「そして神に至る」

及川 信

       ルカによる福音書  3章23節〜38節
3:23 イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、 3:24 マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、 3:25 マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ、 3:26 マハト、マタティア、セメイン、ヨセク、ヨダ、 3:27 ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シャルティエル、ネリ、 3:28 メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、 3:29 ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタト、レビ、 3:30 シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリアキム、 3:31 メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、 3:32 エッサイ、オベド、ボアズ、サラ、ナフション、 3:33 アミナダブ、アドミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、 3:34 ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、 3:35 セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、 3:36 カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、 3:37 メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、 3:38 エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。

 人との繋がりに生きる人間

 三月も終わろうとしており、来週には新しい年度が始まります。この時期は、季節が春ということもあって、例年ならば少し晴れやかな気分になるものです。教会の暦としては、受難節からイースターに向かう季節です。世間的には卒業から入学、入社という時期でもある。しかし、東京の大学などでも地震の影響で卒業式ができない学校がいくつもありましたし、入学式も中止のところが多いようです。また、ただでさえ就職難なのに、この震災によって内定が取り消されたりして、若い方たちの夢や希望が砕かれてもいます。地震に関わる事柄を言えばきりがありませんが、先日、テレビの報道で心に強く残ったことがあります。
 現在も、自衛隊の隊員たちが行方不明になった方の捜索と瓦礫の撤去という大変な仕事を継続して下さっています。その作業中に、その家に住んでいた家族にとって大切な思い出の品が出てくると、ゴミとして捨てることができない。細かいものまで分別する訳にはいかないけれど、家族のアルバムとか卒業証書などは何とか建っている役場のロビーに展示し、生き残った方がゆかりの品を捜しに来るということがあるようです。また、自分自身で自宅が建っていた場所に思い出の品を捜しに来る方もいる。その中のある男性が、家族と共に写っている子どもの頃の写真を泥まみれの瓦礫の中から見つけ出して、涙を流しながらこうおっしゃっていました。

「自分が生きてきたという印がなにもなくなっちゃったから、なにかないかと捜しに来た。この写真が見つかって、自分はこうして親や兄弟と一緒に生きていたんだということを証明出来るから嬉しい。」

 私は、その方の言葉を聞きながら、私たち人間とは、やはり繋がりの中で生きている、その繋がりが断たれてしまった時、人は人として生きることができないことを改めて知らされたように思いました。その方は、家族の中でひとり生き残ったのです。ただそれだけで、生きているという実感を誰よりもお持ちだと、私は思っていました。でも、ご本人は失ってしまった家族との繋がりの中で生きていたのであり、ひとりで生きていたのではないのです。その繋がりは、祖父母、両親、兄弟、夫婦、子どもという血縁関係である場合もありますし、むしろ、友人、恋人、仲間といった人々との繋がりの方が強い人もいます。いずれにしろ、「自分が生きている」ということを確認し、実感できるのは、人間同士の連帯、繋がりの中にあるのです。完全な孤独の中で、人は生きている実感を持つことは難しいのです。
 また、普段は全く宗教と関わりを持たない人々も、葬儀や埋骨式などに参列する時は、先祖崇拝的な感覚を抱いたりします。つまり、ご先祖様がいるから自分がいる。ご先祖様を大事にしなければならない。ご先祖様を大事にすることが自分を大事にすること、今生きている命を尊重することになり、いつか死んだ時もご先祖様の列に連なることができる。そのように考えて、平安を得るということがあると思います。そのことは、極めて良く理解出来ることです。

 旧約聖書の系図

 旧約聖書には、系図が非常に大事なものとしていくつも出てきます。そして、系図とは「歴史」「由来」「物語」という意味も持っています。一人ひとりの人間の名前には、その人の人生があり、歴史があります。そして、その一人ひとりが命の継承をしているのが家族の歴史であり、民族の歴史であり、さらに言えば人類の歴史になっていきます。列王記では、王が死ぬと「先祖と共に眠りについた」と記されます。そういう命の連なりの中に、一人の人間の人生、生と死を考えるのです。そして、歴史を考える。

 新約聖書の系図

 新約聖書に出てくる系図は二つだけ、いずれも主イエスの系図です。言うまでもなく、マタイ福音書の系図と今日の箇所のものです。両者は、一見してかなりの違いがあります。マタイは「アブラハムの子、ダビデの子イエス・キリストの系図」と表題がつき、アブラハムから始まって時代が下って来る通常の系図ですが、ルカの場合はイエスから始まって、逆に先祖に遡っていく系図となっています。

 マタイの系図

 マタイは、イエス様をアブラハム・ダビデに代表されるイスラエルの系譜の中に位置づけることを、第一の目的としているでしょう。しかし、その一方で、マリアを入れると五名の女性が混ざっており、その女性たちがそれぞれ、異邦人、息子の嫁、遊女、人妻と、一様に訳ありの女性なのです。そういう意味では、その系図もまた、ユダヤ人と異邦人、また男と女、有名な人と無名な人がいることを示しているでしょう。そして、何よりも、それは人間の罪の歴史であり、その罪から自分の民を救うメシア、イエス・キリストに向かう歴史なのです。そして、マタイの系図は、ユダヤ人にとっての完全数である七の二倍、十四代ずつで三つの段落に区切られています。それは、イスラエルの歴史は、人間の目には混沌とした歴史に見えようとも、神の救いのご計画の中にあることを示しているのだと思います。

 ルカの系図

 ルカも、マタイ同様に七を意識しており、七十七世代の人々を記します。当然、ダビデもアブラハムも出てきますが、女性の名前は入りませんし、マタイにはある注釈的な言葉も一切入りません。一筋にアダムに向かい、そして神に至るのです。原文では、「イエスはエリの子ヨセフの子と思われていた」とあって、そのエリは、「マタトの、レビの・・・」とずーと続き、最後に、「アダムの、神の」となって終わっています。つまり、父祖アブラハムも王ダビデも他の人と同じ一人の人扱いなのです。英訳聖書の多くは、すべての登場人物を「〜の子、〜の子」と訳しています。そうなると、最後は「アダムの子、神の子」となります。「〜の子」と翻訳で書こうが書くまいが、実質的、イエス様の系図は「アダムの子、神の子」となるのであり、これもまた意味深なことです。

 アダムの子

 何故かと言うと、私たちが「アダムの子」と聞けば、それはやはり罪の子というか、罪人を表す言葉だと理解するからです。アダムは、神様に創造された最初の人間であり、罪を犯した最初の人間です。そういう意味では性別を越えた人間の原型です。その場合は、エバの夫として固有名詞を持ったアダムではありません。罪を犯す人類の代表です。私たちは誰でも、男でも女でも、アダムの子として彼と本質を同じくするのです。私たちは誰もが神の被造物であり、神に愛されている神の子として生き始めるのです。しかし、誰もが神に背き、あるいは神をなきものとする罪人になる。そして、その罪の故に、本来父である神との繋がりが断たれてしまっている。神の子の姿を失っているのです。
 その罪による神との断絶が根源的不安を呼び起こし、様々な宗教を産み出すのだと思います。日本人は、仏教なんだか神道なんだかよく分からず、何もかもが混ざり合った漠然とした信仰を生きている場合が多いと思います。その曖昧さが、あやしげな宗教団体が悪徳商法によって莫大な利益を上げてしまう土壌を提供しているのだと思います。まともな仏教とか神道の信仰にきちんと生きていれば、そんなものに騙されることはないと思います。もちろん、私たちキリスト者もその点では同じことです。
 とにかく、旧約聖書というものは、一面から言えば、罪によって神様との交わりが壊れ、断絶してしまったアダムの子である罪人に対して、神様が飽くことなく呼びかけ続けた物語、歴史、系図と言ってもよいように思います。その旧約聖書を、マタイはイエス・キリストに至る系図、ルカはイエスから始まり神に至る系図として表現しているのだと思います。

 およそ三十歳

 以上のことを踏まえた上で、今日の箇所に入ります。

「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。」

 この記述は、単純にイエス様の実際の年齢を告げているのではないでしょう。世界の中には、正確な生年月日など記録がない人々はいくらでもいますし、日本でも、私の幼かった頃は、「満年齢」と共に、「数え」で年齢を数えている高齢者は珍しくありませんでした。だから、年末に生まれても、新年になってから生まれたものとして届けたという話をいくつも聞いたことがあります。
 ルカ福音書が書かれたのは、千九百年以上も前です。イエス様が、何年何月に生まれたなどということは、当時の人々には関心はありませんし、イエス様に限らず、誰もそんなことは分からない。誰もが「およそ何歳」なのです。
 しかし、それでも「三十歳」と記されていることには意味があります。創世記に出て来るヨセフが、エジプトの総理大臣の職に就いたのは三十歳の時でした。また、神殿に仕えるレビ人(祭司)が正式に仕事を始める年齢は三十歳で、定年は五十歳ということになっていました。ダビデが、イスラエルの王になったのも三十歳でした。
 「三十歳」とは、神に仕える人間が、そのために必要な準備や訓練を経て、その役職に就く年齢を表しているのだと思います。イエス様においても、いよいよ「その時が来た」ということだと思います。

 その時

 「その時」とは、民衆の一人として洗礼を受けた時であり、神様から、聖霊を注がれつつ「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけられた時です。その時に至るまで、主イエスは、多くのユダヤ人の子どもと同じく、聖書を暗唱しつつ学んでいかれたのです。もちろん、誰よりも深く学ばれた。だからこそ、この後、荒れ野で悪魔に誘惑を受けた時も、聖書の言葉だけで対抗されましたし、ナザレの会堂における最初の説教もイザヤ書の朗読から始まります。
 また、復活された後に、弟子たちにこうおっしゃっています。

「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。・・」・・「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。」

 主イエスは、旧約聖書全体を熟読しつつ、ご自身に与えられたメシアの道を示されていったのです。そして、その第一歩を、荒れ野で叫ぶヨハネの許に救いを求めて集う民衆の一人として始められたのです。民衆の一人として罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を受けて、完全に一人の人間として罪人に連帯されたのです。その時、主イエスは「アダムの子」になった。私たちのように「罪を犯してなった」のではなく、私たちの「罪を背負うためになった」のです。そのイエス様に対して、神様は、聖霊を注ぎかけつつ「あなたはわたしの子だ」と語りかけ、「あなたを喜ぶ(御心に適う者)」と語りかけられたのです。それは、祈りの中で、十字架の苦難に向けての歩みを選び取ったイエス様に対する、神様の懸命の励ましだと思います。その苦難と栄光、十字架と復活に向かって歩み続けるためには聖霊の力が必要ですから、聖霊が注がれているのです。

 ヨセフの子と思われていた

 ルカ福音書は、その最初からイエス様がひとりの「人間」であり、そうであるのに、いやそうであるが故に、「神の子」であると書き続けているのです。「イエスはヨセフの子と思われていた」という言葉も、そのことを表しています。
 「イエスはヨセフの子と思われていた」とは、不思議な書き方です。これはもちろん、人々の認識を書いているのです。この先に、イエス様の圧倒的な言葉を聞いた人々が、「この人はヨセフの子ではないか」と言う場面があります。つまり、人々にとっては、どう見ても、イエス様は自分たちと同じナザレ育ちの田舎者であり、大工の倅なのです。それなのに、何故、こんなすごい言葉を言えるのだ?!そういう驚きがある。
 しかし、ルカ福音書を読んできた私たちは、既に、十四歳当時のイエス様の不思議な言葉を聞いています。あの時、両親は三日もイエス様を捜し続けたのです。そして、ついに神殿でイエス様を見つけた時、母はこう言って責めました。

「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

 しかし、イエス様はこうお答えになりました。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。


 つまり、人間の目にはイエス様の父親はヨセフなのです。母マリアにとっても、それは同じです。そして、イエス様はこの後、その両親と共にナザレに帰り、多くのユダヤ人の子らと同じように、親に仕えて暮らしていたのです。律法の学びだけでなく、大工の仕事を手伝い、長男として家業を継ぐための訓練を受けたのです。学者たちは、ヨセフは早死にしたのではないかと推測しますが、もしそうであれば、イエス様は十代の後半には一家の大黒柱として働いておられたかもしれません。
 マルコ福音書には、イエス様がマリアの子であり、弟たちや妹たちがいるではないか、とナザレの人々が言ったことが記されています。それは確かに一つの現実であり、その現実を抜きにキリスト信仰は成り立ちません。キリストはひとりの人としてお生まれになったのです。しかし、イエス様にとって、「自分の父」と言えるお方は、神である。これも一つの現実なのです。このことを抜きにしても、キリスト信仰は成り立ちません。
 この、神であり人であるイエスという方において、神と人が結びつく。そこにある救いを、ルカはこれまでも様々な形で語って来ましたし、これからも語り続けていくのです。今日の個所も同じことを語っているのです。
 彼は、イエス様が人間であることの証明である系図を「イエスはヨセフの子と思われていた」という言葉から書き始めています。しかし、その系図の行き着く先は人間ではなく、神なのです。

 天と地 神と人を繋ぐ系図

 となると、こういうことが分かるのではないでしょうか?普通、系図は時間の繋がりを表すものです。人間の歴史は、時間の中で織りなされていくものだからです。そして、それは地上の現実です。しかし、ルカが描く系図は、そういう時間の繋がりを表すだけではありません。これは、天と地を繋ぐ系図です。つまり、神と人を繋ぐのです。人々がヨセフの子と思っているイエス様の先祖を辿っていくと、それはアダムにまで行き、最後は神に行き着くのです。

 救いに至る悔い改め

 ここに至って、イエス様の先駆者ヨハネが「悔い改め」を求めた理由がはっきりします。「悔い改める」とは、ヨハネの後に来られるイエス様をメシア、救い主として受け入れるということです。悪事を反省するとか、愚行を後悔するとか、そういうレベルの話ではありません。
 自分は神と離れて生きていた、知らぬうちに神に背き、神を裁き、神をなき者として生きていた。それは、社会的には何ら悪いことでも責められるべきことでもありません。しかし、そのことを、聖書では「罪」と言います。人は、その罪に支配されている限り、神に造られ生かされる神の子としての命を生きることはできません。その命を新たに与えられて生きるためには、己が罪を知り、認め、罪を赦して下さる方を救い主と信じる。救い主を心に受け入れ、救い主の召しに応える必要があります。イエス様こそメシア、救い主であると信じる。それが、悔い改めるということです。その悔い改めの徴として、私たちは洗礼を受けるのです。水を使いますが、それは聖霊の徴です。その水と聖霊の洗礼を受けることで、私たちに何が起こるのかと言えば、それは「アダムの子」から「神の子」への転換が起こるのです。

 神の子としてのキリスト者

 パウロは、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテヤ三章二六節〜二七節)と言っています。そして、その神の子はキリスト・イエスにおいて一つにされている。一体の繋がりの中を生かされているのだと言っています。その繋がりの中で、ユダヤ人も異邦人もいない、男と女もない、奴隷も自由な身分もないのだ、と。

 東日本大震災に対しては、世界中の人々が祈りと救援の手を差し伸べてくれています。実に有難いことだと思います。その励ましの言葉の一つは、「あなたは一人ではない、私たちは皆、繋がっている」というものです。人は繋がりの中でこそ生きるものだと、多くの人が知っている、あるいは、こういう時に気付かされている。
 私の所にも、もう四十年も前に帰国したアメリカ人の宣教師ご夫妻や、その娘さんからEメールがすぐに届きました。そこには、「私たちはあなたたちと共にいます。あなたたちのために祈っています。そのことを知っていて欲しい」と書いて来て下さいました。この場合の「私たち」は、その方が属している教会のメンバーも含む「私たち」です。信仰を同じくしている「私たち」、イエス・キリストを信じ、洗礼を通してイエス・キリストに結ばれ、神の子とされている「私たち」です。神の家族としての「私たち」です。そして、メールに続いて早速に被災地域に送るための献金を送って下さいました。そういう繋がりの中に置かれていることは、大きな励ましです。
 その繋がりの中心には、主イエスがおられる。私たちのために人間となり、人間が味わう苦しみをすべて味わい、罪人の罪を背負って十字架で死ぬという神の子としての苦しみを味わい、今は天に在って私たちのために執成し祈り、しかし同時に霊において私たちと共に苦しみながら祈って下さる主イエスがいるのです。

 アッバ、父よ

 パウロは、他の所では、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。・・この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と言っています。そして、続けて、子であるならばキリストと共に相続人でもある。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける。将来現されるはずの栄光に比べるならば、現在の苦しみは取るに足らないと、言っています。その通りだと思います。アーメンと言うしかありません。
 神の子が、苦しみを受けないなどということは、聖書の何処にも書いてありません。キリストへの信仰を生きていたって、病気にはなるし、災難に遭うことだってあるし、災害に見舞われることもある。そしてもちろん、死にます。すべての人と同じように。病気や災難に遭わないという意味で、神の「守り」があるわけではないでしょう。病気や怪我をしたから、神様に見捨てられたとか、もう守られていないということではないのです。
 私たちキリスト者は、何があっても、決して神様から見捨てられないのです。「見捨てられた」と思うのは、私たちが神様を見捨てているからです。私たちが、神様を見捨てているのです。まるで無力で死んだ者、役立たずのものと思い込み、意地悪で不公平な神と思い込み、勝手に絶望している。そういうことは、しばしばあります。私たちが信仰を守っていないのです。そして、神様は守って下さらないと言っている。
 それでも、そんな私たちでも、神様は決してお見捨てになりません。神の独り子、イエス・キリストが、あの十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈って下さったからです。この神の子の祈りを、父は聴いて下さっているのです。そして、神の子が、私たちの罪を背負って「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びを上げつつ死んで下さったのです。この祈りと死が、自分のための祈りであり死であると確信する者は、どんな苦しみの中にあり、たとえ死の陰の谷を通るような時でも、我が主イエス・キリストが共にいて下さることを確信することが出来る。主イエスこそ、私たちの信仰がなくならないように祈って下さっていることを知り、主イエスと共に「アッバ、父よ」と祈ることができるのです。神の子として、神を父と呼ぶことができる。これが救いです。そして、今現在、どれほど苦しみがあっても、いつの日か与えられる栄光、主の復活に与るという栄光を望み見ながら生きることができる。これが、救いです。罪赦されるとは、こういう信仰と望みに生きることができるということなのです。

 神の愛から引き離されることはない

 パウロは、さらにこう言います。ここは、私の特愛の聖句の一つで、時折、声に出して読んでは、その都度、心が揺さぶられる言葉です。

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・・
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。


 私たちの人生においては、思いがけないことで、何もかも失ってしまうことがあります。これまで築いてきた繋がり、先祖や家族との繋がり、友人や仲間との繋がりを、地震や津波や放射能によって破壊され、生き別れや死別によって失ってしまうことがある。そういう極端な災難に見舞われずとも、罪によって、愛し合うことができずに分裂することがいくらでもあります。そして、私たちは必ず独りで死ぬのです。人が隣で死んでも、一緒に死んでいる訳ではありません。人は、誰も人と一緒に死ねるわけではありません。
 しかし、神の許からこの地上に来て、アダムの子として生き、十字架の死と復活を通して罪と死の支配を打ち破って下さった神の子主イエス・キリストが、いついかなる時も聖霊において私たちと共におり、その祈りにおいて、私たちと神様をしっかりと繋げて下さっているのです。これは、事実なのです。この事実に堅く立たねばなりません。このキリスト・イエスにおいて示された神の愛以上に強いものはないし、この愛以外に私たちを、死を越えて生かすものはありません。
 そして、私たちは、地上の生ある今、主キリスト・イエスによって示された神の愛を信じる信仰を与えられ、洗礼を受け、こうして礼拝を捧げ、「アッバ、父よ」と祈ることができる。これが「恵み」というものです。今、こうやって礼拝出来るのは、恵み以外の何ものでもありません。私たちは、罪を赦して頂き、御子と共に神を「父よ」と呼ぶことができる神の子なのです。それが、神様がご自身の独り子主イエス・キリストを通して、私たちに与えて下さった救いです。 この系図は、その救いが長い時間をかけて到来したことを私たちに告げており、また天から到来したことを告げており、私たちに、イエス様以後の神の子の系図に入るようにと招いているのです。天に向かって歩むように招いて下さっているのです。その招きに応え、世々の聖徒と共に主を賛美しつつ生きてまいりたいと思います。

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