「驚きから憤慨へ」

及川 信

       ルカによる福音書  4章14節〜30節
4:14 イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。 4:15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。4:22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」4:23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」4:24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。4:25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 4:26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。4:27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」4:28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、4:29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
4:30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。


 意外な神

 先週の礼拝は、朝は大住雄一先生に、夕は増田将兵先生に来て頂き、御言の説き明かしをしていただきました。
 大住先生はホセア書一一章の神様の言葉、特に「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。・・わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」という言葉を巡ってお語りくださいました。私の印象に残った一つのことは、この箇所を私たちはしばしば誤解して受け取っているということです。私たちは、ここにある憐れみ、神の愛を、私たち人間の中にある感情的な愛と受け止める傾向がある。そして、その神様の人間的な愛に感動している。しかし、ここにあるのは、神様とイスラエルの間にある契約に基づく愛であり、契約を破ったイスラエルを滅ぼすことがお出来になる唯一のお方が、滅ぼして当然のイスラエルを滅ぼさないと宣言する所に、その契約の愛があるのだということをお語りになりました。そして、言葉としては語られませんでしたが、その契約の愛は、人となって私たちの間に宿られた独り子なる神の十字架によって新たに立てられる契約に行き着くことが暗示されていたと思います。
 増田先生は、今日の箇所に出てくる旧約聖書の預言者エリヤが、シドン地方のサレプタのやもめのもとに遣わされた時のことを正面からお語りくださいました。イマジネーション豊かな説き明かしで、神に遣わされた預言者が語る言葉を信じる者を、神様は日々養って下さるのだという確信に満ちた説教でした。
 サレプタのやもめは、イスラエルの民にしてみれば異邦人であり、主なる神以外の神を拝む異教徒です。しかし、その異邦人であり異教の民である女が、イスラエルの神、主の恵みを受け、主を信じるようになるのです。
 このお二人の説教に共通していたことは、聖書においてご自身を啓示される神様は、私たちにとっては様々な意味で意外な神様であり、予想や期待を越える、あるいはそれらに反する神様だということです。私たちは、神様は愛なる神、恵み深い神と思い、そう信じています。それは、言葉上は間違いありません。しかし、その「愛」とか「恵み」とは、私たちが考え、また期待するものとは違う場合がしばしばあるのです。その時、私たちは、突然、神様への信仰を捨てる、神様の「愛」と「恵み」を拒絶する。「そんな愛ならいらない、そんな恵みはご免こうむる」と思い、その思いに従って行動するものです。私たちが歓迎するのは、私たちが予想し、期待する神の愛と恵みなのであって、それ以外のものは拒絶するのです。しかし、そうすることによって、実は、私たちは私たち自身の命を抹殺してしまう。残念ながら、そういうことがしばしばあります。

 神の言葉を聴く緊迫

 前回は二一節までを読みましたから、今日は二二節から始めます。しかし、少し復習する必要はあるでしょう。イエス様は安息日の会堂でイザヤ書の御言を朗読されました。その朗読が終わって、説教を始めるために席につくと、「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれた」のです。緊迫した雰囲気が伝わってきます。神の言葉が読まれ、いよいよ説き明かしが始まる。そこには、絶えずこういう緊迫があるはずです。神様が何をお語りになるのか分からないからです。最初から分かっているのなら、誰も緊張などしません。語る者も聴く者も、話の筋道も内容もレベルも皆分かっている。お互いに分かっていることを、しかし、ここでは少し語ることになっているから語るというのでは、それは説教ではないし、そこに礼拝は引き起こされないでしょう。語る者、聴く者を生かすことも殺すことも出来る神の言葉があり、その言葉が語られるのです。その言葉に真剣に向き合う所に緊迫感がないはずがありません。そして、実際、イエス様はこれから語ることを通して、最初は感嘆され、後には殺されそうになるのです。それが、ルカが書いた最初の礼拝における出来事なのです。

 ヨベルの年

 イエス様が読まれたイザヤの預言は、イエス様が神様によって聖霊を注がれたメシア(救い主)であり、貧しい人々に「福音を告げ知らせる」ために遣わされた者だと証ししているのです。そして、ここに出てくる「貧しい者」とは第一義的には、何らかの理由で捕らわれている人です。経済的に落ちぶれて奴隷にまで身を落とした人のことかもしれません。また「目の見えない人」は、障碍の故に当時としては乞食にならざるを得なかった人でもあるでしょう。また「圧迫されている人」。借金まみれであったり、政治的に弾圧されていたり、具体的には様々の可能性があります。そういう人々が解放される。それが「福音」であり、そしてその解放の時が「主の恵みの年」と言われるものです。
 この言葉の背後には「ヨベルの年」というものがあります。七年を七倍した四十九年の翌年の五十年目、奴隷だった者は解放されて故郷に帰り、人手に渡っていた土地は元の所有者に返され、借金も帳消しにされるというものです。

 解放とは

 そして、その「解放」とか「自由」を告げることを、イザヤの言葉を引用しつつ、主イエスは「主の恵みの年を告げる」とおっしゃっているのです。この「恵み」と訳された言葉は、「受け入れる」とも訳されるし、二四節に出てくる「歓迎する」とも訳されるデクトスという言葉です。人も主のものだし、土地も主のものなのです。土地を返し、奴隷を解放するとは本来の所有者の所にお返しするということです。つまり、すべてのものが主なる神の許に帰ることです。その神の許がすべてのものの故郷だからです。そこに帰ること、それが「解放する」とか「自由にする」という言葉が意味していることです。
 この「解放する」「自由にする」と訳されるアフィエーミという言葉は、ルカ福音書の中では「罪を赦す」という意味でしばしば使われている言葉です。罪に捕らわれ、圧迫され、罪の闇の中で何も見えなくなっている者を解放する。罪の束縛から自由にするということです。それが福音であり、その福音を告げ知らせるために、主イエスは聖霊を注がれて神の子、メシアとして遣わされている。この主イエスの言葉を聞いて信じる者は、罪を赦されて主なる神様に受け入れて頂ける、歓迎される。故郷に帰ることが許されるのです。それが、主イエスの語る神であり、その愛、恵みです。

 ほめる 驚く

 人々は、その愛と恵みを語る「イエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚き」ました。この辺りから、注意深く読んでいかねばなりません。「ほめる」とありますけれど、原文では「証言する」という言葉で、ルカではここだけです。ある人のことを「あれは凄い人だ」と証言すれば褒める意味だし、「あれはとんでもない人だ」と証言すれば非難する言葉になります。また、「驚く」も肯定的な意味では感嘆するということですが、逆の意味で驚くとなれば、まさに憤慨するということになります。学者たちの意見も分かれます。しかし、私たちの心とは、両極端の思いを同時に抱え持っていることもしばしばあるでしょう。
 「この人はヨセフの子ではないか」という言葉も「この人は、私たちと同じナザレ出身のただの男ではないか」ということでしょうけれど、そこには、その男がどうしてこのような恵みに満ちた言葉、喜ばしい言葉を語ることが出来るのか、という驚きがあるでしょう。しかし、その驚きには賛美だけではなく、嫉妬や疑いもこもっているのだと思います。また、同郷から有名人が出たことを喜びとする思いと同時にやっかむ思いもある。そういう様々な思いが人々の心の中にはあると思うのです。

 人の心の中身

 主イエスは、その思いを即座に見通されました。そして、こう言われるのです。

「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」

 この言葉も色々な解釈をすることが出来ます。日本語には「医者の不養生」という言葉があります。一般には、他人の健康のために治療をしアドヴァイスもする医者が、自分では暴飲暴食をして体に悪いことばかりをしていることを表しているでしょう。私たち牧師に当てはめると、「牧師の不信仰」ということだろうと思います。信徒には信仰に生きることを勧め、毎日聖書を読んだり祈ることを勧めているのに、自分ではやっていない。実際、そういうことは多いだろうと思います。私がどうであるかは、敢えて申しませんが。しかし、世界には似たような諺が沢山あります。その中には、毎日他人のことばかり必死になってやっており、自分の体のケアを出来ない医者に対する温かい言葉として語られる場合もあるようです。
 ここで、主イエスに対して医者よ、自分自身を治せ」と言われる場合、それはどう解釈されるべきでしょうか。
 一つは、前回も言いましたように、「他人を救ったのに、自分を救えない神の子。自分を救ってみろ、そうしたら信じてやろう」という十字架の下での嘲りの言葉と同じと解釈することが出来ると思います。
 しかし、それだけではない。主イエスはこの諺を引用した後に、「『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」とおっしゃっています。ここではカファルナウムが他人であり、郷里が「自分自身」と解釈することもできます。カファルナウムはナザレと同じガリラヤ地方の町ですが、山の中のナザレに比して、ガリラヤ湖沿岸の豊かな町で異邦人も多く住んでいたようです。ナザレの人々にしてみると、一種のライヴァルのような存在だったとも言われます。主イエスは、既にそのカファルナウムで癒しの奇跡などをなさっており、その噂がナザレにも届いているのです。その場合、ナザレの人々は、なぜ真っ先にこの町に来なかったのか?!と思ったかもしれません。しかし、ヨセフの倅であったイエスが家業も継がずどこかへ出て行ってしまった。しかし、他の町々で癒しの奇跡などを行って有名になり、いよいよ故郷に錦を飾るようにして帰って来た。ここではさぞかし素晴らしいことをしてくれるのではないか!?そういう期待もあったのではないかとも思います。今まではリハーサルで、これからが本番だ、と。そういう文脈で読めば、治すべき「自分自身」とは郷里のナザレであり、カファルナウムでやったこと、あるいはそれ以上のことをここでもやってみせろ、ということでしょう。
 しかし、そうであったとしても、結局は、「カファルナウムでやったような悪霊追放だとか病気の癒し(それが三一節以降に書かれていることです)をしろ。そうすれば、お前がメシアであり預言者だと信じてやろう。」そういう思いをもっていることは確実なのだと思います。そして、それは彼ら自身が明確に自覚している思いではなかったでしょう。しかし、その思いを、主イエスの言葉、その説教で抉り出されて、見させられている。礼拝における説教の一つの目的は明らかにそういうものです。

 はっきり言っておく

 主イエスはさらに畳みかけて行きます。
「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」

 「はっきり言っておく」「確かに言っておく」と主イエスが厳かにお告げになります。「これから語る言葉は真理であり、その言葉を聞いて受け入れるなら主の恵みに与り、拒絶するならその恵みを拒絶することになる。」そういう警告、あるいは勧めがここにはあります。
 主イエスは、故郷ナザレで、故郷の人々に語っています。彼らの心の中にあるものは、主イエスを"おらが村のメシア"、預言者として歓迎しようという思いです。しかし、それはもし主イエスが自分たちの思い描くメシア、期待するメシアでないならば承知しないぞということでもあるのです。「故郷は遠きにありて思うもの」と言った人もありますが、たしかにそういう面が故郷にはあるでしょう。他の福音書にも同じ趣旨の言葉があります。しかし、そこでは、預言者は故郷では「敬われない」と書かれています。それをルカは敢えて「歓迎されない」、つまり、「受け入れられない」と書きます。それは、主イエスが告げる「主の恵みの年」をナザレの人々が受け入れない、福音を受け入れないことと同じことなのだと言っているのです。

 サレプタのやもめ

 主イエスがここで例に挙げるエリヤやエリシャの物語は、旧約聖書の列王記上一七章や列王記下五章に記されています。そこに登場するやもめはシドン地方のサレプタに住む女です。つまり、イスラエルの民ではない。異邦人なのです。主なる神を知らない人です。シリア人ナアマンも同様です。
 エリヤは主の裁きとしての飢饉が続く中、餓死寸前の状態で異邦の地であるサレプタに遣わされ、そこで一人のやもめに出会います。彼女の家には独り息子がいるのですが、瓶の中にはあと一食分の小麦粉しか残っていない。彼女は、それを食べてあとは親子で死ぬのを待つだけなのです。しかし、エリヤはその窮状を知らされた上で、そのやもめに向って、「まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしにもって来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい」と無茶なことを言う。何故なら、「イスラエルの神、主」「地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」とエリヤに語ったからです。エリヤはその言葉をそのままやもめに伝えます。やもめは、その言葉、どう考えても受け入れ難く、また信じ難い言葉を聞いて憤慨します。しかし、その「言葉どおりにした」のです。すると、実際に粉も油もなくなることがありませんでした。しかし、その後、息子が病気になり、ついに死んでしまう。エリヤは嘆き、神に祈ります。すると、息子は生き返ったのです。その驚くべき現実を前にして、やもめはこう言うのです。

「今わたしは分かりました。あなたはまことの神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」

 シリア人ナアマン

 ナアマンは、イスラエルの敵国であるシリアの軍人として高い地位にあった人です。しかし、重い皮膚病に苦しんでいた。詳細は省きますが、シリア王の計らいで、イスラエルの預言者エリシャのもとに来て、その病の癒しを願うことになりました。しかし、エリシャは戦車や馬を引き連れてやって来たナアマンを出迎えもせず、遣いをやって、「ヨルダン川に行って七度体を洗いなさい。そうすれば清くなる」と言わせます。その無礼な態度にナアマンは怒って立ち去ろうとするのです。しかし、部下たちが、「そんなに怒らないで、とにかく言われた通りやってみましょう」と言って説得します。その説得を受けてナアマンは、エリシャに言われた通り、ヨルダン川に行って七度体を洗った。するとその病は癒されたのです。その時、彼はエリシャの所に帰って来て、彼の前に立ち、こう言いました。

「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」

 主の恵みの及ぶ範囲

 先ほども言ったように、やもめもナアマンも神の民イスラエルの人ではない異邦人です。主を知らず、異なる神々を信じており、そのことの故に、イスラエルの民からは「主の恵み」受けられないとされていた人々です。しかし、「神の人であるエリヤやエリシャは、主なる神によってそういう人々の所に遣わされたではないか。それは、ちゃんと聖書に書いてあることだ」と、主イエスは言われる。そして、皮肉なことに、彼らはそれまで知らなかった主こそが神であることを知ることになったのです。それは何故か?彼らが神に遣わされた預言者の言葉を聞いた時に、その言葉を聞き入れ、従ったからです。やもめは、エリヤにあげてしまえば自分たちが食べる分はなくなるのに、エリヤに言われた通りパン菓子を作ってあげたし、ナアマンもプライドをかなぐり捨てて、エリシャの言葉に従ったのです。その後に続く恵みの徴は、その信仰と服従の結果です。彼らが徴を見たから信じたのではないのです。
 こういう信仰がイスラエルの外にある。イエス様の故郷の外にある。そのことはユダヤ人が神の言葉、神の契約の書として信じている聖書に書かれていることです。生まれ育った土地が同じだとか、幼い頃を知っているとか、血筋が同じだとか、「我々の父はアブラハムだ」とか、そういうことに拘り、神様が与えようとする恵みを私しようとするナザレの人々の狭さ、そのエゴイスティックな罪を、主イエスは真っ向から突き刺します。それも、彼らが拠って立つ旧約聖書の言葉そのもので突き刺すのです。
 彼らユダヤ人は、自らが主なる神様に選ばれた民であるとし、神の故郷であることを自任しつつ、実は「主の恵みの年」の到来を拒んでいる。すべてのものが、その本来のあるべき場、生きるべき場に帰るという福音を拒んでいる。主の口から語られる「恵み深い言葉」を聞いても、自らの罪に気づかず、それ故に悔い改めず、その言葉を拒絶することによって、実は恵みを拒絶してしまっている。主を受け入れないが故に、主からも受け入れられることがない。その皮肉な現実を、主イエスはその言葉によって突いているのです。そして、熱烈に悔い改めを迫っている。「ああ、ヨセフの子イエスよ。今こそ、あなたが神の子、神が立てたメシア、神が遣わした預言者であることを知りました。私たちの罪を示し、その罪の赦しを与えるお方であることを知りました」という悔い改めの信仰を求めているのです。彼らが、真の故郷である、主なる神の許に立ち返り、主が彼らを受け入れて下さることを願っておられるのです。

 礼拝で生じる憤慨

 しかし、「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨」しました。「会堂内の人々」とは、今の私たちと同じように礼拝している人々です。聖霊の注ぎの中、主の口から出る「恵み深い言葉」を聞いて信じ、主を賛美する礼拝をしている人々です。安息日の会堂の中では、その礼拝が捧げられるのです。その礼拝において起こるべきことは、罪の赦し、罪の束縛からの解放という福音を聞いて、その福音をもたらした方を賛美することです。一五節に記されている「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」とは、その賛美が礼拝において捧げられたことを示しています。しかし、主イエスとの近さや親しさを感じるナザレの人々の礼拝では賛美ではなく、憤慨が巻き起こりました。
 「憤慨する」とは、直訳すると「怒りに満たされた」です。「満たされる」という言葉は、これまでの記述の中では、洗礼者ヨハネが母の胎にいる時から「聖霊に満たされる」とか、エリサベトやザカリアが「聖霊に満たされる」という箇所で使われています。聖霊で満たされなければ、主の言葉を受け入れることは出来ませんし、その言葉が持つ力を体験することは出来ません。そして、聖霊で満たされるためには心を開かなければならない。自分の心の中を開く。それは恐ろしいことです。決して愉快なことではありません。自分の中にあるどす黒い闇を見なければならないからだし、それを主に見せることだからです。しかし、そのことを抜きに、聖霊で満たされ、信仰を与えられ、主を賛美するということは起こり得ないのです。
 ナザレの人々は、そのことを拒絶しました。それは痛いほどよく分かることです。決して珍しいことではありません。そして、彼らの問題だけでもありません。
 私たちキリスト者も妙な親しみを主イエスに抱く時がありますが、それは危険なことです。親しみは馴れ馴れしさにしばしば変質するからです。そして、その馴れ馴れしさが憤慨の温床になるのです。「私はあなたを信じています。愛しています。礼拝に出ています。献金も捧げています。だから、あなたも私に対してよいことをして下さるはずで。病気や災いからいつも守って下さるはずです」という思いになるのです。それだけならまだよい。その思いは、病気や災いが自分に与えられた時に、主イエスを恨み、抹殺することにしばしば繋がるのです。しかし、主イエスは私たちが勝手に予想し、期待するメシアとしてこの世に来られたわけではないし、私たちが予想し、期待する愛と恵みを私たちに与えるために来られたのではないのです。むしろ、それとは逆に、神様が期待する私たちを新しく創造するためにこの世に遣わされたのです。それは罪を悔いあら耐え、主イエスを信じ、その言葉に従う私たちです。
 しかし、私たちはしばしばそのことを拒絶します。それ故に、主イエスがお語りになる時、またその御業をなさる時、そこには驚きと賛美が溢れるか、憤慨が湧きおこるか、そのどちらかです。私たちの礼拝においても、それが礼拝となっていれば、同じことが起こるはずです。 怒りに満たされた人々は、主イエスを会堂の外に追い出すだけではなく、町の外にまで追い出し、山の崖から突き落として殺そうとしたのです。それはエルサレムの市街地の外にあるゴルゴダの丘を暗示しているでしょう。
 ルカ福音書が詳しく記す最初の礼拝は、イエス様の故郷でのものですが、それが既にエルサレムにおける十字架の死と三日目の復活を指し示すものになっているのです。

 生きるか死ぬかの礼拝

 礼拝とは、そういうものなのです。物騒なことを言うようですが、礼拝において起こることは、生きるか死ぬか、殺されるか殺すか。その二つに一つなのです。信仰に生きるとは、この世に死ぬことです。主イエスに従って生きるとは、この世の価値観に背くことです。自分の肉に基づく願いではなく、ただ主の御心のままにと自分の命を差し出すことです。主イエスが、ゲツセマネの園で、その祈りに徹し十字架の上にご自身を献身したように、主イエスに従う者は自分の十字架を背負って従うのです。「それ以外の従い方はない」と、主イエスご自身がおっしゃっているでしょう。ただその服従において、主イエスから与えられる新しい命に生かされるのであって、それはこの世における命の死を意味します。二つの命が共存するということはあり得ません。残念ながら。

 立ち去る主イエス

 主イエスは、怒りに満たされているナザレの「人々の間を通り抜けて立ち去られ」ました。ヨハネ福音書ではしばしばそういうことがありました。それは、主イエスの時がまだ来ていなかった、つまり、十字架で死ぬべき時がまだ来ていなかったからだと説明されていました。ここでも基本的には同じだと思いますが、私たちは「立ち去られた」(ポレウオマイ)という言葉に注目すべきだと思います。
 四章一四節から、主イエスのガリラヤ伝道が開始されました。それは九章五〇節まで続きます。そして五一節にはこう記されているのです。

イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。

 「エルサレムに向かう」とあります。この「向かう」がポレウオマイです。それは天に上げられるためです。そしてそれは、神に遣わされた主イエスが、神の都、神の故郷の中心とでも言うべきエルサレムで歓迎されず、拒絶され、十字架に上げられる。十字架に磔にされて殺されるために向かうということです。そういう意味で、何度もポレウオマイが使われます。もう一箇所だけ引用します。それは、主イエスがヘロデに命を狙われていると知らされた時の言葉ですが、主イエスはこうおっしゃいます。

「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。 」

 「自分の道を進まねばならない」
がポレウオマイです。主イエスは、神様から遣わされた者として、これからも悪霊を追い出し、病気を癒すという使命を果たされるのです。しかし、それは結局、三日目にすべてを終えるための業なのです。つまり、十字架の死と三日目の復活です。悪霊に取りつかれていることも病気に罹っていることも、当時の人々にとっては罪の結果、罪に束縛されていることの徴です。主イエスは、その罪の束縛からの解放をもたらし、罪人を本来生きるべき故郷に返すという救いの御業を継続なさるのです。それはご自身がエルサレムで歓迎されず、殺されること、そして三日目に復活されることにまで行き着く歩みなのです。
 主イエスは、人々の憤慨の中を、十字架の死へと向かわれます。前進を続けられるのです。そして、ただその服従、神様の御言への服従を通して、三日目の復活に至る。それは「死を通り抜けて主イエスの真の故郷へ帰った」ということを意味するでしょう。そして、主イエスは、ナザレに限らず、イスラエルにも限らず、全世界のすべての人々が、罪の赦しという主の恵みに与ることを望んでおられるのです。私たちが主イエスの言葉を信じて従うことを通して、罪からの解放を与えられ、父なる神の家族という真の故郷に帰ることです。

 故郷に帰る

 ルカ福音書において一つの頂きをなしているのは、一五章の一連の譬話です。群れから迷い出てしまった一匹の羊を捜し求め、見つけ出し、ついに本来いるべき群れに連れ帰る羊飼いの譬話。そして、父親の財産を半ば強奪するように手にして家を飛び出し、放蕩で身を持ち崩してしまった弟の話。彼は、もう父と呼べなくなったのです。故郷を失ったのです。しかし、帰る所は父の許にしかない。彼は己が罪を知り、認め、悔い改め、帰って行きました。その時、父は家から飛び出し、走り寄り、首を抱きしめ、接吻し、息子の徴である指輪をはめさせ、そして大喜びで家に迎え入れました。歓迎したのです。その時、父は、こう言ったでしょう。

「この子は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった。」

 これこそ「主の恵み深い言葉」です。この言葉は、私たちが予想したり期待する以上の言葉です。この言葉の中に、主イエスの十字架の使徒復活があるのです。この言葉を、心から信じ、主イエスに従って生きる者は、古き命に死に新たな命に生かされます。どんな時も、主を賛美しつつ生きることが出来るのです。そして、真の故郷である天の御国に受け入れられるのです。
 今日の午後は墓前礼拝であり、御言への信仰に生きた麻生泰弘さんの埋骨があります。麻生さんもまた、はるかに天の故郷を目指して、御言を信じて従いつつ生きた方です。私たちもまた信じない者ではなく、信じる者となることが出来ますように、祈ります。
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