「聖書の言葉は実現した」

及川 信

       ルカによる福音書  4章14節〜30節
4:14 イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。 4:15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。4:22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」4:23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
4:24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。4:25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、4:26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。4:27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
4:28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、4:29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。4:30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。


 今日の箇所から、いよいよイエス様の公生涯と呼ばれる伝道の歩みが始まります。イエス様が最初に福音伝道をなさった場所は、お育ちになったガリラヤ地方です。首都のエルサレムから百キロ以上も北に位置します。そのガリラヤ地方にあるナザレという町で、イエス様は大工の「ヨセフの子」として成長されたのでした。ルカ福音書は、そのナザレにおける伝道の内容を詳しく記す唯一の福音書です。

 ガリラヤ伝道

 しかし、そのナザレにおける伝道の前に、ガリラヤ地方の諸会堂で教えられたことが記されています。

イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

 ここに出てくる"霊"は、聖霊に呼応する人としてのイエス様自身の霊だと思います。聖霊の働きに応答するのは、私たちの中にもある霊的な部分なのです。イエス様は、聖霊の操り人形として何の意志もなく生きているのではありません。聖霊の力に励まされつつ、全力で神の召しに応えて生きておられるのです。罪人に連帯するという意味での洗礼を受けた直後に、イエス様は天から聖霊を注がれました。その上で、自らの霊の導きに従って荒野に向かい、悪魔との戦いに挑まれた。福音伝道を始める前のイエス様にとって、そのことはどうしても必要だったのです。
 今日の箇所でも明らかですが、福音とはやはり力であり勝利です。サタンの力、悪の力、罪の力に対する勝利です。言葉がいくら美しくても、その言葉を語る者に力がなくて敗北が続くならば、その言葉に意味はありません。福音はなによりも言葉によって告知されるものです。そして、耳で聞き、信じるものです。その時、福音は救いとなって信じる者たちの力となります。しかし、それもこれも主イエスが語る言葉に力がなければあり得ないことです。今お読みした箇所は、イエス様が語る教え、つまり、言葉に力があったということを表しています。
 イエス様は、当初、ユダヤ人にとっての集会所であった会堂(シナゴーグ)を回りながら教えられました。「会堂」は四章だけで七回も出てきますが、そこは律法の書が朗読され、預言書が読まれ、また詩編が読まれた所です。律法の教師(ラビ)が、民衆に神の道を教える場所です。その会堂でイエス様が教えるその言葉に力があり、その評判が付近一帯に広まって、多くの人々からイエス様は「尊敬を受けられた」のです。この「尊敬を受けられた」は、他の箇所では「神を賛美する」と訳されることの多いドクサゾウという言葉です。ですから、「崇められた」と訳している聖書もあり、私もそちらの方がよいと思います。荒野での悪魔との戦いに勝利されたイエス様が街中で勝利の福音を告げられると、人々がイエス様を崇め、また賛美した。そういうことが、ここに記されているのです。
 そして、いよいよ主イエスは故郷であるナザレへと向かわれます。そこでも安息日に会堂に入り、聖書を朗読し、説教をされた。しかし、そこで起こったことは、人々の「尊敬」とか「賛美」とは全く裏腹の「憤慨」であり「殺意」でした。どうしてそういうことになってしまうのか?!そのことに関して、今日と次回の二回に分けてご一緒に耳を傾けていきたいと思います。

 ナザレの会堂で

 ルカ福音書が実によく考えられた構成を持っていることは、これまで読んできたことからも明らかです。特にルカ福音書の場合は、最初と最後の部分が枠になっていて、前半に出てくるキーワードが中盤や後半にも出てきます。今日の箇所はイエス様が人々に語った最初の場面ですが、いくつかのキーワードが福音書の最後にも出てきます。それは後で触れることにして、今は読み進め行こうと思います。

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

 その後イエス様が読まれたのは、主にイザヤ書六一章です。しかし、四二章の言葉も入っています。この言葉を読んでから「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語り始めたのです。
 ナザレの人々は、イエス様の聖書朗読と説教を聞いて最初は驚きました。しかし、すぐに躓いていきました。彼らは、イエス様が付近一帯の人々から崇められる有名人になっていることを喜ぶ思いがあったでしょう。"おらが村から出た有名人"が故郷に錦を飾るために帰ってきた。そのことを誇らしく思うということもあったに違いありません。しかし、それと同時に、自分たちとなんら変わることのない人間が、なぜこんな「力」のある言葉、また「恵み深い言葉」を語ることが出来るのか、そのことを訝しく思いもした。さらに、ガリラヤ地方のカファルナウムという町では、イエス様は病の癒しという業もなさり、そのこともナザレの人々の耳には入っていたのです。だから、ここでもそういう業を見せて欲しい、いや見せてみろ、そうすれば信じてやろう、崇めてやろうという思いを持っていたのでしょう。人々の心の中にあるそういう思いを、主イエスに鋭く見抜き、また抉り出していかれます。その途端、彼らの好意的な驚嘆は怒りに満ちた憤慨に変わっていった。その消息については、次回にします。今日は、イエス様が朗読した聖書の言葉と説教の言葉に集中します。

 イザヤの預言

 ルカ福音書で強調されていることは、イエス様は聖書の言葉の実現として誕生されたということです。そして、イエス様自身がそのことを明確に意識しておられることが、今日の箇所でも明らかになっています。
 では、イエス様がご自身のことを証ししているものとして選ばれた言葉はどういうものなのでしょうか?

「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」


 イエス様は、何よりも「主の霊」に満たされ、その霊の力によって生きる方です。そしてそれは、貧しい人々に福音を告げ知らせるためです。そのことのために、イエス様は神様から油を注がれた。つまり、メシアとして立てられ、遣わされているのです。自分で「我こそはメシアなり」と宣言しているのではありません。深い祈りをもって、罪人の救いのために洗礼を受けられたイエス様に向って、神様が聖霊を注ぎつつ「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言されたのです。そのメシアがもたらす喜びの知らせである福音とは、捕らわれ人に解放を与え、盲人の目を開き、圧迫されている人を自由にするというものです。そして、そのことをイザヤ書は、「主の恵みの年を告げる」という言葉で要約しているのだと思います。
 ここに出てくる人々を、経済的な意味での貧者、牢屋に閉じ込められている囚人、盲人、独裁政権下で圧迫されている民衆という意味でだけ受け取ることは一面的だと思います。富はあっても心が貧しい人はいますし、娑婆で生きていても何ものかに捕らわれている人はいます。目が見えていても現実は何も見えていないことも、自由に生きているつもりで実は見えない何ものかに圧迫されていることも珍しいことではありません。イザヤ書にしろ、この言葉を選ぶイエス様にしろ、目に見える現実だけでなく、その現実の背後や奥底にある事実を含めてこれらの言葉を使っていると思います。

 主の恵みの年(一)

 最初に「主の恵みの年」と訳された言葉に関して見ていきます。これは「主が受け入れる年」とも訳される言葉です。「受け入れる」(ギリシア語ではデクトス)は、旧約聖書のレビ記では、人が罪の赦しを願って無傷の犠牲を捧げる時、主なる神様がその犠牲を受け入れて罪を赦してくださるという意味でしばしば出てきます。そして、実は、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」「歓迎する」が同じ言葉です。これも意味深なことですが、後で触れます。
 そして、この「主の恵みの年」とは、ヨベルの年と関連していると考えられています。ヨベルの年に関しては、レビ記二五章に記されています。七年ごとの安息年を七倍した四九年を経た翌年の五十年目に民がすべきことを、神様はこうおっしゃっているのです。

あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。・・ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける。(レビ記二五章八節〜一三節抜粋)

 この言葉の背後にあることは、明らかに貧富の格差です。土地や奴隷を持つことが出来る人々と、土地も失い、奴隷にならざるを得ない人々がいるのです。しかし、五十年目のヨベルの年には、すべての奴隷が解放され、土地は元の所有者に返却されなければならない。何故、そういうことをしなければならないかと言うと、主がお望みだからです。土地も人も、主のものなのです。神の民イスラエルはそのことを承認しなければなりません。
 レビ記には「わたしはあなたたちの神、主だからである」という言葉が何度も出てきます。そして、ヨベルの年を告げる二五章にはその前に「あなたの神を畏れなさい」という言葉がついています。それは、主(ヤハウェ)を自分たちの神と信じ、御前にひれ伏して礼拝しなさいということです。主なる神を礼拝することは、主のものを主にお返しすることを意味します。それが具体的な意味では奴隷の解放、土地の返却という形をとるのです。しかし、そのことの奥にあることは、神が神となり、人間が人間となることであり、それが神と人間の正しい関係、義なのです。その義を生きることに罪からの解放としての人間の救いがあるのです。神様は、ヨベルの年にその救いを奴隷所有者にも奴隷にも与えようとしておられるのだと、私は思います。
 主イエスはナザレの会堂で、「主の霊に満たされ、主に遣わされたメシアである私は、主の恵みの年の到来を告げるために来たのだ」とお語りになっています。しかしそれは、旧約聖書のヨベルの年を背景にしつつも、文字通りの意味でヨベルの年の到来を告げているのではありません。つまり、土地の返却や奴隷の解放をすべき時が来たとおっしゃっているのではないのです。

 解放 自由

 「捕らわれている人に解放を告げる」「圧迫されている人を自由にする」とあります。原文では「解放」「自由」も同じでアフェシスという言葉です。レビ記二五章の「全住民に解放の宣言をする」「解放」と(ギリシア語聖書では)同じ言葉です。
 この言葉は、ルカ福音書では、一章、三章と最後の二四章にそれぞれ一回ずつ出てきます。最初は、ヨハネの父であるザカリアの預言の中ですが、それはこういうものです。
「この子は、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる。」
 「赦し」がアフェシスです。三章には、そのヨハネが人々に「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。ここでもアフェシスは「罪の赦し」の意味です。そして、イエス様の復活を告げる二四章には、こういう言葉があります。

そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 ここでもアフェシスは「罪の赦し」です。主イエスにとって、「主の恵みの年」であるヨベルの年とは、主なる神様が人間の罪を赦し、罪と死の力からの解放を与えてくださる時のことなのです。

 心の目を開く

 イエス様は弟子たちに「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた」とあります。肉眼で聖書の字面を読むことが出来ても、何も分からないことなど幾らでもあります。牧師だってキリスト者だって、分からない時はまるで分からないのです。かつて「分かった」と思った場所でも、今読むと分からない。そういうことだってある。聖書が分かる、悟る、それは「一足す一が二であることが分かる」ということとは全く別物です。足し算や引き算は、小学校の一年生の時に教えられて分かれば、一生分かっていることです。しかし、聖書の言葉は、いつも新たに主イエスによって心の目を開いて頂かないと、いくら読んでもまったく分かりません。「目の見えない人に視力の回復を告げる」というイザヤ書四二章の言葉も、このことと深い関連があるでしょう。
 そして、心の目が開かれて聖書が分かる、主イエスの言葉が分かるとは、「父が約束されたもの」を主イエスが送って下さらないと起こり得ません。それは、「高い所からの力に覆われる」ということです。つまり、聖霊に覆われるまで起こらないことなのです。天から送られる聖霊の「送られる」は、今日の箇所に出てくる主イエスが「遣わされる」と同じ言葉です。天から遣わされた聖霊に覆われ、その力に満たされた時、弟子たちは主イエスの十字架の死と復活の恵みに与り、罪の赦しと新しい命を与えられるのです。そしてその時初めて「罪の赦しを得させる悔い改め」を世界中のあらゆる人々に宣べ伝える者たちとして遣わされるのです。その時、彼らはまさに主イエスによって罪と死からの解放を与えられつつ、勝利の福音を宣べ伝える者とされるのです。

 実現した??

 しかし、それはよいとして、主イエスが聖書朗読を終えた後の記述に戻ると、そこにはこうあります。

イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。

 朗読を終えた後、主イエスは席にお座りになりました。それは会衆席に戻ったのではなく、いよいよ説教を語るということです。ユダヤ教の教師は座って教えたのです。だから、会堂にいるすべての人の目がイエス様に注がれる。そこで、イエス様が何と語り始めたか。

そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 これが導入の言葉だったのか、それともこれは説教全体の要約なのか、私にはよく分かりません。しかし、それよりももっと分からないことは、一体ここで何が実現したのか?です。「この聖書の言葉は、これから実現していく」というなら分かります。未来形で書かれているのなら分かる。しかし、ここは完了形で書かれていて、「既に実現している」です。それは、これからも実現し続けるという意味を含むでしょう。でも、「今日、あなたがたが耳にしたとき、既に実現した」と主イエスは言われる。それは一体どういうことなのか?これは分かりません。
 説教の準備のために読んだものによって教えられたり、そうかもしれないと思うこともありました。でも、納得できる解釈はありませんでした。例によって、私が妙なことにこだわって、躓いているだけなのかもしれません。

 今日

 その問題を考えるためには、「今日」という言葉の意味を探ることが必要なのではないかと思います。ルカ福音書では十一回出てきます。その中で、ここと関連があると思う場所だけを挙げます。
 最初に出てくるのは、主イエスの誕生を天使が告げる場面ですが、天使はこう言うのです。

「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

 次は、イエス様が罪を赦す権威を持っていることを示された場面です。人々の反応はこういうものでした。

人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

 徴税人ザアカイが罪の赦しを求めて悔い改めた時、イエス様はこうおっしゃいました。

「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 最後は十字架の場面です。罪の赦しを求めて悔い改めた犯罪者に向って、イエス様はこうおっしゃいました。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

 ペトロが主イエスを否む場面でも「今日」が使われています。こういう場面を見て知らされることは、人間を捕え、圧迫し、目が見えない状態にしている罪とその赦しと、「今日」という言葉は深く関係していることです。それはすべて、イエス様の身の危険を暗示する、あるいは、死をもたらし、また死における出来事なのです。
 ローマの皇帝アウグストゥスの統治下にイエス様が生まれたことを、ルカは強調します。彼は、当時「神の子」「救い主」と呼ばれることを人々に強制していた人物です。その人物が支配している世に、彼とは別に全世界の民の「救い主」「メシア」が「神の子」としてお生まれになるということは許されないことです。実際、主イエスは最終的にはローマの法律によって裁かれて政治犯として十字架上で処刑されたのです。
 また、ユダヤ人にとっては、罪を赦す権威は神にしかないのであって、人としてのメシアにはありません。しかし、イエス様はある病人を癒す時に、「人よ、あなたの罪は赦された」と言いました。それは赦されざる神への冒涜罪に当たり、ユダヤ人がイエス様を罪人として処刑するための一つの遠因になりました。また、徴税人は当時のユダヤ人の中で罪人の中の罪人です。その徴税人の頭であるザアカイと祈りを伴う食事を共にした上で、彼をユダヤ人の先祖「アブラハムの子なのだから」と言うことは、多くのユダヤ人にとっては許し難き暴言であり、これもイエス様の処刑の原因になります。
 そしてついには、犯してきた数々の罪の故に死刑に処せられている犯罪者に向って「わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されることは、まさに狂気の沙汰です。ユダヤ人とローマ人が処刑するのが正しいとしている人間の罪を、神は赦すと宣言していることなのですから。

 説教で起こること

 こういう一連のことを考え合わせて今日の箇所を読み返します。今日の箇所の冒頭には、イエス様の教えを聞いた人々が、イエス様を崇める、あるいは賛美するという言葉があります。
 しかし、今日の箇所の最後は、ナザレの人々が憤慨し、イエス様を崖から突き落として殺そうとする場面で終わります。どうしてそういうことが起こるのでしょうか?
 私は、その原因はイエス様の言葉にあると思います。
 イエス様の、「預言者は故郷では歓迎されないものだ」という言葉を含む一連の言葉は、人々の心の中にある罪を抉り出す、あるいは暴き出すような言葉です。表面的にはイエス様を歓迎しているように見えるナザレの人々の、その心の中にある罪を、主イエスは暴いていくのです。そして、そのことが人々の神経を逆なでしていきます。会堂で語られる説教の一つの要素は、いつもこういうものでなければならないと思います。聴衆が気持よくなるような言葉を羅列し、「今日はとてもよい話を聞いた」などと言われて、ほくそ笑む説教者は、「高い所から送られる力に覆われ」てはいないのだと思います。聴衆を恐れているのです。
 キリスト教会の礼拝で語られなければならない説教の模範の一つは、言うまでもなくイエス・キリストの説教です。イエス・キリストが語ったことを、イエス・キリストが語ったように語らねばならないのだと思います。しかし、それは語る者自身もイエス・キリストの説教、その言葉を深く正しく聞いていることが前提です。しかし、イエス・キリストの説教を聞くとは、最初から最後までずっと心地好いというものではありません。自分が罪に捕らわれている人間、罪の故に闇の中に閉ざされて何も見えていない人間、罪の言いなりになっている惨めな奴隷であることを知らされるからです。それが嫌だから、不愉快だから、耳をふさぎ、心を閉ざす。主イエスの言葉を拒絶する。そういうことをしてしまうことがあります。言葉を拒絶するとは、その言葉を語る人を拒絶するということです。抹殺するのです。

 赦しを語って憎まれる

 主イエスは、今日の箇所でそのことを既に経験されたのです。故郷のナザレにおける初めての説教で、既に十字架の死に繋がることを経験されたのです。それは、主イエスが聖霊に満たされたメシアとして、罪の赦しの福音を宣べ伝えたからです。罪の赦しを宣べ伝える事によって、実は罪人から憎悪され殺されるということがあるのです。
 「医者よ、自分自身を治せ」とは、十字架の下で「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と十字架の下で喚く人々の言葉と本質は同じでしょう。そういう人々の叫びを聞きつつ、主イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られるのです。
 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とは、この説教の直後に湧き起こって来る人々の憤慨と殺意を言い当てているのです。罪の赦しという福音を語れば、罪人から憎まれて殺されるのです。罪を語らなければ、人々から歓迎されます。しかし、それでは主なる神様に受け入れられないし、歓迎されません。

 主の恵みの年(二)

 「主の恵みの年」とは、「主が受け入れる年」であり、「受け入れる」とは、罪の赦しのための犠牲を主が受け入れて下さることであり、そのことを通して神様が人の罪を赦して下さることだと言いました。主イエスは、イザヤ書の言葉を引用しつつ「私は、主の恵みの年を告げるために来たのだ」とおっしゃったのです。それは、「あなたがたの罪が赦されるために、私は犠牲となって死ぬために来たのだ」ということなのではないでしょうか。そして、主イエスが福音を語り、捕らわれ人を解放するとは、罪なき神の子である主イエスが罪人として十字架の死という苦難を受けることなのです。その苦難の死を経なければ栄光の復活への道は開かれません。その苦難の死と復活を通して、すべての捕らわれ人に解放を与える。その救いの御業は、今日、安息日の会堂において主イエスが聖書の言葉を語り、それが聞かれた時に既に始まったのです。

 実現した

 最後に、「実現した」という言葉についても触れておきます。この言葉も二四章に出てきます。先ほど読んだ箇所の直前です。

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

 こうおっしゃってから、弟子たちの心の目を開いて、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させるための悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と、聖書には書かれているではないかと、弟子たちに言われたのです。
 弟子たちは聖霊が与えられた時に、その聖書の言葉を見ることが出来たし、初めてその耳において聞くことが出来ました。そして、罪の赦しと新しい命を与えられ、勇気をもってキリストの福音を宣べ伝え始めたのです。
 高い所から遣わされる力そのものである聖霊によって、心の目を開かれ、御言が告げることを信じる者は、誰でも罪の赦しを与えられます。罪と死という、私たち人間が全力で挑んでも決して勝つことが出来ない力に勝利することが出来るのです。十字架で死に三日目に復活された主イエスが、信じる者の中に生きて下さるからだし、信じる者は主イエスの愛と命に包まれて生きるからです。これが、旧新約聖書が語っている言葉、必ず実現する言葉です。その聖書の言葉の実現として誕生したキリスト者、またキリスト教会によって、キリストの福音は全世界に宣べ伝えられてきたのです。そして、今日もこうしてナザレとは地球の裏側の位置にある渋谷の会堂で、新しい安息日である日曜日に、私たちは主を崇め、賛美する礼拝を捧げているのです。
 その賛美に至る前には、罪を認めたくないが故の憤慨があって当然です。それがない方がおかしいのです。偽善に陥ってはなりません。私たちはどうしようもない罪人なのです。だから、主イエスを拒絶する。でも、その拒絶する私たちのために十字架の上で祈り、ご自身を犠牲として捧げ、私たちが神様に受け入れられるようにして下さったメシアが、今日もこの会堂に復活の主として臨在し、「悔い改めなさい。信じなさい。そうすれば自由になる。あなたがたが解放される」と語りかけて下さっているのです。今日、信じる者となりましょう。その時、主の「恵み深い言葉」は、私たちの中で実現するのです。
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