「あなたはわたしの愛する子」

及川 信

       ルカによる福音書  3章21節〜22節
3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 地震の中で渦巻く声

 この一週間、この国に住む者の誰もが、地震、津波、原発事故という未曾有の災害の被害状況を知らされて心を痛めてきました。現地に御親戚やお知り合いのいる方は尚更のことだと思います。そして、私たちも計画停電やガソリン不足などで通常の生活ができません。また、いつ自分たちも被災者になるか分からないという不安を抱えています。
 様々な声が、私たちの内外から聞こえてきます。「この度の災害は、日本人の我欲に対する天罰だ」などという声は論外ですが、「神も仏もあるものかと言わざるを得ない」という声を前にして反論する言葉はなかなか出てきません。また、「こういう時だけは、信仰を持たない者でも祈りたくなる。でも、誰にどう祈ったらよいのか分からない」という声にも、心の奥深くで頷いている自分がいます。今言った二つの思いは、全く相反するもののように見えます。でも、あまりに巨大にして悲惨な出来事を前にして、心を閉ざす他になかったり、心を開きたくても、どこに向かって開いたらよいのか分からない、そういう痛切な思いがあることは共通していると思います。そして、神様への信仰を生きていると自他共に認めている私たちキリスト者の心の中にも、今言ったような二つの思いが去来する。そういう一週間を過ごしてきたのではないか、と思います。

 被災教会における礼拝

 この一週間で、被災教会の牧師や信徒の方たちの現況も様々な形で分かりつつあり、メールを通して知らされて来ます。その一端を印刷して、階段を登った所に貼っておきましたから、ご覧になって下さい。
 仙台のある教会では、十三日にはたまたま洗礼式と転入式が予定されていたそうです。礼拝堂そのものは大きな被害はなかったようですが、信徒の安否も分からぬまま震災から二日後の日曜日を迎えると、洗礼志願者も転入志願者も礼拝にやって来て、無事に洗礼を受け、入会を果たすことができたそうです。
 もちろん、礼拝堂が油まじりの海水に浸ってしまった教会もあれば、外出中の牧師が日曜日までに帰って来ることができずに、信徒だけが集まって祈りの礼拝を捧げたという教会もあります。いずれの教会も、集まれる者たちが集まって、主の日の礼拝を捧げたのです。そこで、何が祈られ、神様が何を語りかけて下さったのかは、もちろん、私は知る由もありません。しかし、この深刻な被災の中で、神様に祈ることができるということは、やはり深い慰めなのではないか、と思います。

 人が孤独になる時

 先日の報道番組の中で、介護ボランティアをしている女性が、「被災者の声を聞いてくれる専門家を送って下さい」と涙ぐみながらおっしゃっていました。恐怖、不安、悲しみ、嘆き、絶望、そういう言葉にもならない呻きが、避難所には渦巻いているでしょう。そういう言葉にならない思いを受け止めつつ、その方自身が潰れそうになっているのです。その避難所にたとえ救援物資が届いたとしても、人が受けた心の傷、病がすぐに癒されることはないでしょう。人間は衣食が足りても、ただそのことの故に人間として生きている訳ではありません。普段は自分でも意識していない心の奥底から出てくる言葉を発することができ、それがたしかに聞かれたという実感を持てない時、またその奥底に届く言葉を聞くことができない時、人は、深い孤独に陥ります。そして、その孤独は人を絶望へと追いやっていく、それは、被災地に限らない人間の現実だと、私は思います。

 ヨハネからイエスへ

 今日の箇所は、イエス様が洗礼を受ける場面です。もちろん、イエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのです。しかし、二一節には、ヨハネの名は記されていません。記述の順序から言うと、ヨハネは既に領主ヘロデによって捕えられ、牢獄に入れられているからです。
 時間的順序で言えば、ヨハネが投獄されたのはイエス様が彼から洗礼を受けた後のことです。しかし、ルカは敢えて、その順序を逆にしている。その意図の一つは、イエス様の受洗によって先駆者としてのヨハネの時は終わり、イエス様の時が始まる。そのことを明確にすることにあると思います。そして、ヨハネは福音を宣べ伝えたのに、いや、そうであるが故に、迫害を受け、ついに殺されてしまうという意味でも、イエス様の先駆者であることを明確にしているのだと思う。

 荒れ野で叫ぶ声

 三章の前半は、ヨハネが登場し活動する場面です。ヨハネとイエス様が登場する時代は、一節以下に詳しく書かれていますように、ローマの皇帝ティベリウス在位十五年の頃で、その統治下にユダヤ人の領主だとか大祭司がいました。彼らは皆、人が多く住む都市に住んでいました。人間による統治は、都市で行われるからです。
 それに対して、ヨハネは人里離れたヨルダン川沿いの一帯に行きました。神様に、そう命じられたからでしょう。周囲は、荒れ野です。その荒れ野で、彼は「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ました。
 そのヨハネに関して、ルカは、イザヤ書の預言を引用して、こう言っています。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、
山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」


   ヨハネは、なによりもまず「荒れ野で叫ぶ声」なのです。荒れ野で神の言葉を叫ぶ者なのです。

 曠野 至聖所 言葉

 「荒れ野で叫ぶ声」という言葉を聞くと、私は思い出す人がいます。沢崎堅造という方です。私は、その方にお会いしたことはありません。沢崎夫人とは、学生時代に通っていた京都の北白川教会で親しいお交わりを頂きました。沢崎堅造は、一九三〇年から一九三五年までは、中渋谷教会の会員であり元々は経済学者でした。しかし、一九三五年に京都の北白川教会に転出し、京都大学で学究生活をしている戦時中に、「中国人にキリストを伝える業をせよ」との召しを神様から受けてしまった。そこで、福音を伝える伝道者として、ご家族を連れて中国に渡ることになりました。それは、敵地に空手で向かうようなものですから、無謀と言えばあまりに無謀なことでした。しかし、沢崎堅造は、日本人が誰もいないモンゴル付近まで、その歩みを進めていったのです。「一人にでもキリストを伝えることができれば、それでよいのだ」という召しを受けてのことです。
 敗戦後、夫人と息子さんの一人はなんとか無事に帰国されました。しかし、新(あらた)という名の息子さんはそれ以前にモンゴル国境付近で亡くなりました。そして、ご自身は敗戦の混乱期に消息を断ち、戦後数十年を経て、ソ連兵に銃殺されたことが分かったのです。
 その方を追うようにして中国に渡り、敗戦後に京都に帰って来られた和田正という方が、私の前任地である松本の教会の前任牧師でした。そういう意味でも、沢崎堅造という人は、若き日の私に非常に強い衝撃を与えた方です。
 沢崎堅造たち日本人伝道者は、極寒の中国東北地方で、まだ夜も明けきらぬ早朝に起きて、それぞれの祈りの場に行ったそうです。そこで聖書の言葉を黙想しつつ、数時間の祈りの時を持つ。その祈りの黙想の中で示されたことが「曠野へ」という文章の中に記されています。
 その中で、沢崎堅造は、「曠野」「言葉」「神殿の至聖所」についてヘブライ語をもとにして黙想します。曠野はヘブライ語ではミドバールと言い、言葉はダーバルです。そして、神様から神託を受ける至聖所はデビィルです。みな、DBRという文字からなっている言葉なのです。つまり、「曠野」も、大祭司が年に一回入ってイスラエルの罪の赦しを祈る「至聖所」も、「言葉」と関連するのです。しかし、曠野も至聖所も人間がおらず、人の言葉が聞こえない静寂が支配する所です。礼拝が始まる前の礼拝堂も、そういう所です。しかし、その「曠野」や「至聖所」を「言葉」との関連で表現したイスラエルの民は、そこで何を言いたかったのかと、沢崎は考えます。そして、ある時、気づくのです。「人の声」がしない所、まさにそこでこそ、「神の声」は聞こえるのだ、と。しかし、曠野はまた、主イエスがサタンから誘惑を受けたように、悪魔の声も聞こえる所なのだ、と。
彼の文章を引用します。

「曠野は神語る処である。併し悪魔の声もする処である。また天使の声もする処である。併し、神語るときは、一切の声は沈黙に帰してしまうであろう。」
「神いまし給う処、神語り給う処、神の声が聞こえる処と云う意味に於いて、神殿に於ける聖所と曠野とが互いに関係していると云うことは、極めて暗示深いものがある。私たちが曠野に出て、独り離れて聖書に親しみ祈りをすると云うのも、確かにそれこそ聖所に参する心と相通うものがあるのであろう。」(『新の墓にて』未来社 一七三頁)

 私はこの一週間、被災地の映像を見ながらルカ福音書を読んでいました。その私には、なにもかもが無茶苦茶で人っ子ひとりいない情景は、まさに荒漠たる荒れ野のように見えました。つい数日前まで、その地には住宅や商店が建ち並んでおり、車が行き交い、多くの人々の声が響いていたでしょう。しかし、今、そこに人の声はしません。人がいないからです。そして、その荒れ野に通じる道がない。そのことの故に、救援物資があっても、その物資が届かない。山が低くされ、谷が埋められ、曲がった道がまっすぐに、でこぼこの道が平らにならない限り、人々が待ち望んでいる救いを見ることができない。荒れ野の現実が、そこにあると思いました。
 しかし、その現実の最も深い所にあるものは、被災地に限られた目に見える現実ではありません。被災地から遠く離れた所に住む人間の心の中にも、「神も仏もあるものか」「神に祈っても、神はその祈りなど聞いていないのだ。救いなどないのだ」という悪魔の声は聞こえてくるのです。皆、救いの到来を待っているけれども、救いなどあるものか?と疑い、望みを失っている。神との繋がりを失っている。 そういう現実を、聖書では「荒れ野」と言うのだと思います。

 イスラエルにとっての荒れ野

 エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民は、神が選び立てたモーセの導きの中でエジプトを脱出しました。奴隷でいることは、辛かったのです。でも、そこには水も食料もありました。しかし、奴隷状態から解放されて後は、水もない、食物もない荒れ野を実に四十年間も放浪することになったのです。目的地である約束の地カナンは、二週間もあれば着く所にあるのに、彼らは四十年間も荒れ野を放浪しなければならなかった。それは、何のためか。モーセは、こう言いました。

「人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。

 主の言葉によって生きる。このことを知るためには、荒れ野で生きる経験が必要なのです。そして、その経験はどこでも出来ることだし、現にしていることでもある。

 民衆の一人としてのイエス(メシア)

 ヨハネは荒れ野で叫ぶ声、主の言葉を語る預言者でした。その預言者の声を聞いて、人々は集まって来ました。そして、その言葉を聞いて、「わたしたちは、どうすればよいのですか」と悔い改めた人々は、その荒れ野で洗礼を受けました。ルカは、その人々のことを烏合の衆である「群衆」とは違う意味で「民衆」と言います。一五節によれば、その民衆は、「メシアを待ち望んで」いました。つまり、救い主の到来を待ち望んでいた。ヨハネは、「わたしよりもすぐれた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言っていました。しかし、少なくともルカ福音書では、そのヨハネも自分が洗礼を授けた民衆の中に、メシアとして来られた方がいるとは思っていないのです。イエス様は、人知れず、救いを求めている民衆の一員として洗礼を受けたのです。
 荒れ野の中で、民衆の一人として、誰もそれがメシアだとは分からない形で、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を受けるメシアがいる。ルカが伝えるメシア、イエス・キリストはそういう形で登場します。

 祈りと聖霊

 そして、そのメシア、救い主は、祈っているのです。メシアなのに、いやメシアだからかもしれません。
 その時、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」とあります。「鳩はイスラエルの象徴だ」とも言われますが、私にはよく分かりません。ただ、祈っている時に目に見えるような形で聖霊が降るとは、ルカが福音書の続きとして書いた使徒言行録においても起こっていることです。
 主イエスが天に挙げられて以後、地上に残された弟子たちは、主に命じられたように心を合わせて祈っていました。すると、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と、あります。この聖霊によって、神と人とが繋がりを持つことが出来るのです。
 祈りが、そのことを引き起こす。そうだとすれば、「私は何も出来ません。祈ることしか出来ません」と無力感に満たされて言うことは、おかしなことになります。祈ることこそが、歴史が大きく変わる出発点だと、聖書は告げているからです。主イエスの洗礼と祈りにおいて、ヨハネの時が終わり、聖霊に満ちたイエス様の時が始まる。つまりメシアが到来し、その活動が始まるのです。そして、祈り続ける弟子たちに聖霊が降り、神の言葉が大胆に語られることによって、キリスト教会が誕生したのです。キリスト教会の誕生が、世界史に与えた影響の大きさを、改めて口にする必要もありません。中近東からは遠く離れたこの日本で、大震災があろうが、何であろうが日曜日には礼拝が捧げられ、そこで語られる神の言葉を信じて洗礼を受ける人間が誕生しているのです。それは、ティベリウス以来、数え切れない支配者が浮かんでは消える世界史の中で、イエス・キリストを唯一の救い主と信じる教会が祈り続け、聖霊の力を与えられ続けてきたからに他なりません。だから、「あなたたちのために祈っています」という言葉は、言葉だけの励ましではない力が伴うのです。そして、その祈りを支えているのは、実は、メシアとして人知れず来られたイエス様の祈りなのです。実は、祈っているのはイエス様です。
 主イエスは、捕えられる直前に、シモン・ペトロにこう言われたでしょう。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

   この主イエスの祈りによって、私たちの信仰は支えられ、祈りも支えられているのです。

 天からの声 「わたしの愛する子」

 今日の場面では、祈る主イエスに向って聖霊が降り、天からの声がしました。それは、イエス様にしか聞こえなかった声だと、私は思います。神様は、民衆に混じってひとり祈るイエス様に向って「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と語りかけられたのです。
 詩編二編を読んだ時に言ったように、「あなたはわたしの子」は、神様ご自身が選んだ人物を王として即位させる時に、王に語りかける言葉だと言われます。その「わたしの子」「愛する者」という言葉がついて「わたしの愛する子」になるのですが、ここにアブラハムの独り子、愛するイサクの面影を見る人もいます。それも深い洞察だと思います。最も愛する者を、犠牲として捧げることがアブラハムには求められました。でも、実は、神様こそが、その愛する独り子を、罪人の救いのために捧げて下さったのです。
 そして、神が立てる王とは、人の上に立って支配する王なのではなく、人として最低の場所である十字架を王座とする王なのです。そういう逆説的な救いの暗示が、ここにはあると思います。

 天からの声 「心に適う者」

 「わたしの心に適う者」は、「わたしの喜びとする者」とも訳せる言葉です。厳密に言うと、「あなたのなかで」あるいは「あなたにおいて」「わたしは喜ぶ」となります。そして、この言葉の背景にはイザヤ書四二章一節以下があると学者たちは指摘します。
 そこには、こうあります。

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも、傷つき果てることもない
この地に裁きを置くときまでは」。


 イスラエルに於いては、王は「神の子」であると同時に「神の僕」です。そして、このイザヤ書四二章に出てくる僕は、ついにイザヤ書五三章の「苦難の僕」と呼ばれる僕の姿に行き着くのです。
 この四二章において、神が喜び迎える僕の上に霊が置かれます。そして、彼はその霊に導かれて国々を統治する。しかし、それは「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」仕方においてです。誰にも気づかれない形で、神の支配をもたらす。その支配とは、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことがない」という支配です。傷つき倒れている者たち、今にも命の火が燃え尽き、消えてしまいそうな人々を癒し、生かしていく。そういう裁き、そういう支配が、人々の目や耳に聞こえない形で、確実に浸透していく。その支配をもたらす僕を見て、神様はお喜びになるのです。
 五三章は、「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか」という言葉で始まります。その後、この僕が人知れず人々の罪を一身に背負い、自らを償いの献げ物とする様が描かれて行きます。そして、こういう言葉で終わるのです。

「彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」


 苦難の僕としてのイエス

 主イエスは、救いを待ち望む民衆と共に洗礼を受けて祈られました。それは、主イエスの深い決意を実行に移していくための祈りなのです。その深い決意とは、主イエスが罪人の一人と数えられる、そういう連帯をするということです。それは、主イエスが私たちと共に罪を犯すためではなく、私たちの罪を背負い、神様に執成しの祈りを捧げ、ご自身の命を償いとして捧げるための連帯です。この時、周りにいる民衆の中の誰も、ヨハネすらも、民衆の一員としてそこにいるイエス様が、今、そういうメシアの祈りを捧げているなどとは知りません。それは、ただ神様だけが知っていることです。そして、神様は、「あなたはわたしの子、わたしの愛する者、わたしはあなたに於いて喜ぶ」と痛切な思いを込めて告げて下さっている。「あなただけが、私の心を知り、そして、それを生きようとしているからわたしは嬉しい。わたしはあなたに聖霊を授ける。聖霊が、いつもあなたを力づける。どんな試練も、苦難も乗り越えさせていく。地上を生きるあなたと天にいるわたしは、この聖霊に於いて、いつも一つに結ばれているのだ。罪人の救いのために生き、そして死んでほしい。」神様は、そのようにイエス様を力づけておられるのではないか。私は、そう思うのです。祈りとは、神様からそういう力を頂くものなのだと思います。
 主イエスの祈りで、誰もが思い起こすのは、あのゲツセマネの祈りでしょう。ルカ福音書では、こうなっています。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕」

 ここでは、聖霊ではなく天使ですが、神から遣わされる助けであることに変わりありません。神様は、イエス様の祈りに応えて、天使を送り、悲しみと絶望に打ちひしがれているイエス様を力づけて下さったのです。そして、ご自身の御心を行う力を与えられた。その御心とは、あの十字架の死に向かうことです。「他人を救ったのだ。神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と罵られながら死ぬ。しかし、その罵る人々のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈り、最後に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈り、そして死ぬということです。それが父の御心であり、その御心を生きることは、主イエスに於いても祈ることによってしかなし得ないことだったのです。
 そして、復活とは、この十字架の死、悲惨を極めた救いなき死の後に起こることです。

 私たちの救い主

 イエス様は、死ななかったのではありません。私たちの神が、私たちのために救い主としてこの世にお送り下さった方は、神の子であり神の僕として、この世の巷でありとあらゆる苦しみを味わっている人を訪ね求め、静かに語りかけ、共に食事をしつつ、罪の赦しという救いをもたらしてくださったお方です。その究極が、この十字架の死です。誰も、それがメシアの死だとは知りません。しかし、ここで祈りつつ死んだ方こそ、神からのメシアなのです。そして、父なる神に委ねられた主イエスの霊は、主イエスの復活の体に宿り、さらに救いを求めて祈り続ける弟子たちに注がれて、彼らを新しく生まれ変わらせ、キリストの体なる教会を建て上げていったのです。そして、聖霊に生かされる教会を通して、主イエスは今日も苦しむ人間に、命の言葉を語りかけて下さっているのです。その言葉を聴いて信じることによって、私たちは神に造られた人として生きているのです。

 祈り

 今日は最後に、ある祈りを紹介したいと思います。説教者の集いの中で、震災のあった日から毎晩、夜遅くに、一つの祈りがメールによって送られてきます。最初、私はあまり気に留めておらず、むしろ被害状況を知らせるメールの方を熱心に読んでいました。それはそれで大事なことかもしれません。しかし、重苦しい気分を引きずりながら今日の箇所の説教の準備を始めるにつれて、祈りを抜きに何をしても駄目なのだと知らされて来ました。そして、送られて来る祈りを心深く読むようになりました。それはICU教会の信徒の方の祈りなのです。今日は、この祈りを説教後の祈りとして、祈らせて頂きます。(二日分の祈りの抜粋です)

 主よ、ヨブは、あなたが必ず応えてくださるはずだとの確信を持ち続けました。あなたが地上で応えてくれないなら、あなたは黄泉で応えてくれるはずだと考えました。
 聖なる神が、黄泉に下る!なんと大胆な!
 あなたが、死者の味方となるために、地の底に下って来られる!ヨブは古代世界の常識を破る新しいビジョンを打ちたて、我らにそれを伝えてくれています。(ヨブ19:26-27)
 あなたはエゼキエルに問いました。「これらの骨は生き返ることができるか?」
「主なる神よ、あなたのみがご存知です!」エゼキエルの答えは秀逸です。
 われらの経験するところに拠れば、骨はよみがえりません。が、あなたには出来る。それはあなたのみがご存知です。
 あなたは言われました。
「これらの骨に向かって説教せよ。」
 エゼキエルは語りました。
「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。」
『見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉をつけ、皮膚で覆い、霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る。そしてお前たちはわたしが主であることを知るようになる。』」(エゼ37:1-6)
 箱舟の甲板から姿を消した人々は、海に落ちたわけではないでしょう。彼らは喫水線より下の階に移されただけだという、天使のうわさを伝える者がありますが、本当らしいうわさです。箱舟の喫水線から下の階に何があるのか、われらの目には見えません。けれども、そこにいくつもの骨が安置されているのは確かでしょう。この箱舟はいまやすべての被造物を載せているはずですから!
 生きている者は甲板での救助に忙しい。第一甲板でも、第二甲板でも、第三甲板でも、ありとあらゆる種類の、何人もの働き手たちが、何人ものこどもたち、老人たち、女たち、男たちを捜し、介抱し、支えようとしている。艦橋では、国や自治体の政治家たちや官僚たち、また技術者たちが、あわただしく相談を繰り返し、忙しく指示を伝えている。海上には、友軍の船や、ヘリコプターの音も聞こえている。われらの箱舟に、いまや世界中の目が注がれており、何十万、何百万もの手が、国の内外から差し伸べられています。
 しかし見よ、箱舟の中を下っていく者がいる!ただ一人、喫水線より下の階に下って行けるお方。骨に語り、骨に息を吹き込んでくださるお方。自ら黄泉に下り、3日目によみがえったお方。あの方が、下の階に移されてくる何体もの骨の面倒を見てくださる!
 われらは甲板の上に仕事に忙しい。「神はどこに行かれたのか?」と問いたくもなる。神は働いておられる。生きている者と共に甲板の上でも、喫水線の下の眠った者たちの間でも。
 ああそうだ、問われているのは我々の方なのだ。
「あなたはどこにいるのか?」と(創3:9)。
 われらに見えないところでも働いておられる主よ、この困窮にあってなお隣人愛に生きるありとあらゆる種類の働き手たちに、知恵と勇気と忍耐と、力と物資をお与えください。
 慰めを必要とする人のそばにいながら言葉を失っている慰め手に、あなたの言葉をお貸しください。われらは、死者の復活については、あなたにお任せするほかありません!

 ひるむ者よ、
 あなたの信仰がなくならないように主イエスが祈ってくれている! (ルカ22:32)
 行動する者よ、
 あなたの手を主が必要としておられる!
 たとい手元にパンが2つ、魚が5匹しか得られなくても、主はそこから5千人分の食事をとりだすことが出来る。しかし、主は我らの手を必要とされる!「あなたがたの手でやりなさい!」と。
 奇跡を起こすのは主!奇跡を届けるのは我々!
 王であるのは主!王の即位と到来を告げるのは我ら伝令!
 あなたの御名のもとに、重荷を背負うて うずくまるものはかくまわれ、あなたの御名のもとに、隣り人の十字架を背負おうと馳せ参じるものは力を得、弱い者も、力ある者も、あなたの民として、あなたの恵みに与りますように!

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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