「新しいぶどう酒」

及川 信

       ルカによる福音書  5章33節〜39節
5:33 人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」5:34 そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。 5:35 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」 5:36 そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。5:37 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。5:38 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。5:39 また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

 今日

 今日は8月14日で、明日は終戦記念日です。私たちの国においては敗戦記念日ですが、私たちの国の植民地支配や侵略、略奪に苦しんでいた周辺諸国においては戦勝記念日であり、あるいは解放記念日です。同じ日でも、立場によって何を記念するかが異なります。しかし、いずれの国もあれだけの犠牲者を出したのに軍備増強を継続している点では同じです。地球温暖化の問題にしろ、グローバル経済にしろ、最早自国のことだけを考えている時代ではないことは明白です。「地球全体、世界全体にとって何がよいことなのかを皆で考えねばならぬ新しい時代が来ている。」誰もがそう言うのです。でも、実際には旧態依然の時を過ごしている。あれほどの悲劇を経験しつつ、私たち人間は今もなお新しくはなっていない。世界の国々の力関係は変化しても、本質は何も変わっていない。それが現実のように思います。それは、私たちが「時を見分ける」ことが出来ないことに由来するように思います。
 旧約聖書のイザヤ書にこういう言葉があります。

「『見張りの者よ、今は夜の何どきか
  見張りの者よ、夜の何どきなのか。』
  見張りの者は言った。
 『夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。
  どうしても尋ねたいならば、尋ねよ
  もう一度来るがよい。』」
(イザヤ書21章11節〜12節)

 コヘレトの言葉の中にこういうものがあります。すこし飛ばして読みますが。
「何事にも時があり
 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
 生まれる時、死ぬ時
 ・・・
 戦いの時、平和の時、
 ・・・
 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」
(コヘレトの言葉3章1節〜11節抜粋)

 ルカ福音書は、イエス様が生まれた時代は「ユダヤの王ヘロデの時代」と明記することから始まって、時を告げる言葉がよく出て来ます。それは歴史の中の時です。しかし、その一方で神様が歴史の中に突入して来る「時」を告げるのです。
 イエス様の宣教の第一声はこういうものでした。

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」

 「この聖書の言葉」
とは、イザヤ書に出てくるメシア預言、神に遣わされる救い主がいつの日か到来することを預言した言葉です。罪の支配に落ちた罪人を解放するメシアが来るという預言の言葉です。その言葉を、イエス様は故郷のナザレの会堂で読んで後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたのです。問題は「今日」とは何であるか、です。それは客観的な歴史の中の何年何月何日という日付を意味しているわけではありません。この「今日」とは、「あなたながたが耳にしたとき」です。イエス様こそが預言されていたメシアであると「信じるその時」としての「今日」、それがここで言われている「今日」なのだと思います。
 だから、その「今日」をこの礼拝の中で味わう人がいるでしょう。その人は、喜びと感謝と讃美に満たされるでしょう。それは自分が新しくされた喜び、新しい自分の誕生を祝う喜びです。

 レビの喜び

 ナザレの会堂で、イエス様がおっしゃる「今日」を経験した人はいませんでした。彼らはイエス様を幼馴染として私物化しようとする人々であったので、聖書の言葉をきちんと聞くことが出来なかったのです。
 イエス様はナザレを離れてガリラヤ地方の町を回りつつ神の言葉を語り、またその御業をなさってきました。悪霊を追放し、病を癒し、そのことを通してご自身が罪を赦す権威をもったメシアであること、救い主であることを表して来られたのです。そして、悔い改めてイエス様を信じる者たちを神の国の中に招き入れてこられました。
 その一連の御業の一つの締め括りに登場するのが、当時の社会の中で罪人の代表と言われていた徴税人のレビに対する招きです。レビは「わたしに従いなさい」というイエス様の招きに応えて「なにもかも捨てて立ち上がり、イエスに従い」ました。その時、レビは全く新しい人間として生まれ変わったのです。彼は、その喜びとイエス様への感謝を大宴会の形で表現しました。彼の仲間たちを大勢呼び集めて彼らと主イエスを出会わせました。そして、新しくされた喜びを既に弟子とされていたペトロやヨハネたちと共に分かち合ったのです。

 ファリサイ派、律法学者の不信

 しかし、そのイエス様や弟子たちの姿を見て、ユダヤ教の律法学者や律法を厳格に守って生きているファリサイ派の人々らは疑問に思った。“神は罪人を嫌い正しい人を喜び給うはずなのに、神から遣わされたとしか思えぬ力を発揮するこのイエスという人とその弟子たちは、何故罪人たちと食卓を共にするのか?”それは彼らには理解できないことでした。“神から遣わされる使者は、罪人を断罪するために来るはずだ。そうでなければ、律法を守って清く正しく生きている自分たちの信仰と生活の意味がなくなってしまうではないか。”そういう思いが彼らにはあるでしょう。
 これは私たちにもよく分かることではないでしょうか。前回も語りましたように、私は「イエス様を信じるならば誰もがその罪を赦されて神の家族にされるのだ」という福音を語りながら、実は、内心では教会に招き入れる人の枠を決めたがっています。その枠の外を生きている人を仲間にすることは非常に手間が掛かるし、面倒なのです。しかし、こういう思いやそれに基づく行動は、「イエス様を信じ、従っていきます」と信仰を告白する以前の私と少しも変わらない旧態依然のものです。そして、それは私だけの問題ではないと思います。だから、今日の御言も私たち皆に向けられた御言なのです。

 イメージに縛られる人間

 今日の箇所は「人々はイエスに言った」となっていますが、文脈上その「人々」とはファリサイ派や律法学者たちのことでしょう。

「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」

 これはつまりイエス様に従って生きるキリスト者、キリスト教会のあり様についての問いです。キリスト教会はユダヤ教を母体にして生まれた信仰共同体です。ですから、ユダヤ教団がキリスト教会に対して質問している、いや詰問していると言ってもよいだろうと思います。
 宗教は一般的に何らかの禁欲を勧めるものです。ここに登場する弟子たちは、徴税人のレビと同様に何もかも捨てて立ち上がりイエスに従っている弟子たち、つまり在家の弟子ではなく出家した弟子です。そういう弟子とは、どこか禁欲的であり修行僧のような生活をすることが期待されます。洗礼者ヨハネなどは、荒れ野に住みその衣はラクダの毛皮であり蝗を食べていたというのですから、まさにそのイメージにぴったりなのです。
 皆さんもキリスト者であると知られると、ある種のイメージで見られることがあると思います。牧師は尚更です。牧師という者は、毎朝早く起きて聖書を熟読し、祈りの時をもち、粗食に徹し、この世的な楽しみに関心を持たない。夫婦喧嘩だとか親子喧嘩だとか犬も食わぬようなことは決していない。そういうことをなんとなく期待されるものです。そして、その期待を少しでも裏切ると妙に幻滅されたりする。しかし、その逆に、世間の人となんでも同じように生活をして欲しいと期待され、ビールでも一緒に飲もうものならそのことだけで妙に感心されたり、喜ばれたりする。いずれもおかしなことだと思います。

 行為義認

 私たちは、自分や他人の目に見える生活態度を見て「偉い人だ」とか「たいしたことない人だ」とか思ったりするものです。今日登場する「人々」は、真面目に律法を守って生きている人です。そして、そのことを自分でも偉いと思っており、神様も高く評価して下さると思っているのです。
 ルカ福音書を読み進めていくと、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対するイエス様の譬話が出て来ます。
 ファリサイ派が神殿に礼拝に来て、自分は不正な蓄財もしないし、姦淫の罪も犯さないし、週に二度断食しているし、ちゃんと献金もしている。そして神に見捨てられている徴税人のような人間でないことを神様に感謝したというのです。その一方で、徴税人は遠くにたち、目を天に上げることもなく、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言って帰っていった。
 イエス様は、そう語ってから「神に義とされて帰ったのは、この徴税人の方なのだ」とおっしゃいました。
 この譬話にありますように、ファリサイ派の人々は週に二度断食したようです。そして、そのことを自分と他人に見せて満足している。“神様を信じて生きることには禁欲が伴うものだ。罪を悔い改めるとは禁欲的な生活をするということだ。私はそういう生活をしている。だから神様に義と認めてもらえる。”そう考えていた。そういう考え方を多くの人が共有していたのです。見下す人も、見下される人も同じように考えていたのです。
 目に見える行為によって人間としての格付け、ランクが決まる。それはいつの時代だって分かりやすいし、受け入れやすい考え方です。試験の成績のよい子は教師から褒められ、生徒からも一目置かれる。業績を上げれば、それは人間としても優れた人のように思われる。そういう世俗の価値観が信仰の世界にも入ってしまう。おかしなことですけれど、そういうことはしばしばあります。当時の律法主義者たちだけの問題ではないのです。ユダヤ教から新しい信仰共同体、福音共同体として誕生したキリスト教会、キリスト者一人,一人も変わることなき世俗の価値観に縛られており、そのことに気づかない。そういうことがしばしばあるように思います。

   喜びの祝い

 イエス様はおっしゃいました。

「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。」

 問題は時なのです。今は何の時なのか。そのことをちゃんと見極めて、その時にすべきことをする。それが大事なのです。ここに出てくる「花婿」は言うまでもなくイエス様のことであり、婚礼に招かれた「客」とは弟子たちのことです。そして、今は、花婿が一緒にいる婚礼の時、祝いの時なのです。食卓を共にして喜びを分かち合うべき時なのです。レビが催した大宴会は、花婿として来て下さったイエス様の愛の招き、プロポーズに全身全霊をもって応えることが出来た者の感謝と喜びの大宴会です。既に同じ経験をしている弟子たちは、レビと共にその喜びを分かち合っているのです。神に遣わされた救い主との愛の交わりの中に生かされる喜びの宴会、喜びの祝会がここにはあります。 しかし、もっと深い所で、イエス様の喜び、神様の喜びがあるのです。「わたしに従いなさい」というプロポーズを彼らが真正面から受け止めて、それまでの生き方を捨てイエス様に従って生きるという人生の大転換をしてくれた。そのことに対するイエス様の喜び、神様の喜びがこの大宴会の中には満ちていると思います。
 この先の15章に有名な譬話が3つ並んでいます。1匹の失われた羊を見つけ出す羊飼いの話、なくなってしまった1枚のコインを見つけ出す女の話、また放蕩の限りを尽くした上に一文無しになって帰ってくる弟息子を迎える父の話です。羊やコインを見つけ出した羊飼いや女は友達や近所の人々を集めて喜びを分かち合い、弟息子を迎え入れた父は家中の者たちと喜びを分かち合うための祝宴を開きます。そして、イエス様は「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」とおっしゃるのです。
 最後の譬話では、放蕩の限りを尽くして無一文になって帰って来た弟を父は大喜びで迎えて宴会を催します。しかし、父に忠実に仕えてきた兄はその父のあり様に憤慨して家に入ることを拒絶するのです。しかし、父は兄にこう言いました。

「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」

 そもそもこの3つの譬話は、主イエスと弟子たちが徴税人や罪人たちと一緒に食事をしていることに不平を言い出したファリサイ派や律法学者に対してイエス様が語ったものなのです。状況は、今日の箇所と同じです。
 この場合の「罪人たち」とは律法主義者から見ての罪人たち、つまり細々とした生活規定の一つ一つを守っていない者たちのことです。しかし、イエス様にとって「罪人たち」とはそういう意味ではありません。迷子の羊も、失くした銀貨も、金だけ持って家を出ていってしまった人間も、皆本来いるべき所にいない者たちです。人生に迷ってしまった者、自分がどこから来てどこへ行くか分からなくてなってしまった者たちです。つまり、私たち人間のことなのです。私たちは誰だって自分が何者であり、何処にいるのか、何処に向って生きているのか分からなくなったことがある人間です。そういう者を「罪人」とイエス様はおっしゃり、「わたしは罪人を招いて悔い改めさせるために来たのだ」とおっしゃるのです。

 神の愛

 先週、母親が乳飲み子をその腕に抱いて乳を飲ませている姿に宇宙の神秘、最も美しい愛があるという話をしました。子は親の愛の中に生きている時、子として生きることが出来るのです。本来的な美しい命を生きることが出来る。その愛の中、抱き締めてくれる親の腕の中から勝手に出てしまう時、親にとって子はいなくなり、子としては死んでしまいます。しかし、親はその子を愛し、捜し求め、また帰ってくるのを待ち続ける。そして、見つけ出して本来の場所に連れ帰ることが出来た時、あるいは罪人が自ら帰って来た時、これまでの忘恩をなじることなく、大喜びで迎える。それはある意味で理不尽なことであり、ずっと忠実に親に仕えて生きておりそのことの故に親から愛され評価されてしかるべきだと思っていた兄息子にしてみれば、とても受け入れることが出来ないことです。
 でも、それが愛なのです。神の愛とはそういうものなのです。神様は、罪人に過去の償いを求めません。ただ悔い改めを求め、イエス様こそが罪の赦しを与えて下さる救い主、キリストであることを信じる信仰を求めるのです。問題は過去ではない。今なのです。今、イエス様を通して示されている神の愛を信じ、受け入れ、神を愛することが出来るか否か。神の御腕の中に帰って来ることが出来るか否か。ただそのことだけが問われるのです。そして、帰ることが、神様から見れば義、正しいことです。
 その点から言うと、本来いるべき父の家にい続けた兄は父の愛の実態を知った時に、罪人が立ち帰ったことを喜び祝う父の家の中に入ることを拒むわけですから、突然、彼の方が罪人になってしまうのです。それまで正しい人間であると自他共に認めていた人間が、神の真実な愛に触れた途端にその愛を拒絶し、神の家に入らない、出ていく罪人になってしまう。

 相容れない新しいものと古いもの

 イエス様を通して示された神の愛に触れる時、私たち人間はえてして躓きます。特に、自分はあの人よりも真面目に生きている、まともな人間だと思っている人間は躓きます。その愛を拒否するのです。これはおかしな話ですが、実はよく分かる話です。
 イエス様は、今日の箇所でも譬えを用いられます。マルコやマタイ福音書では「織り立ての布」から布切れをとって古い服の継ぎ当てをすることはない、となっています。趣旨は同じですが、ルカ福音書では「新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない」となっており、愚かさが強調されています。新しい布で造られた服を破って古い服のつぎあてをするなんてことは誰もしません。それは新品の服を台無しにしてしまい、古い服までも台無しにしてしまうことだからです。
 ぶどう酒も同じです。発酵が続くぶどう酒を古い革袋に入れるとその革袋を破ってしまい、ぶどう酒も袋も両方とも駄目になってしまう。そんなことは大人であれば誰もが知っているのです。だから、そういう愚かなことはしない。
 39節はルカだけが記していることですが、古いぶどう酒を飲めば誰も新しいものを欲しがらず、「古いものの方がよい」と言うものだ、と主イエスはおっしゃる。賢い大人は新しいものに興味や関心を持つことはあっても、結局、選ぶのは古いものだ。旧態依然の考え方、これまで同様の生活の仕方、これまでと同じ人間であること選ぶのです。戦争で何万人が死のうが、核というものがいかに危険であるかを知らされても、相変わらず平和のために戦争に備え、核兵器を生産し、安全だと言いながら原発を作る。目の前の利益、経済的利益こそが人間の幸福の基盤であるという物の考え方を変えず、その考えに従った生き方を変えない。そして、自分たちの殻を破るような新しいものは断固拒否する。

 賢さ 正しさ

 徴税人のレビもまたそういう一人の人間でした。富ことが幸せの根拠だと思って生きてきたのです。しかし、彼はイエス様を通して、罪を赦して下さる神の愛を知らされました。そして、失われた羊のような自分を捜し出し、その手を差し伸べて本来いるべき場所に帰って来るように招かれた時、彼はその愛を拒絶することなく、「何もかも捨てて立ち上がり」イエス様に従い始めたのです。これは危険な冒険です。危険な冒険をするのは愚かな若者であり、賢い大人ではありません。
 しかし、私は今、賢い大人なのか。愚かな若者なのか?兄息子なのか、弟息子なのか?正しい人間なのか、罪人なのか。新しい服を着ているのか、古い服を着ているのか? 皆さんはどうでしょうか?ご自分を誰だとお思いでしょうか?そして、賢い大人とは本当に賢いのでしょうか?同じことを延々と繰り返し、結局、死で終わる人生を生きることが賢いのでしょうか。
 主イエスは、私たちに新しい命、新しい人生を与えるためにメシアとして来られ、本来いるべき所から離れてしまっている罪人を立ち帰らせるように招いて下さっているのです。その招きに応える危険な冒険をしないことは、本当に賢いこと、また正しいことなのでしょうか。

 花婿が奪い取られる時

 これまで触れなかった言葉が35節です。

「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」

 不気味な言葉です。「花婿が奪い取られる時が来る」とは、どういうことでしょうか。この言葉は、イエス様が宣教を始めてすぐの頃の言葉です。しかし、程なくはっきりとこうおっしゃるようになるのです。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日目に復活することになっている。」

 神様の永遠のご計画の中で、時満ちるに及んでついに天から到来したメシアは、苦しみの極みとしての十字架の死を経て3日目に新しい命として誕生する。そう宣言されるのです。イエス様のこれからの歩みはすべてこの十字架の死と復活に向けての歩みなのです。まさに危険な冒険と言うべきでしょう。すべてを捨てて神を信じ、服従の道を歩み通す旅がここにはあります。その歩みは、罪に支配され生きながらにして死んでおり神の許からいなくなっている私たち罪人を、神の子として新しく誕生させるための歩みです。
 しかし、その新しい命を拒む、新しい時の到来を拒む。それこそが罪の罪たる所以です。その罪人たちの手によって、イエス様は十字架に磔にされました。しかし、まさにその時にこそイエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈って下さったのです。すべてを捨て、すべてを捧げつつ祈る主イエスの祈りは、必ず神に聴き届けられる祈りなのです。
 太陽が最も高く位置しその光を放つべき昼の12時に「全地は暗くなり、それが3時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」と、あります。その暗闇の中で、主イエスは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られました。神様に対する絶対的な信頼と愛を告白しつつ死の闇の中に落ちて行かれたのです。その死を経て主イエスは復活されるのです。
 神殿の垂れ幕は、神と人を断絶させる罪と死を象徴しているでしょう。しかし、主イエスの十字架の死と復活はその断絶を打ち破り、神と人が愛において一つの交わりを生きる神の国をこの世にもたらすための死であり復活なのです。

 聖霊降臨

 主イエスは一旦奪い取られます。その時、弟子たちは所謂宗教的禁欲としての断食ではなく、食事も喉を通らない恐怖と悲しみのどん底に叩き落とされました。暗い思いで元の生活に帰っていく者もいたし、暗い部屋に閉じこもり隠れている者もいたのです。彼らはイエス様を排斥した訳でないでしょう。しかし、イエス様の愛を裏切り、また否んだのです。そして、イエス様を愛して生きる弟子としての自分自身を裏切り、殺してしまったのです。すべてはこれで終わったはずでした。“新しい時が来た、新しい世界が生まれる”と確信したのは一時の気の迷いであり、結局、世界は旧態依然のままなのだ。人間は変わらず、ただ食べて排泄して寝て、愛したり憎んだりしながら最後は死んで終わり。そういう深い絶望の闇に閉じ込められたのです。
 しかし、真っ暗な墓の中に遺体として納められた主イエスは、3日目の日曜日の朝、復活されました。そして、闇の中に佇む弟子たちに現れて下さり、食事を共にして下さいました。そして、50日目のペンテコステの日に弟子たちに聖霊を注ぎかけ、イエス様は今も共に生きて下さる救い主であることを示して下さったのです。
 その聖霊を受けた時に、彼らは世界中の言語でイエス様こそ神から遣わされたメシアであり、主であること、罪を悔い改める者の罪を赦し、神の子としての命を与えて下さる方であることを告げ知らせる使徒となったのです。
 その使徒の代表であるペトロは、彼の説教を聞いてイエス・キリストの臨在に触れ、その招きに応えたいと願う者たちに対して、こう語りかけました。

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

   「聖霊を受ける」
とは、イエス様が今も私たちと共に生きて下さっていることを知らせて頂けるということです。私たちが生きている時も死ぬ時も死して後も、イエス様がしっかりとその御腕に抱きしめて下さっていることを知らせて頂けるということです。その愛を知った時、その愛で愛され、そのイエス・キリストを愛することが出来る時、私たちはどうして喜び祝わないでいられるでしょうか。
 初代教会は、イエス様が復活した日曜日に集まる毎に、罪の赦しと新しい命を与えて下さったイエス様に感謝し、イエス様の愛と命を分かち合う食卓を囲みました。喜びと感謝の祝会、それがキリスト教会の礼拝なのです。レビの宴会も、そういうものなのです。

 派遣

 今日、聖書の言葉を耳にし、イエス様の愛を信じることが出来た人はその礼拝を捧げることが出来た人です。新しい服を着ることが出来た人です。新しい革袋となって新しいぶどう酒を入れることが出来た人です。ぶどう酒はその人の中で、これからも活き活きと発酵を続けていきます。それは2千年前から、今日に至るまで、絶えず新たに今日のこととして起こっている救いの出来事です。世の終わりの時に主イエスが再臨し、新しい天と地が完成するまで起こり続ける救いの出来事です。そして、主イエス・キリストに対する礼拝を捧げることが出来た私たちは、その救い主を証しする使徒として旧態依然のこの世に派遣されるのです。
 「今こそ、夜明けの時です。光が到来しているのです。闇の中から出て来て、イエス・キリストの愛を信じ、新しく生きましょう」と、私たちの生きる姿を通して証しをするのです。なんと幸いな人生を与えられたことかと、主を賛美せざるを得ません。
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