがあるのだと思います。
 二一章で、主イエスは、エルサレム神殿が完全に崩壊するという恐るべき預言をされます。それは、イスラエルの民にとっては、世の終わりが来るという預言にも等しいものです。その預言を聞いて驚いた弟子たちは、「いつそんなことが起こるのか、その時にはどんな徴があるのか」と、主イエスに問います。その問いに対する答えの中で、主イエスはこうおっしゃるのです。抜粋しながら読みます。

「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」・・・
「そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。・・」
「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」
「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」


   ここで語られていることは、人間一人一人の生死を越える次元です。天地の次元における、「救い」「滅び」です。地上には、人災と天災が起こる。戦争、暴動、地震、海が荒れ狂う津波、そういうことが起こる。主イエスは、ある意味で、平然とおっしゃるのです。そういうことが起こるのだ、と。それは「人間の罪に対する罪の裁きだ」とか、「善人は生かし、悪人は滅ぼすための神の道具なのだ」などとはおっしゃいません。こういうことは起こる。世の終わりは、すぐには来ないのだから、と。そして、ついに天体も揺り動かされる。これはもちろん、一つの文学的表現ですけれども、科学的にも言えることでしょう。地球上の生物すべての命の源である太陽だって、所詮は、一つの星ですから、いつまでも同じ状態ではないでしょう。誕生した時があるのですから、衰え、滅びることだってある。今夜空に輝いている星の中には光が届いているだけで、すでに消滅している星もあるのです。目に見えるものは、何であれ、永遠ではありません。滅びる時が来る。消滅する時が来るのです。天地は、人災や天災が幾度も起こった果てに、いつか滅びるのです。
 しかし、天地が滅びても、決して滅びない言葉をお語りになる方がいる。私たちキリスト者は、その方をメシア(キリスト)と信じているのです。
 天災は、人が住んでいない場所で起こればただの自然現象です。しかし、多くの人々に被害を与えると恐るべき災害になる。しかし、自然現象そのものは火山の噴火であれ、地震であれ、津波であれ、長い周期の中で何度も起こって来たことです。人類が誕生する前からです。それが地球の歴史なのです。だから、「このような天災を引き起こす神は、血も涙もない神だ」と言うのは、やはりおかしい。そんなことを言うなら、人が起こす戦争の方がはるかに残酷だし、地球温暖化は、私たちの子孫たちを緩慢に滅ぼしていく恐ろしく残酷な人災です。
 とにかく、天災、人災が繰り返し起こる地球の上で、私たちは今生きている。いつどのように来るか分からないけれど必ずやってくる死や、地球規模の滅亡に向って、今、私たちは生きている。その時、私たちは何をすべきだと神様に言われているのか?そのことこそ、私たちが今、問うべきことだと思います。それが最も責任的な問いなのだと、思う。

 今、なすべきことの一つ

 今生きている、あるいは生かされている私たちがすべきことの一つに、被災者の方たちのために募金をする、ボランティア活動をする。そういうこともあるでしょう。昨日、電話で安否の確認をしたある会員の方も、「教会が被災者に献金を送るときは、是非、私も参加させてください」と、ご自身が無事であることを、私に伝えると同時に申し出て下さいました。今日の礼拝後から、早速募金を始めたいと思います。今、なすべきことの一つ今、なすべきことの一つ

 しかし、さらになすべきこと

 しかし、私たちはそういうことと共に、そういうことではない問いと招きの前に立たされていると思います。前回の箇所では、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやりなさい」とヨハネは語りました。悔い改めにふさわしい実を結ぶための実践が問われたのです。それは、大事なことです。しかし、実践だけが大事なのではありません。真の救い主を信じる正しい信仰を持つことが、さらに大事なのです。下着を分けるという実践は、下着を一枚も持っていない人には出来ないことです。しかし、真の救い主、つまり天地が滅びても滅びることのない言葉をお語りになる救い主を信じることは、誰にでも出来ます。しかし、実は、誰にでも出来ることが、難しいものでもあります。ヘロデが、そのよい例です。

 メシアとは

 今日の箇所に入ります。

「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」

 「メシア」という言葉が意味するものは大きいし、また多様です。そのことを論じる時間はありません。一言で言えば、メシアとは「救い主」のことだと言ってよいでしょう。しかし、その「救い」の内容は人によって様々です。独裁者の圧政、弾圧のもとで苦しんでいる人々にしてみれば、思想・信条・言論の自由を与えてくれる存在が救世主、救い主ということになるでしょう。極貧の状態から抜け出すことが出来ない人々にしてみれば、富をもたらしてくれる存在は救い主でしょう。何年も病の苦しみの中に置かれている方にしてみれば、その病を治してくれる存在は救い主です。そういう心理につけこんで、あくどい霊感商売をする人間も後を絶ちません。そういう悪人も、騙されている人から見れば、救い主に見えるのです。
 この度のような大災害によって被害を受けた方たちは、様々な形での「救い」を切実に待ち望んでいるはずです。しかし、死を越えた救いは、様々な形の中の一つではありません。唯一のものです。その救いは、被災者であろうがなかろうが、すべての人に必要です。お金や物資を送ることを通して救いの手を差し伸べる者も、差し伸べられる者も、共に必要な救いがあると思うのです。

 「民衆」が求めるもの

 ここで「民衆」(ラオス)と出てくる人々は、七節に出てきた「群衆」(オクロス)とは区別されていると思います。群衆は、心の内にユダヤ人であることの誇りをもち、心底の悔い改めをする気もないままに洗礼を受けにきた人々です。だから、ヨハネから「蝮の子らよ」と拒絶されてしまいます。しかし、「民衆」とは、ヨハネの説教を聞いて、「わたしたちはどうすればよいのですか」と真剣に問う人々です。その人々は、身分の違いとか、ユダヤ人と異邦人の区別とは関係なく、ヨハネが語る神の言葉を聞いて、己が罪を知らされ、悔い改めに導かれた人々のことを表すと思います。
 その「民衆」が、到来することを待っている「救い」とは、言論の自由とか、富とか、健康とか、そういうものではないでしょう。ヨハネは、「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」人です。その声を聞き、悔い改め、水の洗礼を受けた人々が求める救いは、「罪の赦し」です。罪の赦しとは、神様との愛の交わりの回復を意味します。そして、それは命の回復なのです。罪人とは、神様との関わりを持っていない人間のことです。そして、それは聖書的に言えば生きてはいない。神様に創造された命を生きてはいないのです。その状態が、死であり滅びです。神様との交わりから離れ、失われた状態だからです。

 ヨハネが与えるもの

 ヨハネは、その「罪の赦し」に必要な悔い改めを求め、悔い改めたものに水の洗礼を授ける立場の人間です。ヨハネ自身が、メシアであるわけでも、「救い」をもたらす訳でもありません。彼は、こう言います。

「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

   ここに出てくる「水」「聖霊」「火」という言葉は、単純に一面的に見てはならないだろうと思うし、「殻」「麦」もそうだと思います。
 水は、ノアの洪水やモーセに率いられたイスラエルの民の紅海渡渉を見ても分かりますように、生と死を分けるものです。それは、ある者たちを命へと導き、ある者たちを死へと導くとも言えます。しかし、同じ人間が、古い自分に死んで新しい人間にされる。そういう時に、「水」がしばしば使われるのです。洗礼は、まさにそういうものです。
 火もまた、罪人を滅ぼすための火でありつつ、信仰者を鍛えるための精錬の火でもある。そして、聖霊はもみ殻と麦の実を振るい分ける風であり、死んだ者に命を吹き込む神の息でもあります。そういう様々な意味がある言葉なのです。
 ヨハネは、ヨルダン川の水を用いて洗礼を授けました。それは、罪を悔い改めた人間が、古き自分に死に新しい自分に生まれ変わるための洗礼でした。しかし、その水をくぐれば、古き自分、罪人としての自分が死に、自動的に新しく生まれ変わることが出来る訳ではありません。彼が与える水の洗礼は、メシア(キリスト)に人々を出会わせ、キリストが与える聖霊と火の洗礼に人々を与らせるためのものなのです。その洗礼を受けることによって、人は救いを与えられていくからです。ヨハネが、救いを与える訳ではありません。彼は、人々を救い主(メシア)に立ち帰らせるだけです。

 裁きと祝福

 当時の農民の脱穀の仕方は、平らな岩の上に麦をまき、棒で叩いたり、家畜を歩かせたりして脱穀し、シャベルのような箕で空中高く舞い上がらせるというやり方でした。軽いもみ殻は風で飛ばされ、重たい実だけが岩の上に落ちて来る。風は、そのようにしてもみ殻と実を分けるのです。実は倉に入れられ、殻は消えることのない火で焼かれていく。
 この譬えを、救われる人と滅ぼされる人の選別の譬話として解釈することはできます。しかし、そう解釈する時、私たちは、往々にして、誰が救われる人で、誰が滅ぼされる人なのだろうかと詮索するものです。決定論的に考えてしまう。しかし、ヨハネが言っていることは、そういうことなのでしょうか?神様が、人をそのように分けていくのだ、その裁きの前で、私たちは為す術もなく立つ他にない。そういうことを言っているのでしょうか?それは違うと思います。
 ルカは、ヨハネの言葉を紹介した後に、こう告げています。

ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

 「勧めをする」と訳されたパラカレオーという言葉は、「勇気づける」とか「励ます」とか「慰める」とも訳される言葉です。しかし、ヨハネの言葉を、救われる人と滅ぼされる人が選別される決定論のように解釈した時、そこに慰めとか、励ましを受け取ることが出来るのでしょうか?それは無理な話です。しかし、ルカは、「ヨハネの言葉は、どれほど厳しく聴こえようとも励ましであり、慰めなのだ」と言っているのです。さらに、「ヨハネは『福音を告げ知らせた』のだ」と言っている。「福音を告げ知らせる」とは、救いの到来の喜びを告げるということで、イエス様の誕生に始まった出来事のことです。「多くの民に与えられる大きな喜びを告げる」というあの天使の言葉から始まった出来事です。それは、一体何を意味するのか、それが問題なのです。

 裁きと祝福

 そこで考えなければならないことは、ヨハネは悔い改める必要のある人と悔い改める必要のない人がいると考えていたのか、ということです。私は、違うと思います。彼が神様から示されたことは、すべての人間は悔い改めなければならないということです。すべての人間が、神様との交わりから離れてしまっている。だから悔い改めなければならない。その点において、イスラエルの民も異邦人も、身分や立場がどうであれ、同じだということです。
 その同じ人間が、悔い改めるか否かによってもみ殻か実に分かれていく。それが、聖霊と火で人々に洗礼を授けるメシアによってもたらされる裁きです。そして、その裁きについて、ある学者はこう言っていました。

「悔い改めと赦しが可能なとき、裁きは良い知らせなのである。第一の目的は麦を救うことなのであり、もみ殻を焼くことなのではない」。

   私たちは誰もが、そのままでは救われようのない罪人です。それは、肉体的に生きていようがいまいが同じことだし、主観的に幸せであろうが不幸であろうが同じことです。救いは、災難に遭っているか否か、肉体が生きているか否か、主観的に幸せを感じているか否かとは、本質的に関係ありません。救いにとって問題なのは、救い主を信じることを通して神様との交わりの中に入っているか否かだけなのです。神様との交わりに入っているのであれば、肉体の生と死は少なくとも決定的なことではありません。
 パウロは、フィリピの信徒への手紙においてこう言っています。

「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」

 パウロはこの時、獄中にいるのです。いつ死刑判決が下されるか分かりません。刑務所の外では、教会の中ですら彼に敵対する者たちがうじゃうじゃおり、伝道で訪れる町では人々から集団リンチをうけることもしばしばだったし、嵐に襲われて海で遭難することもしばしばでした。いつ死んでもおかしくない人生を生きていたのです。
 福音を語る者は、ヨハネ同様に、いつも何らかの迫害をも受ける者なのです。福音は、罪の赦しを与えるものですが、それを手にするためには、自分の罪を認め、悔い改めなければならないのです。しかし、ヘロデは罪を認める代わりに、福音を語るヨハネを捕え、結局、殺してしまうのです。そのようにして、自ら罪の赦しという救いを拒絶し、自ら滅びの道を選びとってしまうのです。せっかくヨハネが愛してくれて、彼に悔い改めを求め、メシアを信じ、受け入れることで罪が赦されるという福音を語ってくれたのに、悔い改めを拒絶してしまう。罪を身につけたまま生きてしまうのです。その時、福音の告知が、滅亡の徴となってしまうのです。しかし、ヨハネは、殺されても救われている。パウロも同様です。彼らは、主と共に、主のために生きたからです。

 複数の解釈

 ある牧師は、この箇所を、もみ殻のような人と麦のような人がいると捉えるのではなく、もみ殻は罪であり、麦は罪から解放された人間だと捉えていました。だから、このヨハネの言葉は福音そのものだというのです。メシアは、メシアを信じる者たちの罪を焼き滅ぼしてくださるのだから、と。たしかに、そのように解釈することも出来ると思いました。
 また、ある牧師は、メシアは裁くために来られたが、それは自らが火によって裁かれることを通しての裁きだったのだと語っていました。そのことを信じる時、その人の罪は赦される。それが救いなのだ、と。それも、たしかにそうです。

 罪の赦しという救い

 私たちの救い主、メシア、イエス・キリストは、有罪の者を無罪とするために、無罪であるにも拘わらず、しかし、無罪であるが故に、罪ある者の罪を負って裁きを受けて下さいました。そういう裁きを通して、罪人を新しい命に生かそうとしてくださるお方なのです。これもまた、私たちには到底理解し難いことです。しかし、私たちが分かろうが分かるまいが、罪の赦しという救いを与えるために、メシアは天から降って来られたのです。そして、一人の人間として「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と絶叫しながら死んで下さったのです。しかし、神はそのイエスを十字架の死から甦らせ、主、メシアとしてお立て下さいました。人間の力では決して越え得ない生と死の間にある壁を打ち破って下さったのです。罪の力を破壊し、新しい命を創造して下さったのです。
 そして、このメシアは、天から火と聖霊を弟子たちに注いで下さいました。かつて、肉体の命に固執して「あの人のことは知らない」と言って、イエス様から離れてしまった弟子たち、その罪によって生きようとする願いとは裏腹に生ける屍になってしまった弟子たちを、火と聖霊によって清め、新しく生かし、キリストを証しする者としてお立て下さったのです。そこに、私たちの救いがあるのです。それは、ルカ福音書の続きである使徒言行録に記されていることです。

 体と魂

 イエス様は、こうおっしゃいました。

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。・・・だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。

 「父のお許しがなければ」は誤解を招く意訳で、直訳は、「父から離れて」です。神様は、一羽の雀が死ぬことをいちいち許可しているということではありません。もし、そうなら、津波に巻き込まれて死ぬ人も神の許可で死んだ、神が死なせたということになります。イエス様は、そういうことをおっしゃっているのではありません。「父は、命を落とす小さな雀と共にいるのだ、雀から離れてしまっているのではない」と、おっしゃっているのです。「雀よりもはるかにまさったものとして造られているあなたがたにおいては尚更のことではないか」と、おっしゃっているのです。「神様は様々な原因で命を落とす一人ひとりの人間から離れてはいない、共にいるのだ。わたしを見なさい」と、おっしゃっている。
 そして、神様にとって、人間の命は体だけではありません。体と魂のすべてを含めて神様と共に生きる所に人間の命があるのです。その命に生かされること、それが救いです。そして、その救いに生かされる望みは、肉体の死がやって来ると同時に断たれるのではありません。

 死人にさえ福音の説教される主イエス・キリスト

 ペトロは、その手紙の中で、キリストは、ノアの洪水の時に水に流されて死んだ者たちがいる陰府にまで降り、その人々に「宣教された」と言っています。そして、こう言います。

「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」。
 裁きは、主がなさることで、私たちがすることではありません。そして、その主の裁きは、肉体の死を越えているのです。生きているから救われているとか、死んだから滅ぼされたということではないし、死んだ人間は皆成仏するということでもないのです。地上に生きている時であれ、陰府に降った後であれ、イエス様によって福音を告げ知らされた時に、悔い改めて福音を信じる。イエス様こそ、私の救いのために世に来て、私の罪を背負って死に、陰府に降り、そして、天に挙げられた方であり、信じる者を共に挙げて下さるお方、天地が滅びても残る唯一の救い主だと信じうる。ただその一点に、私たちの救いは掛かっているのです。その救いへの招きは、生きている者にも死んでいる者にも与えられます。

 救いの完成 新しい天と地

 そして、その救い主であるイエス様が、世の終わりの日に再び到来するのです。その時に、最後の審判を通して、天地の救いを完成して下さるのです。私たちキリスト者は、生死を越えて、その日に完成する世界に生かされることを目指しつつ生きているのです。天災と人災が繰り返し起こるこの地上において。思慮深く振舞い、身を慎み、よく祈り、なによりも愛の業に励みながら生きる。今この時、私たちが神様に求められていることは、そのことだと思います。
 終わりに、私が亡くなった方を火葬する直前にいつも読む、ヨハネの黙示録二一章の言葉を読んで終わります。

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。(この「海」とは、すべてを破壊し、呑み込んでしまう混沌の力のことです。)更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」
すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた」。


 この情景を見、この声を聴けるのは、何がどうなっているのか分からない混乱と苦しみと破滅の中で、じっとイエス・キリストを見よう、その破滅の中に生きておられるイエス・キリストを見よう、その声を聴こうと目を凝らし、耳を澄ます者たちだけなのです。 地震が起こり、真昼なのに暗黒に包まれる中、「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたキリスト、その方が、私たちの救い主、メシアなのです。祈ります。

 (祈り)
 大きな苦しみと、嘆きと、悲しみと、不安と、恐れに包まれる中、私どもは生かされております。しかし、あなたの招きの中におかれ、今日もこうして愛する教会の礼拝堂に集うことができ、あなたの御言を今日も新たに聴くことができ、天災と人災が繰り返されるこの世に到来し、絶望の叫びをあげながら死に、そして、あなたによって甦らされたイエス・キリストを救い主として信じ、礼拝出来ますことを心から感謝します。この礼拝は、この地上でのみ捧げられるものではなく、またこの時代にのみ捧げられるものではありません。天地を貫き、また天地が滅びた後も、永遠なる救い主を礼拝するこの礼拝は捧げられるものです。
 ただただあなたの恵みによって、この地上の生ある時に、このようにあなたを礼拝する民の中に加えられましたことを、心から感謝し、御名を賛美します。
 この恵みを忘れることなく、また私することなく、分かち合うために、自分自身を捧げていくことが出来ますように。
 様々な救いを求めておられる方がいます。できることをなす力を与えて下さいますように。そしてまた、真の救いを伝え、分かち合うためにも、私たちを用いて下さい。
 今、嘆きの中にある一人ひとりを、主よ、どうぞ顧み、慰め、励まし、勇気づけて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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