「わたしに従いなさい」

及川 信

       ルカによる福音書  5章27節〜32節
5:27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。5:29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。5:30 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 聖書を読む困惑

 聖書を読みながら困惑する時があります。どういう時に困惑するかと言うと、何らかの意味で聖書の登場人物と自分が近い、「これは私だ」と感じる時だと思います。そういう登場人物に向って語られる神様やイエス様の言葉は自分に向っての言葉となりますから、やはり何らかの意味で困惑し、動揺します。感謝とか讃美とかが湧きあがる場合も、困惑や動揺を経てのことです。
 ご一緒にルカ福音書の五章を読んで来ました。そして、今日の箇所が一つの区切りであり、最後の主イエスの言葉は締めくくりの言葉だと思います。

「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 私は、この言葉を前にして非常な困惑を覚えます。その理由は後に述べます。

 群衆 ペトロ

 これまでの記事を読んで来て、皆さんは登場人物の誰と親近感を抱いて来られたでしょうか?これは私に近い、私のことだ、と思う人物はいたでしょうか?
 五章の最初に登場するのは群衆です。彼らは、「神の言葉を聞こう」としてイエス様の周りに集まってきた人々ですから、この群衆の一人としての自分を思い描くことは、私たちにとって比較的容易なことだろうと思います。私たちが毎週こうして礼拝堂に集まることは、まさにこの時の群衆と同じ目的を持っているからです。
 しかし、その次に出てくるペトロ。彼と自分を重ね合わせる人はどういう人でしょうか?それは、イエス様が語る言葉の力に触れ、イエス様が「主」であることを知り、同時に自分の罪深さを知り、主の御前にひれ伏す人です。聖書を読む、説教を聴くことを通して主が今ここにおられることを知ってひれ伏す。そういう礼拝者は、ペトロに自分の姿を見るでしょう。
 しかし、その後「すべてを捨ててイエスに従った」ペトロに自分を重ね合わせる人は、やはり伝道者になるように召され、献身した者たちであるだろうと思います。この言葉の意味に関しては、後半にもう一度帰ってきます。

 病人

 その次に出てくる「重い皮膚病を患った人」「中風を患っている人」に関してはどうでしょうか?私は私なりにこれらの人々の中に自分の姿を見、また皆さんの姿も見る努力をしつつ聖書を読み、また語りました。つまり、病の経験の有無に関わらず、ここでの問題の核心は主イエスによる罪の赦しであるという視点から、この二人の病人と罪人である私たちの親近性を見ました。
 しかし、その一方で、私は初めて登場するファリサイ派や律法学者にもある種の親近感を抱いていました。説教の中では彼らの過ちを指摘しつつ、彼らと自分は近いと感じていたのです。ですから、少しずつ自分の中で分裂が起こり始め、不思議な困惑を感じています。そして、今日の箇所でその困惑が頂点に達するのです。それは、ここに登場する様々な人々、つまりお互いに反目し、決して交わりを持たない人々の双方に親近感を感じてしまうという困惑です。

 レビ

 徴税人のレビ、彼はユダヤ人の支配者であるローマ帝国に納める税金を集めることを生業としている人です。その仕事には不正がつきものでした。そういう意味でも、彼らは人々から嫌われていました。また、徴税人は異邦人であるローマ人と接触しますから、当時のユダヤ人社会の中では汚れた「罪人」として認定された人々です。それは内面的な罪に止まることではなく、法的な意味で「罪人」なのであり、ユダヤ人社会の中心である会堂から締め出された人々なのです。徴税人になる人たちは、そのことをよく承知しています。しかし、腹の足しにもならない正しさよりも、この世の利得を求めてその仕事についているのです。
 そのレビが仕事中にイエス様に見つめられ、「わたしに従いなさい」と言われた。すると驚くべきことに、彼は「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」のです。この時のレビの思いを説明することは難しいと思いますし、あまり意味もないことでしょう。が、キリスト者になるとはこういうことだ、と言う他にない思いがします。ある人々が伝道者になるのもこういうことなのだ、と思います。招かれてしまった、召されてしまった。その召しに最早抗し得ない。だからキリスト者になった、だから伝道者になった。事の経緯は色々あったとしても、事の本質は誰においてもそういうことだと思います。ですから、私はその点においてレビにある種の親近感を抱きます。彼については、また後で戻ってきます。

 ファリサイ派 律法学者

 今日も登場するファリサイ派の人々や律法学者たち、彼らは神様の律法を真面目に守っている人々であり、その律法に基づいて健全な社会を形成していこうと努力していた人々です。新約聖書の中では、いつもイエス様に敵対する形で登場するので共感しにくい面があります。
 でも、実際には私たちもイエス様に共感などしていないことが多いのです。罪人として公認され、ユダヤ人の会堂に入ることが許されない人をご自分の弟子に招くイエス様、また罪人が開く大宴会に招かれ、多くの徴税人や罪人たちと一緒に食事をするイエス様は、とても私たちが許容できる方ではありません。

 教会に時折来る方

 教会には信徒の方だけが来る訳ではありません。ごくたまにですけれど、仕事を失った人、家を失った人、刑務所に入っていた人などが訪ねて来ます。最初から食べ物が欲しいとか、お金が欲しいとか言われる場合もありますし、そうであれば対応は比較的簡単です。しかし、キリスト教を知りたい、牧師さんの話を聞きたい、話を聞いて欲しいと言われる場合もあります。そうなると、いろいろと面倒であり、これまでにお金を渡したこともあれば、食べ物を差し上げたこともあれば、何も差し上げないこともあれば色々です。何度も来る人もいれば、一度で来なくなる人もいる。礼儀正しい人もいれば、凄んで見せる人もいる。色々です。私は「教会はお金をあげたり、食べ物をあげる所ではないから礼拝に来てよ」と言います。それはそれとして本気で言うのです。でも、心の中では「来ないでくれ」と願っています。来られたら、面倒なことが起こると思うからです。実際、起こるのです。身なりも汚いし、身体は臭いしで、隣に座る方は落ち着いて礼拝が出来ないだろうと思います。献金の籠が回ってくれば、その人も困るでしょう。礼拝後も私がその人に掛かりきりになることは出来ません。かと言って、誰かに相手を頼むことも難しいでしょう。そして、継続して来られれば、職の心配とか家の心配とか色々してあげなければならないし、それは私だけで出来ることではありません。その内、教会の中でもそのことが問題になり、なぜ牧師は「礼拝に来い」などと言った!?と言われかねません。そういうこともあって、私は口では「礼拝に来てください」と言いつつ、そして家にある食べ物を渡しながら、「これを持って帰って、当分ここには来ないでちょうだい」と願っているのです。それが私の現実です。この二十五年間で色々な試みをし、色々な経験をした結果の一つの現実です。

 ファリサイ的教会?

 教会という所もまた一つの人間社会です。そして、その人間社会で大事なことはある種の規律を守り、秩序を守って生活することでしょう。旧約聖書の最初の五つの書物(モーセ五書)は律法の書なのです。律法なくして信仰共同体としてのイスラエルは存在しません。教会も同じです。律法は共同体の秩序を形成します。律法を守ることで共同体が形成されていくのです。だから、律法を守ることが義であり、守らないことが罪だと言われることになる。教会においても、律法をちゃんと守れる人が有難いのです。さらに一定の良識があり、ある程度の知的レベルがあり、家も仕事も持っている人が望ましい。そういう人々が集まる共同体の中で安心して礼拝を捧げ、信徒の交わりを持つ。そこに教会生活の喜びがある。それが私たちの現実です。
 しかし、私たちが「主」と崇める方は、しばしば私たち安心とか喜びを破壊します。主イエスは社会の嫌われ者、追放者、汚れた者、罪人が自分の所にやって来れば拒みません。むしろ、そういう人々を自ら捜し求め、弟子として招く。そして、彼らに招かれればその家に行き、食卓に一緒につくのです。それは同じ神に祈るということでしょう。そういうイエス様を見て、ファリサイ派の人々がつぶやきたくなるのは当然だと思います。
 律法を守っていない罪人を仲間にする者は、罪人の仲間です。神の言葉を圧倒的な権威と力をもって語ることが出来、悪霊を追放し、病を癒すことが出来る方が、あのような汚れた罪人を仲間に引き入れ、彼らの仲間になろうとするのか分からない。この方は、ユダヤ人の命である聖書の律法を守る立場に立つ者なのか、それとも違反する立場に立つ者なのか? 自分たちの仲間なのか敵なのか?そのことが分からない不安と苛立ちが彼らにはあります。
 私は、様々な方が教会に何らかの助けを求めて来られる時、イエス様だったらどうなさるのかを考えますが、どう考えても、私のような対応はなさらないと思います。そこで不安と苛立ちを感じるのです。イエス様を救い主と信じ、その方を宣べ伝えるべき牧師が、イエス様とは違う立場に立って人に接している。少なくとも、その時の私にとってイエス様は仲間ではありませんし、私はイエス様の弟子ではないと思う。私はファリサイ派、律法学者の仲間であるし、そうでなければ自分の生活、仕事を守れないと思っている。しかし、私たちは自分の生活や仕事を守るためにキリスト者になり、伝道者になったわけではないでしょう。イエス様に従うためになったのです。

 弟子たち

 ルカ福音書においてファリサイ派の人々がつぶやいた相手は、主イエスではなく弟子たちです。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と、彼らは問われた。「弟子たち」とは私たち信徒たちのことであると言って良いでしょう。教会のメンバーです。しかし、現実の教会の多くは「徴税人や罪人」と一緒に食事をするよりも排除する形で成り立っています。意図的にそういう教会を作ろうとしている訳ではなくても、結果的にそうなっています。それは、私たちの中に見えない意図があるからでしょう。本来、最も親近感を持ってよいはずの弟子たちと、私たちの現実はあまりに遠いのです。
 もちろん、ここでも弟子たち自身がレビを弟子として招いている訳ではないし、彼らが多くの徴税人や罪人を招いて食事をしている訳ではありません。主イエスがレビを招き、主イエスがレビに招かれているから、彼らはその食事の席にいるのです。しかし、そんなことは、主イエスの弟子になる以前の彼らにおいては考えられないことです。

 初代教会の一つの現実

 聖書学者は、当時のキリスト教会の現実がここに反映されていると推測します。ユダヤ人社会であろうとローマ人社会であろうと法による秩序はあるわけで、交わってはいけない人々とか触れてはいけない人々はいますし、まして一緒に食事などしてはいけない人々がいるのです。しかし、イエス様を「主」と仰ぐキリスト教会には種々雑多な人々が一緒になってパンを裂き、杯を分かち合っている。それこそが、罪によって断絶していた神と人、人と人を愛の帯で繋いでくださった主イエス・キリストを記念し、崇める教会の姿です。
 今日の箇所には、二度「一緒に」と出て来ますが、その姿を見て多くの人々が驚き、また苛立ち、「なぜ、あなたたちは?」と問うてくる。そういう初代教会の現実が、ここに反映しているのではないかと言われる。私は、その推測は当たっているだろうと思います。

 何故?と問う心

 「なぜ?」と問う人々の心には一種の憧れがあるでしょう。こんな風に、身分や地位の差もなく人種民族性別の違いを越えて互いに愛し合えたらどんなによいだろう・・という思いがあるでしょう。しかし、その一方で、「あの人たちと一緒にされたら堪らない」という思いもあるのです。私たち人間とは、そういうものです。どうしても差別意識を持つのです。人を見下し、蔑むことで、自分の尊厳を保つ。そういう思いを拭い去れない。そういう私たちがイエス様を見る時の不安と苛立ち、それがファリサイ派の人々や律法学者の心の中にあるものであり、そのことに私は親近感を感じざるを得ません。

 私たちは誰なのか?

 その上で、主イエスの締め括りの言葉が迫って来るのです。

「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 この主イエスの言葉の前に立たされる時、私たちは一体どの立場に立つのでしょうか?「医者」がイエス様であることは明らかです。それでは、今、この礼拝堂に集まっている私たちは、健康な人、正しい人なのか?それとも病人、罪人なのか?皆さんの中で、即答できる人はいるのでしょうか?
 少なくともファリサイ派や律法学者らは、自分たちは健康であり正しい人間だと思っています。しかし、思っていることと現実が違うことなど、私たち人間においては幾らでもあります。そして、彼らも主イエスの言葉を聞きつつ、それまでの自覚が揺さぶられる思いがしたはずです。つまり、健康であり正しいと思っている自分は、ひょっとしたら病気であり罪人なのかもしれない。そういう思いが一瞬よぎったのではないかと思います。
 もしそうだとすれば、それは彼らが彼らとして律法の本質を知っているからだと思います。

 律法の本質

 ルカ福音書を読み進めていきますと、十章に「善いサマリア人の譬話」が出て来ます。その譬話を主イエスがなさるきっかけは、律法の専門家がイエス様を試そうとして「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか」と問うたことにあります。イエス様は「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い返されました。律法の専門家は、こう答えました。

「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

 主イエスは、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とおっしゃり、その上で、善いサマリア人の譬話を話されたのです。
 すべてを懸けて神様を愛することと、自分を愛するように隣人を愛すること、いや愛することにおいて隣人になることが、神様が与えて下さる永遠の命を生きることであり、律法はその命を生きるためにこそ与えられている。律法の本質は神への愛であり、人への愛である。その律法を言葉として知っていることは大事なことです。しかし、その言葉を実行することがなければ、それはまさに絵に描いた餅であり何の意味もありません。愛は生きてこそ、命を得ることになるのです。

 何のために来たのか?

 主イエスが徴税人のレビを弟子に招いたこと、そしてレビが催す大宴会に赴き、そこで徴税人や罪人たちと一緒に食卓を囲み飲み食いされたこと、それはすべて神を愛し、人を愛するが故のことなのです。だから、主イエスこそが律法を忠実に実行しておられるのです。
 その主イエスが、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招き、悔い改めさせるためである」とおっしゃった。その時、ファリサイ派や律法学者たちは、「あなたがたはガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのだが、一体何をするために来たのか」と問われたのです。主イエスの言動が律法に適っているかどうかを点検しに来たり、民衆が律法の字面に忠実に従って生きているかどうかを点検するために来たとするなら、そのあなたがたは果たして律法を守っている、律法の本質である愛を生きていると言えるのだろうか?あなたたちこそが律法を破る罪人なのではないか?彼らは今、主イエスからそのように問われています。
 彼らの答えは記されていません。多分、何も言えなかったのです。彼らは激しく動揺し、困惑しているのです。

 立ち上がるレビ

 レビに戻ります。レビは自分はどうしようもない「罪人」であることは分かっています。しかし、彼はユダヤ人社会の中で「正しい人」と見られるよりは、この世の富を持って生きる道を自ら選んだ人間です。そのことを彼が後悔していたのか、満足していたのか、それは分かりません。そして、そのことは本質的な事柄ではないのです。彼がこの時、自分の人生に愛想を尽かしていた。だからイエス様に招かれた時、何もかも捨てて従ったのだと言っても仕方のないことです。主イエスが彼を見つめた。そして、「わたしに従いなさい」と語りかけた。その時、彼は「何もかも捨てて立ち上がり従った」のです。
 「立ち上がる」「復活する」という言葉と同じです。新しい人間になることです。その劇的な回心は、主イエスとの出会いによって起こることであって、教えを継続して学んだ結果ではありません。

 誰のため、何のための大宴会?

 そのようにして従い始めたレビが、自分の家で大宴会を催したというのです。何のためか?原文では「彼に」と書いてあって、レビ自身のためなのかイエス様のためなのか議論が分かれます。新共同訳聖書は「イエスのために」という解釈です。私はよく分かりません。ぼかされている所に意味があるのかもしれません。
 この宴会でレビがやっていることは、彼の仲間たちをイエス様に会わせることです。イエス様への感謝をもって接待したいのなら、イエス様と数人の弟子を招いてご馳走をふるまえば済むことだし、その方がよほど心のこもった宴会が出来ただろうと思います。
 しかし、レビは、徴税人や罪人とされている大勢の人々を招きました。そこには、新しい歩みをすることになった自分を彼らに証しをしたいという思いがあったでしょう。そして、その証しを通して一人でも多くの仲間たちにイエス様を紹介し、出会って欲しかった。そういう熱い思いがあったと思うのです。それは罪人を招き、悔い改めさせるために神の御許からこの世に来られたイエス様のためであるし、新たに生きる喜びに溢れている彼のためでもある。この大宴会には、そういう意味合いがこもっていると思います。

 ザアカイ

 この大宴会に招かれた者たちが皆、主イエスとの出会いを経験し、レビと同じ様に従ったわけではないでしょう。しかし、後に登場する徴税人のザアカイのように、主イエスと一緒に食事をすることを通して悔い改めに導かれる人がいたかもしれません。
 ザアカイは、徴税人であることを止めたわけではありません。不正な蓄財はしないで誠実にこの仕事をしますと主イエスに告白したのです。しかし、主イエスはそのザアカイの姿を見て、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」とおっしゃったのです。

 何もかも捨てる

 主イエスの招きに応える時、人は何もかも捨てなければなりません。しかし、「何もかも捨てて」は、レビにおいては具体的に家、財産を整理しこれまでの職業を捨てて、イエス様が行く所にどこまでもついて行くことを表すでしょう。でも、ザアカイの例を見ても分かりますように、イエス・キリストを信じて生きる信徒のすべてが、そういうことを求められているのではありません。すべてのものが神様から与えられたものであることを受け入れ、神様に感謝し、神様のために生きることが求められているのです。
 たとえば、自分の稼ぎで何をどう食べようが自分の勝手だろうと思って食べていた食事を、食事毎に神様に感謝してから食べるようになるとするなら、それは一大変化です。自分が自分のために生きているのではなく、自分は生かされている。神様に生かして頂いている。だから、神様のために生きる。目に見える形では、同じように食事をし、同じ仕事を続けていたとしても、それは主イエスに従う以前と以後とでは全く異なるものになる。それが、「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従う」ということです。その点において伝道者も信徒も何ら変わりありません。

 先立ち給うイエス・キリスト

 そして、考えてみるならば、何もかも捨てて神様に従われたのはイエス様です。イエス様は家や職業を捨てたどころではありません。ご自分の命を捨てられたのです。
 罪人の仲間になることは、ついに罪人として処刑されることをもたらします。そのことを承知しつつ、主イエスは「罪人を招き、悔い改めさせる」ために、「失われた者を捜して救うために」に、彼らを招き、食事を共にし、救いを与えて来られました。そのすべてのことは、神への愛と人(罪人でしかあり得ない人)を愛することであり、律法を完成する正しい行為でした。その極みが、罪人の代わりに裁かれて死ぬ十字架の死なのです。その愛を貫き通されることによって、主イエスは復活の命を与えられたのです。
 その十字架の主イエスの姿を見て、イエス様を救い主と信じたのは同じく十字架に磔にされている一人の犯罪者でしたし、「本当に、この人は正しい人だった」と告白し、神様を賛美した最初の人はユダヤ人にとっては憎き敵であり汚れた異邦人でもあるローマの百人隊長でした。処刑される犯罪者と犯罪者を処刑する人間、神の民ユダヤ人と汚れた異邦人は一緒にいることは出来ないし、まして食事を共にすることは出来ない人間たちです。しかし、十字架の主イエスは、互いに反目し合っている者たちを愛によって結びつけるメシアであり、死人の中から立ち上がった復活の主イエスは、天地を結ぶ聖餐の食卓の主です。私たちはただこの主イエスにおいてのみ一緒に食卓を囲むことが出来る罪人です。そこにはユダヤ人も異邦人も、奴隷も自由な身分の者も、女も男も、皆悔い改めの洗礼を受けた神の子として食卓につくのです。
 この主イエスが、今日も私たちに目を留め、「わたしに従いなさい」と招いて下さいます。「何もかも捨てて立ち上がって従う」ことが出来ますように。そして、すべての罪人が共に食卓を囲む教会を目指して歩むことが出来ますように。
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