「神の子の到来」

及川 信

       ルカによる福音書  4章38節〜44節
4:38 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。4:40 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。4:41 悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。
4:42 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。4:43 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」4:44 そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。


 メシアの到来

 今日の箇所で一四節から始まった一つの単元が終わります。内容は、ガリラヤ地方における伝道です。
 一六節から、イエス様の故郷であるナザレにおける安息日礼拝の場面が始まります。その時イエス様がお読みになった聖書の言葉はイザヤ書のメシア預言です。非常に大事な言葉なので、今日も読ませて頂きます。

「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」


 ルカが、その福音書と続編である使徒言行録で書いているすべてのことは主の霊、つまり聖霊の働きです。イエス様の誕生も聖霊の業ですし、教会の誕生も福音宣教の業も聖霊の業です。イエス様が読まれたイザヤの言葉は、主なる神から霊を注がれたメシアが「福音を告げ知らせるために」のこ世に「遣わされる」という預言です。その「福音」とは、「捕らわれている人」「圧迫されている人」「自由」「解放」を与えることです。「自由」「解放」も原語では同じアフェシスという言葉で、今日の箇所にアフィエーミという動詞の形で出て来ます。そして、二度出てきた「告げる」はケールスソウで今日の箇所では「諸会堂で宣教された」という形で出て来ます。「福音を告げ知らせる」とか「遣わされる」という言葉も、今日の箇所に出てきます。ルカは、これらの言葉を単元の枠組に使って、神の子・メシアとは誰であり、そのメシアが与える自由・解放とは何であるか、福音とは何であるかを語っているのです。最初にそのことを頭に入れておいて頂きたいと思います。

 高熱が意味するもの

 今日の箇所は、前回語った場面と同じ日の出来事から始まります。イエス様は、カファルナウムの会堂で礼拝を捧げた後、シモン・ペトロの家に行きます。礼拝後の食事をとるためだったと思います。しかし、家に入ると、本来なら一行をもてなすはずのシモンの姑が高熱の故に寝込んでいたのです。その姑の病をイエス様が癒すという話が最初に出て来ます。表面的な出来事は病の癒しです。そこにイエス様の神の子としての力が現れていると言って良いと思います。しかし、それだけなのかと言えば、そんなことではないでしょう。
「高い熱に苦しんでいた」と訳されています。でも、ルカは敢えて高い熱に「捕らわれている」「支配されている」(スネコウ)と書いています。悪霊が取りついている感じです。だから、つい先ほどまでいた会堂で悪霊を叱りつけて男の中から追放したのと同じように、イエス様は「熱を叱りつけ」ました。イエス様にしてみると、病気も悪霊も人間を支配し、神様との交わりから引き離していく力なのです。

 熱が去る

 言葉で叱ると熱は「去った」とあります。私たち現代人にとっては「熱は下がる」ものですが、ルカが見ている現実は体内で起こる自然現象ではありません。現代でも、老人が高熱を出せば命とりになりかねません。病院だとか解熱剤がない時代であれば、それは尚更のことです。当時の人々にしてみれば、死の力がこの老人に襲い掛かり、支配しようとしていると思うしかないことです。その絶望的な状況を、主イエスはその言葉だけで打開されます。しかし、それは単なる病の癒しを意味するものではありません。
 ここで「熱は去る」とありますけれど、その「去る」は先ほど言ったアフィエーミという言葉が使われています。つまり、捕らわれている人を解放し、圧迫されている人を自由にするということなのです。ですから、ここに記されていることは、イエス様こそ来るべきメシアであり、この方を通して福音がもたらされているということなのです。
 それは、アフィエーミがしばしば「罪を赦す」という意味であることからも明らかです。この先の五章で、イエス様は「人の子が地上で罪を赦す(アフィエーミ)権威をもっていることを知らせよう」とおっしゃりつつ、中風という病に苦しむ人を癒されます。シモンの姑の癒しはこの出来事に向って行き、さらにその先へと向かう出来事なのです。つまり、ここで既に罪の赦しが暗示されているのです。

 もてなす

 それは、彼女が「一同をもてなした」という言葉にも表れています。この言葉は、後に教会用語となっていく「奉仕する」という言葉なのです。九章の初めには、イエス様に病を癒されたり悪霊を追放して頂いた女たちが、イエス様と弟子たちの宣教の旅に同行し、様々な奉仕をしたと記されています。後の教会の原型がそこにあるのです。ですから、ここも高熱で苦しんでいた姑が健康を取り戻してよかったねという話ではなく、彼女は死の力に支配されそうだったけれど、主の霊を受けて遣わされたメシアの言葉によってその力から解放され、今や主に仕える者となった。新しい人間が創造された。そういう霊的な次元での救いの出来事が起こったことを告げているのです。

 一人一人に手を置く

 そうこうしている内に「日が暮れ」ました。安息日が終わったのです。安息日には歩く距離も制限されていましたし、仕事をすることが禁じられていました。そこで安息日が終わると同時に、家族や知人に病人がいる人々が、その病人たちをイエス様の所に続々と連れて来たのです。今でも有名な医師がいる病院の待合室は、毎日多くの人々で一杯です。シモンの家が、そういう状況になったのです。
 するとイエス様は「その一人一人に手を置いて癒され」ました。旧約聖書でもユダヤ教の文献の中でも、手を置くことは基本的に神様の祝福を祈ることだそうです。牧師や長老を任職する時に按手礼という式を執り行いますが、それはまさに牧師や長老に選び立てられた人に手を置いて神様の祝福を祈る式です。礼拝の最後に、牧師は手を挙げて祝福を告げますが、それも集まった一人一人の上に手を置いて祝福するイエス様を象徴的に表している行為だと思います。
 私は、この場面もまた一つの礼拝の場面だと思います。私が司式をする時も長老がする時もそうですが、この講壇に立って祈る時にごく自然に出てくる言葉の一つに、「今日も私たち一人一人のその名を呼んでここに集めて下さいましたことを感謝します」という言葉があります。私たちは名もなき集団としてここに集まって来ている訳ではありません。一人一人がイエス様にその名を呼ばれて、ここに集まって来ているのです。主イエスが、「誰でも重荷を負って苦労している者は私の許に来なさい」と招いて下さっているのです。
 私たちは、それぞれ一週間の歩みの中で疲れを覚えていますし、傷ついている場合もあります。悔いていることもあります。どうしようもない呻きを抱えている場合もある。また、そういう重荷を抱えている方を主イエスに会わせたくて礼拝にお連れする場合もある。自分がその方の重荷をいくら聞いても、根本的な解決にはならない。是非、主イエスに出会って欲しい。主イエス自身に手を置いて祈ってもらえれば、きっとその荷が軽くなる。そう信じて、家族や友人を礼拝にお連れする場合もあるでしょう。来週の特別伝道礼拝は特にそのことを覚える礼拝でもあります。
 そういう私たち一人一人を主イエスが見つめ、そして言葉をかけ、手を置いて祈って下さる。そのようにして、私たち一人一人に襲い掛かり、支配し、神様から引き離そうとしている力から解き放って下さる。自由を与えて下さる。そして、神様に仕えて生きる喜びを新たにしてくださる。そういう霊的な現実が起こるのが礼拝ではないでしょうか。
 牧師はただの人間ですし、皆さんが抱えている重荷の一つ一つをほとんど知りません。知ったとしても、その重荷を軽くすることが出来る訳ではありません。でも、皆さんの中には、「今日は私のために説教をしてくれた」と思う方もおられるはずです。今日の自分に対して、神様が語りかけて下さったという実感を持つ経験です。私も信徒だった頃、何度もそういう礼拝経験をしました。説教者になってからは、毎週の御言が今の自分に対する神の言葉なのだと実感する経験をしています。その経験抜きに、説教は出来ません。自分に語りかけられてもいない言葉を、今日与えられる神の言葉として皆さんに語ることなど出来ようはずもないことです。そして、そういう霊的な現実がどのようにして今の現実になったかが、今日の箇所の奥底にある問題なのです。

 お前は神の子だ

 しかし、その問題に行き着くために、四一節以下を読まねばなりません。悪霊も病も、人を捕え、圧迫し、神から引き離す力です。彼らにとって最も恐ろしいのは、自分たちが支配し圧迫している人間たちを解放し、自由にしていく神の子、メシアの到来であることは言うまでもありません。彼らは、自分たちの支配を打ち破る者が、このナザレのイエスであったことに驚愕し、「お前は神の子だ」と喚きながら退散します。本物が出てきた時は、偽物は退散せざるを得ないのです。しかし、その時に、彼らは敗北宣言なのかどうか分かりませんが、「お前は神の子だ」と叫びながら出て行ったのです。しかし、主イエスはそのことを禁じられました。それはどうしてでしょうか?
 ある面から言えば、そのことで主イエスの権威と力がより衝撃的に人々に伝わるわけですから望ましいことなのではないかとも思います。今風に言えば、宣伝効果は抜群のはずです。しかし、主イエスは禁じる。それは何故か?
 色々な可能性があると思いますが、たとえば「天皇」という言葉を聞いた時、皆さんは何をイメージするのでしょうか。それは人によって様々だと思います。ある人たちは戦前から戦中にかけての「現人神」としての天皇を思い出すでしょう。政治的な意味での最高君主であり、宗教的な意味で神でもある。その言葉一つで、何万、何十万という人々が死ぬ戦争を始めることも出来れば、終わらせることも出来る。そういうなんとも不可思議な存在を思い浮かべる人がいると思います。しかし、現代の学生たちに「現人神」と黒板に書いても読めませんし、誰のことだか分かりません。「天皇」と書いても、かつてのような存在をイメージする学生はいません。
 称号というものは、時代によってその意味合いがどんどん変化します。イギリス国王だって女王だって同じです。百年前と今では全く違う。誰がどういう意味で呼ぶかでも称号の意味は変わります。
 しかし、イエス様が神の子、メシアであるという意味は、時代によって変わったり、呼ぶ人間によって意味が違ったりしてはならないことです。まして、悪霊が呼ぶ時と新約聖書がイエス様を神の子、メシア・キリストと告白する時では意味が全く違うことは言うまでもありません。悪霊は悪霊の理解に基づいて「神の子」と言いふらしますが、それは自分たちよりも圧倒的に強い力をもっている存在のことでしょう。その悪霊の言葉を聞くことによって人々も同じイメージを持ち、その神の子の力を欲してイエス様の所に集まってくる。ただそれだけを求めるようになる。つまり、単なる病の癒し、悪霊の追放だけを求めて集まってくるようになる。そういう事態は避けなければならないのです。それは誤解に基づく神の子、メシア理解だからです。

 人里離れた所へ行く主イエス

 そういうこともあって、イエス様は夜が明けると「人里離れた所へ出て行かれ」ます。しかし、人々はイエス様を捜し回り、「自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止め」ました。何故、人々はイエス様を強く引き止めるのかと言えば、悪霊も病も追い出してくれる神の子、メシアを自分たちの所に確保しておきたいからです。こんな便利な有難い存在はないからです。ナザレの人々が、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と思っているのも同じことです。イエス様をそういう存在として自分たちの所に確保しておきたいのです。それはよく理解できることです。彼らの理解は悪霊と同じなのです。
 悪魔は、荒れ野でイエス様を誘惑しました。その時、悪魔は「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」と言いました。
 それと同じ誘惑を今、イエス様は人々から受けているのです。その場所は「人里離れた所」です。ギリシア語ではエレ―モスと言いますが、それは「荒野」と訳された言葉と同じなのです。悪魔は人であり、人は悪魔であるとも言えます。ルカ福音書では、「人里離れた所」とは、イエス様が祈る場所として出て来ますが、それはイエス様にとっては、誘惑と戦う場所でもあるのだと思います。
 悪魔からの誘惑、そして人々からの誘惑。その本質は同じです。神の子、メシアを単なる悪霊追放者、奇跡行為者として限定し、自分たちの利益のために使う。神の子が、そういう有益なものである限り自分たちの所に引き留めておきたい。まだまだ手を置いてもらっていない病人はいるのです。そういう人間を助けないまま行ってしまうのか?まさかメシアであり神の子である方はそんな無慈悲なことはしませんよね?!もし、留まってくれるなら家を建ててあげる、お手当もはずみますよ・・・。人々には、そういう思いもあるでしょう。そして、肉をもった人として生きるイエス様にとって、その思いに応えることは安全で魅力的な道でもある。イエス様が夜明けと同時に出て行った「人里離れた所」とは、イエス様にとってはまさに誘惑と戦う荒野なのです。

 神の国の福音

 イエス様は言われました。

「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。

 あらゆる所で福音を告げ知らせる。それがイエス様に与えられた使命なのです。それは、イエス様の願望ではなく神様の願望であり、神様がイエス様に与えた道です。その道を歩み通す。そのためにイエス様は神様から遣わされたのです。ひとつ所に止まって、その地の人々の願望に応えるという道を歩むことがイエス様の使命なのではありません。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせる。」それが、神様がイエス様に与えた使命なのです。
 イエス様の使命とは、一人でも多くの人々を神の国に招き入れることです。人が神の国に生きるためにどうしても必要なこと、それは罪が赦されることです。身体的精神的な病が癒されることが、即神の国に招き入れられることではありません。健康であっても罪の支配の中に落ちていることなど幾らでもあります。そのことが主観的に苦しい場合もあれば、何も気付かずに楽しい場合もある。逆に、不治の病を得た苦しみを味わいつつも、主イエスによって罪の赦しを与えられ、神様との愛の交わりである神の国に生かされる喜びを実感していることも幾らでもあるのです。問題は、目に見える肉の次元ではありません。
 シモンの姑の癒しの本質は、彼女の病の癒しではなく彼女の罪の赦しであり、彼女が喜びをもって神に仕える者となったということです。そのことを見落としたり、見誤ると、聖書はとんでもない方向に私たちを導く書物となります。
 主イエス・キリストの言葉も業もすべては主の霊、聖霊の業であり、主イエス・キリストを証しする聖書は聖霊の導きの中で書かれた書物です。だから、いつも聖霊の導きを祈りつつ読んでいかなければなりません。学問的に読む必要はありませんが、聖霊の導きを求めて読み続ければ、色々なことが示されて来ます。

 使命

 使命は自分で決めるものではなく、神様から与えられるものです。だから、「わたしは〜したい」と願って生きるのではなく、「わたしは〜をせねばならない」「することになっている」という形で生きるものです。ですから、使命感に燃えている人には一種の悲壮感が漂うのは当然です。与えられた使命に拘束されているからです。でも、そこには大きな喜び、充実感があることも当然です。そこには肉の欲望を満たす喜びとは全く異なる喜びがあります。神様に奉仕をしている喜び、神様に与えられた賜物を神様に捧げることが出来る喜び、そういう喜びがそこにはあるものです。そして、使命に拘束されることは、罪の束縛から自由にされることなのであり、そこには真の解放の喜びがあるのです。
 主イエスは、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」とおっしゃいました。「なければならない」はギリシア語ではデイという言葉です。その言葉が集中的に出てくるのは、主イエスの復活を告げる二四章です。しばらく二四章の言葉に耳を傾けたいと思います。

 必ず実現する神の言葉

 安息日が明けた週の初めの日の早朝、女たちがイエス様の遺体に油を塗るという最後の奉仕を捧げようとして墓に行きます。彼女たちは、ガリラヤ地方で主イエスに癒され、悪霊を追放され、それ以来、主に仕えることを使命とし、最大の喜びとしてきた人々です。しかし、その墓にイエス様の遺体はなく、二人の天使がいました。天使は彼女たちにこう言いました。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

 「必ず〜となっている」がデイです。十字架の死と復活、その道を歩み通すこと、それが神様がイエス様に与えた道、使命なのです。そして、それはかつてイエス様が彼女らを含む弟子たちに語っていたことなのです。
 しかし、その言葉を信じることが出来ずに、失望と悲しみの思いを抱えつつ生まれ故郷の町エマオに帰っていく二人の弟子がいました。その弟子たちの道を復活の主イエスは共に歩んでくださいました。でも、彼らはイエス様は死んだと思い込んでおり、その目でイエス様を見てもそれがイエス様だとは分からなかったのです。そういう弟子たちに、イエス様はこう語りかけられました。

「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

 「はずだったのではないか」が、デイです。苦しみと栄光。十字架と復活。その道を歩み通すのが神から遣わされたメシアです。病の癒しや悪霊追放は、イエス様がメシアの道を歩む過程の中で起こったことであり、その究極ではありません。そして、癒しも追放も、十字架の死と復活を通してもたらされる罪の赦しと新しい命への招きなのです。神の国に罪人を招き入れるためのものなのです。それは旧約聖書から新約聖書に至る聖書全体を通して明らかにされていることであり、部分だけを読んで勝手な解釈をしている限り、決して分からないことです。
 イエス様は、二人の弟子たちに「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明」して下さいました。そして、彼らの家に入り、「パンを取り、賛美の祈りを捧げた上で、パンを裂いてお渡しに」なりました。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」のです。この時、初めて彼らの目が霊的な次元に開かれました。そして、肉眼でイエス様が見えなくとも、いや見えないからこそ、イエス様はユダヤの諸会堂だけでなく全世界の諸会堂に一人一人を招き、罪の支配からの解放と自由を与えるメシアとして生きておられることが分かりかけてきたのです。彼らは大喜びでエルサレムに帰りました。そこには、やはり復活の主イエスと出会ったシモン・ペトロもいました。
 その日、イエス様はエルサレムに集まっている弟子たちの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と祝福の宣言をされました。恐らく両手を挙げて宣言されたと思います。そして、聖書の言葉は必ず実現すること、それはメシアの十字架の死と復活を通して与えられる罪の赦しであることを告げられたのです。そして、罪の赦しという福音はユダヤの他の村や町どころか、あらゆる国の人々に「宣べ伝えられる」ことになるとおっしゃる。「宣べ伝えられる」は、四章の単元を囲む枠に出てきたケールスソウという言葉です。誰によって宣べ伝えられるのかと言えば、弟子たちなのです。
 主イエスは「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と弟子たちに言われました。

 ペンテコステに起こったこと

 イエス様が復活されてから五十日目、ペンテコステと呼ばれる日、エルサレムの一室で祈る弟子たちに、天から「炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人一人の上に止まった」と使徒言行録には記されています。まさに、弟子の一人一人が、主イエスによる火と聖霊の洗礼を授けられ、手を置かれて祝福の祈りをして頂いたのだと思います。その時、彼らは上からの力に満たされて世界中の言葉で神の国の福音を宣べ伝え始めました。シモン・ペトロは、イエス様の十字架の死を語った後、こう続けました。

「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。・・・ だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 この聖霊に満ちた説教を聞いて罪を悔い改めた人々は、罪の赦しに与る洗礼を受け、共に主イエスの命に与る聖餐の食卓を囲むようになり、地の果てまで神の国の福音を宣べ伝える伝道を始めたのです。すべては聖霊の業です。その聖霊がこの二千年間、生きて働いているからこそ、今から九十三年前に中渋谷教会も日本の東京の渋谷の地に誕生したのだし、今もこうして礼拝において主の言葉を語り、そして聞いて信じ、聖餐の食卓を囲みつつ、神の国の福音を宣べ伝えているのです。

 私たちに起こること

 私たちは今日、新たに高い所からの力に包まれて福音伝道の御業に奉仕する者に造り替えられることを切に願います。来週は特別伝道礼拝です。誘える方がいる人は熱心に誘って下さい。いない方は誘われてきた方が、主イエスと出会えるように熱心に祈って下さい。毎年こなす恒例行事として覚えるのではなく、最初で最後であっても悔いがないという思いをもって備えなければなりません。知らぬうちに罪の力に支配されている一人一人を主イエスの許にお連れして、言葉をかけて頂き、手を置いて祈って頂くことを切に祈りつつその日に備えていきたいと思います。それが私たちの使命なのです。そして、その祈りは御心に適う祈りですから、必ず何らかの形で実現するのです。

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