「よろしい、清くなれ」

及川 信

       ルカによる福音書  5章12節〜16節
5:12 イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。5:13 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。5:14 イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」5:15 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。5:16 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

 ある町で起こったこと

 主イエスはカファルナウムの町の人々に引きとめられた時、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」とおっしゃり、そこを立ち去られました。その直後、ゲネサレト湖(ガリラヤ湖)でペトロたちを弟子として招くという出来事があり、今日の箇所に続きます。
 今日の箇所ではナザレとかカファルナウムという町の名は記されず、「ある町」となっています。名を書く必要もない無名の町だったということではなく、ここで起こったことは他の町でも起こったことであると言いたいのだと思います。
 原文では「そこに」と訳された所に「見よ」という言葉が入っています。しばしば、これから神の御業が行われることに対して注意を喚起する場面で使われる言葉です。

 重い皮膚病

 「全身重い皮膚病にかかった人がいた」とあります。レプラという言葉で、以前は「らい病」と訳されることが一般的でした。しかし、それは正確な訳ではないことが分かり、新共同訳聖書は「重い皮膚病」と訳しています。(しかし、初版の出版時は「らい病」であり、その後改訂されたので、皆さんの中には「らい病」と訳された聖書をお持ちの方もいると思います。)
 病と言っても症状は様々です。目に見えるものもあれば見えないものもある。肌の表面に症状が出る病にかかると、今でも辛い経験を伴います。治療方法がほとんどない古代社会では、隔離して様子を見ること以外に術がない場合が多いので尚更のことです。さらに、古代社会においては、病は何らかの意味で宗教的な意味合いを持ちますから、その苦しみは倍加したと思います。
 様々な皮膚病を診断して、汚れたものか清いものかを判断するのは祭司の務めでした。祭司によって「汚れている」とされた場合は、その人は住み慣れた家から出ていき、集落の外でひとりで暮らすことが律法で定められていました。そのことに関しては、旧約聖書のレビ記一三章〜一四章に記されていますから、関心のある方は後で御覧になったらよいと思います。もちろん、主イエスの時代の「ある町」で、レビ記に記されている律法が文字通り適用されていたのかどうかは分かりません。しかし、律法が当時のユダヤ人社会の土台にあったことは間違いなく、それは主イエスが皮膚病を癒した人に向って「ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに(律法に定められたとおり)清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」とおっしゃっていることからも明らかです。

 清さと汚れ

 その律法には、重い皮膚病の症状が消えていない人が人前に出る時にすべきことが記されています。

重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。(レビ記一三章四五節〜四六節)

 この病に罹った人は、基本的に宿営の外にいなければなりません。しかし、止むを得ない事情で街中に来るときは、人が間違って自分に触れるとその汚れが伝染することになる。それ故に、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫ばねばならなかったのです。これは実に悲しむべき現実です。
 レビ記では、すべての病が神からの罰として与えられるとか、罪の結果だとか書かれている訳ではありません。しかし、神に背く罪に対する罰として疫病などが民全体に襲いかかって来ると書かれているとところもあります。
 病を得た人は、なぜ自分はこのような病を得ることになったのかと考えざるを得ませんし、周囲の人々もまた同様です。そして、最も説得力のある考え方は、その人に何らかの罪があるから罰として病が与えられたのだというものでしょう。つまり、因果応報思想です。もちろん、聖書の神様は罪人には病気を与え、義人には健康を与えるという法則を決めている訳ではありません。詩編を見ても、ヨブ記を見てもそれは分かります。正しい者が重い病で苦しむことがあり、それは何故かという問いを極限まで深めていく所もあります。しかし、多くの人々の考え方はどうしても因果応報的なものになるものです。そのようにして、神の正しさを認める。そして、今健康である自分は罪を犯していないからだと思い込む。そういう社会の中では、病人は病気の苦しみに加えて宗教的な罪責感を抱える苦しみを担わざるを得ないものです。

 交わりの断絶 罪

 重い皮膚病の場合、その病にかかった人は人々との交わりから排除されざるを得ませんでした。中には接触によって伝染するものもあったでしょうから、それは集団を守る上で仕方のない処置であったとも言えるでしょう。そして、人々との交わりから排除されることは、安息日の会堂における礼拝とか神殿の礼拝とかにも集えないことを意味します。それは、当時のユダヤ人にとっては致命的なことです。
 今、ここにいる私たちの誰かが、これからの一週の間に病を得て翌週からの礼拝に来られないことは起こり得ることです。私たちの教会でも、平均で言えば年に二〜三人の方が主に高齢に伴う病を得て礼拝に通えなくなっています。それはその方たちにとっても私たちにとっても非常に寂しいことであり、悲しいことです。しかし、私たちは今、その病を罪の故だとは少しも思いません。それでも、病を得ることで礼拝に集えず、住み慣れた家にいることも出来ず、家族と食事も出来なくなることは痛切な悲しみです。その悲しみの上に、病が罪の故であるとされ、汚れているとされ、自分でもそう思わざるを得ず、礼拝に来ることは出来るのに「来てはならない」とされたとしたらどうでしょうか。また、街中を歩く時には自らの口を覆いながら、「わたしは汚れた者です。汚れた者です。どうぞ私に近づかないでください。あなたも汚れてしまうからです」と叫ばなければならないとしたら、その悲しみはどれほど深いことでしょうか?想像を絶するものがあります。それは、神とも人とも交わりを失った悲しみ、神からも人からも捨てられた悲しみです。
 「イエスがある町におられた時、見よ、全身が重い皮膚病にかかった人がいた」という言葉の背景にあることは、そういうことだと思います。

 ひれ伏す

この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。

 この直前にある記事は、ペトロの召命記事です。彼は、イエス様の言葉に従って網を下ろしたら信じ難いほど大漁になった様を見て、目の前にいる方は単なる「先生」ではなく「主」であることを知りました。そして、思わずひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と言ったのです。
 「罪深い者」とは、「汚れた者」と言ってもよいでしょう。そういう者は、聖なる主の御前に立つことは出来ません。自ら離れるか、離れてもらうしかない。だからこそ、彼は恐れおののいたのです。
 しかし、前回も語ったように、彼は自分の罪を自覚したからこそ、主に縋りつくようにして「離れてください」と言っているのだと思います。心の奥底では罪を赦して頂き、その支配から解放して貰いたいからでしょう。ここに、無自覚の罪を知らされた時の人間の一つの態度、悔い改めるという態度があります。すべての人が、そうするわけではありません。
 今日の病人は、自分の方から近づいて来ています。彼は、人々に向っては「離れてください、離れてください」と言わざるを得ない自覚的にも罪人です。まして「主」の前に出ることなど出来ようはずもありません。それなのに、彼はイエス様を見ると必死になって近づいてきて「ひれ伏した」。そして、こう言ったのです。直訳するとこうなります。

「主よ、もしあなたが望む(意志するなら)なら、あなたはわたしを清くすることが出来ます。」

 「清くしてください」と願ったのではありません。主の望み、意志に自分を委ねたのです。主がそのことを望まれるなら、あなたはそのことが出来る。その絶対的な主の力に対する信仰の告白がここにはあります。その上で、別のことをお望みなら、そのことをなさってください。そういう思いがこの言葉には込められていると思います。もちろん、主が清めることを望んで欲しいと願ってのことです。彼は、自分が罪人であって本来主に近づけない罪人であることを嫌と言うほど知っているからこそ、主に近づき、その御前にひれ伏したのです。

 触れる

 すると、主イエスは言葉を発する前に「手を差し伸べてその人に触れ」ました。多分、全身に発疹が出ているとか、ただれているとかそういう症状だったでしょう。だから、誰もその人に触れることはしませんでしたし、触れることは禁じられてもいたのです。でも、主イエスはその人に、多分思わず「手を差し伸べて触れた」
 悪霊や高熱を追放する時、主イエスは言葉だけでその業をなさいました。しかし、ここでは「触れる」という行為が言葉に先立っています。ルカ福音書では、主イエスが触れるとか主イエスに触れるという言葉が何度も出てきます。「触れる」ことは、なによりも親しい交わりを表します。そして、この「触れる」(アプトウ)という言葉は、「明りを灯す」という言葉としてもしばしば出て来ます。主イエスは、真っ暗だった病人の心の内に、消えることのない明りを灯して下さったとも言えるのだと思います。

 わたしは望む

 主イエスはこう言われました。これも直訳すればこうなります。

「わたしは望む(意志する)。清くされよ」

 主イエスが望まれるなら、その望みは実現します。病はすぐに彼から去っていきました。すると、イエス様は「誰にも話してはいけない」と命じ、律法に定められた通り、祭司の所に行って体を見せ、清めの献げ物をして「人々に証明しなさい」とおっしゃったのです。
 「誰にも話してはいけない」と命じたのに「人々に証明しなさい」とはどういうことか。「人々に」と訳されている言葉は三人称複数形ですから、「彼らに」と訳されることが多いものです。そうであれば、それは「祭司たちに」を意味します。でも、皮膚を見せに行く「祭司」は単数形なので「彼らに」というのは少し無理がある。しかし、「人々に」となると、「誰にも話してはいけない」の意味が分からなくなる。そもそも「証明する」とはどういうことなのか?何を証しするのか?それらのことが明らかにならないと、この箇所の意味が分からないように思います。

 五章のテーマ

 そのことを考えるためには、五章全体の文脈を見なければなりません。五章全体のテーマは、罪であり律法だと思います。ペトロの「わたしは罪深い者です」に始まり、今日の箇所の背後にあるものも罪の問題です。「重い皮膚病」は神と人との交わりを奪うものであり、人々の考えでは罪に対する裁きとされているのです。
 それは、次に出てくる「中風を患っている人」の癒しの記事を見ても明らかです。そこには、中風の故に動けない人を床に載せて主イエスのもとに連れて来た男たちが登場します。せっかく連れて来たのに、群衆に阻まれてイエス様に会えないとなると、彼らは主イエスがいる家の屋根瓦をはがして、中風の男を床に寝かせたままイエス様の目の前に下ろしたのです。主イエスはその男たちの異常なまでの熱心さを「信仰」と見做されました。そして、中風の者に向って「人よ、あなたの罪は赦された」と言われ、「人の子は罪を赦す権威をもっている」と言われたのです。そこでは、病の癒しは完全に罪の赦しの出来事です。
 二七節以下には、主イエスは徴税人レビを弟子としてお招きになりました。ローマのためにも税を集める徴税人はユダヤ人にとっては許し難い裏切り者でしたし、罪人の代表格でした。しかし、イエス様はその徴税人レビを弟子に招いたり一緒に食事をしたりする。そのことに我慢がならないのは律法学者たちです。その時、主イエスは彼らにこうおっしゃった。

「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 その後、主イエスはご自身を「新しいぶどう酒」に例えられます。つまり、古い革袋を引き裂くぶどう酒です。そして、こう言われます。

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れなければならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

 来るべき方

 主イエスは、律法主義や因果応報的な思考が支配していた社会の中に突入して来た全く新しい存在なのです。それは、本来神しかもっていない「罪を赦す権威」を持った存在です。その新しい存在、主、メシアがこの地上に到来している。その現実を正しく受け止めることが出来るか否か、それが問題です。人々は、一瞬は新しいものに心惹かれるのですが、その後「古いものの方がよい」と言うようになる。旧態依然の状態、因果応報、律法主義の考え方の中で自分の安泰を保つ方を選ぶものです。悔い改めることを拒むのです。自分が罪人であることを認めたくないし、罪人が赦されることは面白くないのです。
 この先の七章一八節以下には、獄中にいた洗礼者ヨハネが主イエスの所に弟子を遣わして「来るべき方はあなたなのか。他の方を待つべきなのか」と尋ねさせる場面があります。この直前に、主イエスは死人を蘇らせるという決定的な業をしていました。主イエスは、ヨハネの弟子たちにこうお答えになりました。

「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

 主イエスが伝道を開始された時、ナザレの会堂で最初に読まれた聖書の言葉はイザヤ書六一章の言葉でした。それはメシアの到来を告げる預言です。貧しい人に福音を告げ知らせる。捕らわれている人に解放を与え、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にするメシアの到来を告げる言葉です。それに加えて、ここでは「重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り」という言葉が加わっているのです。旧約の預言をも越えるメシアが到来している。つまり、神に裁かれたはずの罪人の罪を赦し、新しい命を与えるメシアが到来しているのだと、主イエスは告げるのです。しかし、このメシアにこそ人々はつまずくのです。その存在の大きさ、斬新さが、人間の想定、予想や期待をはるかに超えているからです。
 メシアは、当時の人々にとっては神から遣わされた「人」であって決して「主」ではありません。しかし、イエス様は神様から遣わされた「メシア」でありつつ「主」でもある。人でありつつ神である。聖霊によって人に宿った神の子なのです。そして、それまで罪人だ、汚れているとして、神の名のもとに排除していた人々を、神の家族として弟子として迎え入れるお方なのです。そういう存在と出会うことは私たち人間には衝撃的なことですし、簡単に受け入れることが出来ることではありません。それはただ神の招きとそれに応える信仰が与えられた時にのみ恵みとして可能となるのであって、人間の側の努力とか心がけとは異質なことです。

 弟子として立てられる病人(罪人)

 しかし、全身が重い皮膚病の人は、後のキリスト教会を代表する使徒ペトロと同じように、イエス様を見た時に、それが「主」であることが分かり、その御前に「ひれ伏し」ました。そして、その主の意志の中に自分を置いた。委ねたのです。罪を悔い改め、赦しを乞い求めたのです。そして、その人に主イエスは手で触れ、「わたしはノアオム。清くされよ」と語りかけ、その人は清められました。それは、とてつもないことです。
 主イエスは、その彼に向って「人々に証明しなさい」とおっしゃる。これは「証しのために」が直訳です。祭司に見せ、清めの献げ物をすることが「証しになる」のです。マルトゥリオンという言葉ですが、ルカ福音書ではあと二回しか出て来ません。その二回とも弟子たちが主語なのです。それも、主イエスの命令により伝道に遣わされたのに人々に拒絶される弟子たちとか、伝道の故に捕えられ裁判所で取り調べを受ける弟子たちが信仰の証しをする時に使われる言葉なのです。身も心もイエス様に捧げ、命の危険を顧みずイエス様をメシア、主として証しする。そういう時に使われる言葉です。
 ということは、ここで主イエスは、ペトロに続いてこの罪人と目されていた病人を弟子として招き、さらに証し人として派遣しているということになるのではないでしょうか。この重い皮膚病を患っている人が、イエス様こそが罪を赦して下さる主であると信じ、ひれ伏す姿を見て、主イエスは彼の罪を赦し、清め、彼を弟子とし証し人としてお立てになったのです。
 彼が、イエス様こそ来るべきメシアであることを証しする対象は、まずは律法を代表する祭司たちでしょう。彼は、罪の汚れを清めるお方が現れたことをその存在をもって証しするのです。しかし、多くの人々は、表面に起こった現象、病の癒ししか見ないし期待しない。そのことの故に、主イエスは少なくとも祭司に認められ、清めの献げ物をするまでは誰にも言うなと命じたのだと思います。

 祈るイエス

 しかし、彼が言わなくても、街中で起こったこの驚くべき出来事の噂は一瞬にしてその地方一帯に広まっていきました。そして、カファルナウムでもそうであったように、人々は「教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た」。それは何もかも悪いことではないし、歓迎すべきことでもあるでしょう。主イエスは、これからも多くの人の病気を癒しますし、教えをお語りになります。でも、そういうことをしても、本当の意味で主イエスを信じ受け入れる人は多くはありません。多くの人々は「つまずき」、また「古いものの方がよい」と言うのです。自分の罪を知らされ、悔い改めるよりも、既に罪人とされている人々を固定し、健康で律法を守っている自分は神に義とされる者として固定しておいた方がよいのです。律法学者に限らず、多くの人々は「あなたは罪人です。悔い改めなさい」と言われるよりも、「律法を守り、健康なあなたは神に愛されている義人です」と言われた方がよいし、病気になれば病気を治してもらえればよいのです。
 主イエスは、そういう人々の望みと神の望みの狭間で体が引き裂かれていきます。しかし、主イエスは神の望み、その意志にのみ従って前進しなければなりません。それは祈ることによってしかなし得ない歩みです。

 あなたの望み

 そこで、もう一度、重い皮膚病に罹った人と主イエスとの問答をみておきたいと思います。彼は、こう言ったのです。

「主よ、もしあなたが望む(意志するなら)なら、あなたはわたしを清くすることが出来ます。」

 そして、主イエスは彼に手で触れた後に、こうおっしゃった。

「わたしは望む(意志する)。清くされよ」

 「清くされよ」は、受身形で主語が隠されています。彼を清くするのは神です。神がイエス様を通して彼を清くする。その罪を赦す。ご自身との交わりを回復する。それが神の望みであり、イエス様の望みである。そういうことが言われているのだと思います。
 ここで「望む」(セロウ)という言葉がキーワードであることは言うまでもありません。その名詞形の「望み」(セレーマ)がルカ福音書における決定的な場面に出てきます。マタイやマルコでは、「ゲツセマネの祈り」として有名なあの箇所です。ルカでは「オリーブ山の祈り」となっています。
 そこで、主イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」とおっしゃった上で、弟子たちから少し離れ、ひざまずいてこう祈られました。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

 翻訳上の問題があって面倒なことを言わければなりません。同じ「御心」と訳されていても、最初に出てくる父の「御心」は「意図する」とか「選ぶ」などを意味する言葉で、最後に出てくる「御心」とは違う言葉です。そして、「わたしの願い」が、五章に出てくる「御心ならば」とか「よろしい」と訳された言葉(セロウ)の名詞形「望み」(セレーマ)です。イエス様は、「わたしの望み(セレーマ)ではなく、あなたの望みが実現するように」と祈っておられるのです。
 イエス様はイエス様としての願い、望みがある。それは目の前に迫っている十字架の死から逃れることです。神様がそのことを意図し、逃れる道を選んでくださるのならそうしていただきたいという「望み」があるのです。しかし、イエス様の究極の望み、それは神の望みが行われることです。それが人としてのイエス様の望みとは違うものであっても、神の子としてのイエス様の望みは父の望みがかなえられることなのです。そして、その父の望みのままに生きることは、祈りなしに出来ることではありません。「誘惑に陥らないように祈る」ことです。

 人里離れた所

 今日の箇所に出てくる「人里離れた所」とは「荒れ野」のことです。主イエスが悪魔の誘惑を受け、御言によって打ち勝たれた場所です。その荒れ野において主イエスは絶えず誘惑と戦い、そして祈りによって御言を与えられ、誘惑に打ち勝ってこられました。それは人の望みではなく神の望みに従って生きるための戦いなのです。今日の箇所も、まさにその戦いのために主イエスは人里離れた所に退き、そこで祈られたのだと思います。主イエスが汚れた病人を清めて弟子としてお立てになることは、結局、イエス様ご自身が汚れた罪人として十字架で処刑されることに繋がることなのです。そのことをご存じなのは、神様と主イエスだけです。だから、主イエスは一人で祈る。
 オリーブ山でも主イエスは祈られました。父なる神の御心、その望みが行われますように、と。罪人の罪の赦し、汚れた者の清めの業がなされますように、と。そして、「そのためにもし自分の体が必要なら、罪人の身代りに裁きを受ける死が必要であるなら、それが父の望みであるなら、私はその望みに自分の身を委ねます」と祈って下さったのです。そして、その祈りにおいて、誘惑に打ち勝ち、十字架へと向かって下さったのです。

 メシア 主

 主イエスは、神様から遣わされたメシアです。しかし、それは当時の人々が考えていたメシアではありません。「罪を赦す権威」をもったメシアです。そして、「罪人を招いて悔い改めさせる」ために来られたメシアなのです。祈り続けることを通して、ついに父の望みに従って十字架に磔にされて処刑される道を歩み通されたメシアです。その十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈り、悔い改める罪人に楽園に生きる命を約束されつつ死んだメシアです。
 そのことの故に、父はこのメシアに復活の栄光を与え、天に上げ、「主」という最高の名を与えられました。そして、その主、メシアは罪の汚れを清めて頂くために御前にひれ伏す者に、手を差し伸べて触れて下さるのです。そして、「わたしは望む、清くされよ」と宣言して下さいます。神様は、この主イエス・キリストの宣言を必ず実行して下さいます。私たちが、真実に「この方こそ主、救い主」と信じて御前にひれ伏し、その御心に委ねる時、私たちは主イエスの贖いに与って清められます。そして、罪赦されて新しい者とされるのです。神と人との愛の交わりを与えられ、「イエス様こそ、主でありメシアである」ことを証しする証し人としてこの世に派遣されるのです。かつて「ある町」で起こったことは、今日、ここでも起こることです。ただただその恵みに感謝し、主を賛美しつつ、これからの一週の歩みを始めることが出来ますように。

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