「荒れ野の誘惑 U」

及川 信

       ルカによる福音書  4章 1節〜13節
4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を"霊"によって引き回され、4:2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
4:4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
4:5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。
4:6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。4:7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
4:8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4:9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 4:10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』 4:11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」
4:12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
4:13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。


 神の子としてのキリスト者

 今日は悪魔とイエス様の対決の部分に入ります。
 最初に確認しておかねばならぬことは、ここでイエス様が受ける誘惑は、神の子としての誘惑だということです。"神の子なら出来るだろう、あるいは神の子であればやるべきことだろう"。そういう誘惑、あるいは試練がここにはある。私たち人間は誰も、「この石にパンになるように命じたらどうだ」などとは言われません。そんなことは出来っこないからです。しかし、イエス様なら出来る。そういうことを、悪魔は語りかけているのです。それは、イエス様の心の中で起こる悪魔との戦いです。そして、それは「神の子」「メシア」「救い主」とは何であるかを巡る戦いなのだと思います。
 しかし、もう一つ確認しておくべきことは、ここに出てくる誘惑は私たちキリスト者に対する誘惑でもあるということです。神と会衆の前で、私たち信仰を告白し、洗礼を受けた私たちキリスト者は、イエス様と共に、神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来る神の子なのです。私たちもまた、神の子として新しく誕生したのです。だからこそ、イエス様は私たちに向って「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言われる。イエス様が十字架に向って真っ直ぐに歩んだように、私たちもまたそれぞれに与えられた十字架への道を歩む。それは、苦難を経ての復活に向けた歩みです。そこに悪魔との戦いがあることは言うまでもありません。

 歴史の中の出来事

 ルカは、歴史的な感覚が強い人だと思います。この福音書で強調されていることは、イエス様はイスラエルの歴史を背負ってお生まれになったということです。しかし、それだけではない。ルカは、そのイスラエルの歴史を世界の歴史の中に位置づけています。そして、イエス様をダビデ王やアブラハムを越えたアダムの子孫として、人類の歴史をも視野に入れていると言って良いでしょう。すべてがイエス・キリストに向かっており、そして、イエス・キリストから新しい歴史が始まるのです。
 今日の箇所の背景には、出エジプト記から申命記に至る長い話があります。つまり、モーセの導きによるエジプト脱出から約束の地カナンに到着するまでの荒れ野放浪四十年という歴史です。その四十年間、彼らは食物も水も事欠く荒れ野を放浪し続けなければなりませんでした。その荒れ野でイスラエルの民が経験したことは、飢えであり、偶像崇拝であり、神を試みるという不信仰です。イスラエルの民のこれらの経験が、イエス様が悪魔から受けられた誘惑の背後にあることは間違いありません。それは、悪魔の言葉に対するイエス様の返答がすべて申命記に出てくるモーセの言葉であることからも明らかです。

 人はパンだけで生きるものではない

 イスラエルの民に限らず、人間にとって「飢える」ということは根源的不安だと思います。生きる上で必要なのは、何よりも水や食料だからです。現代の都会人にとっては、食料を得るためには金が必要ですから、何よりも必要なのは金ということにもなります。それがなければ生きていけない。それは事実だし、誰もがそう思っています。悪魔の言葉は、その思いの代弁です。
 しかし、主イエスは、荒れ野放浪が終わった時のモーセの言葉を悪魔に告げます。

「人はパンだけで生きるものではない。」

 この言葉は、私たちが当然のこととしている考え方や生き方を、その根底から揺るがすものではないでしょうか?誰もが思っていること。それは悪魔によって思い込まされた思いなのです。主イエスは、その悪魔の思惑を破壊しているのです。
 モーセは、人間は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きることを知らせるために、この四十年の試練があったのだと民に告げました。だから、主の戒めを守り、その道を歩み、主を礼拝して生きることを命じます。そこに人の命があるからです。
 主イエスも、その命を生きることを決意し、そのことを悪魔に告げているのです。そして、人はパンを食べることで生きるかのような錯覚を引き起こす奇跡を起こされません。今後の伝道の中で、石をパンに変えることをすれば、人々の支持を得ることができるでしょう。しかし、イエス様は、パンで生きる命を与えるために来られたのではありません。たとえ、人々の失望を買うことになっても、人々の空腹感を満たすだけの業をなさいません。そこに救いがあるわけではないからです。満腹感を与えるより、人々と共に飢え渇きに苦しみ、神様の愛を信じて、日ごとの糧を今日も与えてくださいと祈りつつ生きるひとりの人であることを選ばれたのです。

 支配と偽善

 次に、悪魔は一瞬のうちに全世界の国々を見せた上で、その国を支配する権威と繁栄を与えようと提案します。イエス様は、天使ガブリエルが、処女マリアに告げたように、「永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」王として生まれた方だからです。
 「ヤコブの家」とは、イスラエルのことを指します。でも、世の終わりの時は全世界の人々が主の教えを聞くために「ヤコブの家」に集まって来ると、イザヤは預言していますから、全世界のことと言ってもよいのです。イエス様は、その全世界を永久に支配する神の子、王として誕生されました。悪魔は、そのことを知っています。だから"今こそ、あなたが王として世界を支配する時が来た。しかし、その王座に就くためには、神からこの世を支配する権威を与えられている私を拝むことが必要なのだ"と語りかけます。
 目に見える形ではキリストの支配がある。しかし、その実態は悪魔の支配である。そういうことは、実は珍しいことではありません。
 世の中に蔓延している一つの現実は偽善です。善をしている振りをして、実は悪をしているということです。いかにも悪をしていそうな暴力団員とかは分かりやすいのです。先日の新聞で、ある暴力団の組長が数年ぶりに刑務所から出所して、新幹線に乗る時の写真が掲載されていました。それは坊主頭でサングラスをして、その筋の人らしいスーツを着こなした姿で、誰が見ても暴力団の大物という感じなのです。彼らは見かけからして悪人ぶって悪いことをしているのです。すこしも偉くもないし、善人でもありませんが、偽善者ではないし、邪悪ではないと思います。もちろん、怖い人たちだけれど、可愛いものです。
 本当に邪悪なのは、宗教がらみの偽善でしょう。表看板はキリスト教会、キリスト教主義学校、キリスト教精神に基づいた福祉施設であり、その仕事に従事している人々も敬虔なクリスチャンのつもりでいる。でも、現実には、そこはただの人間集団であり、名誉を求め、私利私欲で生きているに過ぎない。そういうことは、決して珍しいことではありません。
 ある注解書に、シェークスピアの『ベニスの商人』の中に、こういう言葉が出てくると書かれていました。
 「坊主が重々しい顔つきをして、適当な聖書の言葉を語れば、どんな邪悪も隠してしまえるのだ。」
 同じ小説に、「悪魔だって、自分の都合に合わせて聖書を引用する」という有名な言葉もあります。そういう意味では、聖書ほど恐ろしい書物もありません。
 ある神学者は、こう言っていました。

 「表向きはイエスによって支配されているが実はひそかに悪魔によって支配されている国においては、十字架は一つの美しい深遠な象徴となるであろう。すなわち、公認の哲学や世界観の装飾品として、また、言葉の普通の意味での(たとえば、監督が身につける)装飾品として、何の害もなく使用できるものとなるであろう。」

 「坊主」とか「監督」と言われる人々は、私のような牧師やカトリック教会の神父のことです。そういう人々が、黒い服を着て、十字架のネックレスをぶら下げて、重々しく聖書の言葉を語れば、それは神の言葉なのだという約束事を作り上げている人間集団。それほど邪悪なものはありません。しかし、そういう偽善的な人間、また偽善的な集団に、私が、また私たちがなったことがないと断言することは難しいし、そんなことはしない方がよいでしょう。それは、罪に罪を増し加えるようなことです。しかし、人間とは結局そういうものなのだと居直ったり、諦めたりすることもしないほうがよい。それもまた、罪に罪を増し加えるようなことです。
 悪魔は、まさに偽善の天才です。さも善いことをするように促しながら、私たちを罪の中に落としていきます。そして、その力は強いのです。この世は、その力に屈服していると言わざるを得ないのではないでしょうか。若き日には正義感に燃え、貧しい民衆のために立ち上がった者が、なまじ成功が続くと、かつて彼が批判した権力者そっくりになっている場合がしばしばあります。醜い大人の姿を見て、自分は決してああいう大人にはならないと心に決めた子どもも、気がつけばそういう大人になっている。それが、私たちの現実です。

 闇の力(権威)に仕える人間

 主イエスは、その現実を嫌と言うほど体験し、誰よりも鋭く深く見据えておられるのです。エルサレムで逮捕される直前に、主イエスは逮捕しに来た人々にこうおっしゃいました。

「今は、あなたたちの時で、闇が力を振るっている。」

 この「闇」は悪魔の言い換えだし、「力を振るっている」「力」は、今日の箇所に出てくる「権威」(エクスーシア)という言葉と同じです。その権威の前に、私たちはひれ伏しているのです。この世の幸福、この世での力を自分のものにしようとしつつ、気がつけば悪魔を拝んでいる。しかし、そのことに気づかない。そのことに気づくことは、屈辱的なことです。そして、その屈辱を経ないでは、救いの希望もありません。しかし、その屈辱を本当の意味で味わわれたのは誰なのか!?

 神に仕えるイエス様

 イエス様は、私たちがそのように闇の権威にひれ伏し拝んでいる惨めな罪人だからこそ、マリアの肉体を通してこの世に生まれて下さったのです。そのこと自体、天において神の子の栄光に包まれていたイエス様にとって屈辱的なことでしょう。そのイエス様はさらに私たち罪人と同じく、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」を受けられました。そこまで低きに降られたイエス様に対して、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神様は宣言されたのです。この言葉は、イスラエルにおいて神が王様を即位させる時の言葉なのです。そして、この王(つまり、キリスト)は、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という御言に徹する王なのです。それは、この世の王、権力者とは全く逆の態度です。「王」だとか「権力者」と言うと仰々しいのですが、一家の主人でも主婦でもなんでもよいのです。牧師や神父でも同じです。最初は、神のため、人のために生きると思って始めても、気がつけば、自分のために生きており、仕えられることを求め、すべての人も自分の味方か敵かでしか判断できないようになっている。そして、気がつけば支配欲や独占欲の奴隷になっている。しかし、自分では神に従っているつもり、善を行っているつもり。それが怖いのです。
 しかし、主イエスは、どこまでも神に仕える王です。ただ神様だけを礼拝する。神様を崇め、その御心を尋ね求め、その御心を行うことだけを願う。そのことに献身する。そういう僕としての王です。後に語りますが、そのような従順な僕であるからこそ、この方を通して神の権威が現れて来る、その力が現れて来るのです。

 信仰によって神を裏切る試み

 聖書を引用するイエス様に二度も拒絶された悪魔は、今度は神の民の中心であり、その信仰の象徴であるエルサレムの神殿にイエス様を連れて行きます。そして、高い屋根の端っこに立たせて、こう言うのです。彼も聖書は熟知しているので、詩編の言葉を引用します。

「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
 というのは、こう書いてあるからだ。
『神はあなたのために天使たちに命じて、
 あなたをしっかり守らせる。』
また、
『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える。』」


 中途半端な聖書理解しか持っていないと、聖書の言葉を使った誘惑にはいちころで負ける場合がありますから、私たちは気をつけなければなりません。聖書の言葉を多く知っていればよいのではなく、きちんと正しく知り、信じていなければならないのです。「愛していなければならない」と言うべきかもしれません。神様のことを信じ、愛していなければ、神様の言葉は何も分かりません。
 しかし、信仰と愛にも落とし穴があります。悪魔は、神様を心から信頼しているのだったら、ここから飛び降りることが出来るはずだ、と言っているのです。そのようにして神の愛を試させようとしている。それは主イエスにとって、自分の信仰と愛の強さ示して、神の愛を獲得しようとする試みでもあるでしょう。
 もし、イエス様がその悪魔の誘惑に乗るとすれば、その時イエス様は、全身全霊をもって神様を信じるという信仰的な態度によって神を裏切ることになります。何故なら、神の御心はイエス様がそのような意味で神を信じることにあるのではないからです。それは、一体どういうことなのか?それが今日の問題なのです。

 罪と死

 私たちは、次回からいよいよイエス様の伝道活動が記された箇所に入っていくことになります。パンの問題も、奇跡の問題も、悪魔にひれ伏し仕える問題もすべて、これから読む箇所に出てきます。そういう意味では、今日の箇所はこれからの問題の先取りです。そして、それらは目に見える事柄としては三つです。しかし、その本質は一つでしょう。人の命は何か。人は何によって生きるのかです。そして、それは結局、罪の問題なのです。
 「罪の値は死である」とパウロは言いました。その「死」は、老齢によって、あるいは病気や災害によって死ぬこととは全く別のことです。罪とは、神様との断絶のことです。命の創造者、命の源である神様と断絶しているというのは、親と断絶している子と同じであって、肉体をもった人間としては生きているけれど、子としては生きていない。死んでいるということです。夫婦であれ、友人であれ、私たちは愛の交わりの中に生きる時に、初めて喜び、感謝、希望をもって生きていけるのです。その究極は、神様との生死を越えた交わりに生きる時に与えられるものです。その交わりが壊れる、断絶する。それは、愛を裏切り、信頼を裏切ることにおいて起こることです。そこに既に死があるのです。

 悔い改めによる救い

 その罪が赦される、神様との断絶が解消され、神様との交わりに新たに生かされる。「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と父が喜んで抱きしめて下さり、父の家に子として招き入れて頂ける。その愛と赦しの中に、私たちの命があるのです。その命に生きるために絶対に必要なこと、それは罪を認め、神のもとに立ち返ること、悔い改めることです。
 ルカ福音書は、最初から最後まで徹底的に「悔い改め」を求める福音書です。そこに救いがあるからです。
 天使ガブリエルは、洗礼者ヨハネについてザカリアに「彼は・・イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」と告げていました。そして、ザカリアは、ヨハネ誕生に際して、この子は「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」ことになると預言していました。
 このヨハネに続いて誕生したイエス様は、「罪の赦しによる救い」を与えてくださる「救い主」「主」「メシア」として誕生したことが天使によって告げられます。
 そのイエス様は、上からの権威を持って罪を赦し始めたわけではありません。全く逆に、民衆の一人として「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」をお受けになったのです。それは、神の子であるイエス様が、罪人の罪を背負い、罪の赦しという救いを得させる歩みを始めたということです。イエス様にとっては、十字架に磔にされて死ぬ、罪人として処刑されるという最低最悪の死に向かう第一歩なのです。一体誰が、好き好んでそんな悲惨な道を歩みたいでしょうか?!イエス様だって、嫌だし、辛くて仕方ないのです。しかし、それは聖書の言葉が主イエスに示した道だったのです。そして、ルカ福音書は徹底的に聖書の言葉の実現を強調します。

 聖書に貫かれた歩み

 主イエスは、聖書の実現として誕生されました。そして、少年時代から既に学者たちと議論することができるほどに聖書に精通しておられました。そして、ご自分の生きる道を聖書、つまり神の言葉によって、どうしようもない形で示されていたのです。だから、ナザレにおいてなされた最初の説教も、イザヤ書を読んだ後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という言葉で始まったのです。そして、処刑場に引かれていく時も、旧約聖書の言葉で人々に語りかけられたし、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という詩編の祈りを捧げつつ息を引き取られたのです。さらに、復活されて弟子たちにご自身を現された時も、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明され」て、「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する』と書いてあるではないか」と弟子たちに語り聞かせたのでした。
 イエス様のご生涯の何処をとっても聖書の言葉に満ちている。聖書の言葉が、骨の髄まで入っている。その言葉によって生かされており、その言葉に従うことで生き、そして、あの恐るべき十字架の死に向かわれるのです。聖霊に満たされて聖書を読む時、神を信じ、神を愛して読む時、死の恐れを乗り越えさせる神の力が与えられるのです。神の愛の力です。その力、つまり権威に服したイエス様を通して、その権威は現れて来るのです。

 罪の赦しという権威

 悪魔は、この世の繁栄を独占する権力を神の権威と錯覚させようとしました。しかし、御言を聖霊によって受け止めておられるイエス様は、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」とおっしゃいました。そのことにおいてのみ、神の権威は現れるからです。
 「権威」という言葉が最も鋭い形で出て来るのは五章です。詳細は省きます。中風を患って立つことができない人に対して、主イエスが「人よ、あなたの罪は赦された」とおっしゃる。すると、当時の宗教家の代表者たちが、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが罪を赦すことができるだろうか」と心の中で考える。その人々の思いを見抜かれた主イエスは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」とおっしゃった上で、中風の男に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じると、その男が立ち上がって、神を賛美しながら帰っていくのです。そして、その様を見た人々も「今日、驚くべきことを見た」と言って恐れに満たされつつ神を賛美する。そういう出来事が記されています。
 問題は罪の赦しです。主イエスが神から与えられているのは罪の赦しの権威です。悪魔は、神様からこの世を支配する力を一定期間与えられています。しかし、それは所詮滅びるものです。しかし、神の子である主イエスは、人々に罪の赦しという救いをもたらす権威を神様から授けられているのです。その権威を示す。ただそれだけが、主イエスに託された使命なのです。その権威を示すこと以外に、神の子に与えられた特権を用いてはならない。それを用いた途端に、御心に反することになり、イエス様はヤコブの家を永久に支配する王ではなくなってしまうのです。

 十字架において現れた権威

 その主イエスが、ひたすらに御言に導かれて行き着いたのは、あの十字架です。あの十字架、血みどろの十字架においてこそ、本来神様だけがお持ちの権威、罪を赦すという権威が発揮される所なのです。そして、この主イエスの十字架の死において、人はパンだけで生きるものではないことも、ただ神のみを礼拝し、神にのみ仕えるべきことも、神を信頼し決して試みてはならないないことも、すべて明らかにされるのです。
 十字架の下では、
 「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
 「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

 と喚き散らす者たちがいます。
 しかし、主イエスは、そこでも祈られます。無力だから祈るのです。誰のために祈るのか?自分では善をしていると錯覚している罪人の救いのためにです。自分の救いのためではありません。
 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
 隣の十字架に磔にされた犯罪者は、その祈りを聞いても、
 「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と罵ります。しかし、もう一人の犯罪者は、まさに死を目前にした時に、主イエスの姿と祈りに接し、悔い改めてこう言ったのです。
 「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
 主イエスは、答えました。
 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」
 あの放蕩息子が悔い改めて帰ってきた時に、父が、「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って喜んだ父の姿が、この時の主イエスに重なります。主イエスは、ご自分の死がひとりの罪人を神の許に立ち返らせ、罪の赦しを与え、生き返らせることに役立つのならば、そのことを最大の喜びとしてくださるのです。私たちは、そういうお方に愛され、今日もこうして礼拝へと招かれているのです。

 神賛美としての礼拝

 聖書の記述は続きます。

既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。

 百人隊長、彼はローマの傭兵だと思います。生身の肉体を持って生きている主イエスを十字架に釘で打ちつけるように命じた人でしょう。しかし、その彼が、十字架上で起こったすべてのことを見た時に、ここに最後の最後まで神に従い抜いたひとりの人を見たのです。そして、それこそがヤコブの家の王、ユダヤ人の王、全世界の王であることを知ったのです。その王とは、世の繁栄を独占する権力者ではなく、自分の命を犠牲にする王であり、そのことによってすべての人間を支配している罪を赦す救い主であることを知ったのです。
 「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」とは、断絶していた神と人との関係が、十字架の主イエスを通して繋がれたこと、つまり救いがもたらされたことを表しています。その救いを知った時、主イエスを殺した百人隊長は思わず神を賛美したのです。それは、自らの罪を悔い改めて、神を礼拝し、神に仕える者となったということでしょう。

 拝む

 今日の箇所に出てくる言葉で最も重要な言葉は二度出てくる「拝む」つまり、礼拝するという言葉だと思います。この言葉は、ルカ福音書では三回しか出てきません。
 ここで問われている最大のことは、悪魔を拝むのか、神を拝むのかです。そこに救いか滅びか、命か死かの分かれ道があるのです。聖霊に満たされた主イエスは救いと命を選び、私たちにもそのことを望んでおられます。そして、その救いと命に生きる道は、どこにあるのか?それがルカ福音書の結末に書かれていることです。そこに「拝む」という言葉が出てきます。
 二四章五〇節以下を読みます。

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 弟子たちは、自分たちを祝福しつつ天に挙げられて行く主イエスを伏し拝みました。この方こそ、永遠に自分たちの王、救い主であることを確信し、礼拝したのです。そして、イエス様が悪魔の誘惑に勝利したエルサレム神殿に帰り、神をほめたたえた。それが、この福音書の最後の場面です。そして、私たちは今、その場面の続きとして賛美の礼拝を捧げているのです。私たちに罪の赦しという救いを与えてくださった主イエスを、喜びに満たされて賛美しているのです。そこに私たちの生きる道があります。私たちは、この礼拝によって本来の命を生きるのです。
 宗教改革者のカルヴァンは、『ジュネーブ教会信仰問答』の第一問で「人生の主な目的は何か」と問い、それは「神をあがめる目的で神を知ることにある」と言いました。アーメンと言う他にありません。
 神は、利用するためにあるのではありません。そんな神は最初からいないのです。神は、私たちに崇められるため、私たちに礼拝されるためにおられるのです。そして、私たちはご自身の独り子の十字架の死と復活を通して私たちの罪を赦し、新たに子として迎え入れてくださった神を賛美しつつ生きる。そこに喜びがあり、望みがあります。この聖霊を、御言による礼拝を捧げつつ生きる命こそ、永遠の命なのですから。その命を与えてくださった神様に感謝し、賛美を捧げざるを得ません。

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