「安息日の主」

及川 信

       ルカによる福音書  6章1節〜5節
6:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。6:2 ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。6:3 イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。6:4 神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」6:5 そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」

 日曜日 主の日

 私たちは今日を日曜日と呼びます。それは西洋文明を和魂洋才の形で受け入れた明治以降のことです。西洋文明の精神的支柱は少なくとも当時はキリスト教信仰でしたから、日曜日は日常の仕事を離れ、神様を礼拝する日でした。世俗化が進んだ今はすっかり変わったようですが、少し前までは都市の商店も日曜日は休みでした。ですから、キリスト者とは何であるかと言えば、日曜日は礼拝をする人々であると言って間違いのないことです。そして、教会は日曜日毎に礼拝をする共同体です。
 私たちは、日曜日の礼拝のことを「日曜礼拝」とも呼びますが、主の日の礼拝つまり「主日礼拝」と呼ぶこともありますし、聖なる日の礼拝を意味する「聖日礼拝」と呼ぶこともあります。どれか一つに決める必要はないでしょう。

 週の初めの日 安息日

   聖書の中では、この日は「週の初めの日」と呼ばれます。旧約聖書の冒頭に天地創造物語と呼ばれる深淵な物語があります。その物語の中では、神様による天地創造の一日目は「光」の創造でした。神様が「光あれ」と言うと光があったのです。この光は太陽の光のことではなく、命の光のことです。それ以後の6日間で神様は天地万物をお造りになり7日目に安息をなさったとあります。その日を、神様は祝福し、聖別されました。
 ユダヤ人は日没から一日が始まると考えていますから、この「第七の日」とは金曜日の夕方から土曜日の夕方までですが、私たちの感覚で言えば土曜日が「安息日」だと言って良いでしょう。イスラエル共和国に行くと、土曜日には官公庁はもちろんのことユダヤ人の商店は閉まっています。そして、週の初めの日である日曜日から一週間の仕事が始まるのです。キリスト教の拡大に伴う世界基準がどうであれ、彼らはその習慣を二千年間変わることなく守り続けました。
 何故かと言えば、安息日を守ることは聖書の律法に記されていることだからです。神様に選ばれ、神の民として生きたユダヤ人とは安息日を守る人々だと言って間違いありません。今日も登場するファリサイ派の人々とは、聖書に記されている律法(戒め)を具体的に守る人たちですが、その律法の中心には有名なモーセの「十戒」があります。この戒めを守って生きることが神への信仰を守って生きることであり、そのことが彼らのアイデンティティであり、それを無くしてしまえば彼らは彼らとして存在しなくなります。
人には、なにかしらその人がその人として生きる上で不可欠なものがあるものです。それが何もないとは、自分が何者であるかが分からないまま生きていることに他なりません。自己を喪失している危機的状態です。しかし、現実にはそういう状態で生きていることも決して珍しいことではないでしょう。表面的にはごく普通に生きてはいても、自分が何者であるかが分からない。そういう不安とか虚無感を、その心に抱えている場合はいくらでもあると思います。神の民であるユダヤ人にとって、安息日を守ることは彼らが彼らとして生きる上で必須のことでした。

 十戒

 「十戒」は聖書の中で出エジプト記と申命記の2か所に記されています。微妙な違いがありますけれど、特に安息日を守る理由付けが最も大きな違いです。
いずれの「十戒」においても、「安息日を心に留め、これを聖別し、・・いかなる仕事もしてはならない」は同じです。安息日にはイスラエルの成人男子だけではなく、その家族も家にいる奴隷も家畜も町に寄留する外国人も休まねばならないのです。一家の主人だけ休んで奥さんや子どもや奴隷、また家畜は休みなく働くのではありません。主婦も炊事や洗濯、掃除もしてはならないのです。そして、動物も休ませねばならない。その点で身分や性別、また民族や人種の違いがあってはならないし、さらに人間と動物の違いもない。すべての人間が神に愛されている被造物であり、動物も神の被造物として平等に安息日は休むのです。
出エジプト記20章では、安息を取るのは神様が天使創造の7日目の「安息日を祝福して聖別された」からだと説明されます。神様の創造の御業に与り、その安息に与ることを通して神様を賛美して生きる。その安息の中にすべての人間と動物が加わるのです。
 申命記5章では、奴隷たちを休ませることが強調されます。その理由は、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を主なる神様は救い出して下さった。その救いの御業を思い起こし、主を賛美するために安息日を守ることになっています。
 律法の中心である「十戒」が見つめていること、それはすべての人間が神に創造された被造物であり、神に愛され、生かされている存在であるということです。そして、その人間に神様は動物を託しておられるのです。そのように愛されている人間同士が身分、性別、民族や人種を越えて、主の愛を分かち合い、互いに愛し合うことを通して、天地を創造し、奴隷を解放して下さった主なる神様を賛美する。安息日とは、そのために定められ祝福され聖別された日なのです。

 安息日を守るとは

 しかし、「安息日を心に留め、これを聖別し、いかなる仕事をしない」とは具体的にはどういうことなのか?それが問題になります。薪を割って火をつけることは仕事なのか、井戸に水を汲みに行くことは仕事か、物を運ぶことはどうなのか、医者が病人を治すことは仕事か?瀕死の病や怪我で運ばれてきた場合はどうなのか?(これは次回の箇所と関係します)こういった様々な具体的な事柄に関する決まりが当時1500以上もあったと言われます。そういう決まりを作ることが律法学者の仕事の一つでしたし、ファリサイ派はその決まりを生活の中で守ることを信仰の基準としていました。そしてそれは、人間が救われるか否かの基準としていたということでもあります。

 心と形

 私が中渋谷教会に赴任させて頂いたのはもう十年前になります。赴任してから数年間は、もっぱら教会とは何か、礼拝とは何かについて学び続け、話し合いを続けました。その学びの一つに「礼拝の心と形」に関する学びがあります。礼拝の心とは何であり、それはどういう形になって現れるべきなのかを問うたのです。礼拝の心と形を問うことは教会の心と形を問うことです。今年の修養会も「母なる教会」についての学びをします。
私たち人間は心と体が一つになって生きています。心だけとか体だけで生きているのではありません。しかし、その心と体が分裂してしまう。乖離してしまう。そういうことがあります。それは非常に危険なことです。私たちは神様に示されたヴィジョンとして、「神の家族としての教会形成」「礼拝に結集する教会形成」などを掲げて前進していますが、それがいつしか神様の心と乖離してしまう。そういう危険性を教会はいつも抱えています。
ユダヤ人の苦難の歴史を思う時に、そこには止むを得ない事情があったとは思います。しかし、彼らの律法順守の姿勢は、異邦人を排除する方向に向かっていきましたし、同胞の中でも律法を守る人とそうでない人を分離し、守れない人を罪人とし、神に裁かれ、見捨てられた人とするようになっていきました。ファリサイ派の人々は、その代表です。彼らの真面目さや熱心さは尊敬すべきことですけれど、彼らの生活態度は「十戒」に記されている安息日規定の心とは全く異なる形になってしまったと言わざるを得ないと思います。

ダビデ

今日の箇所では、イエス様と弟子たちの一行が麦畑を通った時に「麦の穂を摘み、手でもんで食べた」とあります。ちょっと前からファリサイ派の人々はイエス様や弟子たちについて回り、その一挙手一投足を注視して、あれやこれやと不満や疑問をぶつけてきました。ここでも「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と詰問します。彼らにしてみると、麦の穂を摘むことは収穫であり手でもむことは脱穀という仕事をしたことになり、律法違反だと言うのです。
イエス様はこうお答えになりました。

「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」

 この出来事は、サムエル記上の21章に記されています。しかし、様々な点でイエス様は言い換えをしています。サムエル記では供の者は実際にはいませんし、祭司が判断してパンを与えたことになっています。しかし、イエス様は、祭司だけが食べることが定められている祭壇に供えられたパンを、ダビデが取って食べ供の者たちに与えたとおっしゃっています。律法の定めとは異なる判断をしたのは、祭司ではなくダビデだということです。ダビデの判断の方が律法の文字よりも上回る。そういうことでしょう。あるいはダビデこそ律法に記されているその心を行っている。イエス様は、そうおっしゃっているように思います。
 聖書に親しんでいる方たちの中には、ここで「人の子は安息日の主である」という言葉がいきなり出てくることに、あれっ?と思われると思います。マルコやマタイ福音書では、「人の子は安息日の主である」とか、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という言葉によって、イエス様が律法の心を説き、ファリサイ派の人々の律法の守り方が本末転倒になっていることを指摘しているのです。
しかし、ルカではいきなり「人の子は安息日の主である」と言われたことになっています。その結果、イエス様とかつてのイスラエルの王ダビデの対比が強調されているのです。ダビデのような立場としてイエス様はこの世に来ておられる。律法の心を体現する者としてこの世に到来した方なのだ。そういう宣言がここにはあるように思います。

ダビデとイエス

 ダビデはイスラエル史上最も尊敬を受けた王です。彼こそが最初にユダヤ人の王国を建設した人物だからです。様々な問題を抱えた人物ですけれども、神様はダビデを選び、ダビデを通してご自身の御心を行われたのです。そのダビデに関する言葉は、ルカ福音書と続編の使徒言行録には何度も出て来ます。そして、イエス様はそのダビデの子孫として誕生されたことが告げられています。 しかし、イエス様は後に、ダビデ自身が来るべきメシアを「わたしの主」と呼んでいる詩編110編の言葉を引用して、「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と言われます。ダビデの子として到来した方は、ダビデの主なのだとおっしゃるのです。
 つまり、ダビデとイエス様は神の御心を行う者として遣わされた点では同じである。しかし、ダビデは神に立てられた一人の王としてメシアだが、イエス様は「主」としてメシアである。そういうことでしょう。
ここに出てくる「主」とは、旧約聖書では神ご自身を表す言葉です。その言葉がイエス・キリストに対して使われる。それが旧約聖書と新約聖書の連続性を表し、同時に非連続を表すのです。ユダヤ教を母体としたキリスト教の徹底的な新しさを表しているのです。

 安息日の主

 ルカ福音書の続きを礼拝で読むのは3週間後になりますが、次回読む所も安息日の出来事です。イエス様はそこで「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」とおっしゃりつつ、会堂の中で手の萎えた人を癒します。これも安息日にはしてはならないことです。その場にいたファリサイ派の人々は「怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」。つまり、なんとかしてイエスを抹殺しようと話し合ったのです。何故かと言えば、イエス様の自意識が「安息日の主である」からです。主は、安息日にすべきことを神の御心に従って決めることが出来る。弟子たちが麦の穂を摘んで手でもんで食べることを許可することも出来るし、障碍を抱えた人を癒すことも出来る。それが律法を定めた神の御心だからです。
しかし、そのイエス様はファリサイ派の人々にしてみれば最早許すことが出来る範囲を越えた人物です。イエスという男は、自分たちが信じ続けてきた神とその律法を根幹から踏みにじり、否定する男だと思う他にないのです。前回の言葉で言えば、彼らは古い革袋から新しい革袋になることを拒み、新しい酒を拒絶し、古い酒を好む人々の代表ということになります。そして、私たちキリスト者もしばしば彼らと同じなのです。

 不可欠なもの

 先ほど私は、人は誰でもその人であるために不可欠なものがあると言いました。ユダヤ教徒にとってそれは安息日を守ることでした。たとえ戦争中でも安息日は戦わない。そうであるが故に敵に殺されるままにされる。そういうことも実際にあったと言われます。彼らが安息日を守るとはそういうことなのです。彼らはそのことを通して、自分たちが神に選ばれた民であり、神の教えに忠実に生きる者、まさに教えに殉じる殉教者であることを示したのです。そこにある信仰の真実を私たちは決して笑うことは出来ません。私たちはその点で不真実である場合があまりに多いと思います。
しかし、その一方で、彼らが次第に神の心を見失い、律法主義というある種の教条主義に走り、そして独善に落ちていったこともまた否定できない事実だと思います。キリスト者を含めて、真面目な信仰者はしばしばそういう傾向を持つものです。
 私たちキリスト者とは何であるか、キリスト者として生きる上で不可欠なものは何であるか。それは日曜礼拝を守る、主日礼拝、聖日礼拝を守ることです。健康が許し、様々な事情が許す限りはこの礼拝堂に来て礼拝を守ることです。もちろん、そのことが許されなくなる場合があります。高齢の故に、病の故に、止むを得ぬ事情の故に、礼拝堂に来て兄弟姉妹と共に礼拝を守れないことがあります。しかし、場所を共に出来なくとも、日曜日は主の日です。私たちキリスト者にとっては主を礼拝する日なのです。その場にあって御言を読み、祈り、賛美する礼拝を守ることは出来ます。そういう人々を含めて、今、教会は一つとなって礼拝を捧げています。この礼拝を守ることにおいて、私たちはキリスト者として生きるのです。
この礼拝を通して、私たちは自分が何者であるかを知るのだし、世界や歴史の意味も知るのだし、その中で生きる意味や目的を知り、喜びを与えられ、希望を持って生きることが出来るのです。この礼拝なしでは、私たちは自分が何処から来て何処へ行くのかも分からず、何のために生きているのかも分からない。そういう自己喪失を抱えつつ、独善に走ったり悲観したりしつつ生きる他ありません。そこから救い出されるために、主の日の礼拝を守ることは私たちキリスト者にとって不可欠なものです。

 なぜ不可欠なのか

 「安息日を心に留め、聖別する」とは、神様の天地創造の御業を覚え、神様の愛、その栄光、全能の御力を賛美することです。自分たちが神に愛されていること、生かされていることを覚え、神様を礼拝するのです。そして、神に愛されている者として互いに愛し合うのです。
この世を生きている私たちには、様々な苦難があり、試練があります。それらのものに押し潰されてしまうこともあります。神の愛など何処にあるのか分からなくなることもあります。また、自ら神の愛に背き、自責の念に苛まれることもある。しかし、神様は7日毎に日を定めて下さって、私たち一人ひとりが神様にとって掛け替えのない存在であることを御言によって教えて下さるのです。聖書の言葉を通して、神様が私たちの命を創造し、この世界を創造し、歴史を救いの完成に向けて導いて下さっていることを教えて下さるのです。私たち一人ひとりは、海辺の砂粒のような存在です。砂粒など、小さすぎてまた無数にあって数える気にもなりません。しかし、神様はその砂粒のような私たち一人ひとりを数え、その名を呼び、そして目の瞳のように大切にして下さっていることを知る。それは礼拝においてです。
 安息日は、創造の御業だけでなく奴隷であったイスラエルを解放して下さった救いの御業を覚えるためのものでもあります。奴隷生活は苦しいものです。そこに生きる喜びはありません。イスラエルの民は苦しみ、呻き、神様に助けを求めて叫びました。神様は、ついにその叫びを聞き、救いの御手を伸ばしてエジプトの地から脱出させ、シナイ山で「十戒」を与えて彼らを神の民とし、先祖アブラハムに対する約束の地カナンへと連れ帰って下さいました。その神様が今も私たちを罪の奴隷状態から解放して下さり、約束の御国へと導いて下さることを確認し、感謝と賛美を捧げる。それが安息日を心に留め、聖別することの意味であり目的です。

   罪の赦し

 主イエスは、ご自身を「安息日の主」であるとおっしゃいました。それは、主イエスにおいて新しい天地創造、新しい人間の創造という御業がなされ、主イエスにおいてこそ究極的な救いの御業がなされていることの宣言なのです。主イエスは病人を癒し、悪霊に取りつかれた人を解放し、障碍者に健康を与え、神の言葉を求める者たちにその言葉を語って来ました。それはすべて人々の罪を赦し、悔い改めに導き、新しい命を与えるための御業です。しかし、その御業を続けることによって、イエス様はついに神を冒涜する者として処刑されることになるのです。

神は主とし、メシアとなさった

しかし、その十字架で死に、私たちの罪の贖いとなられた方を、神は復活させ、主、メシアとなさったのです。
イエス様が天に挙げられて以後、聖霊を与えられたペトロが語った説教の最後は、こういう言葉です。

「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 「わたしの主」と信じる

 私たちを支配する罪と死打ち破るために十字架に死んで下さったイエス様を、神様が復活させることを通して与えた身分、それが「主」です。です。神の右に座る支配者のことです。神様は、この主イエス・キリストを通して、二千年前も今もご自身の御心を行っておられるのです。罪の闇に覆われて自分が何をしているのか分からない人間、何処から来て何処へ行くのかも分からずに、しばしば神に背き、人を憎み、敵対し、分裂することを繰り返している人間の罪を赦し、新しい命を与え続けて下さっているのです。その新しい命に与るために必要なこと、それはイエス様を「わたしの主」と信じる、メシアと信じることです。善行を積み重ねるとかいう実績が必要なわけではありません。そういうことではなく、闇の中に射し込んできた命の光の方に立ち帰って、イエス様の御前にひれ伏し、「わたしの主」と信じることなのです。それが罪を悔い改めることだし、新しく生きることなのです。そのことを神様は、私たちに求め願っておられるのです。

 主日礼拝

 聖霊の導きによる使徒たちの説教を通して、イエス様は「主」であると信じる者たちの群れが誕生しました。それがキリスト教会です。そのキリスト教会は「週の初めの日」を「主の日」として主を礼拝し始めたのです。イエス様が十字架の死から復活された日だからです。その日に「光あれ」という御言が新しい形で実現したからです。その日に、歴史は全く新しいものとされたからです。主を信じる者たちは、罪の奴隷状態から救い出され、はるかな救いの完成、完全なる安息と祝福の日に向って歩むことが出来るようになったからです。
私たちは、一週毎に必ずやってくる主の日に、そのような救いをもたらして下さった父・子・聖霊なる三位一体の神様を礼拝しているのです。聖霊の導きの中で、「イエス様はわたしの主です」と告白して、父の栄光を称えている。その礼拝の中で、私たちはまことの安息を与えられ、聖なる者として立てられ、新たに命の祝福を受け、主を証しする証人としてこの世へと派遣されていくのです。何という恵みかと思います。この恵みを与えて下さった神様を賛美せざるを得ません。
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