「権威と力に満ちた言葉」

及川 信

       ルカによる福音書  4章14節〜30節
4:31 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。4:32 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。4:33 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。
4:34 「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
4:35 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。4:36 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」4:37 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。


 礼拝が引き起こすもの 賛美 憤慨

 ルカによる福音書の文脈によれば、主イエスは故郷であるナザレでの安息日礼拝を終えた後、カファルナウムに来られたことになっています。しかし、ルカは時にそういう書き方をしますが、ナザレで起こったことの前にあったことを書いているのかもしれません。一四節以下に、イエス様はガリラヤ地方の諸会堂で教え、人々の「尊敬を受けられた」とあります。それは神への讃美が捧げられたということです。今日の箇所は、その時のことが書かれているのかもしれません。しかし、そうであったとしても、主イエスが礼拝で語る時、そこには賛美が湧きおこるかナザレでのように憤慨が湧きおこるか、そのどちらかであることをルカが書いていることは間違いないと思います。
 どうしてそういうことになるのか?それが今日の箇所の問題です。そして、それは今日(こんにち)の私たちにとってもリアルな問題なのです。私たちが、今日、この日曜日の会堂に臨在し、教えられる主イエスの言葉を本当の意味で理解し、受け入れて賛美できるのか、それとも憤慨して拒絶するのか。主イエスの言葉によって罪に生きる自分が死ぬことを受け入れるのか、それとも憤慨して拒絶するのか。罪に死んで新たに生きるのか、それとも罪の中にただ生ける屍として生き続けるのか。この箇所で問われていることはそういうことだし、礼拝で起こることはそういうことなのです。私たちは、昔あった出来事を知るために礼拝の中で聖書を読んでいるのではなく、今ここで私たちに語りかけてくる主イエスの言葉を聴き、その言葉に何らかの応答をする者として、この礼拝に招かれているからです。

 教え 言葉

イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。

 「教えておられた」「教え」と出て来ます。この「教え」は礼拝における説教のことであり、神様の言葉の説き明かしです。当時のユダヤ教の教師たちも安息日の会堂で、旧約聖書を読んで、その説き明かしをしました。しかし、この時会堂にいた人々は、それまで感じたことがない驚きに満たされたのです。「非常に驚いた」と訳された言葉は、「打たれる」の強調形ですから、打ちのめされた、金槌でガツンと殴られたような衝撃を受けたということでしょう。それは、何故なのか?それは、「その言葉には権威があったから」です。

 神の子としてのメシア

 その権威の由来を知るために、直前のナザレにおける礼拝を見ておかねばなりません。そこで、主イエスは旧約聖書のイザヤ書の預言をお読みになりました。そこには、「主の僕」と呼ばれるメシアのことが書かれています。主なる神様から聖霊を受け、油を注がれたメシアが遣わされる。貧しい人に福音を告げ知らせるために。捕らわれ人、圧迫されている人を解放し、目の見えない人を回復し、本来住むべき故郷に帰すためにメシアが来る。そういう預言でした。旧約聖書でメシアとは、神の御心を行うために神に選ばれた人です。
 しかし、主イエスが洗礼を受けた時に天から聖霊が下り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえ、その直後に記された系図では、主イエスの出自は神であること、主イエスは神の子であることが明示されています。つまり、主イエスはこれまでのような「神に選ばれた人メシア」として登場するのではなく、「いと高き神の子メシア」として登場するのです。そして、そのメシアがもたらす解放、あるいは自由とは、単に社会的な抑圧や圧迫からの解放や身体的な障碍の回復の意味ではなく、すべての人間を覆い支配している罪と死の力からの解放をもたらすものなのです。どんなに力がある人でも、罪と死の力からの解放など出来ることではありません。それは神にしか出来ません。主イエスが旧約聖書の言葉を読む時、それはその言葉の最も深い次元を実現する者として、ご自分が来られたことを告げておられるのです。だから、主イエスは朗読された後に、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と断言されたのです。
 こんなことは主イエス以外の誰も言えません。主イエスは、「聖書の言葉は私において実現している。私が語る言葉が神の言葉であり、また私という存在そのものが神の言葉である。」そういうことをおっしゃっているのです。

 権威

 「権威」と訳された言葉は、この世の「権力」の意味でもしばしば出てくる言葉です。支配する力です。ギリシア語の元来の意味は「自分の内から出てくる」という意味です。主イエスが言葉を語る場合、それは神の言葉を解釈したり説明したりするのではなく、それ自体が神の言葉であり、主イエスの内から神の言葉が出てくるのです。しかし、この時の主イエスは、人々の目に見える人間です。ナザレ出身のイエスという名をもった一人の男なのです。この時既に、有望な新人教師、ラビの一人と思われていたかもしれませんが、所詮は人間です。しかし、その人間が、これまで聴いたことがない権威に満ちた言葉を語る。聖書を朗読するその時既に、聴き手はまるで神ご自身が自分に語りかけてくるような切迫感を感じた。さらに、その言葉は「今、聴いた者たちにおいて実現した」とまで言われる。その言葉の迫力、圧倒的な権威に触れて、人々は打ちのめされたのです。

 現代の悪霊

 しかし、その時の会堂には「汚れた悪霊に取りつかれた男」がいました。そして、主イエスはこの後、所謂「悪魔払い」をします。私たちは、「悪霊」(ダイモニオン)とか聞くと一気に興ざめするというか、突然、古代人の迷信の世界に迷い込んだような気分になり、本気で読む気がなくなります。「まあ、ここは少し我慢して古代人の感覚にお付き合いしましょう」みたいな気分になる。実際、聖書以外の当時の文書の中にも悪霊払いの記事は沢山あります。そういうものに取りつかれた人を専門に見るエクソシスト、厄払いの専門家は何処の世界にもいます。そして、そういう人が悪霊に取りつかれた人の手足を縛って「出て行け」と叫ぶと出て行ったとか、魚の内臓を燻したらその煙を嫌って出て行ったとか、呪文を唱えたら鼻の穴からずるずると悪霊を引っ張り出せたとか、色々なことが書かれているようです。
 私たちは笑いながらそういう物を読みます。しかし、現代の日本にも多種多様な魔よけ、厄除けのための施設がありますし、そのために祈ったり、呪文を唱えたり、お祓いをしたり、怪しげな儀式を執り行ったりして高額なお金を取る人たちがそれなりの数いるのではないでしょうか。ということは、それなりの数の人々が、そういうものに頼っているということです。
 私の犬の散歩のコースにも、幸福を科学的にもたらすかのような名前を持つ新興宗教の仰々しいビルがあります。そのビルの掲示板に張り出されているポスターによると、その宗教の教祖が書いた悟りの本は、法華経の百万倍のご利益があり、その本を肌身離さず持っていると様々な災厄から守られるのだそうです。入会する方には、特別に千円で売るらしい。入会したら千円で済むはずはありません。それで済むならあんなビルは建ちません。しかし、そういう勧誘に乗ってその宗教団体の会員になっている人は、少なくとも日本のキリスト者の何十倍何百倍もいるのです。選挙の度に、その団体からの候補者が何人も立候補します。それはつまり、「自分には何か悪いものが取りついている、だから不幸なんだ」と思っている人が何十万人、何百万人もいるということだし、千円でそういうものから解放され、自由にされ、幸福になれるかもしれないと思っている人がいるということでしょう。
 これは笑えない状況のように、私には思えます。こういう状況も、悪霊に支配されている一つの状況なのです。つまり、絶えず不安と恐れに支配され、心の奥底では本当の自由と解放を求めているのに、実際には目先の利益、生活の安泰、健康ばかりを求めて、結局はさらなる不幸に陥っていく。そういう状況を、悪霊に支配された状況と言うことが出来ると、私は思います。それはオカルトチックな荒唐無稽な現実に限られた話ではないのです。この日本の社会に蔓延している実にリアルな現実なのです。

 当時の悪霊

 もちろん、主イエスの時代に悪霊に取りつかれていた人々というのは、何らかの意味で病や障碍を負った人々のことを指していたでしょう。今日の箇所で言えば、礼拝堂で突然叫び出す人ですが、八章には裸で墓場に住んでいる人なども登場します。明らかに何らかの精神的な病にかかっているのです。しかし、根本的な問題はそういうことではありません。真の故郷、安息できる場所を求めて呻き苦しんでいる人々なのです。その根本を抜きにして、表面的な症状の回復や現状の打開が救いになるわけではありません。しかし、私たち人間は根本的な救いを求めつつ、それを恐れ、避けるものでもあります。

 ルカ福音書における「悪霊」 神の国

 ここで、ルカ福音書の中で「悪霊」という言葉がどのように出てくるかを見ておきたいと思います。それを見れば、主イエスがなさったことが、悪魔払い、厄除けのような単なる対処療法ではなく、根本的な救いをもたらすものであることが分かると思います。
 八章の最初にこうあります。すこし飛ばして読みますが。

すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア・・そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

 ルカ福音書では悪霊追放と病気の癒しがしばしば並んで出て来ますし、両者の区別が明確ではありません。しかし、それよりも大事なことは、そういう業と神の国の到来という福音(喜ばしい知らせ)が結びついていることです。追放や癒しそのものが根本的問題なのではなく、「神の国」、神の支配がその人々に及ぶことこそが根本的なことです。当時は、悪霊に取りつかれ、病が治らない原因は、その人が罪を犯したからだという因果応報的考え方が一般的でした。今の日本だって、そういう考えがあるから、様々な宗教が乱立するのだと思います。しかし、主イエスにとって、悪霊追放とか病の癒しは、ただそのことに意味があるのではなく、そのような力に負けてしまい、完全に支配されている人々を、神の勝利に与らせ、神の支配の中に迎え入れることこそが大事なのです。
 主イエスによって悪霊から解放され、病を癒された婦人たちは、主イエスとその弟子たちのために持てる物を捧げ、主イエスの旅路を共にしつつ様々な奉仕をする生活を始めました。それは、彼女たちが、それまでの自分に死に、新しくされ、神の国の中に生かされるようになったということを表しています。そこに福音と呼ばれるべきもの、救いと呼ばれるべきものがあるのです。

 ルカ福音書における「悪霊」 十字架

 その後、九章でも主イエスは悪霊を追放し、人々が驚きに満たされるということがありました。しかし、その後、主イエスは弟子たちにこうおっしゃるのです。

「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」

 ここにある異様な雰囲気を感じ取らねばなりません。多くの人々の驚きをよそに、主イエスは弟子たちにだけ「この言葉をよく耳に入れておけ」「わたしは、人々の手に引き渡されようとしている」とおっしゃる。その時の主イエスの表情や声も合わせて、弟子たちにはとても理解できないものがありました。しかし、弟子たちは何か異様な不吉なものを感じ取りました。でも、恐ろしくて尋ねることは出来なかったのです。
 主イエスはここで、人々に神の国、福音、救いをもたらすためには、ご自分が十字架に磔にされなければならないことを、密かにしかしはっきりと告げておられるのだと思います。

 ルカ福音書における「悪霊」 復活

 すこし飛ばして先週も読んだ一三章を読みます。ガリラヤの領主ヘロデが主イエスを殺そうとしているから、ここから逃げた方がよいと言われた時、主イエスはこうおっしゃいました。

「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」

 ここでは、悪霊追放、病の癒しの業が、エルサレムにおける死、つまり十字架の死と「三日目」、つまり日曜日の復活に向っているものであることを、主イエスは明確に告げておられます。そして、これ以後、悪霊追放の業が記されることはありません。
 つまり、主イエスによる悪霊追放や病の癒しとは「神の国」の到来と密接不可分の関係があり、その「神の国」は十字架の死と復活と切っても切れない関係にあるのです。しかしそのことは、その時その場で聞いた人の誰も分からない。弟子たちは怯え、人々は驚き、憤慨していくだけです。今、ここで語っているのが神から遣わされたメシアであるということ、この方を通して神の国、その支配が到来していることが分からない。

 悪霊は分かる

 しかし、カファルナウムの会堂にいた男に取りついていた悪霊は分かりました。彼は大声で叫びます。

「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

 「かまわないでくれ」とは、私とあなたの間に何がある?!が直訳です。つまり、一切関わりがない。交渉など出来る余地はないということです。支配者は二人同時に立つことは出来ません。悪霊が支配者なのか、それとも主イエスが支配者なのか。ただそれだけです。
 悪霊は私たちを支配することが出来ます。簡単に勝利し、屈服させることが出来る。しかし、主イエスの前には無力です。だから、悪霊は人間よりもはるかに神様の力に敏感なのです。エデンの園にいた蛇は、神様が出てくる前までは人間を手玉にとることが出来ました。しかし、神様が出てきた時には、何も出来ず、断罪されるだけでした。言い訳もできない。だから、蛇が恐れるのは神様だけです。悪霊も同様だと思います。
 彼は主イエスの正体を言い当てます。「神の聖者だ」と。相手の正体を言い当てることは、相手の力を奪うことになる場合があります。古代では、だから神々がいくつもの名前をもって本当の名を隠すということがあるそうです。しかし、ここでは、そういう意図をもって「神の聖者だ」と言ったのではなく、「あなたの強さは分かったから、勘弁してくれ。はやくナザレでも何処へでも行ってくれ」と言っているように私には思えます。

 支配者の交代

 彼は、恐怖に怯えながら「あなたは我々を滅ぼしに来たのか」と言いました。男にとりついている悪霊は単数形ですが、ここで彼は「我々」と複数形で語ります。彼はこの時、一人の男にとりついて支配していた自分だけでなく、この世の多くの人々を支配していた自分たちの時代が終わりを迎えようとしていることの恐怖を語っているのです。人間の支配者であった自分たちが新たに登場した支配者によって追放されてしまうことを恐れ、また嘆いている。
 主イエスは「黙れ。この人から出て行け」と命令しました。すると、「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行き」「 人々は皆驚いて『この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは』」と互いに言ったので、「イエスのうわさは、辺り一帯に広まった」のです
 この時、この男の支配者が代わったのです。悪霊に支配されていた彼は死んで、その支配から解放され、主イエスの支配、神の国に生かされる福音が実現したのです。主イエスがお読みなったイザヤ書の預言は、神の言葉そのものである主イエスにおいて、このように実現した。それが、ここで起こっていることです。

 来た

 そこで、「滅ぼしに来たのか」という言葉を巡って、もう少し聖書の語りかけに耳を澄ませて行きたいと思います。
 初めに「来た」の方を見ますが、来るとは外部から来ることです。しかし、主イエスの場合それは荒野からカファルナウムに「来た」とか、ナザレから「来た」という場所の移動に止まらないことだと思うのです。少なくとも悪霊が「我々を滅ぼしに来たのか」と言う時、彼はそういう意味で言っているはずがないと思います。主イエスは、神に遣わされて天から来たのです。神の許から来たのです。そのことを明確に分かっていることが、悪霊の鋭さであり、また悲劇です。

 滅ぼす 羊の場合

 「滅ぼす」と訳された言葉は、アポリューミという言葉なのですが、これは辞書を見ると様々な訳があることが分かります。なくす、殺す、駄目になる、腐る、失う・・・と実に様々です。ルカ福音書の中でも色々な訳で使われます。しかし、今日は先週もお読みしたルカ福音書一五章や一九章の用例を見ておこうと思います。いずれも私たちにとっては馴染みのある箇所です。
 一五章には、実に七回もアポリューミという言葉が出て来ます。そこは、当時のユダヤ人から見ると罪人とされていた人々や、その代表格でもある徴税人と主イエスが共に食事をする場面です。神に忠実に生きていると自負する人々は、そういう主イエスを見て不満を抱くのです。その時、主イエスは、こう語り出しました。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 この中の「見失った」がアポリューミです。つまり、それは神の許から迷い出てしまった迷子のことです。迷子になることほど心細いことはありません。しかし、その心細さは自分が迷子だと気付いた時に生じることです。実際には道を外れて誤った道を歩いているのに、自分では気づかない。意気揚々と歩いている、前途に希望をもって歩いている、自分が選んだ道に確信をもっている。しかし、実際には迷っている。巨大な迷路の中を、自分ではゴールを目指して歩いているつもり。でも、実際には同じ所をぐるぐる回っていたり、罠や落とし穴がある道を選んだりしている。はるか上空から見れば、それは一目瞭然のことなのですが、悲しいかな地上を歩く以外に術のない者にはそれが分からない。そういうことがあります。いや、私たちの歩みのほとんどの場合が、そういうものなのではないでしょうか?
 私などは確信が強いのか迷いが深いのか自分でもよく分かりませんが、とにかく、自分がこうだと思って歩んでいる道がとんでもない所に向かう道であり、大きな落とし穴に落ちて、自分では這いあがれないことが、これまでに何回かありました。しかし、今日も日曜日の会堂にこうしておらせて頂いています。それは、ただただ神様の憐れみによることです。神様が主イエスに油を注いで天から送って下さったからです。メシアとしての主イエスは、道に迷い、穴に落ちた私を追い求め、ついに見つけ出し、担いで、本来いるべきこの礼拝者の群れに連れ帰って下さった。ただ、その恵みの事実の故に、私は今ここにこうして立たせて頂いているのだし、皆さんがそこに座っていられるのも、同じ恵みの事実なのです。その恵みのお陰で、私たちは滅びから解放されている。

 滅ぼす ザアカイの場合

 それは罪人の頭とでも言うべきザアカイにおいても言えることです。彼は、ユダヤ人が最も嫌う徴税人をしてその財を築いていました。その仕事に不正はつきものでしたし、何よりもローマ帝国のためにも税金を徴収しているので、ユダヤ人からは裏切り者として激しい敵意を抱かれていました。しかし、そういうザアカイと主イエスは敢えて食事を共にするのです。当然、多くの人々が憤慨しました。しかし、ザアカイは感激しました。我が身に及ぶかもしれない危険を顧みず、町一番の嫌われ者の自分の所に来て下さったその尋常ならざる愛に感激したのです。そして、彼は、主イエスに向って、こう言いました。

「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

 これは彼にとって、生き方の大転換です。それまでの彼が死んで、新しいザアカイがここに誕生したのです。主イエスは、そのザアカイを見て、こうおっしゃった。

「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 「失われた者」がアポリューミです。滅んでいた者ということです。しかし、そういう者を捜し出すために、イエス様は「来た」。神の許から、異郷であるこの地上に来た。来て下さったのです。そして、昨日も今日も明日も、滅んでいた者、神ならぬものに支配されていた者を救う御業をなさるために前進を続けるのです。私たち罪人を真の故郷である神の国に招き入れるための御業を続けて下さるのです。そこに待っているのは、死です。主イエスが滅ぼされるのです。神に見捨てられるのです。そういう恐るべき滅びなのです。

 神の権威と力が現れるところ

 悪霊や罪の力に敗北し、支配され、生きながらにして既に滅んでいる者たち、真の故郷である神の国から失われた者たちを神は憐れみ、ご自身の愛する独り子を世に遣わして下さいました。しかし、その憐れみは、ついに主イエスが十字架の上で血を流して死ぬことに至り、ついに三日目の復活に行き着いたのです。ただその十字架の死と復活の中に、あらゆる力を上回る神様の権威と力があるのです。そして、主イエスの言葉はそのどれを取っても、その権威と力に満ちた言葉なのだし、主イエスご自身がその権威と力そのものなのです。
 そういうお方として、主イエスは今日、この日曜日の礼拝堂に臨在し、聖書とその説き明かしの言葉をもって私たちに語りかけておられるのです。そのことが本当に分かる人は、打ちのめされ、そして新たに立ち上がる力が与えられるでしょう。
 今、私たちの目の前におられ、語りかけて来られるお方は、十字架の愛の主であり、復活の命の主なのです。罪と死の力に愛によって勝利した主なのです。何ものも打ち勝つことが出来ない権威と力に満ちた勝利の主です。その勝利の主を信じ、受け入れる時、私たちを支配する悪霊や罪は追放され、私たちは解放されます。そして、神の国に招き入れられる。それが主イエスによって私たちにもたらされた福音であり、真実の救いです。

 輝かしい勝利

 パウロという人は、ザアカイとは全く逆に、義人の誉れの高い人でした。神の与える言葉、律法を忠実に守ることで、自分は正しい人間、神に愛されて当然の人間だと自他共に認めていた人です。しかし、それはまさに悪霊の支配、罪の支配に落ちた人間の、もう一つの典型なのです。悪霊に取りつかれるとは、誰から見ても異常な状態になることを意味しません。誰から見ても正しく立派に生きている時、むしろ悪霊に完璧に捕えられていることがある。だから、恐ろしいのです。
 パウロは、復活の主イエスとの出会いを通して、そのことを示されました。自分のことを、義人の中の義人と思っていた彼は、その時に打ちのめされました。目も見えなくなり、三日間何も食べることが出来ないほどの衝撃を受けたのです。それは、自分こそがまさに罪人の頭であることを知らされた衝撃です。しかし、主イエスは、彼に伝えました。「わたしはそういうあなたの罪を赦すために十字架に掛かって死んだ」と。そして、「そういうあなたに新しい命と使命を与えるために、わたしは復活したのだ」と。その恵みの事実を、主イエスの言葉によって知らされ、信じて以後、彼はどんなものにも勝利された復活の主イエスを心から賛美し、証しする者となりました。最後に、そのパウロの言葉を読んで終わります。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。 ・・・ わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 これは、パウロの言葉なのですが、権威と力に満ちた主の言葉なのです。
説教目次へ
礼拝案内へ