「荒れ野の誘惑」

及川 信

       ルカによる福音書  4章 1節〜13節
4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を"霊"によって引き回され、4:2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」4:4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。4:5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。4:6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。4:7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」4:8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4:9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。4:10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』4:11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」
4:12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。4:13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。


 幻想の神と聖書の神

 三月十一日の大地震と津波の到来から一ヶ月が経ちました。この度の大震災は、東北地方を襲った惨劇に留まらず、日本、あるいは日本人の今後の歩みに非常に大きな影響を与える出来事なのだと思います。
 先日、ある週刊誌の中に、こういう言葉を見つけました。震災後一週間で現地に入って取材したカメラマンの言葉です。

「私は水責め火責めの地獄の中で完膚なきまでに残酷な方法で殺され、破壊しつくされた三陸の延々たる屍土(かばねど)の上に立ち、人間の歴史の中で築かれた神の存在をいま疑う。・・神はただのハリボテであり、もともとそこに神という存在そのものがなかっただけの話なのだ。・・神幻想を失った私たちは今や孤独だ。しかし、神幻想から自立し、自らの二本の足で立とうとする者ほど強いものはない。日本と日本人は、いま、そのような旅立ちをせんとしている。」

   私は、「人間の歴史の中で築かれた神の存在」など、最初から「ない」のであり、今頃、「その存在を疑う」などと仰々しく言うことではないと思います。そして、こういう言葉は、孤独を知らない人間の言葉だと思います。
 ある旧約学者の本に、「聖書の神」は、どの宗教にも見い出せないほど変わった神だ。人々は、その神をなんとかして、一つの範疇に押し込めて理解しようとするがそんなことは出来ないのだ、という趣旨のことが書かれていました。これには、深く納得します。
 私も、牧師としてもう二十五年以上、毎週、神様のことを語ってきました。でも、毎週、聖書の言葉を読むたびにびっくりします。中渋谷教会には、信仰歴五十年という方もたくさんおられます。でも、どなたも神様のことを分かってはいないと思うのです。しかし、だからこそ、こうして毎週、せっせと礼拝に通って来られる。分かり切ったことを聞くために、わざわざ電車やバスに乗って礼拝には来られないでしょう。それでは、何がそんなに分からないのか?あるいは、どうして分からないのか?そして、何故、こうして今日も礼拝に来るのか?礼拝とは何なのか?

 固定観念は砕かれる

 今日は、「荒れ野の誘惑」と呼ばれる箇所に入ります。多くの方は、この場面のことをよくご存じですし、「ここにはこういうことが書かれている」という固定観念をお持ちだと思います。私も持っていました。しかし、改めて読んでみると、最初から全く分からないというか、分かっていなかったことが分かりました。
 今日の箇所は、出来事としてはイエス様がヨハネから洗礼を受けた直後のことです。しかし、ルカは、その出来事の連続性を中断するようにして、イエス様の系図を入れています。そのことの一つの意図は、神様から、「あなたはわたしの愛する子」と呼ばれた「神の子」は、完全な「人間」であることを示すことにあるでしょう。
 荒れ野の誘惑の記事はマタイ福音書にもありますが、両者は比べてみると結構違います。私はマタイの方で覚えていました。マタイでは、イエス様は「悪魔から誘惑を受けるために聖霊に導かれて荒れ野に行った」とあります。それから信仰的な業としての「断食をした」
 しかし、ルカでは、今お読みしたように、イエス様は洗礼の時に授けられた聖霊に満たされてヨルダン川から帰ったのです。帰った場所は、故郷のガリラヤ地方のことだと思います。しかし、その上で"霊"によって荒れ野に行かれた。「引き回された」とありますが、それはかなり誇張された意訳です。この書き方だと、私が犬の散歩で犬を引っ張り回しているように、霊がイエス様を無理矢理引っ張り回している感じです。しかし、原文では、「霊において荒れ野に導かれた」です。そこには、イエス様自身の意志があったのだと思います。そして、その荒れ野で、悪魔から誘惑を受けた。それは荒れ野に行った結果であり、マタイのような目的ではないかもしれません。「荒れ野」〈人里離れた所〉は、イエス様の祈りの場所として、これから何度も出てきます。
 イエス様を荒れ野に導いた"霊"は、新共同訳聖書では引用符号" "がついていて、「聖霊」であることが暗示されています。他の翻訳でも、また私が読んだ限りでは学者たちも皆、聖霊として解釈しています。父・子・聖霊なる三位一体の神の中の聖霊です。マタイは、そう書いているのです。
 しかし、ルカは、洗礼の時にイエス様に豊かに与えられた「聖霊」とは区別して、イエス様の"霊"という言葉を意識的に書いていると、私は思います。それは、どういうことなのか。今日は、そのことを巡って聖書に聞いたことを語ります。それは、洗礼を受けるとはどういうことなのか?神の子として神を愛し、信じ、その御心に従って生きようとするとは、どういうことなのかを考えるということでもあります。悪魔の三つの誘惑の内容に関しては次回、あるいはさらにもう一回かけて読んでいきたいと思います。

 神の子 人の子

 ルカ福音書におけるイエス様の登場の仕方は、本当に不思議です。マリアへの天使による受胎告知だとか、羊飼いに対する天使のお告げだとか、華々しくイエス様の誕生は予告され、また告げられてきました。そこに出てくる称号は、「神の子」「主」「メシア」「救い主」であり、これ以上ないものばかりです。しかし、そのイエス様が実は、家畜小屋の飼い葉桶で寝ており、人の数にも数えられない羊飼いが最初の訪問者なのです。
 また洗礼者ヨハネは、火と聖霊によって洗礼を授けるメシアの到来を熱烈に告げていました。でも、イエス様が民衆の中に混じって洗礼を受けた時、ヨハネはそれがメシアとして来られた方だとは気付きません。神の子、主、メシア、救い主であるお方は、同時に、ただの人である。その姿を見ても、誰もそこに神の子がいるとは思わない。そういう「人」である。ルカは、明らかにそう語っています。

 しかし、その前に

 しかし、神様だけは、人の罪を背負うべくひとりの「人」として洗礼を受けられたイエス様に聖霊を豊かに注ぎかけ、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と声をかけられたのです。神様には分かる、神様だけに。
 その聖霊に満たされる中で、イエス様は故郷であるガリラヤに帰られました。しかし、主イエスはいきなり人々に対する伝道を始められた訳ではありません。その前に、どうしてもやっておかねばならぬことがあったのです。それは、独りになることです。荒れ野とは、人がいない所。人の声がしない所です。そこは神の声がする所であり、同時に悪魔の声がする所です。その荒れ野に出ていかねばならない。そこで独り、神と向き合わねばならない。それは同時に、悪魔と向き合わねばならぬということです。
 それは、神のために、神に仕えて生きていこうとするすべてのキリスト者が経験しなければならないことです。荒れ野は都会の只中にもあり、そして、私たちの心の中にもあるのです。その荒れ野で、神と向き合う、悪魔と向き合う。そのこと抜きに、神様から与えられた使命を生きることができない。イエス様は、そのことを聖霊の注ぎの中で、直感されたと思います。

 誘惑 試練

 先ほどから言っている「誘惑」とは「試練」とも訳される言葉でギリシア語ではペイラゾウと言います。そして、旧約聖書のギリシア語訳でペイラゾウという言葉が最初に出て来るのは、創世記二二章一節です。そこには、私たちすべてのキリスト者にとって「信仰の父」と言うべきアブラハムのイサク奉献物語が記されています。
 その物語は、聖書の中で最大の躓きの一つです。何故、神は、アブラハムのたった独りの息子を犠牲として殺せなどと言うのか?神様がアブラハムに与えると約束して、漸くにして生まれたイサクを犠牲として捧げよと命じるのは、何故か?それは、ご自分の約束を自ら破綻させることではないか?また、親に子どもを殺させるとは一体どういうことか?!そんな残酷なことを命じる神は、信じるに値する神なのか?様々な疑問が湧き起こる物語です。(二月に出版した、私の説教集の巻末に、この物語に関して思うことを書いておきました。)
 アブラハムは、神様の命令を拒むことだってできます。アブラハムが神様の命令通りに動くロボットではないことは、ここに至るまでの物語で明らかです。神様の言葉に対して、抗弁することだってできるし、神様をあざ笑ったり、背いたりすることも出来るのだし、実際にそういうこともやってきたのです。そして、神様は、そういうアブラハムを望んでおられるのです。
 しかし、この時、アブラハムは神様の理不尽とも思える命令に黙々と従いました。何故か?それは他人にはよく分からない次元のことです。神が「行け」と命じたモリアの地に着くまでの三日間、彼はまさに荒れ野を生きたでしょう。神の声が響く荒れ野、しかし、悪魔の声も響く荒れ野を歩いた。そして、「犠牲に捧げるべき小羊は何処にいるのですか、お父さん」とイサクに尋ねられ、「小羊はきっと神が備えてくださる、息子よ」と答えつつ山に登る時、そこにおいても、神の声とその言葉を疑わせようとする悪魔の声が響いていたでしょう。悪魔はこう言ったかもしれません。

 「お前が聞いた声は、本当に神の声なのか?神は本当に、独り子を犠牲として捧げよ、などと言ったのか?お前は幻聴に捕らわれているのだ。さあ、帰ろう。イサクと一緒に帰って平和に暮らそう。神も、そう願っているのだ。愚かな幻想に捕らわれるのはやめろ。幻想を信仰と思い込むことこそが、最も危険なんだ・・。」

 これは、本当に厳しい試練であり誘惑でした。しかし、この試練こそが、アブラハムがアブラハムになるためにどうしても必要なものだったのです。神に選び立てられたアブラハムが、いくつもの試練を通して、また最終的にはイサク奉献を命ぜられるという試練を通して、アブラハムになっていく。罪による呪いに覆われた世界に命の祝福をもたらす存在になっていく。そのためには、どうしてもその試練、誘惑に遭う必要があった。

 信仰の逆説

 神に選ばれ、キリスト者として頂き、神様の御用のために立てられることは、恵みに違いありません。しかし、そこには大きな試練があり、それは誘惑でもあります。与えられた恵みが大きければ大きいほど、その恵みを根こそぎ台無しにしようとする誘惑の力も強いのです。皆さんの中にも、人生に悩み、その解決を求めてキリスト教信仰を求めて信仰の道に入ったのに、実は信仰を与えられてからの方が悩みが深刻になった。おかしいじゃないか。これが救いなのか?と思っている方もおられると思います。もし、そういう思いをお持ちならば、喜んでください。そういう悩みや苦しみを与えられるのが信仰者の特質なのであり、もしそういう悩み苦しみがないとすれば信仰もないのです。信仰がなければ救いもないのですから、むしろそのことに悩んだ方がよいのです。信仰の喜びとは、逆説的なものです。苦しみの中にこそ喜びがある。しかし、その喜びを見い出すまでは耐えなければならない、踏み止まらなければならないのです。
 イエス様は、洗礼を受け、聖霊を豊かに注がれ、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われた途端に、悪魔を通して激しい苦しみを経験したのです。
 洗礼を受けた者は皆、罪の支配から解放されて神の子として誕生するのです。その神の子に悪魔はやって来て、神の召命に従って生きる道から逸らせようとする。私自身、洗礼を受けた直後から、幾度も、様々な誘惑に遭い、苦しみ、結局、自分としては惨めな敗北を味わって来ました。当たり前ですが、悪魔の方が圧倒的に強いのです。しかし、その悪魔よりキリストの方がはるかに強い。だから、今日も私はここに立って語っている。語らせて頂いているのです。それは、キリストの勝利のお陰です。
 今日洗礼を受けた平野さんには、心から「おめでとう」と言います。しかし、信仰に燃える前途有望な青年だけに、襲いかかる試練や誘惑も強いと思います。自力で戦って、惨めな敗北を喫するのではなく、キリストを鎧として身にまとって戦って下さい。キリスト者とは、キリストを着た者という意味でもあるのです。

 聖霊と"霊"

 ルカは、洗礼と同時に「聖霊」を豊かに注がれたイエス様が、聖霊とは別の"霊"に導かれて荒れ野に行ったのだと書きました。この"霊"とは、何か?
 聖霊の一つの働きは、神様の意志を伝えるものだと言って良いと思います。神様の業をなし、また人に働きかけ、人を通して御業をなさしめる力、それが聖霊でしょう。しかし、その聖霊、神の意志を受け止める人間の意志も必要です。聖霊が働けば、私たちの意志とは無関係に私たちは神の業をし、キリストを証しし、信仰を生きているわけではありません。私たちは、神様の操り人形ではないのです。
 神様は、私たちに意志を与えておられます。聖霊が働かなければ、私たちの中に信仰の「し」の字も生じません。しかし、聖霊が与えられても、人が創造された時に与えられている"霊"が応答しなければ、信仰告白は口から出てきませんし、信仰的業も出てきません。創世記一章は、神はご自身の像に象って人を創造されたと語ります。そのことの一つの意味は、人間だけは神の意志の現れである聖霊を感知する霊が与えられているということだと、私は思います。アブラハムは、その霊の故に、神様の言葉を聞きとることができ、激しい葛藤の中で、自ら神の意志に従ったのです。
 イエス様も、それは同じだと思います。そこに、イエス様自身の戦いがあるのです。神の言葉、そこに示される神の御心を疑わせ、神の子としての使命を誤解させ、神様が望んでいる方向からずらしていこうとする悪魔の攻撃、耳当たりの良い攻撃が、聖霊を注がれたその時から始まるのです。その攻撃を受けるのは、イエス様の中にある霊、霊的な意志の力です。

 「神の霊」と「わたしたちの霊」

 パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、神様が与えてくださる「聖霊」と私たちの中にある"霊"を、洗礼との関わりの中で語っています。彼は、洗礼を受けることを、罪の奴隷状態からの解放であり、神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことができる「神の子」の誕生として捉えています。そこで、こう言うのです。

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマの信徒への手紙八章一四節〜一七節)

 「神の霊」「わたしたちの霊」が呼応してこそ、私たちは神を「アッバ」つまり、「お父さん」と呼べる「神の子」となることができるのです。信仰は神様からの賜物であると同時に、私たちの決断なのです。そして、その決断をした人間は、どうしても荒野を経験する。しなければならない、経験することになっているのです。キリストと共に苦しむこと抜きに、神の子としての相続、復活という栄光を受けることは出来ないからです。だから、誘惑、試練もまた、来るべき栄光に向って与えられるものなのです。

 悪魔 サタン

 ルカ福音書には、サタンという言葉が何度も出てきます。四章の悪魔と同じ意味だと考えてよいと思います。そして、ルカ福音書の場合、イエス様の伝道とは、基本的にサタンの支配との戦いなのです。サタンは、人々を支配し、苦しめます。人を神から引き離し、人の心に蒔かれた御言を奪い去ってしまうのです。そして、神は死んだ、無力だ、残酷だと思わせます。
 イエス様はそういう力と戦い、勝利をされていく。その勝利の第一歩が、この四章です。ここで勝利をした上で、これからの伝道の業に出ていかれるのです。マタイでは、「悪魔は離れ去った、すると、天使たちが来てイエスに仕えた」となっています。しかし、ルカの場合は、「悪魔は時が来るまでイエスを離れた」と書かれています。つまり、「時が来れば、悪魔はまた来る」のです。それはいつか?

 時は来た

 二千年前の春、まさに私たちが今生きているこの季節は、ユダヤ人にとって最大の祭り、エジプトからの救済を記念する過越しの祭りが祝われる季節です。その時、「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」とあります。
 ユダは、祭司長らの手にイエス様を引き渡すための相談を始めます。彼は、まさかイエス様が十字架に磔にされて殺されるとは思ってなかったでしょう。サタンは、そんな結末になるとユダには語ってはいなかったのです。ユダは、祭司長らの所に行き、金と引き替えに、イエス様を彼らに引き渡すことを決めました。そして、イエス様に接吻することを通して、サタンの業を貫徹させられてしまいます。
 しかし、そのユダの業を通して、神が立てた神の子、メシアの業が貫徹されていくことにもなる。まさに神様の秘められたご計画、私たちには分かり得ない計画がここにあります。
 そして、イエス様は、祭司長らに逮捕される直前、弟子のシモン・ペトロに、こう言われました。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 サタンは、神の許可の中でペトロを試みるのです。そして、彼は、完全に敗北します。自分の意志としては、イエス様と一緒に死ぬつもりなのです。でも、人間の意志は弱いものです。イエス様には、そのことが見えています。「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」とイエス様はおっしゃり、その通りになりました。しかし、その彼のためにイエス様は祈って下さっている。サタンの願いも神様は聞き入れる。聖書の神様は、そういう神様です。しかし、同時に愛する独り子の祈りも聞かれる神様です。

 祈る人 メシア

 主イエスは、ユダ、ペトロという側近中の側近と言うべき弟子たちがサタンの襲撃にあって無残に敗れる中、ゲツセマネの園で祈られます。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

 この祈りを祈りきることを通して、主イエスは十字架の死に向っていかれるのです。それが、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」と言われた神の子、メシアなのです。
 そして、その神の子、メシアは、あの十字架の上で、二人の犯罪者に挟まれて処刑されていきました。人々は嘲り続けます。

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

 悪魔の試みは、ここで究極のものとなります。しかし、ここでも主イエスは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈って、息を引き取られたのです。その様を見たローマの百人隊長は、「本当に、この人は正しい人であった」と言って、「神を賛美した」とあります。
 主イエスは、最後まで悪魔の誘惑を受けられました。しかし、主イエスは最後までご自分の肉体の命を守るために、また救うために神の子としての権威を使うことがありませんでした。私たちと同じように空腹を覚え、権力を振るったり、神を試したりしたいという欲望に心かきむしられつつも、最後まで神に祈り続け、ついにその存在のすべてを神様に委ねて死んだひとりの人間が、ここにいます。サタンの支配に取り込まれ、苦しむ人々の救いのために、言葉と業を持って戦い続け、ついに、ご自身の命を罪の贖いのために捧げつくすことを通して勝利したひとりの人が、ここにいます。その人こそ、神の愛する子、その御心に適う者であり、神の子であり、メシアであり、救い主であり、神の国の王なのです。

 イエスに従うキリスト者

 神様は、無力に徹し、祈りに徹し、御心を生き抜いたこの愛する子に苦難を与え、贖いの死を遂げさせました。それは、聖霊の業です。しかし、その霊を受け止め、応答するイエス様の霊のなせることでもあるのです。イエス様は、絶えず祈りの中で神の御心を受け止め、祈りを通して応答し、祈りから押し出されるようにして御心を生き抜かれたのです。そして、それが正しい人、信仰に生きる人の究極の姿です。
 イエス様は、イエス様のことを「神からのメシアです」と告白したペトロを初めとする弟子たちに、ご自身の十字架の死と三日目の復活を預言されました。その上で、こう言われた。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」

 しかし、ペトロを初めとする弟子たちは、イエス様について行くことに失敗しました。悪魔によってふるい落とされたのです。もみ殻のように消えてしまった。イエス様を捨て、自分の命を救おうとしたのです。悪魔が、その方が絶対に得だと言ったからです。でも、イエス様はこうおっしゃいます。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」

 ペトロは、道を間違えました。何が得かを誤解した。イエス様の言葉よりも、サタンの言葉を信じたからです。あのエデンの園におけるエバと同じです。

 聖霊による礼拝

 しかし、イエス様は、このペトロを初めとする弟子たちのために祈って下さり、そして何よりもペトロたちのために、つまり、イエス様をメシアと告白して洗礼を受けた私たちのために、サタンと戦い勝利して下さったのです。既に、勝負の決着はついているのです。イエス様は、その死に至るまでの従順の故に、死の支配を打ち破って復活され、今は、天にあって信仰の弱い私たちのために執成し祈って下さっています。そして、天から聖霊を注いで下さっているのです。私たちが毎週捧げているこの礼拝は、その聖霊を受ける時です。そして、聖霊と共に御言を受ける時なのです。
 ペンテコステの日、炎のような舌が、弟子たちひとりひとりの上に留まりました。その時、彼らは世界中の言葉で、イエス様が十字架の死から甦った神の子、メシア、救い主であることを証言し始めたのです。かつて、イエス様のことを三度も「知らない」と言ったペトロは、聖霊の注ぎに応えて、勇気を振り絞って、こう断言したのです。

「神は、このイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。・・・だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 私に洗礼を受ける決意をさせたのは、イエス様の「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」というイエス様の言葉です。そして、もう一つは、「あの人のことは知らない」と三度も言ってしまい、その後、鶏が鳴くと同時に悲しみのあまり泣き叫んだペトロが、聖霊の注ぎを受けた後に、勇気を振り絞って説教をしている姿です。彼のこの説教を読んだ時、彼の顔や姿が目に見えるようでした。彼はもう死を覚悟している。この説教をすることを通して逮捕され、処刑されるなら、それでよい。そのように死ねるなら、満足だ。その死の中に復活の命がある。彼は、そう確信していることが分かりました。
 そして、私は、人がこんなに変われるのであれば、生きていこう、生きてみたい。切実にそう思ったのです。そして、いつか私も、聖霊の注ぎの中で大胆に御言を語りたい。それがどれほど、試練や誘惑に遭うことであっても、ペトロのために祈り、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と語りかけてくださったイエス様を信じて、イエス様が十字架の死から甦ったメシア、神の子であることを、私たちの救い主であり、私たちにもはや死ぬことのない命を与えてくださったメシアであることを語りたい。そう強く願ったのです。それは、私の中にある霊がついに聖霊に応答したことだと思います。そして、私は恐る恐る信仰の道を歩き始め、恐る恐る伝道者の道を歩き始め、こうして説教しているのです。その時は、私は強い人間だと思います。それは、神がいない孤独に耐えつつ自分の二本脚で立っている人間の強さなどではありません。神は独り子を死に渡してまで、私たちを愛して下さっていることを確信する人間の強さです。生きている今も、死ぬ時も、死んで後も、私は神と共にあることを確信できる人間の強さです。それは、キリストの勝利に与った者の強さでしょう。

 キリストの勝利に与る礼拝

 私たちは毎週、その勝利に与るために礼拝に来るのです。一週間の歩みの中で、何度も負けているからです。時にはボロボロに負けてしまうのです。だから、意気消沈して、うなだれて、絶望してしまうのです。悪魔は、私たちが信仰に生きようとすればするほど、しつこくまとわりついて来ます。でも、悪魔は私たちには勝てるけれど、イエス・キリストには勝てません。だから、キリストは、今日も「私の許に来なさい。私の勝利に与りなさい。私の言葉を聞き、信じ、私からの霊を受け入れなさい。そうすれば、新しくなれる。また戦いに出ていける。私を着て、私の言葉を武具として、聖霊を吸い込みながら、雄々しく戦いなさい。私はあなたと共にいる」と語りかけてくださっているのです。この言葉を聞くために、私たちは今日も、こうして礼拝をしているのです。
 このキリストを忘れる時、私たちは負けるのであり、神を信じない時、私たちの霊が死ぬのです。しかし、キリストが負けているのではないし、神が死んでいるのでもありません。神は、大惨事の中でも生きており、御子を陰府にまで降らせて救いの御業をなしているのです。そして、聖霊を与えることを通して、私たちに御心を行わせてくださいます。聖霊を与えられ、信仰を与えられた者は、ただひたすら自分の十字架を負って、御子に従う。今日もまた、新たにその歩みを始めたいと思います。
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